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2015/12/29

続・2015年を振り返る・・・にはまだ早いのか?

 想定通りの展開ですね、今回のポイントは「今後の対応が全て」と言う事でしょう。さぁ、始まるよ!(と言うか、始まってもらわなければ困ります)

 3月に米国で合意文書?が事実なら、そこまでは韓国側の反応は無視、放置しておいてたんたんと準備を進めれば良いだけかな? 合意内容の重要性を鑑みれば、韓国側が「国際的に公式に合意を破棄しない限り」、3月の合意文書調印までは日韓間の外交活動は実質的な停止状態、が筋だよね。

2015/12/27

2015年を振り返る・・・にはまだ早いのか?

 要は韓国とのいわゆる従軍慰安婦の件である。年も押し詰まってのここ数日の展開は完全に予想外の動きと言える。それが何だったかは置いといて、日本の政権側が事前に埋めておくべき穴が埋まったということなのだろう。或いは、別のタイムリミットでもせまっているのだろうか。

 さて、昨今の件の話の半分以上は韓国の国内問題にしか見えてこなかったのも事実だ。別の言い方をすれば、韓国内の政争や政治的勢力争いの具になっていたと言える。おそらく色々とお金も動いたこともあるやに見える。この種の一種の不透明感は日本側にとっては疑心暗鬼の原因となる。少なくともネットで見られる言説の内容には、疑心暗鬼をはるかに超えたものもある。まぁ、大統領が「解決」と言っても、政権交代後に蒸し返した事実がある訳だけどね。

 さて、某ネット掲示板まとめ記事で面白い記述に出会った。曰く、
今回の日本政府の動きは、対立構造を「韓国政府vs日本政府」ではなく「韓国政府vs挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)」にしようとする試みだ
成程、これは完全な韓国の国内問題であることの明確化のみならず、韓国政府の本件に関わる責任範囲(と、できること、当然できないこと、絶対しなければならないこと)の明確化にもつながる。このような事態になれば、おそらく現行の韓国政権、政府は件の問題に関してはいったん詰む。

 だが、本当に「未来志向」たらんとすれば、この辺りの構造や仕組みを整理、明示化した上で必要な清算は両国ともしておかなければならない。今回の日本側の一種の提案は、「本当のことを知っているとは言えない」私には、割と穏当な(実はかなり優しい、相手に気をつかった)落としどころの提示に見える。裏を返せば最後の微笑みかも知れない

 とは言え、どう転がろうが通貨スワップ協定締結は今後も無しで。「国民が納得しない」とばかり、国内世論のせいにしていただいて結構ですので。

2015/05/16

朝日新聞 「過去の報道が誤っていたと紙面で明らかにすべき場合はあるが、法的義務はない」

 そんなこたぁ言われなくたって分かっている。法的義務があればとっくの昔に刑事罰対象だ。馬鹿なの?(zakzakの記事

 こいつは一種のハラスメントみたいな事案だ。自称報道機関によるパワーハラスメントと言って良い。「そんなつもりは無かった」は通用しない非合理とも言える世界が待っているかもしれないよ、それにこれで終わりじゃない。お前ら不愉快だ、俺はお前らの報道に心から傷ついているぞ、なんてね。

 さぁ、消耗戦の始まりだね。

2014/12/22

あのキャスターもあかん。

 朝日新聞絡みで、某報ステの某キャスター曰く、「人間は間違いを犯すものとして...」

 問題をすり替えてはいけない。

 嘘をつき、嘘を指摘した人々を報道機関としての力を使って非難してきたことは、犯罪或いは暴力に他ならない。朝日新聞が言う「普遍的な人権問題」と言ってもよい。

 捏造と過誤とは全く別物だ。

2014/10/26

国際新聞編集者協会の方と意見が一致してますが。

 Viewpointのインタビュー記事「韓国は『言論の自由』を遵守すべし」。

 記事中、言論自由マネージャーのバーバラ・トリオンフィ氏は朝日新聞社の慰安婦捏造報道について以下の通り述べてる。これらはまさに以前のエントリで紹介した私の見解と瓜ふたつ。
「メディアが誤報をした場合、2つの対応が不可欠だ。一つは誤報記事に対する正式謝罪だ。2つ目は誤報関連の全記事リストを公開することだ」
 おそらく「常識的に考えればそうだろう」ということで、1点目はもとより2点目が欠けているのは全くもって誠意がない。「訂正記事の特定、明示化」は朝日新聞社の義務であり、8/5の時点で可能な事項だ。つまり「逃げをうっている」のが見え見えなのが見苦しいってこと。

 その他にも朝日新聞社の対応の「非常識さ」があらためて際立つインタビュー記事だ。「マスコミじゃない」と見做せばそれまでだが、ならば唯のプロパガンダチラシに過ぎないということ。「新聞として踏みとどまらんとする」姿勢は依然として全く見えないのは、もはや駄目ってことだよねぇ。 
韓国は「言論の自由」を遵守すべし  
編集局  2014/10/23  コラム|韓国・北朝鮮 [ウィーン発コンフィデンシャル]  

 ウィーンに本部を持つ国際新聞編集者協会(IPI)の言論自由マネージャー、バーバラ・トリオンフィ女史は22日、当方とのインタビューに応じ、産経新聞前ソウル支局長の在宅起訴問題と朝日新聞の慰安婦報道の誤報について、その見解を明らかにした。

 ソウル中央地検が8日、韓国の朴槿恵大統領に関するコラムをめぐる問題で、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長を名誉毀損で在宅起訴したことに対し、同女史 は「言論の自由を著しく傷つけている。加藤氏に対し刑罰上の名誉毀損(criminal defamation)を適用することは国際法の基準を逸脱している。政府関係者や公人は批判に対して寛容であるべきだ」と述べ、韓国当局は加藤氏への全 ての処罰を即撤回すべきだと要求した。

 イタリア人の同女史は「『言論と表現の自由』に関する2002年の国連特別審査官の共同宣言、 欧州安全保障協力機構(OSCE)や米州機構(OAS)の特別報告書は『刑罰上の名誉毀損』を表現の自由の制限に適応することは正当ではないと明記してい る。産経新聞の場合、朴大統領が自身の名誉が毀損されたと感じたならば、民事法の名誉毀損(civil defamation)を訴えるべきだ。産経新聞 のジャーナリストが起訴された背景には、険悪な日韓関係が多分影響を与えているのかもしれない」と語った。

 一方、朝日新聞の慰安婦問題に関する誤報について、同女史はメディアの「責任問題」に言及し、「メディアが誤報をした場合、2つの対応が不可欠だ。一つは誤報記事に対する正式謝罪だ。2つ目は誤報関連の全記事リストを公開することだ」と指摘した。

 朝日新聞の場合、社長が謝罪を表明し、誤報記事の背景を検証する委員会を設置したが、朝日新聞の慰安婦報道は国内だけではなく、海外のメディアにも大きな影響を与えている。安倍晋三首相は「朝日の慰安婦報道の誤報は日本の名誉を傷つけた」と主張しているほどだ。

 トリオンフィ女史は「国や公共機関はメディアの誤報に対し、賠償請求はできない。国は誤報による被害総額を計算できないからだ。ただし、読者が連帯して朝日の誤報に対し被害賠償を請求することは可能だろう」と説明した。

  IPIは1950年10月、創設された機関で、言論の自由を促進し、世界の言論の自由を検証した年次報告を発表している。 120カ国以上が参加している。

(ウィーン在住)

2014/10/05

慰安婦問題の大誤報を検証する朝日新聞が設ける「第三者委員会」の委員が

全然第三者じゃない。活動時期も無駄に長く、ただの時間稼ぎにしか見えない。「遅くても年内」というのが「世間の空気」という感覚がありましたが、個人的には。

 これはとてもまともじゃない、火に油を注ぐとはまさにこれ。というか、結局朝日新聞社は8/7以降も「実効的に何もやってきていない」じゃないのさ。更に発行部数が減ることを心から願っております、もはや学術的、倫理的、論理的、日本人的心情のいずれの観点からも擁護のしようがないが故。

