2015/02/04

テンプレ乙!

 最近とみに目つきが悪くなったなぁ・・・と思っていたら案の上、TV出演時の目つきが上手くないカットがネットで拡散中の青木某氏ですが、日刊ゲンダイの対談記事「二木啓孝の一服一話 排他と不寛容が広がっていく嫌な世の中」でやはり案の上の発言。
二木 なぜ、ネット社会でヘイトが目立つのでしょうか。

青木 (戦後の復興と高度成長で)アジアで群を抜いた先進国になっていた日本ですが、今では韓国にほぼ並ばれ、中国にはGDPで追い抜かれた。そういった国際情勢の中で国民に余裕がなくなっている。さらに新自由主義社会の中で格差が拡大し、持ってない人が虐げられている人を叩いて留飲を下げる。そういうことが複合的に出ていると思います。ネットはそうした言動が最も出やすいところですね。 
二木 僕は団塊の世代だけど、かつては格差や矛盾があったら、怒りの矛先は上に向かったものです。ところが、小泉政権以降かな、弱者を踏みつけるようになった。

青木 ウンベルト・エーコ(イタリアの作家・哲学者)が指摘しているように、排他と不寛容は、どこの時代、どこの国にもある。それ自体は珍しいことではないですが、日本は確かに弱者に向かっている。やはり、周辺国に対して余裕がなくなったからでしょう。
テンプレ乙、当人達の余裕の無さが偲ばれます。それにあんな引用の仕方はウンベルト・エーコに土下座して謝罪すべき低レベルかと思いますね、とにかく低レベル。

 「排他と不寛容は、どこの時代、どこの国にもある」という表現は一般論を述べているだけで、エーコの名前を引くまでも無い。「小説『薔薇の名前』の舞台が何故修道院なのか」、エーコの著作から読み取れる彼の思想の前提、或いは彼の持っていた問題意識を鑑みればそうそう外すことはないだろう。このような発言、或いは書き方はエーコの名前を使って一般論、或いは自分の単なる主張を権威づけようとするような愚劣さの表れにしか見えない。そもそもエーコをちゃんと読んでいるのか、とも勘繰りたくなる、背景、文脈、前提が全く違うでしょうに。(インターネットに関するインタビューを読むだけでそれは分かろうもの、WIRED日本語版のインタビュー紹介記事はこちら。)

 表層的な理解で切り返せば、例えば土居健郎著 『「甘え」の構造』における「日本人の甘え」で私は「ネット上のヘイト(藁」を捉えますね。当然、ルース・ベネディクト著『菊と刀』も外せません。日本人のバランス感覚はある意味絶妙で、自らが社会的に甘え、依存することの代償として、他者の甘えにも寛容である傾向がある。ただし、他者に対するそれはあくまでバランス、総体的なものであって、ある一線(シン・レッド・ライン)を越えると突如として許容されなくなる。要は「他者のやり過ぎ」は「堪忍袋の緒が切れる」状態を引き起こすということで、実のところそれはネットに限らない。

 件の様に適切な論展開もないまま「ヘイト(藁」と断言するする様は「レッテル貼り」、「思考停止」にしか見えないことに同様の言動を繰り返す人々は早く気がつかなきゃなんないと思います。本来あるべき姿のタグ付けがウェブ上で可能となり検索性が1ランク向上すれば、複製、拡散が容易な電子データ上での不用意な発言は命取りになるでしょうね、「あ、あの発言の人ね」でおしまい。他者の視点(視線ではない)獲得とも言える「察し」が無ければ「甘えに根ざした日本人社会」からは排除されざるを得ません。それは「察しの欠如自体」が「文化的に日本人とは言えない」とほぼ等価だからです。団塊世代に関する言及も笑止、彼らは「上に刃向かう俺カッコイイ!」と「上に刃向かう俺カッコイイ!とか馬鹿らしい、そういう奴らは何も見えてない」の2グループで大部分が形成されていますよ。大事なのは勝ったかどうか、「刃向かったけど負けた」なら「負けた」と明言するか、さもなくば何も語らない方がよっぽど潔いと思いますがね。時代と寝て騒いだだけなら尚更です。私の父に至っては「あいつらは何も見えてなかったね、まぁ、おかげで(大学の寮の)寮費を1年払わずに済んだよ」と、全くにべもない。

