体調がすぐれないので今日は休みをいただき、何気なくTVを観ていた。と、ワイドショーのコメンテーターがいきなり声を荒げたのでびっくりさせられた。曰く、
「これでも保守や右翼の人達は・・・」
あぁ、「沸点が低い」というのはこういう事なのかと得心した。「顔真っ赤」と言うよりも、「半泣き状態で絞り出すように」と言う感じだったのはご愛敬だ。
番組中の話の流れについては省略するから何の事かは分からないとだろうけど、少なくとも「保守や右翼」なんてのは関係無いものだった。反原発のスタンスをとるのは構わないが、この番組の流れで「保守や右翼」が出てくるのは本質的におかしい。おそらく普段からそういう「漠然とした事しか考えていない」から、それがそのまま口をついて出てきたのではないかと思う。良くも悪くも(今日的な意味において)空気も読めず、国民の共有財産たる電波を使っているとのちゃんとした覚悟も無いのだろうと思うと、正直暗鬱たる気分になったと告白しよう。
件のコメンテーターにとっての「保守」とは何を指すのか、誰を指すのか?
件のコメンテーターにとっての「右翼」とは何を指すのか、誰を指すのか?
では、おそらく保守でも右翼でもない件のコメンテーターは何か?左翼?リベラル?
「安易なレッテル張りは思考停止以外の何ものでも無い」としか私には思えない。またレッテル張りは「区別」のための装置機能があり、「自分は違う」とか「こっちは自分の敵、あっちは自分の味方」といった主観的かつ自己中心的な世界認識を許容する愚か者のための武器にしか見えない。
私の政治信条は「保守」だったり、「右翼」だったり、「リベラル」だったりと、人によって解釈は様々だ。つまり、ごく普通の日本人のそれだ(とは言え、とある女性からは「ゲバラ主義的」と言われたことはある。残念ながらゲバラ氏は日本人の価値感を最後まで理解できていなかった様だが。で、「ゲバラ主義」って美味しいの?)。日本人の文化的価値観は、基本的にレッテル張りに利用されるような区別からは(長期にわたり世界史から独立していた歴史的経緯から言って)自由なのである。他者にレッテル貼りし、自らにもレッテル貼りすることで他者のみならず自分の精神的自由をも制限しようとするなんて、愚の骨頂も甚だしい。いい加減大人になって、その自己愛にただ溺れるかのような言行を改めて頂きたい。
では、件のコメンテーターはどういう発言をすべきだったのだろうか?
私の見るところ、「政府は××すべきではないか」といった「具体的かつ建設的な提案」だったのではないかと思う。「安易なレッテル貼りをする人」の特徴の一つは、「どうあるべきと自分は考えるか、自分はどうしたいか」を全く語れない事だ。もちろん、当人は「語っているつもり」なのかもしれないけど、少なくともそれなりのレベルの内容でなければ議論にもならない。「相手にされない理由が自分側にある」ことにさっさと気付いて、口をつぐむなり「ちゃんと考える」ことをやってみるなりすべきだ。
以前にも書いたことがあるけど、大学生時代に接点のあった新左翼に分類されるとある集団の人達は歴史や時事にも詳しく、知識欲の高さに正直驚かされたものだ。今思えば、彼らには彼らなりの覚悟みたいなものがあったのだろうと思う。思想に関する話は最初のやり取り、「興味ある?」「ありません」を最後に一切されることは無かった。「レッテル貼り」され得る立場を受け入れることは、それ自体が覚悟が要ることだと思う。さて、私や私の周辺に多かった「レッテル貼りとは無縁な、常識すら疑わずにいられない余りに自由すぎる軽い人間達」は彼らの目からはどのように見えていたのだろうか。
「沸点が低い」時点で自分は偽物だと認識すべきだ。どうせ覚悟は無いんでしょ?