 「第三者委員会」 に一種の期待、最後のチャンスという空気は優しい日本人達の中にはあった筈。で、これですよ。本質外し、ここに極まれり。

 奥様層も敵として取り込むばかりか、「利権とは関係ない良心的、信条的左派」からも愛想を尽かされ、「老いては子に従え」効果も加わって高年齢層の購読者減の加速も避けられないでしょう。

 あと、大誤報ではなく「ねつ造と名誉棄損」と「もしかしたら外患誘致」なので宜しく。あくまで「誤報」と言い続けるなら、何も解決しないでしょうなぁ。

 当ブログでの「朝日新聞社への苦言の表明」はおそらくこれが最後。個人的には次フェーズに入ります。

 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ってことわざの意味が最近身に染みて分かるようになりました。テレ朝の報道番組が生理的に受け付けられなくなったものなぁ。あと、NHKのニュースウォッチ9も。「今という点」で「一般論」でしか事物を語らない「解説委員」や「キャスター」には存在意義すらないのにね。

 「先を見ない、先が見えない」が朝日新聞社とその社員達の文化って気がしませんか? まぁ、それは「今すら読めてない、過去は知らないフリ」の裏返しに過ぎないのでしょうが。

2014/09/30

本質外し!!再び。

 朝日新聞社が販売店を介して購読者に手紙を届けた模様。

 「チャンスを下さい」、だそうだ。

 読んでみて「あ、こりゃ駄目だ」と思った人も多かろう。このズレっぷり、本質の外しっぷりはとても日本人の感性とは馴染まない。ニューヨークタイムスを介したソースロンダリングのからくりすらも奥様レベルで周知されるに至り、もはや「自ら死を選ぶか他者に殺されるか」の究極の選択に向かって爆走中のようである。つまり、「何も読めてない、見えていない」。

 朝日新聞社以外の大部分の日本人の間では朝日新聞社がどうすれば良いかのコンセンサスは十分に取れている気はするんだけどね。未だにそれに手を付けないと言う時点で「チャンスを掴む気がない」のは明らか。普通の人々(奥様含む)を怒らせた、ということの意味を未だに理解していないと見える。

 購読解約が相次いで新聞販売店が大変だ、というのは分かるが、実質的な違約金(解約後の本来は配達されるべき部数分)を払ってまでも購読を止める人が存在する事実を虚心坦懐に受け止められんと言うのは色々と小さいか、○○○ということだろう。新聞販売店に気兼ねがあって朝日新聞購読解約ができないという人は、その店が取り扱っている別の新聞に乗り換えてあげれば基本的に問題は無い筈。

 この期に及んでは販売店も旗色を示す必要がある。「周囲が納得する行動」に出た店舗だけが被害者になれる、何もしないといずれ加害者認定されると覚悟しておくべきだ。

 力関係はあるんだろうが、現在の状況は朝日新聞社にとっては非常事態、販売店から朝日新聞社に色々と声を上げるべきだと思う。「所詮そんなの声届かないよ」なんて割切っちゃうのはただの茹で蛙状態、自滅への道だろう。まぁ、「朝日新聞社の有様は正しい」という立場も見識ではあるのだが、感情論には絶対勝てまい、韓国を見ていればその辺りは良く分かる筈。感情論を煽りまくった挙句がこの体たらく、というのが朝日新聞社だ。

 仁義も論理も倫理もない、馬鹿馬鹿しいが譲れない一線を巡る密やかな戦いが、今でも日本中で繰り広げられているようなのである。このままでは「朝日新聞社は悪意あるテロ集団」という評価がフィックスされちゃいますよ、代々限り語り接がれますよ。敵と味方を間違い続けると敵しか残らないですよ。

 もはや死ですらあがえないレベルにまでハードルが上がったと言って良い。 チャンスはお盆休み前に既に失われているのである。

2014/09/18

ふむ、

「嘘はいかん」、「他人を欺むき嘘に加担した人間はそれを正した上で、さらに然るべき行動を取るべき」ということですね。そして「それを怠る者達には未来はない」と。成程、正論ですね、そうあるべきですね、ね?ね?

 朝日新聞の社説です。
(社説)山口淑子さん 戦後の歩みが語ること
2014年9月17日05時00分

山口淑子さんが、94年の生涯を閉じた。戦中は満州映画協会のスター「李香蘭」として一世を風靡(ふうび)。戦後は、俳優、テレビキャスターとして活躍し、参議院議員を3期務めた。

劇的なその人生は、私たちに多くのことを語りかける。

生まれは旧満州(中国東北部)。南満州鉄道で働く父は中国の人たちと親しく交わり、義兄弟の契りを結んだ。その縁で山口さんも「李香蘭」という中国名を持った。

北京の女学校には、父の親友の家から「潘淑華」の名で通った。時は日中開戦前夜。祖国日本と母国中国、それぞれへの愛情に引き裂かれ、「日本軍が攻めてきたら、北京を囲む城壁の上に立ち、どちらかの軍に撃たれよう」と思ったという。

だが、完全な中国語を話す日本人の美少女は、満映によって、「中国人女優・李香蘭」として売り出されてゆく。

日中のはざまで苦悩した山口さんは時代に翻弄(ほんろう)された「被害者」といえる。半面、日本の国策映画に出演し、プロパガンダの一翼を担わされた。

中国では日本人の横暴に心を痛め、憧れの日本では、中国服姿を侮辱された。

こうした自身の複雑な立場のどれからも目をそらさず、深く省みたことが、戦後の生き方を方向づけたのだろう。

いつも虐げられた側を思い、平和と人権擁護のために発言、行動した。パレスチナ問題に積極的にかかわり、元慰安婦への償いをする「アジア女性基金」の副理事長を務めた。

著書やインタビューでは、あやまちを率直に語った。

「李香蘭 私の半生」(藤原作弥氏と共著)には、こんなことが記されている。

李香蘭時代も、自分なりの信念を持ち、納得できないことは受け入れないできたつもりだった。しかし、日本にとって都合のいい中国の娘を演じた当時の主演映画を改めて見て、衝撃を受けた。信念というものが、いかにあいまいなものだったか、思い知らされた、と。

この罪を償うには、わびるだけでなく、自分の体験について作為を加えずに語るしかないと考えた。それでも、記憶が自分の都合のよいほうへ流れるのを抑えるのは、ひどく難しい作業だったと明かしている。

自分の弱さを深く自覚しながら、それでも過去と誠実に向き合うことでしか、人はあやまちを正せない。未来はその先にしかない。長い戦後を生きた山口さんのピンと伸びた背中から、いま学ぶことは多い。

2014/09/16

「不寛容(イントレランス)」という表現が別の人からも出ました。


 窪田氏が「非寛容」という表現を使ったのは個人的にやや痛快(私が使ったのは「不」寛容だが、どっちもイントレランスの意味であろう、と我田引水)、この言葉でしか表現できないニュアンスが朝日新聞社への反応にはあるように私も思う。イントレランス(不寛容)という表現を本ブログで使ったのはほぼ1ヶ月前、本文中では触れていないけれども朝日新聞の8/5、8/6の記事も当然念頭にあった、というよりその時は敢えて朝日新聞社の記事には触れなかった。それは朝日新聞社への期待もまだあったからだ。

 さて、窪田氏の文章の一部を引用させて頂く。
 こうなるともはやジャーナリズムではなく「信仰」である。

 今、彼らは自分たちの「信仰」を守ろうと必死になっている。「信仰」に批判や反発はつきものなのだ。世界中の宗教紛争を見るといい。「イスラム国」然りだが、弾圧をされることでさらに信仰が深まり、危険さが増している。