 韓国社会にも甘えはあると言われますが、「察し」に相当する感性や「やり過ぎないというバランス感覚」とは無縁の様です。 「やり過ぎた」、或いは「やる事にセンスがない、面白くもなんともない」のは「察し」の欠如以外の何物でも無いというのが日本社会、特に後者に対してはとてつもなく辛い、のが日本人と言えます。対談ではサザンのお最近の事案を取り上げていますが、私の仲間内では「サザンは面白くない、センスがない」は1980年代からのお約束、別にあらためて叩くような話じゃありません(サザンに価値を見出さない人間に対するサザンファンの「苛烈なまでの不寛容さ」は30年来の謎だ)。更に言えば、広い意味での中国人、中共政府、広い意味での韓国人、韓国政府はきっちり分けられるのが日本人。韓国社会流の甘えは「一線を越えたが故」にもはやそれを「察した」日本人は無視しかしないでしょう。

 「とにかくテンプレ乙、お前の言ってる事は意味が分からん。」、大抵の日本人はそうじゃありませんか?

2015/02/03

奥さん、論文査読お願いします : 自分の場合

 投稿していた論文の査読結果が帰って来た。ざっくり「面白いけど良く分からない」というのが総論だ。

 要改善点の指摘はおおむね妥当だが、ほぼ50年にわたって説明が放棄され続けてきたところをあなたが説明せよ、と言う類のコメントは正直酷だ。一から始めるとそこだけで1本別の論文が書けてしまう、何と言っても大学ノート4冊分の式導出を踏まえた内容だからだ。どうコンパクトに纏めるかに現在頭を悩ませている。

 ちなみに「50年にわたって放置」の原因の一つは新しい代替技術の開発が進んだためだが、結局のところ、この代替技術も行き詰って久しい。古い技術と代替技術は実は相補的で、分かっている人が読めば代替技術の放置されている欠点、つまり行き詰りの原因、の一部が実にシンプルに解決できることが分かる筈だ。「何が保存されるか」が肝と言え、私の目指すところは(論文の内容とは裏腹に)代替技術の行き詰まり打破にある。

 これは!という論文の醍醐味は「私だけが分かっている」という点にある・・・と信じて気落ちせずに対応しましょう。

2015/02/02

チップチューン好きなら是非チェック

 チップチューンをざっくり説明すれば、ファミコン風といったローファイな音色、フォーマットを使った楽曲のこと。ここでフォーマットと言うのは、例えばゲーム機の「限られた同時発声数が少ない」故に生まれた編曲技法なんかが挙げられる。ただ音色をチープにすれば良いという訳ではないところがミソだ。日本だとソフト音源からビジュアルまで手掛けているユニット、YMCKがとっつき易さ(ポップさ)も含めて代表格なチップチューンアーティストなんじゃないかと思う。
 1980年代にMacintoshなどを使っていた人は分かると思うけど、コンピュータの「テキスト読み上げ」には当時はちょっと驚いたものだ。如何にも機械って感じの「しゃべり」は味と言うか癖があって、Youtubeなどであらためて聞くとローファイ感が半端無い。やっぱりと言うか、CHIPSPEECHという昔のコンピュータなどのテキスト読み上げ機能を再現したようなソフト音源がリリースされている。

 CHIPSPEECH自体もなかなか出来が良さそうなのだが、嬉しい事にCHIPSPEECHを使ったコンピレーションアルバム、"chipspeech AUTOMATE SONGS .01"がフリーダウンロード可能となっている。チップチューン好き、或いは興味を持った向きは是非チェックしてみよう。

2015/02/01

ISIS(ISIL)は正当なカリフ国家なのか、是非そこから始めないか。

お前たち愚かな有志連合は、われわれがアラーのご加護により、権威と力のあるイスラム教カリフ国家であり、お前たちの血を欲しがっている軍であることを理解できていない。
 安倍、勝ち目のない戦争に参加するというお前の無謀な決断のために、このナイフは後藤を殺すだけでなくお前の国民がどこにいようとも虐殺をもたらすだろう。日本の悪夢を今始めよう。
ISIS(ISIL)の日本へのメッセージとされる声明の時事通信社による翻訳文だ。個人的には突っ込みどころ満載で、客観性の乏しい主張を前提に後段の内容を正当化している様にしか読めない。突っ込むべきところを突っ込んでおかないと今後に禍根を残すし、ISIS(ISIL)側の仕掛けているプロパガンダ戦で守勢一方となる。

