全くノーチェックだった映画"EUROPA REPORT"のトレーラーが公開に。カット切り替え時に「でーーーん」って音を入れるのは最近のトレーラーでは定番、観てる方は飽きちゃうよね。
近未来、リアル指向のSci-Fiとのこと。タイトル中の「エウロパ」は木星の衛星のひとつ。表面を覆う氷の下には海があると考えられており、太陽系内で地球以外に生命が発生するならばまずエウロパだろうとの見解を持つ人は少なくない。
トレーラーでは、人類初の有人エウロパ探査機「エウロパ・ワン」の打ち上げから船内の様子、エウロパ表面やエウロパの海中から見上げた氷原などのカットを見ることができる。最後付近の処理はリアリスティックなそれまでのカットとは少しちぐはぐなホラータッチだが、やや似た構造の「プロメテウス」のトレーラーと較べても、こっちの方が面白そう。
とはいえ、トレーラー中で使われているモニタリングカメラの映像を本編でどの程度用いているのかは気になる。別エントリで書いた通り、カットのリアリスティック感をこの種の映像に頼る作りだと、映画体験としての面白みには欠ける可能性があるからだ。
"3D"との表記が出てこないのは好感。TVで観た「バイオハザード/アフターライフ」が余りに「映画ではない」ことに実は驚かされたのだが、冷静に観てみるとカメラアングルやカット割り、音響効果や視覚効果に至るまでが「3Dに奉仕させられている」様が露わでガックリしてしまった。「映画たらしめん」とする意思と行動が作り手側にないと、3Dはすぐにアトラクション映像になってしまうということかな?
まぁ、観てちょ。
2013/06/03
2013/06/01 CBCラジオ×U-strip夜用スーパー「電磁マシマシ」
ゲームの音楽にはとんと疎いので、今回のゲストのお二人、来兎氏と山岡晃氏については全くの予備知識なし。どんな感じになるかと思えば、お二方ともお話が面白い!充実の2時間ですよ、U-stripライブを視聴しててほんとに良かった。
とても名古屋のタクシー運転手さん達向けのAM放送の内容じゃない。パーソナリティの佐野電磁氏、ディレクターらスタッフ一同を称賛すべきなのか、や、どうなのよ!って話ですよ。初の配信フル参加で私の「奇妙な喪失感」もあっさり発動。名古屋に土曜日に出張したもののラジオを持ってくるのを忘れ、仕方ないので9:00PMごろにタクシー捕まえて「2時間、適当に流してくれ。ラジオはCBCで頼む。」とか、さらっと変な妄想。タグも追加。
来兎氏は沖縄在住のゲーム音楽作曲家とのことだが、そもそもトラック自体をクライアントに納入する訳だから、編曲、音色編集/選択、音声/MIDIデータ編集、ミキシングほかもやってることになる。肩書きと実態との乖離が激しいのはフリーランスのプロでは良くあることだが、実態に即した相応しい肩書を誰か思いついてくれないものか。
来兎氏のお話は、ゲーム製作に関わる同人活動から現在に至る経緯、パッケージが凄すぎる「もえちん(萌えるちんすこう)」への関わりなど多岐にわたり、ステムミックス、とろ美氏、ベーマガ(Basicマガジン)、Basicのmusic文、SHARP mz-1500、クイックディスク、NEC PC-88、カモンミュージックなどの濃いキーワードが飛び交う展開。
某学会の大会を沖縄でやってくんないかのぅ、「もえちん」買ってくるから。あ、ひらがな4文字なのな、やっぱり。
ちなみに「ステムミックス」は言葉は知っていたが、実際にどういう形態なのかが分かったのはちょっとした収穫。ステムミックスというのは、クライアントに音楽を納入する際にドラム、ベース、メロディなど個別のパートを独立した音声トラックデータとしておくことらしい。いったんステレオなり5.1チャンネルなりでミックスしてしまった音声トラックデータだけを納入した場合、「ここではドラムパートだけ使いたい。」といった時にクライアント側では対応できないからだという。「クライアントは神様です。」というのは悲しいかな事実ではあるのだが、ステムミックスを納入した場合は、作った人間の意図しない使われ方をされる可能性もあるということだ。
Stemは名詞としては「茎」、動詞としては「茎を接ぐ」或いは全く逆の「茎を取り去る」という意味がある(動詞の場合の両者の意味は目的格の前置詞で決まる)。ざっくり「剪定」「草刈り」或いは「枝葉を取り去る」というニュアンスで捉えれば、ステムミックスとは特定のパートのミックスのみを取りだしてきたものと解釈するのではなく、特定のパートだけとなるように完成品のミックスからそれ以外のパートを取り除いたものと解釈すべきなのかも知れない。まぁ結果は一緒なんだけど、この種のニュアンスを曖昧にしない癖を付けておくと、外国語の学習は少しは楽になるよ、実際。
閑話休題。
面白かったと書きながら、来兎氏のパートの話の中身に踏み込めないのには理由がある。二人目のゲストである山岡氏のお話がさらに面白かった、というか、どう言や良いんだ?
山岡晃氏はPSゲーム「サイレントヒル」の音楽、効果音などサウンド全般に関与、続編へ進むにつれて肩書きはプロデュース寄りに変わりながら、実態はよりゲームの具体的中身に関与を深めていったということらしい。来兎氏に輪をかけて肩書き不明、挙句にはパーソナリティの佐野電磁氏から「『人間』・山岡晃氏をゲストに迎えてお送りしております。」と紹介されることになるのだが、それもむべなるかな。
「誰でもフェラーリが買える」(実際の話ではピンク色のランボルギーニ・ガヤルド?のオープンカー)の話は触りの触りということと、この話の大枠は自分も20年以上前からやってることにほぼ等しいので置いておくとして、UnityやUnreal(ともに3Dゲームエンジン兼ゲーム製作ツール)を触るのが大好きだとか、コード(和音)名や楽譜も読めないのに作る音楽のレベルや完成度の高さが半端無いとか、「サイレントヒル」の関わっていたころは1日20時間働いていて「時給はマクドナルド(のバイト)より安かったんじゃないか。」とか、とにかくデキる人が大抵二つぐらい備えている資質や有り様を五つも六つも備えている「ある種トンデモない人」であることが良く分かった。
「え、未だにそんなことやってンですか?」という佐野氏の問いにさくっと「だって、楽しいじゃん。」って返せる辺り、私の目指してる有り様がそのまま目の前のPC画面内で展開されてるのは、いやはや、愉快を通り越してただただ驚愕するのみである。お話の内容についてはキーワードぐらいは書けるけど、とても文章では伝えられない濃さと痛快さ、本ブログなんかでは絶対伝えられないのでそれに挑みもしませんよ。
一つだけ山岡氏の発言に触れておくと、「グラフィッカーなので、4、5分の音楽は絵みたいに捉えられる。」とのこと。一種の可視化、見える化であって、言葉(音楽では楽譜が相当するのだろう、少なくともクラシカルは。)に頼らないが故に全体と部分を一気に把握、理解できるということだろう。加えてのポイントは、頭の中に既にあるものを我々が聞くことができるサウンドの形に落とし組む作業を「楽しむ」ことが当たり前にできるところだろう。
デキる人の一部は、頭で分かった時点で当人にとっては終わってしまい、具体的な出力は面倒臭がってやらないことがままある。そういう人といっしょに働いていると、そりゃ聞き上手になっちゃいますよ。気持ち良く出力させることさえできれば周囲も本人も幸せですからね。そういう観点から見れば、山岡氏はまさに生き物でありながら価値発信装置、価値を生み出すだけではなくそれを周囲に送出し続ける(しかも本人は楽しい)というやっぱりトンデモない人としか思えないのだ。
来週のU-strip配信も楽しみですなぁ。
