毎度おなじみの(何年前の作品だよっ!て意味で)周回遅れです。観ることになった経緯は先の
「ガルパン」のときといっしょで、まぁ、「知り合いの勧め+観ようかって気分になれた」ということですね。
あ、今回はおっさんの思い出語りが幾分入ります。
ちなみに夏休前から仕事がやたら忙しい・・・やらなければならないことに追われているのではなくて、やりたいことが多すぎてとにかく収拾がつかないという・・・考え様によっては大変幸せな状況でもあり、病気前の流儀を取り戻しているのかもしれません。
若いころは「(いつも回し車を回し続けている)ハムスターのようだ」と何度か他人にいわれました。そこには「何をいつもあくせくやっているのか?」「そんなにあくせくやることに意味あるのか?」といったニュアンスも当然込められていたのでしょう。が、そこはそれ、「他人には分からんのです」としか言いようがありません。
で、なぜハムスターの話が出たかと言うと、要は「響け!ユーフォニアム(以下、「響け!」)」の劇場版とTVシリーズ1、2を観ながら突如思い出したからです。自分の高校生~大学生時代の記憶を強烈に喚起させられた、という意味で「響け!」は私の中で変な位置付けの作品です。
まず最初に観たのは劇場版、 TVシリーズ1の再編集版ですね。これは正直感心しませんでした。典型的な「文学的風(文学的とは言っていない)」が鼻につく作りです。要は結果的に説明不足ということですね。
説明のための要素を思わせぶりに多数ちりばめるが全く功を奏していない(ように見える)・・・ならば明らかに演出や構成の失敗、TVシリーズ1を観ている人達のためのファンムービーだからそれ以外の人のためだけに必要な説明は特にしない・・・ならばTVシリーズ1を観ていない私が「文学的風(文学的とは言っていない)」と作り手に気を使った上で苦言を呈せざるを得ないのは仕方無いことでしょう。何れにしても、単独の作品としては評価のしようがない、そもそも評価の対象とすること自体に無理があるのかもしれません。
「『響け!』という作品全体(厳密には現時点までの作品群)にとって、TVシリーズ1があればこの劇場版は不要」、良くも悪くもつまりはそういうことです。TVシリーズ1 には説明不足も「文学的風(文学的とは言っていない)」感も一切感じませんでした。
結局のところ劇場版はTVシリーズから多くのカット、シーケンスを削除して残したカット、シーケンスを繋いだものですが、残したカットが時に備えている「劇場版では不要なニュアンスや意味付け」の削除や「劇場版向けのニュアンスや意味付け」の付与を試みた形跡が全く感じられません。前後のカットやシーケンスを伴わないため、カットの連続は雑多で不連続なニュアンスの連続となってしまい、さらに収拾されることもありません。雑多で不連続なニュアンスの連続も客観的に制御できていれば「文学的」になれたかもしれませんが、客観性も乏しく、制御もされていないでは「文学的風」のそしりは免れ得ません。
一例として、「上手くなりたい!の橋でのシーケンス」を挙げましょう。私に勘違いが無ければ、劇場版音声では「泣き声」がやたら強調(追加録音?)されています。つまり作り手はこのシーケンスにテコ入れした訳ですが、私の見るところの物語構成の観点からは愚策中の愚策ですね。この劇場版、もしテコ入れするならば「悔しくって死にそう」の部分 しかあり得ません。麗奈と久美子が時間差を伴って疑似的に共有したこの思いこそが劇場版、TVシリーズ1の物語のコア、物語を駆動する力です。なので、「上手くなりたい!の橋でのシーケンス」のこの種の論理性や必然性の感じられないテコ入れは、結果として「悔しくって死にそう」の部分の印象を相対的に弱め、劇場版が本来持つ筈だったパワーの一部を削いでいます。正直、「悔しくって死にそう」の部分にとって久美子の「上手くなりたい!という強い思いを伝えるシーン」は必要ですが、それは「上手くなりたい!の橋でのシーケンス」である必要性は全くありません。百歩譲って「上手くなりたい!の橋でのシーケンス」は一部のみ使用、もちろん秀一の絡むカットは不要です。これらの処理変更で浮いた時間は、続く夜間の学校でのシーケンスなどに割くべきでしょう。「悔しくって死にそう」→「ユーフォ好きだもん」の流れはむしろ丁寧に残しておくべき部分だと思います。