 つまり、もし仮にアンチの人々が望むように『朝日新聞』が地上から消え去っても、「殉教者」たちに手によってより過激な第二、第三の『朝日』が生まれるだけというわけだ。だから、怒りにまかせて過激な行動にでてはいけない。腹わたが煮えくり返っている方もいるかもしれないが、それでも我々は『朝日新聞』を許さなければいけない。

 異なる思想を暴力で排除するということは、韓国と同じレベルに落ちてしまうということなのだから。
 うん、「殉教者」にしては絶対いけないし、個人的には最初っからそうさせるつもりもない。私の考えは単純で、
  • 嘘をついて多くの人々に迷惑をかけた。
  • 嘘により被害、或いは不公正な扱いを受けた人々に謝罪する必要がある。
  • 嘘により被害、或いは不公正な扱いを受けた人々の名誉回復に率先して取り組む必要がある。
という風に、単純に倫理的問題、或いは「人としてどうなんですか?」というレベルの問題としか捉えていない。これは今までの関連エントリで言葉や表現を変えて何度も述べていることである。 朝日新聞社の有様は余りに隙が多く、理詰めで追い込もうと本気で考えている人間には良いカモになってしまうだろう。そのような動きが表層的にはほとんど見られないということは、この期に及んでもまだ朝日新聞社は甘える事を許されているのである。が、当の本人達は「まだ」甘えが許されていることに気づいていないようである(つまり、普通の日本人の目からも「察し」が無い馬鹿、阿呆、愚鈍に見える)。察しを欠き続ければ、更なる被害者を生み出し続けるだろう。ここでの被害者は主に元朝日新聞社社員である。

 主義主張もイデオロギーも何も関係ない「人として」という話だから、「殉教」なんて出来る筈もない。 そもそも朝日新聞自体には見るべき論理性も、主義も思想も無いじゃないですか。だから言葉を弄び続ける朝日新聞記事やテレビでしゃべる朝日新聞論説委員などの言葉に寛容ではいられないのである。「嘘ついたんでしょ?」、「人としてその姿勢は問題では?」と言いたくなるのである。これは私一人の心象では無くて、同様の思いをもやもやしたまま抱えている人も多いのではないかと思う。そういう「日本人の美意識に照らしてプリミティブに受け入れ難い有様」を朝日新聞社に感じているのではないかと思う。故に「黙って購読中止」する人が多かったり、奥様方が動く事態が発生しているのではないかと思わずにはいられないのだ。加えれば、

朝日新聞社:「記事を取り消します。」
私:「はい、大枠分かりました。で、倫理的観点から、嘘をついたことに対してどう今後対応していくのですか?」
朝日新聞社:「(それ以外の事ばかり)うだうだ」

という感じで、ボールはまだ朝日新聞社側にあると私は思っている。朝日新聞社にはまだ対応を正す機会が与えられている筈なのだ。早くしなければ「朝日新聞社が生理的に受け付けられない」人間が増えるばかりだと信ずる。

2014/09/15

河野洋平氏ほか、国家招致について思うこと

 今回は完全に主観。河野氏の国会招致に対して自民党がおよび腰との報道を受けてのエントリです。私なりの「察しとお思いやり」の発動方法ですが、当然ながら「意図的な劇場化」も図ります。

 まず、私にとっての「河野談合」、もとい「河野談話」の認識(事実+想像)は下記の通り。
  • 「河野談合」における「広義の強制性」への言及は「政治決断」 であった。
  • 「政治決断」の目的は「河野談話」における「謝罪の対象を拡大」し、最後の「謝罪」とすることを意図していた。
  • 韓国・金泳三大統領(当時)は「河野談話」を評価し、「これで未来志向の韓日関係が推進できる」旨の発言もした。
  • 「謝罪した以上賠償も必要」とばかりに「謝罪」と「賠償」を結びつける「特定の勢力」が現れた。
  • 「特定の勢力」の登場により、「政治決断」と「謝罪の対象の拡大」が悪用される事態となった。ここで「政治決断」の目的たる「最後の謝罪」は達成できなくなった。
  • 韓の国政府及び世論、国内の一部報道機関も「特定の勢力」の主張に追従し、「政治決断」は完全に裏目に出ることとなった。

上記の認識に基づけば、「劇場化」によりあぶり出すべきは下記の点。
  • 「河野談話」は「政治決断」であり、本来は「最後の謝罪」 を実現するものであった。従って、その意図するところに立脚すれば「河野談話」自体は間違いではない。
  • 「河野談話」に関わる今日的な問題の本質は、「河野談話」に込められた意図(思いやり)を逆手にとって、「賠償」要求へとの関連付けを図った「特定の勢力」及び「追従者達」の存在にある。
  • 河野洋平氏を売国奴などと呼ぶ風潮もあるが、当時の「政治決断」の意図の明確化とともに河野洋平氏の立ち位置も明示化すべきである。必要があれば明示的な名誉回復も考慮すべきである。ただし、河野氏は「特定の勢力」の登場以降に「それは違う」という声を何故挙げなかったのか、という点については語る必要がある。
  • 「特定の勢力」及び「追従者達」を文字通り特定しなければならない。本丸は実はこちらの方である。

 さすれば、河野洋平氏をはじめとする国会招致の落とし所、一種のシナリオは下記の通り。
 
 まず、以下を明示化する。
  • 「河野談話」作成過程の検証結果の再確認、国内承知の徹底
  • 「河野談話」における「政治決断」の当時の状況下における妥当性
  • 「河野談話」に対する韓国大統領の評価内容の国内外承知の徹底
  • 「河野談話」に端を発する今日的問題が「政治決断」と基本的に無関係であったことの国内外承知の徹底。強調すべきは、「特定の勢力」の登場がなければ「河野談話」は日韓ともに有益な「外交的成功」たり得たこと、及び今日的問題の責任を河野洋平氏に単純に帰すべきではないこと。 
  • 国内問題は国内で解決するものとして、他国の内政干渉は一切受け付けないこと。
  • 特に詐欺行為、虚偽報道には立件も含めて法的に対処する用意があること。法的措置の対象者が外国籍である場合は国外退去措置も辞さないこと。

 次いで本丸。
  • 国内「特定の勢力」及び国内「追従者達」の文字通りの特定と国内周知徹底
  • 国内「特定の勢力」及び国内「追従者達」の国会招致 

 さぁ、「未来志向の日韓関係の推進を損ねた責任」を本来取るべき存在を明らかにしようじゃないの。「日韓共通の敵(あはは)」を特定しようじゃないの。河野洋平氏の現在の態度は状況を悪化させているだけにしか思えない。もし自分に非が無いと信じるなら、このシナリオに乗っちゃくれませんかねぇ。

2014/09/14

もう「詐欺」と呼ぶべきではないですか?

 「報道ステーションSanday」での朝日新聞社社長会見の紹介、アナウンサーの「『謝罪しなかったこと』を謝罪した」としか聞こえない表現に口あんぐり。出演している朝日新聞社社員の発言も当事者意識の無さが語尾の歯切れの悪さに滲み出て酷い。朝日新聞社内のセクショナリズムなんて、日本、日本国民、在外邦人が長期にわたり、さらにこれからも受けるであろうダメージを前にすればどうでも良いことだ。更に朝日新聞社の言う「誤報」で儲けた連中もいることを忘れてはいけない。

 「ねつ造」なんて呼ぶから駄目なんじゃないか、「詐欺」と呼び、実質的に犯罪行為である(あった、ではない)ことを明示的にする必要があるんじゃないか、という思いを強くした。それでも朝日新聞社は「誤報」と呼ぶのだろう。どこまで言葉遊びに興じ、被害者に甘え続けるつもりなのか。

 朝日新聞社は普通になったって駄目だ、自助能力があることを示さなければならない。自らの「誤報」によって生じた利権、詐欺的犯罪に切り込むというのは最低ラインだろう。自らに引導を渡すこと(渡すぐらいのこと、ではない)ということだ。それが無ければ、外部の人々が引導を渡すことになるんじゃないだろうか。前者なら禊と認識されて生き残れる可能性はまだあるが、後者ならまず間違いなく報道機関ではいられなくなるだろうと思う。