とても名古屋のタクシー運転手さん達向けのAM放送の内容じゃない。パーソナリティの佐野電磁氏、ディレクターらスタッフ一同を称賛すべきなのか、や、どうなのよ!って話ですよ。初の配信フル参加で私の「奇妙な喪失感」もあっさり発動。名古屋に土曜日に出張したもののラジオを持ってくるのを忘れ、仕方ないので9:00PMごろにタクシー捕まえて「2時間、適当に流してくれ。ラジオはCBCで頼む。」とか、さらっと変な妄想。タグも追加。
来兎氏は沖縄在住のゲーム音楽作曲家とのことだが、そもそもトラック自体をクライアントに納入する訳だから、編曲、音色編集/選択、音声/MIDIデータ編集、ミキシングほかもやってることになる。肩書きと実態との乖離が激しいのはフリーランスのプロでは良くあることだが、実態に即した相応しい肩書を誰か思いついてくれないものか。
来兎氏のお話は、ゲーム製作に関わる同人活動から現在に至る経緯、パッケージが凄すぎる「もえちん(萌えるちんすこう)」への関わりなど多岐にわたり、ステムミックス、とろ美氏、ベーマガ(Basicマガジン)、Basicのmusic文、SHARP mz-1500、クイックディスク、NEC PC-88、カモンミュージックなどの濃いキーワードが飛び交う展開。
某学会の大会を沖縄でやってくんないかのぅ、「もえちん」買ってくるから。あ、ひらがな4文字なのな、やっぱり。
ちなみに「ステムミックス」は言葉は知っていたが、実際にどういう形態なのかが分かったのはちょっとした収穫。ステムミックスというのは、クライアントに音楽を納入する際にドラム、ベース、メロディなど個別のパートを独立した音声トラックデータとしておくことらしい。いったんステレオなり5.1チャンネルなりでミックスしてしまった音声トラックデータだけを納入した場合、「ここではドラムパートだけ使いたい。」といった時にクライアント側では対応できないからだという。「クライアントは神様です。」というのは悲しいかな事実ではあるのだが、ステムミックスを納入した場合は、作った人間の意図しない使われ方をされる可能性もあるということだ。
Stemは名詞としては「茎」、動詞としては「茎を接ぐ」或いは全く逆の「茎を取り去る」という意味がある(動詞の場合の両者の意味は目的格の前置詞で決まる)。ざっくり「剪定」「草刈り」或いは「枝葉を取り去る」というニュアンスで捉えれば、ステムミックスとは特定のパートのミックスのみを取りだしてきたものと解釈するのではなく、特定のパートだけとなるように完成品のミックスからそれ以外のパートを取り除いたものと解釈すべきなのかも知れない。まぁ結果は一緒なんだけど、この種のニュアンスを曖昧にしない癖を付けておくと、外国語の学習は少しは楽になるよ、実際。
閑話休題。
面白かったと書きながら、来兎氏のパートの話の中身に踏み込めないのには理由がある。二人目のゲストである山岡氏のお話がさらに面白かった、というか、どう言や良いんだ?
山岡晃氏はPSゲーム「サイレントヒル」の音楽、効果音などサウンド全般に関与、続編へ進むにつれて肩書きはプロデュース寄りに変わりながら、実態はよりゲームの具体的中身に関与を深めていったということらしい。来兎氏に輪をかけて肩書き不明、挙句にはパーソナリティの佐野電磁氏から「『人間』・山岡晃氏をゲストに迎えてお送りしております。」と紹介されることになるのだが、それもむべなるかな。
「誰でもフェラーリが買える」(実際の話ではピンク色のランボルギーニ・ガヤルド?のオープンカー)の話は触りの触りということと、この話の大枠は自分も20年以上前からやってることにほぼ等しいので置いておくとして、UnityやUnreal(ともに3Dゲームエンジン兼ゲーム製作ツール)を触るのが大好きだとか、コード(和音)名や楽譜も読めないのに作る音楽のレベルや完成度の高さが半端無いとか、「サイレントヒル」の関わっていたころは1日20時間働いていて「時給はマクドナルド(のバイト)より安かったんじゃないか。」とか、とにかくデキる人が大抵二つぐらい備えている資質や有り様を五つも六つも備えている「ある種トンデモない人」であることが良く分かった。
「え、未だにそんなことやってンですか?」という佐野氏の問いにさくっと「だって、楽しいじゃん。」って返せる辺り、私の目指してる有り様がそのまま目の前のPC画面内で展開されてるのは、いやはや、愉快を通り越してただただ驚愕するのみである。お話の内容についてはキーワードぐらいは書けるけど、とても文章では伝えられない濃さと痛快さ、本ブログなんかでは絶対伝えられないのでそれに挑みもしませんよ。
一つだけ山岡氏の発言に触れておくと、「グラフィッカーなので、4、5分の音楽は絵みたいに捉えられる。」とのこと。一種の可視化、見える化であって、言葉(音楽では楽譜が相当するのだろう、少なくともクラシカルは。)に頼らないが故に全体と部分を一気に把握、理解できるということだろう。加えてのポイントは、頭の中に既にあるものを我々が聞くことができるサウンドの形に落とし組む作業を「楽しむ」ことが当たり前にできるところだろう。
デキる人の一部は、頭で分かった時点で当人にとっては終わってしまい、具体的な出力は面倒臭がってやらないことがままある。そういう人といっしょに働いていると、そりゃ聞き上手になっちゃいますよ。気持ち良く出力させることさえできれば周囲も本人も幸せですからね。そういう観点から見れば、山岡氏はまさに生き物でありながら価値発信装置、価値を生み出すだけではなくそれを周囲に送出し続ける(しかも本人は楽しい)というやっぱりトンデモない人としか思えないのだ。
来週のU-strip配信も楽しみですなぁ。
2013/06/02
「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.5でましたね。
内容盛りだくさん+新たな伏線張りに終始する感じで、Vol.3や4みたいにダレたところがなく、全体としては好印象。総統暗殺事件はやっぱりやったか。
森雪とユリーシャの関係性に関わる伏線は基本的に回収され、森雪の「こころ」については回収不要となった。とはいえ雪の記憶喪失はそのままだから、まだ一波乱あるかも知れないっちゃ知れない。全体としては妥当な落とし所と言えるが、「あの状況」を「憑依」なんて超常現象的なニュアンスの言葉で止めてしまうシナリオにはやはり疑問を呈せざるを得ない。要は自分の周りで同じようなことがあった時、「あ、憑依だったんですかぁ、そうかぁ!」なんて合点してくれる人なんていますかね、「憑依」状態の人の話を信用する人なんていますかね、という話。
第14話の「魔女はささやく」を踏まえれば何らかの説明は可能であり、(新見情報長があの状態なので)真田副長なりがもっともらしいことを言っても良い気がする。つまり「憑依」という表現で止めているのはあくまで製作者達であり、これまでのエントリでも書いたことがあるように2199の世界観に寄りそう(登場人物達の視点に立つ)ならば説明にまで踏み込むのが正解だ。2199の「作品として」の座りの悪さ、一種の「出来そこない感」は、そういう小さな踏み込みの欠如の積み重ねに起因するところ大やに思う。他方、デスラーが自分の暗殺計画を何処から知ったかなんてのは余りに明白なのに関わらず、セリフできっちり説明してしまうバランスの悪さ、ちぐはぐ感には、世界観に対する大局的な視点の欠如を感じずにはいられない。デスラーならいかにも「何でもお見通しだよ、バカ共め」って態度で「バカ」にわざわざ説明なんてしないんじゃないかな。
ちなみに「憑依時の岬にはアホ毛が無い」というのも有りかと思ったが、あの一房ははたして「アホ毛」に分類できるものなのか、もし「アホ毛」だとしても絵面からは分かんないよなぁ…。