 本声明に代表されるISIS(ISIL)のプロパガンダの対象は、むしろISIS(ISIL)内部及び将来の構成員にある。「(ISISが)アラーのご加護により、権威と力のあるイスラム教カリフ国家」であるかどうか、この点についてはイスラム法学者も含めた議論を早急に進め、国際的なコンセンサスを確立、共有を進める必要がある。すくなくともISIS(ISIL)が「イスラム法に照らしてイスラム教カリフ国家と言えるか」、「イスラム法に照らしてISIS(ISIL)のカリフとされる人物が正統と言えるか」という点については、特に早急にコンセンサスを確立する必要がある。概して異端は異教よりも憎いものであり、異端とされることによる前提の破綻はISIS(ISIL)にとっては致命的と言える。

 TVに出演する「イスラム専門家」すら概してこの前提に触れない理由は理解する(イスラム教が主流の国家、地方をうっかりすると敵/味方の二分法で捉えることになるリスクがある)が、既存の一神教とは概して無縁な日本が「本件を契機に、ISIS(ISIL)の声明の最も基本的な点についてあらためて真面目に考えてみた」は可能であり、これは日本社会が持つアドバンテージ、一種のフリーハンドである筈である。声高に叫ぶのでなく、実を取るべく一貫性を持って狡猾に振る舞うべきである。本当の怒りと言うものは、不容易に他者には見せなくて良い。

2015/01/31

三谷幸喜氏の脚本は・・・

基本的に上手いし、目の付けどころとかは出色な物が多い。が、それがTVや映画向きかって言うと別の話、というのが従来までの結論だし、これからも良くも悪くも変わらないんじゃないかと思う。

 小ネタがその見つけ方から見せ方までは基本的に上手いのだが、小ネタを小ネタとして単独で提示することができない性分のように見える。所詮小ネタは小ネタに過ぎないので、うっかりオーラスへの伏線として取り込んでしまうと、オーラスが一気にこじんまりとしてしまう。

 三谷脚本作品にはこの種の「一見尻すぼみ」なものが多い、というか90%ぐらいがそう。残り10%は何かというと、視聴者、酷い場合は映像作品の監督すらおいてけぼりで、せっかくの面白い脚本が理解されないままで終る場合だ。後者は、近日公開予定の三谷脚本、或いは監督映画の宣伝TV特番でやってしまう事が多かったが、さすがにその辺りは本人ももう気づいていると思う。

 一般的な日本人は欧米のコメディ(或いはスケッチ)TV番組のフォーマットなんて知らないから、そのフォーマット有りきで書かれた脚本や映像作品は本質的に理解される道理が無い。十代前半でそこらへんが分かってしまった場合には「三谷すげー!!!(って分かる俺すげー!!!)」ってことになるのかもしれないが、歳をとってから分かる場合には「分かってない人間の評価が的外れ」となる事を予測してうんざりし、やっぱり的外れな評価が出てきて二度うんざりという目に合う事となる。本人が止めたのか、周りが止めているのかは分からないが、幸いにして最近はそれが無い。

 ところが監督作品となると小ネタを小ネタとして使うということをやってしまう。しかし、小ネタを小ネタとして使う事に慣れたいないためだろう、小ネタという事は観ていて分かるが「ほぼ」面白くない。じゃあ面白い場合は?と聞かれれば、映画的或いはTV的でない小ネタ、カメラアングルやカット割に頼らずとも成立する小ネタの場合はなかなか侮れない。小演劇場だと割れんばかりの大爆笑となる可能性が高い。

 そう、基本はやっぱり演劇の人なのだ。

 演劇場というのは特殊な空間だ。TVや映画では当たり前の「空間を切り取るフレーム」、カット割は存在しない。演者のみによる時間の制御は不可能であり、回想シーンに相当するような演出を成立させるためには実は観客の共犯関係が求められる。そして、観客は演劇が始まる前に劇場に入り、劇が終ってから劇場を後にするのが基本だ。これは、たまたま、途中から観始めた人も極力視聴者として取り込みたいTVプログラムとは本質的に異なる。またTVプログラムは「ながら観」も許容しないといけないので、伏線は伏線、小ネタは小ネタできっちり割り切った方が良い。結局、TVドラマシリーズでは「キャラクターの決め台詞などの特定のセリフの反復」ぐらいしか小ネタとしては使えない状況になって久しい。これは吉本新喜劇の芸人のお約束芸と同じようなものだ。