2014/09/13

加害者責任も併せてお忘れなく

  どう言おうが書こうか変わらないことがある。謝罪しようとも変わらないことがある。

 もう一度、「加害者責任も併せてお忘れなく」。

 「誤報を認めた」ことは分かったから、早く「ねつ造」に対する見解を出して欲しい。まさか「ねつ造」=「誤報」とか、日本語としても論理的にもおかしい究極的に手前勝手で他者を馬鹿にした「認識」なんてしてないよね。あと、吉田証言、吉田調書の誤報の訂正記事の英語(米語)、韓国語、中国語(簡体、繁体)での海外発信を早くお願いします。日本版デジタルの英語記事じゃ駄目、ニューヨークタイムス記事でも駄目(もうその手はばれてますから、ソースロンダリングやっても無駄)。

 朝日新聞社説、どこまで甘えれば気が済むのやら。
論じることの原点を心に刻んで

2014年9月13日(土)付

 朝日新聞は、戦後に例がない大きな試練を自ら招いてしまいました。
 一昨日、木村伊量(ただかず)社長が記者会見し、福島原発事故での「吉田調書」をめぐる誤報や、慰安婦報道での間違った記事の撤回の遅れなどを謝罪しました。
  「吉田調書」は、社説でも取り上げ、全面公開を求めました。その中で、誤報だった記事に基づいて「所員の9割が命令に反して10キロ余り離れた別の原発に 一時退避」や「所長の指示・命令が守られず」という表現を使いました。社説を担う論説委員室として、読者や関係者の方々にかさねて深くおわびします。
 また、慰安婦報道検証や、それについて論評した池上彰氏のコラム掲載見合わせも、重い問題だと受け止めています。
 私たち論説委員は、社説などの欄で、あるべき社会の姿について主張をし、ときに人や組織を批判する役割を担っています。
 しかし、その土台を大きく損なってしまいました。どんな主張をしても「お前にそれを言う資格があるのか」と厳しく問われるからです。
 私たちはその批判と誠実に向き合い、読者の信頼回復に努めなければならないと感じています。そのうえで、論じるべきことを論じるのは依然として自分たちの責務だと考えます。

■反証と異論に謙虚に

 読者やほかのメディアから、たくさんの批判をいただきました。一番重く受け止めなければならない指摘の一つは「自分たちの主張に都合の良いように事実を集めたのではないのか」だと思います。
 日々、論じることを仕事としている論説委員も、つねにその危険に近いところにいます。
 論を紡ぐ過程で、主張への反証となる事実への謙虚な姿勢を失えば、それは空論や暴論となります。また、そこに陥らないようにする上で、あるいは自分たちが陥ってもそれを批判する視点を読者に確保する上で、大切なもう一つのことは、異論に紙面を開く姿勢にほかなりません。
 朝日新聞はそのためにオピニオン面をとりわけ重視し、社説とは異なる論も含めた多様な意見を掲載することに力を入れてきました。それだけに池上氏のコラムの掲載見合わせは、自分たちが一番大切にしていた価値を損ねる結果になりました。
  慰安婦報道の影響については、今後、第三者機関で検証を進めてもらいます。ただ、たとえば1997年に一度検証をしながら、吉田清治氏の証言を虚偽だと断 定し記事を取り消せなかったのは、反証となる事実や異論への謙虚さが欠けていたからではないかと自問せずにはいられません。

■議論をゆがめた誤報

 朝日新聞が8月、自身の慰安婦報道の検証を紙面に掲載したのは、慰安婦問題を直視するには、過去の誤った記事が妨げになっていると考えたからです。
  かつての報道を明確に取り消さないかぎり、「朝日の慰安婦報道問題」が前面に出てしまい、本来の「慰安婦問題」が背後に退いてしまう。朝日報道への批判と ともに、議論がナショナリズムの対立に大きく傾く。日本で嫌韓本がはやり、韓国の団体は慰安婦の像を国内外に建てる。お互いに挑発する不毛な応酬。その結 果、被害者の救済という一番大事な問題の解決が置き去りになっていく――。そんな状況を打開したいと考えたからです。
 にもかかわらず、原発事故に関する「吉田調書」の誤報で再び議論の核心をゆがめかねない同じ過ちを繰り返してしまいました。原発問題という大切な議論をしなければいけない言論空間に、「朝日の原発報道問題」というもう一つの問題を作ってしまったからです。

■論じ続ける責務

 私たちは、慰安婦問題の本質とは、戦時下の女性の尊厳や人権であり、取り組まなければならないのは被害者の救済や日韓の和解であると主張してきました。
 また、吉田調書を含め関係者の証言や記録の吟味は、日本の今後の原子力行政に欠かせない作業だとも考えています。
 その意味でも、慰安婦問題や原発問題の議論が、自らの失態で後方に退いたり、ゆがんだりしたままにならないように論じ続けることは、私たちの責務だと思っています。
 もちろん、論じることを読者に説得力を持って受け止めていただくためには、反証となる事実や異論に謙虚になるという原点を改めて心に刻まなければならないと痛感しています。
 その自覚をもって、今の日本にとって重要な数々のほかの課題についても、私たちはこれからも社説などを通して言論人としての使命を果たしていきます。批判に耳を傾けながら、多様な議論の発展に貢献したいと考えます。

 んで、天声人語。

 「砕け散った思い」とは笑止千万、「自ら砕いた」が正しい。そこは他人事みたいに書いてはいけない。はい、書き直し。
天声人語

2014年9月13日(土)付

まっさらな紙に記事が印刷されて、世の中に出ていく。新聞社で働く者の喜びであり、ささやかな誇りでもある。しかし昨日の紙面は、朝日新聞にとっ て痛恨のものとなった。報道にたずさわる一人として、身が縮む。同僚だれもが同じ心情だと思う▼当コラムの執筆を任されたころ、敬愛する先輩に言われた。 引き継がれてきた1本のろうそくに、毎日毎日、火をともすように書く仕事だ、と。小欄だけではない。新聞づくりそのものが、社員全員が真摯(しんし)な気 持ちで、日々に新たな火をともす仕事である▼言論の自由の保障が、日本国憲法にもある。人間の歴史がこの自由を獲得するまでに、どれほどの血が流れ、苦闘 があったことか。その理念を尊び、死守すべき言論機関として、慰安婦問題をめぐる池上彰さんのコラム掲載を見合わせたのは最悪だった▼気に入らない意見 や、不都合な批判を排した新聞は、もう新聞ではない。「あなたの意見には賛成しないが、あなたがそれを言う権利は命をかけて守る」。古来の至言が、信頼も ろとも紙面上に砕け散った思いがした▼「吉田調書」については、今年5月の小欄でも取り上げている。初報記事とともに「命令違反」の表現が誤っていたこと を、おわびいたします▼砕け散ったもののかけらを、時間はかかっても拾い集める。そして信頼を一から作りなおしていく。深く自省する中で、朝日新聞が言論 の一翼を担っていく気構えには揺らぎがないことも、あわせてお伝えをしたい。

2014/09/11

テレビ朝日「報道ステーション」が朝日新聞の二つの「吉田」報道

 朝日新聞社、言葉に溺れ、この期に及んでただ言葉を弄ぶのみ。上(社長)も中(論説委員)も当事者意識、加害者意識が画面を通じて全く感じられないのはある意味凄い。とても日本人とは思えない。

 無意味、曖昧、j自浄能力が無いことの表明(第三者機関の調査とか笑止だが、法廷での証拠にできるレベルのきっちりした調査書が出ればそれはそれで良し。ただし、時期に触れないのはやらないと言ってるに等しい)、実質的に謝罪もなし。吉田調書の件は、日本語が読めいない、理解できないと言ってるのと同じ。見え見えの本質外し対して一般的な日本人は非常に敏感、実害があったとの認識が広く受け入れられている現状では叩かれるのは必定。早く馬鹿をやめなきゃならない、戦前から一貫して続けている姿勢そのものを改めなければならない。

 あかんわ。

 「クラマスワミ報告書」にまで踏み込んだのはちょっとした驚き。黒田勝弘氏の主張は完全に上滑り(立ち位置は察するし、気持ちは理解できるけどね。感情論はもう意味が無いのですよ)、お金の話にしちゃいけない。

 恵村順一郎氏は印象操作と問題すり替えに一生懸命で、カメラから顔をそむつつもこれでもかとばかりに「ぶれない朝日」を押しつけてくるが、まさにそこが一般的な日本人にとって「朝日新聞社が異常に見えるところ」と私は見ている。ボールは今も朝日新聞社にあると思うんだけどね。自分達が原因で他者から非難されている状態で非難者に対して全く歩み寄らない姿勢、そんな態度の人達に「国家間の歩み寄りが必要」とか言われたって説得力なんか全くありゃしませんがな。

 ほんまあかんわ。舐めるンもたいがいにしぃやぁ。

p. s.