艦長室に置かれた「罪と罰」の本、中原中也氏の詩の引用などは、誰の趣味なのか知らないが、きっちり描かれたり語られたりと描写は極めて饒舌である。本来は作品にとって或いは世界観にとっての狭雑物に過ぎないものの描写の饒舌さは、先に述べた踏み込みの無さとは対照的で、さらにちぐはぐ感の原因となる。
個人的には「罪と罰」の引用の理由は全く理解できず、中原中也氏の詩の引用も不快だ。まるで小学校か中学校の国語の試験問題の如く、おそらく先に進んでも薄っぺらい解釈しか出てこないのではとの危惧すら持つ。かつて自著「火垂るの墓」が入試問題に使われた際、野坂昭如氏は「正解とされる文章」の内容に対して異を唱えたことがある。まぁTV出演時などの印象から野坂氏の述べたことが本心であると考えること自体がナイーブに過ぎるとは分かっているが、「正解とされる文章」の内容の平板さ、薄っぺらさに比べれば何倍もの説得力があった。いかにも試験問題の正解っぽい「戦争がどうのこうの…」とう文章を全否定、「(当時は)とにかく何か腹いっぱい食いたいとしか考えていなかった。」といった趣旨の発言をされたのだよ、野坂氏は。この話を知ってしまうと、映画「火垂るの墓」の(以下自己検閲)
「罪と罰」は好きな小説であり、思うところは多々ある。映画「ローレライ」での引用でもちょっと困ってしまったが、こちらでは特定の登場人部の心情乃至は信条の吐露としての機能が優先であり、観客が「罪と罰」を読んでおく必要は要求されない(「罪と罰」を引き合いに出す必然性があったかは、登場人物の背景描写として機能するかどうかだけの問題である)。2199での「罪と罰」の本の位置付けはどのようなところにあるのか?読んでいて、かつ好きだと明言している私の視点からは解が見いだせない。
詩を引用して、その内容に何らかの作品上の意味付けを行うのは危険である。特定の詩に対する個人の好き嫌いは小説よりも顕著であり、私はと言えば中原中也氏の作品は15歳ぐらいまでで平板でつまらないものと化してしまった。詳細は省こう。
念押ししておくけれども、中原氏の詩の引用を否と言いたい訳ではない。引用を介して古代守-真田-新見の過去を上手く劇作に取りこんでいると思う。が、本来作り込むべき描写をおろそかにしながら、引用そのものの描写が突出して饒舌なところがアンバランスだと言いたいのである。「記憶の森から」といった感傷的とも言えるサブタイトルも含めて捉えると、私の思うところのアンバランスさに製作者達は頓着していないように感じてしまう。「本気」の結果としてアンバランスなものを作っているならば、それは作り手側の自己満足の結果に過ぎず、作品自体や視聴者は基本的においてけぼりと言える。
以前から何度か書いているように、演出や劇作の構造が論理よりも感性に偏り過ぎている印象は変わらない。「理詰めじゃヤマトなんて作れない。」と言う方もおられると思うが、この場合は「なら、作るな!」とはっきり言ってしまおう。それが出来る人達がやらないと、単なるおちゃらけ、ファンムービーに堕してしまうのだ。
ここでまたまた念押しなのだが、私は「科学考証や設定」に対して論理性を与えよ、とは一言も言っていない。論理性が与えられるべきは「物語」であり、大局的見地からの一貫性を物語に付与せよ、と言っているのである。そもそも物語性を意思を持って明示的に放棄しているエヴァならいざ知らず(作られる度に語られる物語が変わる、或いは様々な物語が何度も繰り返されるという構造にする。明確なラストの提示を保留しているので一貫性のある物語を論理的に構築できないが、それ故に論理的帰結としてラストを回避し続ける繰り返し構造を選択せざるを得ない。)、ヤマトでは「一貫性を持つ物語」を語ることをやらなきゃ駄目だろうと。
オリジナルを代表する脚本家である藤川桂介氏のシナリオ集などを読んでみよう。それが「格」かどうかはここでは言明しないが、明らかに質の違いがある。Battlestar Galacticaが主要シナリオライターの変更後に人気急降下、というのは海外の友人達の話からもほぼ間違いない事実なのだが、シナリオライターの変更がもたらしたのは明らかに「論理性の喪失に伴う物語性の消失」である。「論理性を排した」が故に破綻が見えないだけであって、状況は「論理性を維持することができなくなった」よりも酷い状態になった、別の言い方をすれば「低レベルな状態」になった、というだけに過ぎない。シナリオライター変更の理由は十中八九製作費カットで、ライターの質が下がったのだから当然といったところなのだろう。視聴者はそんな「質」に対して実に敏感なんですよ、実際。
細かいところでは三段(四段?)空母にアングルドデッキ(米国ニミッツ級空母のように、船の進行方向から左斜め前向きに設けられているデッキ)が付いているの所には笑ってしまった。オリジナルのヤマトの世界観では艦船のデザインモチーフの多くは第二次世界大戦中の兵器から採られている。そのため、大戦時にはまだ生まれていないアングルドデッキはオリジナルには出てきようがない。
ドメル艦とヤマトとの接触、ゼロ距離射撃の一連のシーンはちょっと良かった。広大な三次元空間でそれが起っちゃうって辺りはまさにヤマトと言える。他方、重力アンカーのあの使い方は波動砲を使うと分かった時点で読めてしまって(と言うか、アンカーを上手く使うなら今ですよ、と作り手気分で思ってしまった)ちょっと楽しみ損ねたところはありました、はい。
あ、「イスカンダル」のメロディーモチーフを2199ではこういうところで使うのね。
森雪とユリーシャの関係性に関わる伏線は基本的に回収され、森雪の「こころ」については回収不要となった。とはいえ雪の記憶喪失はそのままだから、まだ一波乱あるかも知れないっちゃ知れない。全体としては妥当な落とし所と言えるが、「あの状況」を「憑依」なんて超常現象的なニュアンスの言葉で止めてしまうシナリオにはやはり疑問を呈せざるを得ない。要は自分の周りで同じようなことがあった時、「あ、憑依だったんですかぁ、そうかぁ!」なんて合点してくれる人なんていますかね、「憑依」状態の人の話を信用する人なんていますかね、という話。
第14話の「魔女はささやく」を踏まえれば何らかの説明は可能であり、(新見情報長があの状態なので)真田副長なりがもっともらしいことを言っても良い気がする。つまり「憑依」という表現で止めているのはあくまで製作者達であり、これまでのエントリでも書いたことがあるように2199の世界観に寄りそう(登場人物達の視点に立つ)ならば説明にまで踏み込むのが正解だ。2199の「作品として」の座りの悪さ、一種の「出来そこない感」は、そういう小さな踏み込みの欠如の積み重ねに起因するところ大やに思う。他方、デスラーが自分の暗殺計画を何処から知ったかなんてのは余りに明白なのに関わらず、セリフできっちり説明してしまうバランスの悪さ、ちぐはぐ感には、世界観に対する大局的な視点の欠如を感じずにはいられない。デスラーならいかにも「何でもお見通しだよ、バカ共め」って態度で「バカ」にわざわざ説明なんてしないんじゃないかな。
ちなみに「憑依時の岬にはアホ毛が無い」というのも有りかと思ったが、あの一房ははたして「アホ毛」に分類できるものなのか、もし「アホ毛」だとしても絵面からは分かんないよなぁ…。
艦長室に置かれた「罪と罰」の本、中原中也氏の詩の引用などは、誰の趣味なのか知らないが、きっちり描かれたり語られたりと描写は極めて饒舌である。本来は作品にとって或いは世界観にとっての狭雑物に過ぎないものの描写の饒舌さは、先に述べた踏み込みの無さとは対照的で、さらにちぐはぐ感の原因となる。
