2021/05/19

6/1からのYouTube利用規約更新に対する危惧

 いや、マジな話。つい最近発表された「6/1からのYouTubeの利用規約更新」の内容の一部が議論を呼んでいるみたい、と言うか、この種の文章の常として具体性を欠きぎみの文章に対して憶測が止まない、と言ったところだろうか。[追記(2021/5/20)] 米国では先行適用されているみたいですね。でも「ゆっくり」を例に挙げるまでも無く、日本のYouTubeの「文化」には多くの固有性があるのも事実。[追記ここまで]

 YouTubeの規約ページからコピーしてきた問題の部分は以下の通りだ。日本語訳は私によることは留意されたい。

You grant to YouTube the right to monetize your Content on the Service (and such monetization may include displaying ads on or within Content or charging users a fee for access). This Agreement does not entitle you to any payments.

YouTubeサービス[原文は "the Service"]上のあなたのコンテンツを収益化する権利を、あなたはYouTubeに対して与えるものとします。(そしてそのような収益化では、広告をコンテント内やコンテント上に表示する場合や、ユーザーにコンテントへのアクセス料を課す場合があります。)この契約は、あなたに支払いを受ける権利を与えるものではありません。

 まず最初の一文は書きっぷりは結構具体的なので内容は明確だろう。2番目のカッコ内の文章も具体的と言えば具体的なのだが、"may"や"or"の使用のせいで具体的な収益化手法についてはYouTube側にほぼ無制限のフリーハンドを与えている。最後の文章の意味は単純で、所謂「パートナープログラム」などを介して収益をYouTubeと分け合うことにしている以外のコンテンツ制作者には、どれだけ彼らのコンテンツからYouTubeが収益を得ても一銭も払わないよ、と書いてある。

 さて、私のように収益化を考えるどころか視聴者がいなくても良いよと本気で考えているYouTubeチャンネル所有者は、営利企業であるYouTubeにとっては自社インフラに寄生するフリーライダーに過ぎない。そんな存在に対して自社インフラの利用を許すことは、皮肉無しで何とも慈悲深いことだとは思う。だが、90年代のハッカー文化に接し、その観点からプラットフォーマーとしてのこれまでのYouTubeのあり方を「良し」としてきた身としては思いは複雑だ。そして、とっても大きな別の危惧がある。

 私にとっての「良し」とは何だったか。将来のクリエイターにとって理想的なプラットフォームの一つの形は、無料または低価格で利用でき、制限が極力少ないことだ。少なくとも2、3年前までのYouTubeはそんなプラットフォームだった。

 JASRACとの包括契約は、少なくとも国内においては、カバー曲のアップロードに関わる権利問題を実効的にクリアにした。そうすることで弾いてみたネタやボーカロイドカバー楽曲のアップロードが可能となった。ただし収益化は不可能、YouTubeからJASRACへの支払いは生じるので、基本的にYouTube側に旨味は無い(動画の右下にカバーの原曲の小さなバナー広告が表示されていた時代もあったが)。

 収益化も「パートナープログラム」を介した形とし、クリエーター自体や彼らの創作物に対するリスペクトを感じさせる流儀を採用した。実態のほどは別にして、「クリエーターとは共存共栄、ここで生まれ、育ち、成功してください。そして商業的に成功した際には得た利益の一部を分けてください」と言うようなマインド、或いはマインドの欠片を感じさせてくれていた。ただ繰り返すが、この2、3年、「パートナープログラム」の成功以降は微妙にYouTubeの姿勢は変わってきた。

 実のところ、経済的視点からは「可能ならば私のコンテンツを収益化し、収益をYouTubeが全て持っていってくれて構わない」と言うのが私の考えだ。真面目な話、私のチャンネルには再生回数が1.7M回以上の動画が1本あるのだが(関連エントリ)、私は言わずもがなYouTubeはその動画自体からは1セントも収益を得ていない。ピーク時には2、3再生/秒を数日続けていたから、この動画再生のためだけにYouTubeが使った電力も馬鹿になるまい。儲けてもらって構わない。

 だが、この動画の収益化には解決しなけらばならない問題がある。登場物の意匠や楽曲の使用に関わるややこしい権利問題だ。典型的な逆パターンが「ゆっくり音声+フリーor自作立ち絵+魔王魂さん+いらすとやさん(10枚以内)によるコンテンツ」と言えよう。

 ここまで来れば、「YouTube上の全てのコンテンツの収益化」の現実性はほぼ権利問題に依存することが分かるだろう。もう一歩踏み込めば、「収益化に解決すべき権利問題が存在するコンテンツ」はYouTubeにとって経済的価値が無いどころか、不良資産として悪目立ちしかねない。ボーカロイドカバー楽曲はそのものズバリだ。

 今回の規約変更により、YouTube上のコンテンツは経済的観点から三分化される。収益化するもの、収益化できるがまだ収益化していないもの、そして収益化が経済的に見合わないものだ。前出の「収益化に解決すべき権利問題が存在するコンテンツ」は3つ目のコンテンツ種に当たる。このような状況に対してYouTubeが具体的にどう対応していくのか、有り体に言ってしまえばこれまでの「無料・自由」がそれぞれどのように変えられていくか、はまさに今後のYouTubeの有り様、ひいては利用者・視聴者の文化も決める。私のような「収益化が経済的に見合わない」コンテンツだらけのフリーライダーの扱いが今後どうなるかは全く見通せないが、「収益化できるがまだ収益化していないもの」の芽やコンテンツの多様化を支え得る現在「の」フリーライダーを切ることがあっては誰も幸せにならない。

 さて経済や経営関連の書籍を多数お読みの方なら結構共鳴して頂けるのではないかと思うのだが「米国のIT企業経営者はこの種の選択を必ず誤る」。彼らは実は「文化」を誤解しているか、理解していないため、従来のファンからの愛と忠誠心を失うのだ。特にプラットフォーマーは自身で「文化」を作ることはなく、作っているのはユーザーなのがミソだ。プラットフォーマーが絶対「老舗」になれない所以である。

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