2015/09/01

東京オリンピックのエンブレムは白紙化されたが。

 佐野氏のコメントは
「私はデザインが模倣であるということで取り下げるのではなく、模倣では ないけれども、昼夜を問わず、自分と家族にいろいろな誹謗(ひぼう)中傷がなされることが続いている。 デザイナーとして五輪に関わるのが憧れ、夢だったけれども、今や一般国民からは受け入れられない。 むしろイメージに悪影響を及ばせてしまう。(デザイン)原作者として提案を取り下げたい」
だそうだ。

 まず 、佐野氏と彼の家族へのいろいろな誹謗中傷が無くなることを私も心から願っている。これは皮肉ではなく、私の偽らざる思いだ。

 さて、件の誹謗中傷が落ち着けば、佐野氏にもやっと多数指摘されているパクリ疑惑作品についてちゃんと説明する時間ができるだろう。パクリ疑惑の指摘は、氏が「パクリなんかしたことない」と述べたことに明らかに端を発している。つまり、多数のパクリ疑惑についてひとつひとつ説明するということは、氏が自ら選んだ道である。これも皮肉ではなく、自らの言行が招いた状況の収拾は社会的責任を背負った大人の当然の振る舞いだからだ。少なくともデザインのプロであるならば、他のことはしなくても自らのデザイン作品と自らの発言の引き起こした状況を収拾する最低限の責任がある。

 ただ、これまでの氏の言行を見ていると、「パクリ疑惑の指摘」も「誹謗中傷」に含んでいる可能性も危惧する。だがそれは、しょせん「お前の中ではな」に過ぎない。彼自身が引き起こした状況では、彼は傍観者にはなれても被害者にはなり得ない。「『根拠の無い』誹謗中傷」という表現を氏が使わなかった点も極めて心証が悪い。この種の誤魔化しは、こずるい子供や虚言壁のある人間の十八番である。「『根拠の有る』誹謗中傷」は常識的に誹謗中傷には当たらない。

 既にネット上では彼の発言に一種の「被害者面」を感じ取って拒絶反応も起きているようだ。それはそうだ。もし本当に自らを状況の被害者と見なしているなら、それは上述の通り、「彼が唯一やってはいけない勘違い」だからである。

 エンブレムの白紙化は、エンブレムに関わる状況の終了でしかない。氏が「パクリなんかしたことない」と述べたがために発生した状況は実際のところこれからが本番なのである、常識的にはね。

 それはそうと、「なぜこのデザインがオリンピックのエンブレムに相応しいと判断されたのか」について未だ誰も説明してくれない。

 ドットかピリオドかとかの話は業界人だけが笑える自慰行為、○○の舐め合いみたいなものでしかないので、個人的にはどうでも良いです。むしろ気持ち悪いからやめて欲しい。感性や論理に基づく話をして下さい、くだらないイデオロギーをただまくしたてられるのは不快です。

 私の思うところのオリンピックエンブレムに求められる効能の一つは、一般の日本国民を含む様々な人々の気持ちや力を、例えば「オリンピックを成功させよう」といったプラス方向に良い意味で収斂させるためのシンボルたり得ること。オリンピックはある意味口実であって、効果はあらゆる分野に波及していって良い。

 だから、「一般国民に理解できないエンブレムのデザイン」は、その時点でオリンピックエンブレムの資格すら無いと言えるでしょう。さらに言えば、「一般国民に理解できないエンブレム」をデザインした時点で、そのデザイナーはデザインに求められているものを理解していないと言う意味で職業人としては全くの失格者と言えるでしょう。もちろん選んだ人間も同様。

 本当に力量の有るデザイナーなら、「一般人にも理解でき、アートとしても優れているデザイン」をクリエイトできるでしょうにね。

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