個人的には「罪と罰」の引用の理由は全く理解できず、中原中也氏の詩の引用も不快だ。まるで小学校か中学校の国語の試験問題の如く、おそらく先に進んでも薄っぺらい解釈しか出てこないのではとの危惧すら持つ。かつて自著「火垂るの墓」が入試問題に使われた際、野坂昭如氏は「正解とされる文章」の内容に対して異を唱えたことがある。まぁTV出演時などの印象から野坂氏の述べたことが本心であると考えること自体がナイーブに過ぎるとは分かっているが、「正解とされる文章」の内容の平板さ、薄っぺらさに比べれば何倍もの説得力があった。いかにも試験問題の正解っぽい「戦争がどうのこうの…」とう文章を全否定、「(当時は)とにかく何か腹いっぱい食いたいとしか考えていなかった。」といった趣旨の発言をされたのだよ、野坂氏は。この話を知ってしまうと、映画「火垂るの墓」の(以下自己検閲)
「罪と罰」は好きな小説であり、思うところは多々ある。映画「ローレライ」での引用でもちょっと困ってしまったが、こちらでは特定の登場人部の心情乃至は信条の吐露としての機能が優先であり、観客が「罪と罰」を読んでおく必要は要求されない(「罪と罰」を引き合いに出す必然性があったかは、登場人物の背景描写として機能するかどうかだけの問題である)。2199での「罪と罰」の本の位置付けはどのようなところにあるのか?読んでいて、かつ好きだと明言している私の視点からは解が見いだせない。
詩を引用して、その内容に何らかの作品上の意味付けを行うのは危険である。特定の詩に対する個人の好き嫌いは小説よりも顕著であり、私はと言えば中原中也氏の作品は15歳ぐらいまでで平板でつまらないものと化してしまった。詳細は省こう。
念押ししておくけれども、中原氏の詩の引用を否と言いたい訳ではない。引用を介して古代守-真田-新見の過去を上手く劇作に取りこんでいると思う。が、本来作り込むべき描写をおろそかにしながら、引用そのものの描写が突出して饒舌なところがアンバランスだと言いたいのである。「記憶の森から」といった感傷的とも言えるサブタイトルも含めて捉えると、私の思うところのアンバランスさに製作者達は頓着していないように感じてしまう。「本気」の結果としてアンバランスなものを作っているならば、それは作り手側の自己満足の結果に過ぎず、作品自体や視聴者は基本的においてけぼりと言える。
以前から何度か書いているように、演出や劇作の構造が論理よりも感性に偏り過ぎている印象は変わらない。「理詰めじゃヤマトなんて作れない。」と言う方もおられると思うが、この場合は「なら、作るな!」とはっきり言ってしまおう。それが出来る人達がやらないと、単なるおちゃらけ、ファンムービーに堕してしまうのだ。
ここでまたまた念押しなのだが、私は「科学考証や設定」に対して論理性を与えよ、とは一言も言っていない。論理性が与えられるべきは「物語」であり、大局的見地からの一貫性を物語に付与せよ、と言っているのである。そもそも物語性を意思を持って明示的に放棄しているエヴァならいざ知らず(作られる度に語られる物語が変わる、或いは様々な物語が何度も繰り返されるという構造にする。明確なラストの提示を保留しているので一貫性のある物語を論理的に構築できないが、それ故に論理的帰結としてラストを回避し続ける繰り返し構造を選択せざるを得ない。)、ヤマトでは「一貫性を持つ物語」を語ることをやらなきゃ駄目だろうと。
オリジナルを代表する脚本家である藤川桂介氏のシナリオ集などを読んでみよう。それが「格」かどうかはここでは言明しないが、明らかに質の違いがある。Battlestar Galacticaが主要シナリオライターの変更後に人気急降下、というのは海外の友人達の話からもほぼ間違いない事実なのだが、シナリオライターの変更がもたらしたのは明らかに「論理性の喪失に伴う物語性の消失」である。「論理性を排した」が故に破綻が見えないだけであって、状況は「論理性を維持することができなくなった」よりも酷い状態になった、別の言い方をすれば「低レベルな状態」になった、というだけに過ぎない。シナリオライター変更の理由は十中八九製作費カットで、ライターの質が下がったのだから当然といったところなのだろう。視聴者はそんな「質」に対して実に敏感なんですよ、実際。
細かいところでは三段(四段?)空母にアングルドデッキ(米国ニミッツ級空母のように、船の進行方向から左斜め前向きに設けられているデッキ)が付いているの所には笑ってしまった。オリジナルのヤマトの世界観では艦船のデザインモチーフの多くは第二次世界大戦中の兵器から採られている。そのため、大戦時にはまだ生まれていないアングルドデッキはオリジナルには出てきようがない。
ドメル艦とヤマトとの接触、ゼロ距離射撃の一連のシーンはちょっと良かった。広大な三次元空間でそれが起っちゃうって辺りはまさにヤマトと言える。他方、重力アンカーのあの使い方は波動砲を使うと分かった時点で読めてしまって(と言うか、アンカーを上手く使うなら今ですよ、と作り手気分で思ってしまった)ちょっと楽しみ損ねたところはありました、はい。
あ、「イスカンダル」のメロディーモチーフを2199ではこういうところで使うのね。
2013/05/29
シナプスの爆発をキャッチせよ!の巻
今回は、本ブログのエントリの中でも屈指の下らなさを保証しよう。
佐野電磁さんのラジオ番組「電磁マシマシ」のエンディングテーマ曲であるところの「Dear Radio」をその一部を聞いただけでiTunesですかさず購入しちゃったよ、と言うのは以前のエントリに書いた通り。曲単位で購入ができること、CDという実体を部屋に持ち込まなくても済むことなどがiTunesの利点だが、他方、映画の字幕と並ぶ日本の良き伝統と言える実体物「歌詞カード」は入手できない。
文部省唱歌ですら聞き違えをやってしまう「空耳」な私としては、「Dear Radio」の歌詞の聞き取りが難事業となるのは至極まっとうな流れ。とはいえ、標準語を解する今を生きる日本人としては、「歌詞聞き取りに挫折しました。」と白旗を上げるというのも悔しい話。かつて「言語破壊者」とまで呼ばれ、友人間だけで通じる造語を大増産していた言葉にこだわりのある人間としては、歌詞は充分に味わう価値のある言葉の連なりなのである。
ちなみに、もしエロ同人誌を指す言葉としてかつて使われていた「面妖本」という表現の発祥が1985年ごろの福岡、かつ、某大学のアニ研ならば、最初に使用したのは私ということになりますよ。なお、私はアニ研に属したことはありません。
おっと軌道修正。
さて、件の歌詞の聞き取りは予想通り難航し、何回聞いても2か所がどうもしっくりこない。要はどう考えても「空耳」としか思えないのだ。具体的には下記のような具合だ。
「空耳」の結果に発想が縛られていることが、聞き取りの進展を妨げている原因の一つであることは明らかだ。それ以外にも不要な予備知識や思い込みにより発想が制限されている可能性もある。このような場合は意図的に自分の思考過程の「タガ」を外すしかない。幸いにして本日は出張だったので、帰りの列車の乗車時間である約1時間半をそれに当てることとした。
今回の具体的な手順は下記の通りだ。仕事でアイディアが行き詰ったときの発想転換に良く使っている手法の応用である。
まず、背景情報を整理する。ここで重要なのは、整理すべきは事実のみとし、「空耳」の結果の如き事実とは無関係な情報は意図的に排除することである。整理した具体的な事実は下記の3点だ。