 一部海外で右翼が~とかいう朝日新聞社を擁護すような報道もあるようですが、そういうレベルっつーか文脈で捉えること自体が異常なのだ。一般的な日本人の言いたいことは、きっとこういうことだと思う。

「嘘ちゅいたんでしゅよねぇ~?だったらその嘘で迷惑をかけちゃったオトモダチみんなに謝って許してもらいましょ!許してもらえないときはぁ、う~ん、どうすれば良いと思う~?ちょっと考えてみましょうねぇ~。」

 つまり嘘をつくことはそれ自体が悪いこと、基本はここ。マスコミの嘘は暴力行為に等しい、とかは敢えてこれまで書いてこなかったけど、それよりももっと基本的な社会倫理の問題。

 なぜそれが問題か、ちょっと思考実験をしてみれば直ぐに分かる。口裏を合わせた悪意ある多数の人間が一斉に特定の朝日新聞社記者に暴行を受けたと「証言」する、しかも朝日新聞社記者のアリバイは巧妙に回避しておく。つまり、「暴行の証拠はない」が「証言を否定する証拠もない」状態に落とし込む。「証言」にのみに依存すればどうなるかは言わずもがな、裁判で無罪とされてもその後10年以上にわたって件の悪意ある多数の人間は謝罪と賠償を、との声を挙げ続ける。

 「論点すり替え」と言われるのは当たり前、そこに込められているニュアンスは「論点を変える前に、まずしなきゃならんことがあるでしょう」ということ。それさえすれば、「論点が変わる」のは当たり前で、「すり替え」とは言われない。あと、「謝罪と賠償はワンセット」なんでしょ?お忘れなく。

テレビ朝日「報道ステーション」が朝日新聞の「慰安婦問題」を報道!!らしい

 仕事から帰ってTV番組表を見てたらなんと!!、ということらしい。

 真面目な話、放っておけば放っておくほどハードルが高くなるのは必定で、それこそ誰かが腹切る様子を中継するぐらいのインパクトと実を伴う内容じゃないと結局火に油を注ぐことになりかねない。

 しかし例え何人死のうが真面目に謝罪しようが、朝日新聞社が「嘘」 をつき続けたことには変わりなく、社会的制裁はもとより日本の法制度に則った訴訟事案も有り得ると考えた方がいい。あの問題に関しては感情の出る場はもはやない、堪忍袋の緒が切れた日本人が既に多すぎる。

 正直に言って、放送中にあの問題の関係者がテロにあって命を落とすようなことがあっても、おそらく私の心には何も響かないだろう。結局のところ、中途半端な事をやれば当然ながら、相当に真面目にやっても流れは変わらず、「あれが終わりの始まりだった」と後々言われるだけという気がする。

 南京の件も靖国の件もあるよ、さて?

2014/09/03

ふ~ん、朝日新聞の記者ね。

 2chまとめからの引用です。

 赤字の部分がミソって感じ、メンタリティが日本人的ではないのがありあり、「察しと思いやり」ゼロってことですよ。そりゃ「謝罪せよ!」って言っても何もしない筈、自分達に向けられている他者の感情を「理解することができない」んだから。 

 勘違いぶりがハンパない。朝日新聞社への謝罪要求は右も左も関係ない、まずは「嘘つきが嫌いな日本人」の感情の発露だからね。この辺りは昨今のネガティブな対韓感情のうねりと同根ですよ、違いは朝日新聞社は「まだ敵としてのコンセンサスが広くは得られていない、まだ甘えを許す人が多い」ぐらいじゃないですか?

 「文化的に日本人じゃない」という共通認識がいったん形成されたら、「民族的に日本人」である方が「民族的に日本人ではないけれど、文化的には日本人」という場合よりもきっと酷い目にあいますよ、「裏切り」は「嘘」よりも「普通の日本人」を怒らせますからね。故に「文化的に日本人」であればあるほどもう日本には居られない、自分がどれだけマズい状況にあるかということをちゃんと察することができるからね。つまり、韓国に逃げたままの人ほど実は「日本人っぽい」かも、ということなのです。

【慰安婦】朝日新聞記者が池上彰氏の連載中止申し入れに自社批判 「はらわたが煮えくりかえる思い」

2014年09月03日

1 名前:動物園φ ★@\(^o^)/:2014/09/03(水) 15:05:57.02 ID:???.net

    トピックニュース 2014年09月03日11時40分

 3日、朝日新聞大阪本社社会部記者の武田肇氏がTwitterで朝日新聞について批判をした。

 発端は2日に「池上彰氏が原稿掲載拒否で朝日新聞の連載中止を申し入れ」と題した記事が、週刊文春に掲載されたことによる。

 池上彰氏が連載している「新聞ななめ読み」の原稿に、慰安婦問題について「朝日は謝罪すべきだ」と記述があったことから、朝日新聞は原稿の掲載を拒否。池上氏は自ら連載中止を 申し入れたのだという。

 この記事を紹介する形で、3日、武田氏はTwitterの自身のアカウントに「私は組織に忠実な企業内記者の一人ですが」と前置きしながらも「夕方、このニュースを聞いて、はらわたが煮えくりかえる思いでした。極めて残念です」と投稿し、怒りをあらわにした。

 すると、この投稿に対して「はらわたが煮えくりかえる思いは、朝日新聞に対してですか、それとも、池上さんに対してですか?」と武田氏に質問する返信が寄せられた。

 武田氏は返答する投稿で「今回の自社の姿勢に対してです…」とハッキリと自社批判であることを認めている。

 なお、武田氏のTwitterプロフィールには「投稿内容は朝日新聞を代表するものではありません。RTは必ずしも内容に賛意を示すものではありません」と書かれている。


武田 肇 / Hajimu Takeda @hajimaru2
私は組織に忠実な企業内記者の一人ですが、夕方、このニュースを聞いて、はらわたが煮えくりかえる思いでした。極めて残念です(査定に響きませんように…) /池上彰氏が原稿掲載拒否で朝日新聞の連載中止を申し入れ(週刊文春) - Y!ニュース http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140902-00004316-sbunshun-soci …
2014年9月3日 00:08


中島章智 @Cap_Herlock
@hajimaru2 はらわたが煮えくりかえる思いは、朝日新聞に対してですか、
それとも、池上さんに対してですか?