 三谷脚本にはフォーマット(見た目を含む形式、或いはコンセプト)へのこだわりを強く感じるが、使われるフォーマットは現行の日本のTVプログラムが獲得、マンネリ化させたものとは異なる。この点は実はとっても評価しているのだが、如何せん映像化の段階でそれがスポイルされることが多い。氏の脚本を嬉々として使う割には、NHKにその辺りが分かっている製作者が居る様にも思えない。一見「人形劇TVプログラム」との相性は良さそうにも思えるが、これまた如何せん、現在の人形劇TVプログラムのフォーマット(フレーム構成やカット割)はライブアクションのそれとほぼ同じになってしまっている。つまり、現行の人形劇のフォーマットは三谷脚本向きではない。

 だから三谷脚本は三谷氏が望むようなフォーマットで映像化すべきではない、と断言してしまおう。三谷氏が脚本の形で提示したフォーマットを「理解した」上で、マンネリ化した業界のフォーマットとも異なる別のフォーマットで映像化、提示すべきである。それをしない限り、面白い脚本は面白い脚本で終ってしまう。基本的に三谷脚本はフォーマット、或いはコンセプトが明確で、コンパクトに出来上がっていると思う。だから同じフォーマットの枠組み内であれこれ考えても、オリジナルの脚本よりも面白い脚本にできる人間はそうはいない(フォーマットと独立した小ネタは例外)。でなければ三谷氏には才能がないことになってしまうが、決してそんなことはないと思う。

 プランBは、三谷氏が既存のフォーマットを放棄し、自ら新しいフォーマットを提示することである。最適なフォーマットの選定と先鋭化に関する氏の才能にはほぼ疑問の余地はない。ただ裏返しとして、必要ないので新しいフォーマットは使わない、という姿勢をとっている様にも見える。「あ、アレね(あ、刑事コロンボね、とか、あ、サタデ―ナイトライブね、とか)」と誰からも言われない三谷脚本はまだ存在していないのではないかと疑う。

 プランCは、三谷氏が明確に既存フォーマットにこだわりつつ、脚本のコンパクトさを追求し、かつ脚本自体をきっちりと後世に残すことである。「隠し砦の三悪人」が「スターウォーズ」になるには、元ネタのコンパクトさ(無駄の無さ)とコンパクトさを追求した映像化、加えてそのコンパクトさを理解してより強靭な(弾力性に富む、本質的な)別フォーマット内に落とし込むことが出来た人間の存在が欠かせない。つまり、想定外の発生に備えておくべきかも、と言う事だ。

ロシア+恋のバカンス

 知ってる人は知っている、ザ・ピーナッツの楽曲「恋のバカンス」はロシアでは結構ポピュラー。ロシア版のタイトルは「海で、青い海で」ぐらいでしょうか。ま、ステージ演出は色々と微妙ですが…編曲はほぼオリジナルのままだったり、宮川泰氏の仕事偉大なり。ロシア語歌詞にもバリエーションがあるようです(空耳?)。

2015/01/30

"Porkchop 'n Flatscreen! "、面白いんだか面白くないんだか

 おそらくFlashを使ったアニメ、Emezie Okorafor氏の"Porkchop 'n Flatscreen! "が面白いんだか面白くないんだかさっぱり分からない。が、現時点で公開されている8エピソードを全部見てしまった、不覚。
Ninja Girl Mai is a girl that looks like a boy.
Ayane Shiun is chubby.
Bobby Sykes is an angel.
Mina Kim is a fujoshi.
And, Mouse is mouse.