次いで、おもむろにiPodで楽曲をリピート再生し、ただ無心に「閃き」、或いは「シナプスの爆発」を待つ。再生5回目ぐらいまではつい言葉を聞きにいってしまったが、やがて「聞こえたものに対する自分の脳の反応」が感じられるようになってくる。爆発はリピート10回目ほどで立て続けに起こった。「悟り」の瞬間、と言っても良いかもしれない。結果は以下の通りだ。
「PM9:00」が実は曲者だ。一般的な、或いは英語での使用方法は「9:00PM」だからだ。このような知識は「PM9:00」という聞き取りを明らかに阻害する。実際、「PM」→「11PM」→「明日は東京、日本テレビ。」という連想がデフォルトとして刷り込まれているのが60年代生まれの悲しさだ。
今回は本当にどうでも良い話でしたね。
佐野電磁さんのラジオ番組「電磁マシマシ」のエンディングテーマ曲であるところの「Dear Radio」をその一部を聞いただけでiTunesですかさず購入しちゃったよ、と言うのは以前のエントリに書いた通り。曲単位で購入ができること、CDという実体を部屋に持ち込まなくても済むことなどがiTunesの利点だが、他方、映画の字幕と並ぶ日本の良き伝統と言える実体物「歌詞カード」は入手できない。
文部省唱歌ですら聞き違えをやってしまう「空耳」な私としては、「Dear Radio」の歌詞の聞き取りが難事業となるのは至極まっとうな流れ。とはいえ、標準語を解する今を生きる日本人としては、「歌詞聞き取りに挫折しました。」と白旗を上げるというのも悔しい話。かつて「言語破壊者」とまで呼ばれ、友人間だけで通じる造語を大増産していた言葉にこだわりのある人間としては、歌詞は充分に味わう価値のある言葉の連なりなのである。
ちなみに、もしエロ同人誌を指す言葉としてかつて使われていた「面妖本」という表現の発祥が1985年ごろの福岡、かつ、某大学のアニ研ならば、最初に使用したのは私ということになりますよ。なお、私はアニ研に属したことはありません。
おっと軌道修正。
さて、件の歌詞の聞き取りは予想通り難航し、何回聞いても2か所がどうもしっくりこない。要はどう考えても「空耳」としか思えないのだ。具体的には下記のような具合だ。
- 「約束はいつも言えない」「約束はいつも見えない」
- 「心を素通り」「心を素通し」「心をスローに」「心をスローリー」
「空耳」の結果に発想が縛られていることが、聞き取りの進展を妨げている原因の一つであることは明らかだ。それ以外にも不要な予備知識や思い込みにより発想が制限されている可能性もある。このような場合は意図的に自分の思考過程の「タガ」を外すしかない。幸いにして本日は出張だったので、帰りの列車の乗車時間である約1時間半をそれに当てることとした。
今回の具体的な手順は下記の通りだ。仕事でアイディアが行き詰ったときの発想転換に良く使っている手法の応用である。
まず、背景情報を整理する。ここで重要なのは、整理すべきは事実のみとし、「空耳」の結果の如き事実とは無関係な情報は意図的に排除することである。整理した具体的な事実は下記の3点だ。
- 件のラジオ番組の終了時刻(11:30、イレブン・サーティ)は歌詞に織り込まれている。
- 件のラジオ番組の開始時刻は午後9:00である。
- 件のラジオ番組はUSTでライブ配信されている。
次いで、おもむろにiPodで楽曲をリピート再生し、ただ無心に「閃き」、或いは「シナプスの爆発」を待つ。再生5回目ぐらいまではつい言葉を聞きにいってしまったが、やがて「聞こえたものに対する自分の脳の反応」が感じられるようになってくる。爆発はリピート10回目ほどで立て続けに起こった。「悟り」の瞬間、と言っても良いかもしれない。結果は以下の通りだ。
- 約束はいつもPM9:00(ピーエムナーイ(ン))
- 心をstreaming(ストリーミン(グ))
「PM9:00」が実は曲者だ。一般的な、或いは英語での使用方法は「9:00PM」だからだ。このような知識は「PM9:00」という聞き取りを明らかに阻害する。実際、「PM」→「11PM」→「明日は東京、日本テレビ。」という連想がデフォルトとして刷り込まれているのが60年代生まれの悲しさだ。
今回は本当にどうでも良い話でしたね。
2013/05/27
ボーカロイドとその周辺で思うこと。
最近はすっかりDAW(Digital Audio Workstation)アプリばっかりいじっていて、しかも作っているのはボーカロイド用オケばかりというヘンさ加減。さすがに打ち止め感(ネタ切れ感)が出てきても良さそうだが、どっこいそうはいかない。愛用のiPod Touchには既に1万2千曲以上入っているし、PCのハードディスクにはそれらの3倍を超える数の楽曲データが格納されている。CDやレコードの置き場所に困っても、ネタには困らないのだ。
ボーカロイド曲を作るにしても、オリジナルソングであれば救いがある。が、少なくとも作曲の才能が無いことは大学生のころに確信してしまったし、カバーなりでいじってみたい曲にはことかかない。オリジナル用のネタはこつこつ貯めているが、曲としてまとめるというのは結構エネルギーの要る作業なので病気の身ではまだ辛い。良い歳したオヤジがおバカな感じのポップスをやろうとすれば、自分を一旦捨てるぐらいにはっちゃける必要があるのだよ。
さて、「ボーカロイド」の登場は、20年以上にわたってリスナーに徹していた自分を「曲を組む作業」に再帰させる重要なきっかけだった。ただし、「ボーカロイド」そのもの以外には全く興味がない。最初に購入した「ボーカロイド」はSONiKA(英語)で、まず歌わせたのはKraftwerkの"The Robot"のカバーだった。歌詞の出だしはこうである。
"We are codes and libraries, and we are installed on PCs."
「私達は規則とライブラリ(の集まり)、私達はPCにインストールされる。」
つまり、個々のボーカロイドに「見た目などのキャラクター性を付与する」こと自体を心底小馬鹿にしているのである。商売としては間違いなく正解だが、付与されたものは私にとって何の価値もない。金銭を対価に自分のPCにインストールしたソフトウェアに過ぎない。
ちなみにとある外国の方から面白いメールがあった。メールの送り主は、「ボーカロイドって何だ?日本の新しいアニメか?それともゲームか?キャラがいっぱいいるが一貫性はないみたいなんだが…」といった質問を何人もの知り合いから受けて閉口していたという。そこで私の"The Robot"のカバーの歌詞を印刷して読ませたりメールで送ったりして説明したところ、高確率ですんなりと「あぁ、PCアプリソフトなのね。」と納得してくれるそうな。実にイイ話じゃないですか。
前置きが長くなったが、エントリタイトルの通り、思うところを書いておこう。
ボーカロイド曲を作るにしても、オリジナルソングであれば救いがある。が、少なくとも作曲の才能が無いことは大学生のころに確信してしまったし、カバーなりでいじってみたい曲にはことかかない。オリジナル用のネタはこつこつ貯めているが、曲としてまとめるというのは結構エネルギーの要る作業なので病気の身ではまだ辛い。良い歳したオヤジがおバカな感じのポップスをやろうとすれば、自分を一旦捨てるぐらいにはっちゃける必要があるのだよ。
さて、「ボーカロイド」の登場は、20年以上にわたってリスナーに徹していた自分を「曲を組む作業」に再帰させる重要なきっかけだった。ただし、「ボーカロイド」そのもの以外には全く興味がない。最初に購入した「ボーカロイド」はSONiKA(英語)で、まず歌わせたのはKraftwerkの"The Robot"のカバーだった。歌詞の出だしはこうである。
"We are codes and libraries, and we are installed on PCs."