武田 肇 / Hajimu Takeda @hajimaru2
@Cap_Herlock 今回の自社の姿勢に対してです…
2014年9月3日 08:48

 http://news.livedoor.com/article/detail/9213276/

8 名前:動物園φ ★@\(^o^)/:2014/09/03(水) 15:07:39.30 ID:???.net

しかし一番最近の投稿ではこんな書き込みをリツイートしている

武田 肇 / Hajimu Takedaさんがリツイート

赤い豚 @cochonrouge 6 時間
池上彰が降りたらしいけど、今の朝日に対する謝罪要求って「慰安婦強制連行の捏造を詫びよ」みたいな話ばかりで(右翼のいう狭義の強制連行は、裁判でも確定してるものがある)、謝罪のしようがない。 今や日本の右翼は、かつてのソ連だののように、嘘の自白で自己批判せよと言うまでに堕落したわけだ

引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1409724357

2014/08/31

物語の共有の否定、或いは「情けは人のためにならず?」


 素人目には主張に色々と引っかかる。「日本軍が関与したことを示す資料」 とかいう曖昧な表現はいい加減やめて欲しい。これは自分の主張の優位性を意図した印象操作であって、普通は「卑怯」とされるやり口である。

 問題を遡及的に取り扱うのは近代法治国家では禁じ手だ。これでは開戦時には国際的に無かった罪を戦後に問うた「東京裁判」と同じである。
人身売買禁止が国際法で規定されていないと主張するのは日本しかない。日本政府が今年7月、国連市民・政治権利委員会で日本軍慰安婦は性奴隷ではないと話 したことは問題だ。性奴隷ではないというのは‘慰安婦=売春婦’ということだ。これは慰安婦被害者を二度侮辱することで、新しい加害だ。
  「日本しかない」ことは重要ではない。これは明確な印象操作であって、まず明確にすべきは「人身売買禁止が国際法で規定されたのが何時か」であるべきだ。それを主張しない事は、主張者にとって都合が悪い「事実、真実」がある可能性を想起させる。

  「性奴隷ではないというのは‘慰安婦=売春婦’ということだ。これは慰安婦被害者を二度侮辱することで・・・」の部分は日本人の感性を意図的に無視し、逆手に利用している可能性がある。公娼制度の運用実態については十分な知識を有しないので踏み込まないが、「慰安婦」という表現が「公的に職業として認められているにも関わらず、それを『売春婦』と呼ぶことが差別的であるが故に使われた可能性」は全く無いのだろうか。日本特殊論を唱えるつもりは毛頭ないが、特定の文化圏と時代性のコンテクスト(文脈)を意図的に排して、事後的乃至遡及的(つまり、現在の価値観でのみ捉え)、さらに「国際法」という錦の御旗の下で糾弾する姿勢には大いに疑問を感じる。はっきり言ってしまえば「庶民感覚」として「卑怯者の所業」にしか見えない。

 これを国際問題として捉える視点は「遡及」によってしか現れない。当時の朝鮮半島は大日本帝国憲法の施政下にあり、国土の一部であって植民地ですらない。当時の枠組みでは「国内問題」を越えることはないとしか論理的には解釈できない。

 遡及法は近代法治国家では許されない。加えて「国際法」の名の下に文化差を考慮しない取り扱いは恣意的な運用、或いは「国際法」の悪用である。ただでさえ民族主義、宗教原理主義の先鋭化で 「より広い文化圏で共有可能な国際法」の成立性、実効性は揺らいでいる(本来の国際法は、文化圏の価値観差にまで踏む込まない範囲でのコモンセンスであるべきである、というのが個人的な心証だ)。

 ただ「強制性」が前に出てこなくなってきたことは、実は重要な前進である。朝日新聞社もそうだが、結局証拠がないと何を主張しようと駄目、ということだ。問題点のすり替えは戦線に例えれば撤退を転戦と呼ぶに等しい。明確な誤魔化しであり、「嘘」は特定の人間の懐を肥やしつつ、「被害者とされた人々を加害者にするとともに、最終的には本当に被害車にしてしまう」危険を孕む。幸か不幸か、日本人の感性は「最終的には本当に被害車にしてしまう危険」を察知した時点で、その一線を越えないように知恵を絞ると言うものだ。

 「察しと思いやり」、である。

 だが、今や日本人?ですら、その日本人の感性を悪用してきたことが白日の下にさらされてきている。が、私の信じる日本文化のしなやかさは、一線を越えないという感性と、一線を越えた場合の冷徹さを両立させられるだろう。

 「従軍慰安婦問題」の「真の加害者は誰か」、「真の被害者は誰か」。いったん問題化した以上、或いは問題化させた勢力、人間がいる以上、それを「幸いに変える」、或いは「災い転じて福と為す」には「言葉遊びにのみ興じる勢力」を排すると同時に、然るべき制裁を受けさせる必要がある。冷静に、論理的に、慌てず急いでしなやかに進めなければならない。通常、「共同体の掟」を破ってしまった者は、その共同体からの保護は受けられない。長年にわたって適用が猶予されてきた共同体で共有される掟というものは曖昧とならざるを得ない。が、過去より存在するが故に明示化された時点で「遡及的」であるとは必ずしも言えない。単に知らなかっただけ、では逃れられない。更に踏み込めば、「それを知らないことは違う文化圏に属する」ことの証左とも言えるのである。「自らの利益のためにその文化圏に属しているふり」をしていたのであれば、「その文化圏の掟で裁かれること」も受け入れなければならない。それが世の習いというものだ。

 全文を読んで、真実が何処にあるのか、捻じれががどこにあるかを一緒に考え、興味のおもむくまま色々と調べてみて欲しい。




【慰安婦問題】 国連に「慰安婦=性奴隷」と訴えた戸塚悦朗弁
護士インタビュー「慰安婦問題は解決していない」
日本の国際人権法権威者、戸塚悦朗弁護士は1992年2月、国連人権委員会で‘日本軍慰安は性奴隷’と初めて慰安婦問題を国連に提起した人物として有名だ。彼は今月20日、世界日報と のインタビューでも「日本軍慰安婦は強制でなければなされず、意志に反したもの」とし、「性奴隷が明らかだ」と再確認した。また、慰安婦問題は日本国内でも犯罪行為として糾弾され、1965年の韓日請求権協定で解決されていないという点も明らかにした。

-どうして慰安婦問題を国連に初めて提起することになったのか。
「初めから慰安婦問題のために国連で活動したのではなかった。精神障害者の人権問題解決のために裁判で敗れた場合、国連規約人権委員会に通知できる‘個人通知権’制度を導入するよう日本政府に要求したが拒否された。個人通知権が導入されなければ被害者代理の弁護士が国際社会に訴えるほかなく、かえって負担が大きくなるといったが、政府はそれでもダメといった。やむを得ず、毎年、国連に行って日本の人権問題を提起せざる得なかった。そうするうちに在日 朝鮮人と韓国女性たちが助けてくれと言うので、慰安婦問題に介入することになった。」

-初めはためらったと聞いたが。
「1992年、国連に訴える2年前、社会党の本岡昭次参議院議員の依頼で慰安婦問題を検討したことがある。しかし弁護人としてその問題の解決に同意できなかった。まず被害者がおらず、事件として検討できなかった。また、国家を相手にした訴訟になる他ないが、当時の日本国内法では勝つのが難しいと考えたためだ。ところが1991年8月14日、キム・ハクスン氏が慰安婦だったことを証言し、1992年1月、中央大、吉見義明教授が防衛庁資料館で日本軍が関与したことを示す資料を発掘して公開した。弁護人として問題にする義務があった。ちょうどその年、国連人権委が予定されており慰安婦問題を扱うことに決めた。」

1992年2月、彼は国連人権委員会で日本軍慰安婦は国際法上人身売買違反とし‘慰安婦は性奴隷’と主張した。彼の問題提起をきっかけとして国連で慰安婦議論が公論化し始めた。

-なぜ慰安婦は性奴隷なのか。
「日本軍関与資料と被害者証言集を見て判断した。国連では国際法違反問題を提起しなければ発言や呼び掛けにならない。国際人権条約がなかった第二次世界大戦以前の国際法で最も重視された人身売買禁止を適用した。また‘私が女性なら日本が戦争に勝てばと思って(慰安婦を)絶対しはしないだろう’と考えた。それは強制にならざるを得ず意思に反するものと考えた。そうなると誰でも奴隷と考えるわけで、性問題なので‘性奴隷(sex slavery)’と命名した。‘自分の意志で兵士を慰安する’慰安婦という言葉はお笑いだ。」

