最近とみに目つきが悪くなったなぁ・・・と思っていたら案の上、TV出演時の目つきが上手くないカットがネットで拡散中の青木某氏ですが、日刊ゲンダイの対談記事「二木啓孝の一服一話 排他と不寛容が広がっていく嫌な世の中」でやはり案の上の発言。
二木 なぜ、ネット社会でヘイトが目立つのでしょうか。
青木 (戦後の復興と高度成長で)アジアで群を抜いた先進国になっていた日本ですが、今では韓国にほぼ並ばれ、中国にはGDPで追い抜かれた。そういった国際情勢の中で国民に余裕がなくなっている。さらに新自由主義社会の中で格差が拡大し、持ってない人が虐げられている人を叩いて留飲を下げる。そういうことが複合的に出ていると思います。ネットはそうした言動が最も出やすいところですね。
二木 僕は団塊の世代だけど、かつては格差や矛盾があったら、怒りの矛先は上に向かったものです。ところが、小泉政権以降かな、弱者を踏みつけるようになった。
青木 ウンベルト・エーコ(イタリアの作家・哲学者)が指摘しているように、排他と不寛容は、どこの時代、どこの国にもある。それ自体は珍しいことではないですが、日本は確かに弱者に向かっている。やはり、周辺国に対して余裕がなくなったからでしょう。
テンプレ乙、当人達の余裕の無さが偲ばれます。それにあんな引用の仕方はウンベルト・エーコに土下座して謝罪すべき低レベルかと思いますね、とにかく低レベル。
「排他と不寛容は、どこの時代、どこの国にもある」という表現は一般論を述べているだけで、エーコの名前を引くまでも無い。「小説『薔薇の名前』の舞台が何故修道院なのか」、エーコの著作から読み取れる彼の思想の前提、或いは彼の持っていた問題意識を鑑みればそうそう外すことはないだろう。このような発言、或いは書き方はエーコの名前を使って一般論、或いは自分の単なる主張を権威づけようとするような愚劣さの表れにしか見えない。そもそもエーコをちゃんと読んでいるのか、とも勘繰りたくなる、背景、文脈、前提が全く違うでしょうに。(インターネットに関するインタビューを読むだけでそれは分かろうもの、WIRED日本語版のインタビュー紹介記事はこちら。)
「排他と不寛容は、どこの時代、どこの国にもある」という表現は一般論を述べているだけで、エーコの名前を引くまでも無い。「小説『薔薇の名前』の舞台が何故修道院なのか」、エーコの著作から読み取れる彼の思想の前提、或いは彼の持っていた問題意識を鑑みればそうそう外すことはないだろう。このような発言、或いは書き方はエーコの名前を使って一般論、或いは自分の単なる主張を権威づけようとするような愚劣さの表れにしか見えない。そもそもエーコをちゃんと読んでいるのか、とも勘繰りたくなる、背景、文脈、前提が全く違うでしょうに。(インターネットに関するインタビューを読むだけでそれは分かろうもの、WIRED日本語版のインタビュー紹介記事はこちら。)
表層的な理解で切り返せば、例えば土居健郎著 『「甘え」の構造』における「日本人の甘え」で私は「ネット上のヘイト(藁」を捉えますね。当然、ルース・ベネディクト著『菊と刀』も外せません。日本人のバランス感覚はある意味絶妙で、自らが社会的に甘え、依存することの代償として、他者の甘えにも寛容である傾向がある。ただし、他者に対するそれはあくまでバランス、総体的なものであって、ある一線(シン・レッド・ライン)を越えると突如として許容されなくなる。要は「他者のやり過ぎ」は「堪忍袋の緒が切れる」状態を引き起こすということで、実のところそれはネットに限らない。
件の様に適切な論展開もないまま「ヘイト(藁」と断言するする様は「レッテル貼り」、「思考停止」にしか見えないことに同様の言動を繰り返す人々は早く気がつかなきゃなんないと思います。本来あるべき姿のタグ付けがウェブ上で可能となり検索性が1ランク向上すれば、複製、拡散が容易な電子データ上での不用意な発言は命取りになるでしょうね、「あ、あの発言の人ね」でおしまい。他者の視点(視線ではない)獲得とも言える「察し」が無ければ「甘えに根ざした日本人社会」からは排除されざるを得ません。それは「察しの欠如自体」が「文化的に日本人とは言えない」とほぼ等価だからです。団塊世代に関する言及も笑止、彼らは「上に刃向かう俺カッコイイ!」と「上に刃向かう俺カッコイイ!とか馬鹿らしい、そういう奴らは何も見えてない」の2グループで大部分が形成されていますよ。大事なのは勝ったかどうか、「刃向かったけど負けた」なら「負けた」と明言するか、さもなくば何も語らない方がよっぽど潔いと思いますがね。時代と寝て騒いだだけなら尚更です。私の父に至っては「あいつらは何も見えてなかったね、まぁ、おかげで(大学の寮の)寮費を1年払わずに済んだよ」と、全くにべもない。
韓国社会にも甘えはあると言われますが、「察し」に相当する感性や「やり過ぎないというバランス感覚」とは無縁の様です。 「やり過ぎた」、或いは「やる事にセンスがない、面白くもなんともない」のは「察し」の欠如以外の何物でも無いというのが日本社会、特に後者に対してはとてつもなく辛い、のが日本人と言えます。対談ではサザンのお最近の事案を取り上げていますが、私の仲間内では「サザンは面白くない、センスがない」は1980年代からのお約束、別にあらためて叩くような話じゃありません(サザンに価値を見出さない人間に対するサザンファンの「苛烈なまでの不寛容さ」は30年来の謎だ)。更に言えば、広い意味での中国人、中共政府、広い意味での韓国人、韓国政府はきっちり分けられるのが日本人。韓国社会流の甘えは「一線を越えたが故」にもはやそれを「察した」日本人は無視しかしないでしょう。
「とにかくテンプレ乙、お前の言ってる事は意味が分からん。」、大抵の日本人はそうじゃありませんか?