「私達は規則とライブラリ(の集まり)、私達はPCにインストールされる。」
つまり、個々のボーカロイドに「見た目などのキャラクター性を付与する」こと自体を心底小馬鹿にしているのである。商売としては間違いなく正解だが、付与されたものは私にとって何の価値もない。金銭を対価に自分のPCにインストールしたソフトウェアに過ぎない。
ちなみにとある外国の方から面白いメールがあった。メールの送り主は、「ボーカロイドって何だ?日本の新しいアニメか?それともゲームか?キャラがいっぱいいるが一貫性はないみたいなんだが…」といった質問を何人もの知り合いから受けて閉口していたという。そこで私の"The Robot"のカバーの歌詞を印刷して読ませたりメールで送ったりして説明したところ、高確率ですんなりと「あぁ、PCアプリソフトなのね。」と納得してくれるそうな。実にイイ話じゃないですか。
前置きが長くなったが、エントリタイトルの通り、思うところを書いておこう。
- 「ボーカロイド」の登場は、「純粋な」人声合成を諦めた結果やに見ゆる。
「ボーカロイド」は実在する人間の発声から抽出した音素データをライブラリとして用い、与えられた入力に対して音素データを加工、連結しているに過ぎない。声を声たらしめているフォルマント特性の生成は陽には為されていないのである。出力データが不自然に聞こえる場合は、結局フォルマントの時間変化が経験則とマッチしていないという場合が多い。 - 純粋にフォルマント特性を合成できるならば世界中の言語で使われている母音が再現可能であり、特定の言語(すなわち限定されたフォルマント特性或いは母音しか用いない)に使用が限定される必然性はない。
現存する言語の中にあって、日本語は最も母音が少ない(あ行の5つ)部類に入り、外国語習得のひとつの障壁となっているやに思われる。経験的に、日本語で使われない子音(残念、母音ではない)でも聞き分けることが出来るようになれば、発音もできるようになる。
「純粋な」人声合成技術は、言語教育に大きなインパクトを与えるかもしない。赤ん坊が言語を習得する過程で、「耳」或いは人声を処理する脳機能は周囲から聞こえる人声に最適化されることは否めない。このような時期に日本語に無い様々な母音も聞かせておけば、赤ん坊の「耳」は日本語に無い母音も認識できるようになる可能性が高い。
ここで「日本語に無い母音」の意味は、複数の母音が日本語では区別されないで用いられるということである。学校の英語の授業で「『え』の口で『あ』と発音する」とか習わなかったろうか?英語には「あ」と「え」の間にあるフォルマント特性に対応した母音があるということである。日本語に最適化された「耳」では、一般的にその母音は「あ」か「え」のどちらかでしか認識されない。
しかし、更に母音の数が増えるとそうもいかない。幾つかの北欧の言語は母音が10以上あり、「あ」と「え」の間に3つ以上の母音がある場合もある。北欧の歌曲を聞いたとき、歌詞をカタカナですら置き下せないことを当たり前に経験する。これは、聞き手が母音を見つけることすら失敗しているということだ。ただ、この失敗はむしろポジティブに捉えるべきだ。少なくとも「日本語では使わない母音である」ことは認識できているからだ。
言語習得の基本はやはり「ものまね」、「耳を作っておく」ことの重要性は高い。実績が確認できれば国策として制度化、義務化しても良いぐらいだ。もしそうなったら、カタカナでは書けない新しい擬音(オノマトペ)がたくさん生まれるだろう。 - 編集できるパラメータの名称とその大まかな機能が、MIDI規格(電子音楽機器の制御のための通信規格)で定義されている送信可能なパラメータと同じとなっている。
これを単に仕様と見なすか否かは重要だ。
個人的には、このようなパラメータを人声合成に適用する事自体が直観に反している。つまり、これらパラメータの選択は音素データ合成というボーカロイドの仕組みの自由度を下げ、本来持ち得る機能をも封じているのではないかと思う。百歩譲ってもアフタータッチがない、エクスプレッションもない、ヴェロシティはMIDIデータにおけるそれとは別物など、欲求不満と混乱しか引き起こしていない。 - 個人的な趣味から言えばエディターの完成度の低さはバージョン3でも噴飯もので、反応の遅さ、ダサいデザイン、論理的とは思えないメニュー構成など不満点にはきりがない。いわゆる打ちこみによる音楽データの編集は逐次的なデータ入力とリアルタイム再生を交互に行うものであり、ボーカロイドデータの編集はまさにこれにあたる。20GB近くのデータを扱いながら操作の切り替えにタイムラグを感じさせないDAWソフトウェアが実際にある以上、ボーカロイドエディターのレスポンスの悪さはどうしても目立つ。
- 「ボカリス(Vocaloid Listener)」自体の存在意義は何処にあるのか?分析する歌唱データがあるなら、それ自体使えば良いだけの話で、ボーカロイドの出番は本来無い筈だ。
2013/05/20
Madalena / Kaleido+ファミコン風味 ボーカロイド用試作オケ
Madalenaは名曲なのだが、いかんせん歌詞はブラジル-ポルトガル語。英語ボーカロイドでは直球勝負は出来ませぬ。オケの出来については0号ゆえ、ということで。耳コピ基本で4か所ほどコードが決め切れずにごにょごにょとした処理のままですが、いったんさらしておきます。
大人の事情対策で「さとうささら」さん(CeVIO Creative Studio FREE)に再びご登場願っております。
Kaleidoオリジナルの別バージョン。
音はわやくちゃだけど、参考にしたバージョンに近いもの。
忘れちゃいけない、Elis Reginaのオリジナル。こんな表現力はボーカロイドにはそうそう期待できないよね。ちなみに日本語ウィキでは「ブラジルポルトガル語での発音表記に準じるとエリス・ヘジーナ」なんて書いてあるけど、英語ウィキ記載の発音記号に基づけば「エリス・レジ―ナ」にやはり近い。「rr」みたいにrが二つ並ぶと、日本語の「ハ」に近い発音となるのは確かなんだけどね。
はたしてお気に入りは見つかるかしらん。
コード進行やコードの刻み方は、実はブラジル・コンテンポラリー・ミュージック(どっかで見たことあるけどどういう意味?)では比較的スタンダードなもの、海も渡ってますよ。この曲を初めて聞いたときはまず笑っちゃったけどね。
大人の事情対策で「さとうささら」さん(CeVIO Creative Studio FREE)に再びご登場願っております。
Kaleidoオリジナルの別バージョン。
音はわやくちゃだけど、参考にしたバージョンに近いもの。
忘れちゃいけない、Elis Reginaのオリジナル。こんな表現力はボーカロイドにはそうそう期待できないよね。ちなみに日本語ウィキでは「ブラジルポルトガル語での発音表記に準じるとエリス・ヘジーナ」なんて書いてあるけど、英語ウィキ記載の発音記号に基づけば「エリス・レジ―ナ」にやはり近い。「rr」みたいにrが二つ並ぶと、日本語の「ハ」に近い発音となるのは確かなんだけどね。
はたしてお気に入りは見つかるかしらん。
コード進行やコードの刻み方は、実はブラジル・コンテンポラリー・ミュージック(どっかで見たことあるけどどういう意味?)では比較的スタンダードなもの、海も渡ってますよ。この曲を初めて聞いたときはまず笑っちゃったけどね。
2013/05/19
CBCラジオ×U-strip夜用スーパー『電磁マシマシ』ですか!
音楽データいじってるときは当然BGMはないし、3DCGモデリングのときは集中力確保のため耳になじんだ曲をiTunesでリピートしてBGMにしている。そういう訳で、ラジオなんて先の震災時以外は聞いていない(5日ぶりに電気が来た時には、ローカル放送をUSTREAMで聞きましたが…)。
DTMマガジンのサイトでエントリタイトルの佐野電磁氏の番組について触れていたので、さっそくUSTREAMのページに飛んだところ、これが見事にツボ。ツボですよ。
「過去のライブ」をざっと飛ばし飛ばし再生していると、拾うフレーズのひとつひとつにガツンガツン引っかかる。「カウベルの呪縛(笑)(文脈は違うが…)」「来週のゲストはサエキけんぞうさんで~」「えっ、Bar(バー、音楽における小節)単位でコピーできんの?」「アカイの…」「コルグの…」「もーほー?もほー?(シンセサイザー"Mopho"こと)」「ニューウエーブってのは…」etc etc。
世代的に「カウベル」はつい使っちゃう(笑)。←私にとっての文脈
とりあえずエンドテーマ曲の「Dear Radio」をiTunesで購入しちゃいましたよ。あぁ、このベースやリズムの音色というか波形はほぼ同世代としてはアリだよねぇ。今週は「過去のライブ」だけでお腹いっぱいになりそうだなぁ。
次回はコルグからゲスト! なぬぅ!