-今、国際社会で日本軍慰安婦は性奴隷という認識が確立されたか。
「確立されている。人身売買禁止が国際法で規定されていないと主張するのは日本しかない。日本政府が今年7月、国連市民・政治権利委員会で日本軍慰安婦は性奴隷ではないと話したことは問題だ。性奴隷ではないというのは‘慰安婦=売春婦’ということだ。これは慰安婦被害者を二度侮辱することで、新しい加害だ。被害者を見ると心が痛む。」

-日本は問題がみな解決されたという立場ではないのか。
「慰安婦補償問題が1965年韓日請求権協定で解決されたと言うのは話にならない説だ。いつかキム・ヨンシク元外相は当時の交渉過程で不法行為問題の議論がなかったとして‘もし不法行為が発見されれば後で交渉する’という日本代表、久保田貫一郎が話した議事録を公開した。日本は関連資料を公開しないでいる。実際の交渉では経済協力やお金の問題だけ話した。併わせてお金の問題は解決したが犯罪問題は解決されなかった。慰安婦問題は第二次世界大戦前の日本裁判所も認めた犯罪問題だ。1965年の交渉過程で犯罪問題は扱われなかった。」
(後略:弁護士の経歴など)

埼玉=キム・ユンチョル特派員

ソース:世界日報(韓国語) [インタビュー]「国際法上人身売買禁止違反…‘慰安婦=性奴隷’明らかに」
http://www.segye.com/content/html/2014/08/29/20140829003367.html
引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1409407649

2014/08/29

グダっているのかどうか、だけどね。

 後でじっくり読みましょう、論理レベルが分かる筈。朝日新聞DEGITALの記事から。まぁ、第一段落で既に「日本語からの超訳?」みたいな「変な英語」感がハンパない、coolはねぇなぁ、せめてcoldだろうね。
Look squarely at essence of 'comfort women' issue

2014年8月22日10時00分

By NOBUYUKI SUGIURA

Executive Editor

Japan-South Korea relations have cooled in a manner unseen in the past. One reason for the increasingly troubled relations is the large gap that exists between the two nations over the "comfort women" issue.
The issue first came under the spotlight in the early 1990s. After a former comfort woman came forward to tell her story, debate and research on the topic progressed.

What was gradually brought to light were the conditions that led to women having their dignity and honor severely compromised during a time of war at comfort stations created in various parts of Asia, through the involvement of the military.

Now, after about 20 years, a move to review the Kono statement, which acknowledged Japanese military involvement and offered an apology, has provoked opposition from within South Korea.

South Korea has also maintained a rigid position, refusing to accept the feelings of apology and remorse expressed by the Japanese government.

With the comfort women issue becoming a political problem, the Abe administration conducted a study into the process behind the compilation of the Kono statement and released a report about that study in June.

Groundless criticism has arisen among some commentators as well as on certain Internet sites saying, "The comfort women issue is a fabrication of The Asahi Shimbun."

Moreover, a former Asahi reporter who wrote articles about former comfort women has been maligned by name. That has led to inquiries from our readers asking, "Are those allegations true?" and "Why don't you respond?"

We have put together special pages reflecting on our coverage of the comfort women issue because we believe that fulfilling our responsibility to our readers to explain ourselves will provide the first step toward the start of new discussions that are oriented to the future.

Although we ran special coverage on the comfort women issue in March 1997, we have once again gone over the points of contention while also relying on subsequent research.

In the early 1990s when the comfort women issue first came under the spotlight, research on the issue was not at an advanced stage. We continued to write articles based on the testimony given by former comfort women as well as the few documents that were available.

We have now learned that there were factual errors in some of those articles. While those errors occurred at a stage when the overall picture of the issue was not yet clear, we do reflect on the fact that there was insufficient information gathering to support those articles.

Similar errors also emerged at that time in articles carried by other Japanese media outlets as well as in articles by the South Korean media.

It has been pointed out that some of that inaccurate reporting has led to confusion in the understanding about the comfort women issue.

However, we absolutely cannot agree with the use of that as a reason for espousing "the comfort women issue was a fabrication" and arguing "there is no need to apologize to the former comfort women."

The reason we cannot agree is because some of the arguments being made to protect the honor of one's own nation by degrading the victims as "prostitutes" only incite nationalism in both Japan and South Korea and create factors to complicate the issue.

We are concerned about the spread of inward-looking discourse that avoids looking at the unpleasant past and incites emotional confrontation.

There is no way to erase the fact that during the war there were women who were forced to serve as sexual partners for Japanese military personnel.

The essence of the issue is that comfort women had their freedom taken away and their dignity as women trampled upon.

In the 1990s, during the fighting in Bosnia, the attention of the international community was concentrated on rapes by militia members. How a nation views sexual violence toward women during times of war is now viewed internationally as a human rights issue concerning women. The comfort women issue is also connected to such contemporary themes.

When the Asian Women's Fund, created through a combined effort of the public and private sectors, gave atonement money to the former comfort women, it also included a letter from the prime minister of the time that had the following wording:

"(Japan) should face up squarely to its past history and accurately convey it to future generations. Furthermore, Japan also should take an active part in dealing with violence and other forms of injustice to the honor and dignity of women."

The letter contains the resolve of political leaders to proceed along a path of reconciliation by overcoming confrontations revolving around historical recognition.

Next year will mark 70 years after the end of World War II and 50 years after the normalization of relations between Japan and South Korea. However, the national security environment in East Asia is increasingly unstable.

The comfort women issue is one topic that cannot be avoided in the building of a future-oriented and stable relationship with our neighbor.

We will continue to report on this issue without changing our basic stance.

***

In this special coverage, we will analyze what the comfort women issue is all about and respond to the questions that our readers have about our reporting in the 1990s. We will also take a look back at the wavering Japan-South Korea relationship over the past 25 years because of this issue and also have experts present their views on the comfort women issue.

2014/08/23

朝日新聞シリーズ記事「慰安婦問題を考える」英語版、読んだ記事の冒頭からいきなり日本語版と内容が違うんですが!

 朝日新聞(朝日新聞デジタル含む)は8/5、6にシリーズ記事「慰安婦問題を考える」を掲載した。しかし、通常であればほぼ当日中に行われる英語版の掲載が当該シリーズ記事に限って為されていないことが報道他社含め多方面から指摘され、一部では非難の声も挙がっていた。当ブログ主も英語版記事を掲載しない朝日新聞社の姿勢を「まさにゲスの所業」と見ていた。

 当ブログでは、このシリーズ記事のうち2件の記事を挙げて私なりの注釈を加えてみたりしている。記事の内容は置くとしても、論理的には酷い文章であること、偏向乃至は印象操作が疑われる記述が散見されるのは動かし難いだろうと感じている。

 関連エントリ: 朝日新聞「慰安婦問題を考える」の不完全な解説 #1 #2

 そんな中、昨日になって英語版記事が掲載され始めた。正直、記事自体を見つけるのにかなり手間を喰ったことを告白しよう。本来一番目にそれらの記事が出てきてもおかしくない「検索ワード」を使って記事検索しても、なかなか目当ての記事がヒットしなかったことが理由のひとつである。もちろん、使用した検索ワードは英単語だ。英語版記事掲載の可能性については、過去エントリで次のように書いた。
でも真面目な話、あのシリーズ記事の英語版は書けても英訳は不可能だと思う。姑息なレトリック満載の記事の文章は論理破綻の塊で、日本語ですら成り立って いない。そんな文章、或いはそもそも論理構造も論旨すら備えていない唯の単語の羅列なんか、論理構造がより明確であり、あやふやな記述を苦手とする英語に 訳せるとは思わない。翻訳を頼まれた人が居たとしても、できる人間ほど頭を抱えてしまうだろう。概して英語で曖昧な文章を書くことは難しい。
当時の私の思いはともかく、やはり英語版記事は日本語版とはかなり論理的に異なる内容のものになっている。今回は英語版記事"Testimony about 'forcible taking away of women on Jeju Island': Judged to be fabrication because supporting evidence not found"の最初の1段落だけを日本語版記事と比較するだけでそれは良く分かる。