忍者ガールの舞は男の子に見える女の子。
彩音・紫雲はぽっちゃり。
ボビー・サイクスは天使。
ミナ・キムは腐女子。
そして、マウスはマウス。
だそーです。舞は男の子っぷり、彩音はぽっちゃりっぷり、マウス(アフリカ系女性キャラ)は不思議チャンっぷりがそれぞれ容赦なく、「萌え」とかとは完全にベクトルの向きも長さも太さ(!)も違います。そういう観点からは日本人にはなかなか作れない方向性という気も。

 英語が分からなくても基本的にストーリー(?)は追えます。

 往年の米国TVコメディ番組「可愛い魔女ジニー」のオープニングアニメのダンスをまんまマウスがエンディングでパクってるところで個人的にはバカ受け。"Photoshop"のセリフは実生活でも使えるかも(嘘)。

 絵が上手いかと言うと決してそうは言えないんだけど、たいがい古い「可愛い魔女ジニー」とか「ごめん、ね:)」とか"Fujyoshi"とか"Yaoi"とか製作者は色々と詳しいご様子、小ネタ満載、ややゆっくり目のタイミング系、すかし系ギャグが基本です。

 エピソード1です。下ネタ系ギャグも含むので念の為。

空間線量率の日韓比較

 福島第一原子力発電所の事故を矮小化するつもりは毛頭ないけれど、被曝量に繋がる空間線量率は事故が起きた発電所付近を除くと常識的な値の範囲にある。ちなみに私は一応原子力工学に相当する学科で卒論を書いているので、放射線に関する最低限の教育は受けている。

 ネット上で「東京での被ばく量はソウルよりも高い」などといった記述を多々目にすることがある。しかし、私の古い記憶に基づけば決してそんなことは無い筈だ。所謂「自然放射線量」は地質の影響が大きく(要は足の下の岩盤が放射性物質を含んでいるかどうかということ)、一般的には日本列島よりも大陸の方が地質的には高くなり易い。とは言え件の事故もある、ということでちょいと放射線量のリアルタイムモニタリングでググッてみた。

 このページ、タイトルは「福島事故の影響」となっているが、住民の被ばく量という観点からは総じて韓国の方が日本より高い(同等~3倍)。茨城県では短時間、ピンポイントで空間線量が上昇することがあるが、大抵は雨中、雨後である。これは煙突などから大気に放出された気体状の短半減期放射性物質の一部が雨水と共に落下するためで、原子力研究施設の多い茨城県東海村などでたまに見られる傾向だ。気体状の放射性物質だから基本的に地表面には残ったり溜まったりはしない。従って、件の事故後に見られるようになった所謂「ホットスポット(高空間線量領域)」は形成されないので念の為。

 「東京での被ばく量はソウルよりも高い」、は少なくとも現時点ではダウト。

2015/01/28

中国アニメの「巴啦啦小魔仙」、変身シーン

 パクリだ何だと国内で話題になってるそうです。個人的には北京語(マンダリン)の響きが好きなのもあって、まぁ有りかなぁと。日本よりはキャラの両目の距離が微妙に広め?+眼鏡のせいか、一人目の変身前がけっこう中国人っぽく見えます。男性も含まれるって点は何気に日本と違います。

 もうどうせだったらプリキュアシリーズ映画の一環として日中合作映画でも作っちゃえば、とか。 「人民解放軍製作の妄想爆発トップガンもどき似非愛国映画」なんか作ってるよりもよっぽど生産的かと思うし、かなり遠回りだけど日本の安全保障にも寄与しそうです。

 何故安全保障かは長いので省略、っつーか中国人の知り合いが何人かいないと日本人には余り縁のない「個人主義に根ざす行動原理の機微とイデオロギーやドグマからの自由」は分からないと思います。要は個々人は完全に追い詰めず、相互に利益のある退路のみを明示的に残す事が重要という事です。ダブルスタンダードに見える中共人民の行動の裏には、程度の差は有れどもしたたかな計算があると見ておいた方が良いと思います。何せ言行の結果には、自らの生命と財産がかかってますから。「国を喰う」個人が現れ得るのが大陸、個人におけるダブルスタンダードの解消の行きつく先の一つの姿ではないでしょうか。

 あくまで経験に基づく主観ですけど、一方・・・の言行にはそのような計算は無い様にしか解せません。そこは本質的にレベルが違う、大陸人の言行の劣化コピー未満の何かに過ぎいないのでしょう。

2015/01/25

Megpoid English、YMOの「The Madmen」カバー

 「おらといっしょにぱらいそさいくだ!」 ぼりぼり

 楽曲の元ネタというかインスパイア元は諸星大二郎氏のマンガ「マッドメン」とか。ちなみに冒頭のセリフ(うろ覚え)は同氏の別の作品(「生命の木」)からで、私の世代の伝奇マンガ好きなら必ず知っていなきゃならなかったセリフですね、あとヒルコの鳴き声とか。