DTMマガジンのサイトでエントリタイトルの佐野電磁氏の番組について触れていたので、さっそくUSTREAMのページに飛んだところ、これが見事にツボ。ツボですよ。
「過去のライブ」をざっと飛ばし飛ばし再生していると、拾うフレーズのひとつひとつにガツンガツン引っかかる。「カウベルの呪縛(笑)(文脈は違うが…)」「来週のゲストはサエキけんぞうさんで~」「えっ、Bar(バー、音楽における小節)単位でコピーできんの?」「アカイの…」「コルグの…」「もーほー?もほー?(シンセサイザー"Mopho"こと)」「ニューウエーブってのは…」etc etc。
世代的に「カウベル」はつい使っちゃう(笑)。←私にとっての文脈
とりあえずエンドテーマ曲の「Dear Radio」をiTunesで購入しちゃいましたよ。あぁ、このベースやリズムの音色というか波形はほぼ同世代としてはアリだよねぇ。今週は「過去のライブ」だけでお腹いっぱいになりそうだなぁ。
次回はコルグからゲスト! なぬぅ!
2013/05/17
佇む人。
最近仕事が忙しくて帰宅時間が遅いせいか、帰宅途中の車窓から「佇む人」を見る機会が増えた。「佇む人」とは、道端の電柱や信号の脇などに居て、というか、居ないんだけど見える人のことである。
経験値も上がっているから、うっかり見かけてもさらりと無視できるように今やなっている。うっかり目があったりしても、軽く目礼してやはりさらりと流す。ここで反応を間違えると厄介なことになる可能性がある。寝てる布団の上に乗られたり、夜中にふと目が覚めたら目の前に覗きこむ顔があったりする経験はもう願い下げだ。
今住んでいるアパートの間取りは、部屋内の風の流れ方、窓の向きとそれらの組み合わせなどを勘案したうえで選んだというのは真面目な話だ。「通り過ぎる人」も結構厄介なのである。中途半端に風水やお経の知識があったりするのは、それらが平穏な生活のために必要だからだと言いきってしまおう。
幸いにして、今回はオチはありません。
経験値も上がっているから、うっかり見かけてもさらりと無視できるように今やなっている。うっかり目があったりしても、軽く目礼してやはりさらりと流す。ここで反応を間違えると厄介なことになる可能性がある。寝てる布団の上に乗られたり、夜中にふと目が覚めたら目の前に覗きこむ顔があったりする経験はもう願い下げだ。
今住んでいるアパートの間取りは、部屋内の風の流れ方、窓の向きとそれらの組み合わせなどを勘案したうえで選んだというのは真面目な話だ。「通り過ぎる人」も結構厄介なのである。中途半端に風水やお経の知識があったりするのは、それらが平穏な生活のために必要だからだと言いきってしまおう。
幸いにして、今回はオチはありません。
2013/05/16
「喪失感」と「ビューティフルドリーマー」、「Thatness and Thereness」
今回は完全に個人的な話。
私の好きな映画「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」と好きな楽曲「Thatness and Thereness」は個人的に奇妙な「喪失感」と不可分だ。
「うる星2」は高校生の時分にリアルタイムに劇場で観た。夢邪鬼が「終わらない夢があってもエーんとちゃいまっか」とあたるに語るシーンで、劇場で泣いてしまったことを告白しよう。泣いてしまった理由は簡単、「自分の高校生生活もやがて終わってしまうのだ」ということを図らずも自覚してしまったからだ。同時に、「今観ている映画もやがて終わるのだ」ということも自覚してしまったからだ。その感覚は実際に失ってしまう前に感じた奇妙な「喪失感」だ。まさに「諸行無常」、どんなに望んでも楽しい時間は永遠に続かない。
映画館で過す時間は楽しいものだ。他方、自分の高校生時代が楽しい時間だったかは今でも判断を保留せざるを得ない。試験の多い高校だったので、とにかく試験勉強と部活でいっぱいいっぱいだったこと、そしてやがて失われてしまったことは確かだ。ちなみに、当時は「ドラマ編」なる映画の音声のみを収めたLPレコードがあり、勉強のBGMとして何回も聞いているうちにメガネの有名なモノローグを完全に覚えてしまった。
「うる星2」が面白い映画か、という判断も保留せざるを得ない。今でも客観性を持てないからだ。言えることは、「星勝氏の音楽は素晴らしい仕事」、「原作者の不興をかったらしい、という点はむしろ評価ポイント」といったところだ。「うる星やつら」の世界観を突き放したように見えて、その世界観の強靭さに頼らないと成立しないギリギリのところでのストーリー展開。そのバランスを絶妙と見るか、たまたまと見るか、それほどまでに「うる星やつら」の世界観が強靭と見るか。
いずれにしてもタイトルはエンディングで現れる。それに気付いた瞬間、「この映画もやがて終わる」という私が上映中に感じた「喪失感」は完全に行き場所を失ってしまった。DVDで何度か見直したが、その「喪失感」の行き場所はまだ見つけられずにいる。
「Thatness and Thereness」は大学生になってから、「AVガーデン」という深夜番組でたまたま流れたのが出会いだ。とにかく気になった。当時は歌詞の内容も背景も知らなかったが、曲自体に「喪失感」を強く感じた。
「Thatness and Thereness」の歌詞は、坂本龍一氏自身の学生運動の経験を反映したものだという。坂本氏にとって、学生運動の終焉が「喪失感」を伴うものだったかどうかは分からない。しかし、本楽曲から私が感じるのは一種の「喪失感」、そして「勝ち/負け、成功/失敗といった結果が保留された状態が維持されている」という感覚だ。後者の感覚は、まるで人が走り出した一瞬を捉えたセピア色の写真にでも例えられよう。古くて、止まっているような動いているような、が、絶対動きださない。
映画「うる星2」のエンディングが、映画が終わっても劇中人物とってのストーリーはまだ続くこと、つまり「うる星2」は終わらないことをまるで示唆したかのように、楽曲「Thatness and Thereness」のリズムは何処から始まって何処で終わるのか時々分からなくなる。「終わらないこと」に気付く前に感じてしまった「終わることを自覚することで生まれた奇妙な喪失感」は、20年以上の時を経ても変わらない。今の自分の一部は「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」と「Thatness and Thereness」からできているんじゃないかとすら思う。
私の好きな映画「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」と好きな楽曲「Thatness and Thereness」は個人的に奇妙な「喪失感」と不可分だ。
「うる星2」は高校生の時分にリアルタイムに劇場で観た。夢邪鬼が「終わらない夢があってもエーんとちゃいまっか」とあたるに語るシーンで、劇場で泣いてしまったことを告白しよう。泣いてしまった理由は簡単、「自分の高校生生活もやがて終わってしまうのだ」ということを図らずも自覚してしまったからだ。同時に、「今観ている映画もやがて終わるのだ」ということも自覚してしまったからだ。その感覚は実際に失ってしまう前に感じた奇妙な「喪失感」だ。まさに「諸行無常」、どんなに望んでも楽しい時間は永遠に続かない。
映画館で過す時間は楽しいものだ。他方、自分の高校生時代が楽しい時間だったかは今でも判断を保留せざるを得ない。試験の多い高校だったので、とにかく試験勉強と部活でいっぱいいっぱいだったこと、そしてやがて失われてしまったことは確かだ。ちなみに、当時は「ドラマ編」なる映画の音声のみを収めたLPレコードがあり、勉強のBGMとして何回も聞いているうちにメガネの有名なモノローグを完全に覚えてしまった。