 「1段落だけ抜きだすのは恣意的では?」と思う人もあるだろう。しかし記事は「疑問→回答」の形式を採っているので、第1段落は「疑問」の部分そのものであり、単独で論理性などを吟味することには恣意性も任意性も入らない。「正しい回答、解答」を得るには「適切な疑問、質問」を発することが必要だ。その観点からは「回答」部分よりも「疑問」部分の方がむしろ論理的にきっちりと閉じている必要があると言って良い。

 では、始めよう。

英語版記事
Question: There was a man who testified in books and meetings that he had used violence to forcibly take away women on the Korean Peninsula, which was Japan's colony, to make them serve as comfort women during the war. The Asahi Shimbun ran articles about the man from the 1980s until the early 1990s. However, some people have pointed out that his testimony was a fabrication.
対応する日本版記事
〈疑問〉政府は、軍隊や警察などに人さらいのように連れていかれて無理やり慰安婦にさせられた、いわゆる「強制連行」を直接裏付ける資料はないと説明しています。強制連行はなかったのですか。
 testifyは「証言する」、testimonyは「証言」、a fabricationは「つくり話、つくり事」、comfort womenは「慰安婦達」。

 さて、この時点で英語版と日本語版とで既に論理的観点から見て大きな違いがある。日本語版では「政府は、軍隊や警察など」という強制連行の主体の記載があるが、英語版には「政府」も「軍」も「警察」も出てこない。 

 日本語版では以前からの朝日新聞の主張、すなわち「日本政府、軍、警察は慰安強制連行の主体であり、日本政府に謝罪と賠償の責任がある」を反映した文章となっている。しかし英語版では、「日本の植民地であった朝鮮半島で、証言者(吉田氏)は暴力を用いて強制的に女性を連れ去った」と書かれており、「一人の男」(a man)である証言者(吉田氏)しか慰安婦強制連行の主体として挙げられていない。つまり、記事の最初の段落から日本語版と英語版の記事の内容は本質的に異なっている、「まさにゲスの所業」である。

 他方、あくまで「日本の植民地」(Japan's colony) という表現は譲らない。私の知っている歴史的経緯からは「日本統治下」(under the Japanese rule)あたりが妥当だと思うのだが。また、太平洋戦争をthe war(~これぞ全世界万民にとっての戦争の中の戦争!The war of wars!戦争の中の戦争!)と書いてしまうセンスは英語的にはかなり疑問、というかかなり書き手が頭悪そうに感じられる英文。ネイティブの書いた英語ではないか、ネイティブが書いた英文を英語を良く知らない人間がいじったとか、可能性は色々考えられますがね。

 on?which?articles about the man!?とか細かいところを挙げたら実のところキリが無い。これらは文法上の話ではなくて記述されている内容の論理構造に関わる話、行間や文脈を敢えて読まずに「英文で記述されている論理」をそのままを受け入れようとしても意味が全く理解できない、ということだ。

 日本語版と英語版の「疑問の内容の違い」の原因が、「もともとの日本語版記事の段階で回答が疑問に対する回答になっていなかった(論理破綻していた)」ので「単純に翻訳してもまともな英文にならない」、ならば「いっそ疑問の方を回答に合わせて変えちゃいましょう」、とかだったりするんじゃないかと本気で怖い。もしそうなら脳だけでなく性根も腐りきってる。

 あと、Questionと言いながら、英語版は全く疑問の要素を含んでない。会合などの質疑応答で「質問をせずにただ自分の主張を述べ続ける人」みたいなDQNな感じは否めませんね

 最初の段落だけでこの有様。

2014/08/10

朝日新聞「慰安婦問題を考える」の不完全な解説 #0

  夕刊フジZakuZakuの記事、タイトルだけでもううんざり。

 朝日新聞、慰安婦誤報 英文サイトに検証記事なし「お答えは、さし控えます」

 前段は良いとして後段はどういうことかと言うと、
・・・しかし、朝日が運営するウェブサイトの英字版では9日午前9時現在、誤報を認めた記事の英文版は確認できない。朝日の主要記事は当日中に英訳され、同サイトに掲載されている。
これだけ日本にダメージを与えた証言を取り消す検証記事は、少しでも早く掲載する必要があるはずだ。万が一、掲載しないとなれば、「姑息」といわれても仕方ないのではないか。
夕刊フジが、朝日にこの件について問い合わせたところ、同社広報部は書面による質問を求めてきた。このため、7項目の質問をFAXすると、5時間以上かかって回答書がきた。
注目の回答書は、「いただいたご質問にまとめて回答します」で始まり、改行後、黒く太いゴシック文字で「お答えは、さし控えます」と続き、再び改行後、「以上です。どうぞよろしくお願いいたします」と書いてあるだけだった。
電話で、回答ができない理由を担当者にたずねても、「さし控えますということです」という答えしか返ってこなかった。
ということらしい。

 でも真面目な話、あのシリーズ記事の英語版は書けても英訳は不可能だと思う。姑息なレトリック満載の記事の文章は論理破綻の塊で、日本語ですら成り立っていない。そんな文章、或いはそもそも論理構造も論旨すら備えていない唯の単語の羅列なんか、論理構造がより明確であり、あやふやな記述を苦手とする英語に訳せるとは思わない。翻訳を頼まれた人が居たとしても、できる人間ほど頭を抱えてしまうだろう。概して英語で曖昧な文章を書くことは難しい。

 論理的に無意味な英文が使われていると言えば「不思議の国のアリス」を代表とするチャールズ・ドジソン(ルイス・キャロル)の作品群が挙げられるが、彼が数学者であったことは重要だ。英文として成立させつつ、論理性が曖昧な、或いは論理破綻した英文を書くには、人並み外れた論理性が必要ということだ。

 技術畑の人なら分かると思うけど、英語で論文を書く場合と日本語で論文を書く場合とでは論展開自体が変わる。日本語のしっかりした論文でも、単純に英訳したものは回りくどくて凄く理解にしくい代物となる。実際、先に社内用の日本語報告書を書いた後に社外向けの英文論文を書こうとするともの凄く苦労する。ここは個人差があると思うが、私は論理的思考に数学を除く特定の言語は使わない。が、いったん頭の中の論理を日本語で言語化すると、頭の中の論理構造が一気に曖昧になってしまうのだ。

 朝日新聞の件のシリーズ記事では主語、或いは行為の主体を曖昧にしたり、不要な修飾を付すことで、結局論理的には何も言っていない文章が多い。これは日本語が主語を重視した言語構造を持つ故であって、裏を返せばここを曖昧にすれば文章全体を曖昧とできるということだ。対して英語は主語よりも動詞に重点を置く。例えば、英文では文頭を主語を代理する"it"で始め、論理的な主語が動詞の後で記述される事が多い。これは単に構文といった形式的なものではなくて、論理構造を明確に示すにはまず動詞、次いで主語ということを英語という言語が要求するからと解釈すべきだと思う。動詞と主語の現れる順番を幾つかの文で確認すれば、執筆者がどれだけ英語慣れしているか、或いは日本語といったウラル・アルタイ系言語をネイティブとしているかが何となく分かることすらある。

 職場で論理破綻した主張をする人には「英語で説明し直して」とお願いする。まず、主語も動詞も選べなくて説明できない。良くても論旨が変わってしまう。TOEIC900点以上を自慢する人でも、論理が破綻している内容は英語では説明できない。 ちなみの私の英語力は、英文を読むことに抵抗が無いだけで、高いとはお世辞にも言えない。会話、文章作成能力は職場では平均未満であろう。

 さて、朝日新聞社の「お答えは、さし控えます」、どう解釈しますか?察してやるなんて義理もないですからね。