「うる星2」が面白い映画か、という判断も保留せざるを得ない。今でも客観性を持てないからだ。言えることは、「星勝氏の音楽は素晴らしい仕事」、「原作者の不興をかったらしい、という点はむしろ評価ポイント」といったところだ。「うる星やつら」の世界観を突き放したように見えて、その世界観の強靭さに頼らないと成立しないギリギリのところでのストーリー展開。そのバランスを絶妙と見るか、たまたまと見るか、それほどまでに「うる星やつら」の世界観が強靭と見るか。
いずれにしてもタイトルはエンディングで現れる。それに気付いた瞬間、「この映画もやがて終わる」という私が上映中に感じた「喪失感」は完全に行き場所を失ってしまった。DVDで何度か見直したが、その「喪失感」の行き場所はまだ見つけられずにいる。
「Thatness and Thereness」は大学生になってから、「AVガーデン」という深夜番組でたまたま流れたのが出会いだ。とにかく気になった。当時は歌詞の内容も背景も知らなかったが、曲自体に「喪失感」を強く感じた。
「Thatness and Thereness」の歌詞は、坂本龍一氏自身の学生運動の経験を反映したものだという。坂本氏にとって、学生運動の終焉が「喪失感」を伴うものだったかどうかは分からない。しかし、本楽曲から私が感じるのは一種の「喪失感」、そして「勝ち/負け、成功/失敗といった結果が保留された状態が維持されている」という感覚だ。後者の感覚は、まるで人が走り出した一瞬を捉えたセピア色の写真にでも例えられよう。古くて、止まっているような動いているような、が、絶対動きださない。
映画「うる星2」のエンディングが、映画が終わっても劇中人物とってのストーリーはまだ続くこと、つまり「うる星2」は終わらないことをまるで示唆したかのように、楽曲「Thatness and Thereness」のリズムは何処から始まって何処で終わるのか時々分からなくなる。「終わらないこと」に気付く前に感じてしまった「終わることを自覚することで生まれた奇妙な喪失感」は、20年以上の時を経ても変わらない。今の自分の一部は「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」と「Thatness and Thereness」からできているんじゃないかとすら思う。
2013/05/12
今秋公開予定の映画「キャプテン・ハーロック」について雑感
敢えて触れずにきたネタだが、思うところだけは書いといた方が健康には良い。「実際に公開されたら出来が良かった」、なんてうれしい誤算な展開はエニタイム・ウェルカムなので念の為。
「作品に対して何か語るのは実際にその作品を観てから」が個人的なルール、今回は投資リスク的な観点で思うところ。要は監督、脚本家である。
私個人は"APPLESEED"、"EX MACHINA"、"STARSHIP TROOPERS: INVASION"を全く評価していない。興行的にも決して成功したとは言えない筈だ。ハリウッドでは3作もコケればもはやメガホンは握れないと聞く。これは監督に興行的観点からもプロフェッショナルであることを要求する風土と、監督予備軍の層の厚さという少なくとも二つの要素を念頭に置いて理解する必要がある。
個人的意見としては、荒牧伸志氏は監督として一度干され、本作は別の人間が監督すべきだったと思う。別の人間が「今」思いつけないなら作らない(企画として温存する)事自体が投資となる可能性すらある。私が投資側なら、「今の」荒牧伸志氏にはこのレベルの大きな投資は絶対しない。もし荒牧氏が諸般の権利関係を処理して
「本家"Genesis Climber MOSPEADA"ってやつを見せてやるぜ!(ホントは海外では"ROBOTECH"って呼んじゃうけどさ:P)」
なんてことを言い出したら、1/3ぐらいの額は出しちゃうかもしれない。カッコ内書きの海外での取り扱いも重要な要素である。この場合の投資はむしろその次の作品への投資のための繋ぎ料であり、「自分に投資する価値あり」とあらためて示す機会の提供である。それでもコケればホントの終わりである。
脚本家でクレジットされている福井晴敏氏はマンガやアニメに理解があり、ハズしてこない所は評価されるべきだが、出来上がりに対してまだ定評があるわけではない。
自作小説の映画化作品「ローレライ」「亡国のイージス」の出来も踏まえたうえで、どういう姿勢で本作に臨んでいるのか、作品の出来はそのあたりも問われることになるはずである。自作の映画化作品が口を出してもああだったのか、全部投げ渡してああだったのか、寡聞にして私は知らないが、本作では原作者が別にいる映画の脚本である。自作の映画化とは全く逆の立場に立っていることにどのくらい自覚的かは気になるところ。
余談ながら、アルカディア号の船首にはいわゆる髑髏のマークがあしらわれているが、トレーラーでみる限り、安物の金属アクセサリにありがちな最も下品な方向性での造形が為されているやに見ゆる。このような造形を選ぶ人間とは絶対話が合わないなぁ、と心から思う。つまり、この造形を選んだ映画製作サイドの人間はもとより、劇中のハーロックともきっと私は友達になれないのだろう。
いやぁ、あの造形は本当にセンスないと思うよ。
「作品に対して何か語るのは実際にその作品を観てから」が個人的なルール、今回は投資リスク的な観点で思うところ。要は監督、脚本家である。
私個人は"APPLESEED"、"EX MACHINA"、"STARSHIP TROOPERS: INVASION"を全く評価していない。興行的にも決して成功したとは言えない筈だ。ハリウッドでは3作もコケればもはやメガホンは握れないと聞く。これは監督に興行的観点からもプロフェッショナルであることを要求する風土と、監督予備軍の層の厚さという少なくとも二つの要素を念頭に置いて理解する必要がある。
個人的意見としては、荒牧伸志氏は監督として一度干され、本作は別の人間が監督すべきだったと思う。別の人間が「今」思いつけないなら作らない(企画として温存する)事自体が投資となる可能性すらある。私が投資側なら、「今の」荒牧伸志氏にはこのレベルの大きな投資は絶対しない。もし荒牧氏が諸般の権利関係を処理して
「本家"Genesis Climber MOSPEADA"ってやつを見せてやるぜ!(ホントは海外では"ROBOTECH"って呼んじゃうけどさ:P)」
なんてことを言い出したら、1/3ぐらいの額は出しちゃうかもしれない。カッコ内書きの海外での取り扱いも重要な要素である。この場合の投資はむしろその次の作品への投資のための繋ぎ料であり、「自分に投資する価値あり」とあらためて示す機会の提供である。それでもコケればホントの終わりである。
脚本家でクレジットされている福井晴敏氏はマンガやアニメに理解があり、ハズしてこない所は評価されるべきだが、出来上がりに対してまだ定評があるわけではない。
自作小説の映画化作品「ローレライ」「亡国のイージス」の出来も踏まえたうえで、どういう姿勢で本作に臨んでいるのか、作品の出来はそのあたりも問われることになるはずである。自作の映画化作品が口を出してもああだったのか、全部投げ渡してああだったのか、寡聞にして私は知らないが、本作では原作者が別にいる映画の脚本である。自作の映画化とは全く逆の立場に立っていることにどのくらい自覚的かは気になるところ。
余談ながら、アルカディア号の船首にはいわゆる髑髏のマークがあしらわれているが、トレーラーでみる限り、安物の金属アクセサリにありがちな最も下品な方向性での造形が為されているやに見ゆる。このような造形を選ぶ人間とは絶対話が合わないなぁ、と心から思う。つまり、この造形を選んだ映画製作サイドの人間はもとより、劇中のハーロックともきっと私は友達になれないのだろう。
いやぁ、あの造形は本当にセンスないと思うよ。
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