結果として、劇場版はTVシリーズ1の一種の出来の良さ・・・カットを重ねる形式の作りの丁寧さや繊細さを際立たせることになっています。ただし、「作りの丁寧さや繊細さを」を指すものは、そう単純なものではありません。
さて、「ガルパン」に登場する女子高生達は「おっさんのコスプレ」です。この「おっさんのコスプレ」という表現、本ブログでは初めての使用ですが、私自身はもう30年以上使っている褒め言葉です。意味は「アニメに疎いそこらのおっさんでも言行が理解できるように意図的に造形、演出された女性キャラ」で、その実現には「これまでのアニメ(やマンガ)で積み重ねられ、作り手-受けて間で広く共有されているキャラ造形上のお約束/型」への的確な理解が作り手に必要です。ハリウッド映画なんて「型の塊」、一時期多かった「型を用いて特定のキャラに関して受け手をミスリードし、ラストで否定」がドンデン返しとして成立するのはその裏返しでしょう。
かつての「おっさんのコスプレ」の意味は明確でした。私のようなおっさんの中でも高齢と言える男性にとって、「女子高生」、特に「集団としての女子高生」は排他性が強く最も知らない存在なのです。中学生ぐらいまでなら女性とも一緒に遊ぶこともあるし、大学以降では遊んだりすることはあってももう付き合いは個人がベースとなります。そのため「女子高生」を描くには作り手にとっても想像を多く含まざるを得ず、受け手も「そんなもんなの?」と半ば想像に基づかない限り描かれ方のリアリティを測れません。「おっさんのコスプレ」は「リアルかどうか」という判断を保留するために「リアリティが結果的にぎりぎりまで排されて」生まれた何かなのです。「表層的」なリアリティと同レベルのリアリティが「キャラの内面を多少描いても維持される」、それが「おっさんのコスプレ」という型が獲得したリアリティのレベルなのです。
作り手への女性の参加拡大などによって「おっさんのコスプレ」は解消されるかと思いきや、それは未だに稀有の例で、90~00年代は実は作り手側に新たな「おっさんのコスプレ」が生まれただけでした。従来が「おっさんが女子高生のフリをしている」に対し、今度は「かつて女子高生だった女性がおっさんのフリをしている」です。その結果、「おっさんの想像する女子高生像を想像して生み出された女子高生/女性」という恐ろしく気持ち悪く、リアリティも感じられない何かが多く描かれる時期が現れました。両性ともに受けが悪い女性キャラの多くは、そんな不幸な生い立ちを持っているように思います。そこへ・・・(以下自粛)
少し話を戻します。
型を使う利点はたくさんあります。例えば「まじめの型」を使えば、そのキャラに対して「まじめであることを受け手に伝えるための演出」がほぼ不要とでき、他の造形要素や物語のために使える尺が増えます。各キャラの個性は型の上に乗せる追加の造形要素で効率的に表現できます。「型」を共有知とするこにより演出、脚本上のキャラ扱いや作画の祖語の発生リスクを低減できます。さらに型は使いよう、「ガルパン」1話では「生徒会→いつも悪だくみ」の型を露骨に使った演出で、生徒会キャラの物語上の立ち位置への受け手のミスリードを誘います。キャラ言動の変化の落差や意外性も演出しやすくなります。片や、強力な型はキャラ造形や物語上での演出の自由度を低下させます。「そのキャラではできないこと、させられないこと」が生じるこもとも避けられません。
やっと本題です。
「響け!」TVシリーズ1の冒頭、主人公久美子や主要キャラの描き方は「型」にかなり添うもので、「リアルな感じ」が抑制された演出は、声優さんの「リアルな感じ」に多少寄せた演技を浮かせるレベルのものでした。 声優さんへの演出指導のミスなのか、本来は演出も声優さんの演技レベルの「リアルな感じ」のつもりだったのかは分かりません。しかし、その後は演出が「型」の活用を抑制し、声優さんの演技の「リアルな感じ」に寄せていきます。その寄せていく過程が5話まで、微調整が 6、7話、新しい寄せ具合の確立が8話と見ます。
微調整過程がオーディション実施前のゴタゴタ、8話が縣祭りと「愛の告白」です。
会話の「リアルな感じ」はいや増し、8話まで来るとアルアル感(ただし、それは女子高生云々ではなく、大学生時代や社会に出てからの個人的な経験から、です)がイタいばかりにまでなります。以降も含めて例えば久美子の「何で?」のセリフが伝えるニュアンスの豊潤さは声優さんGJ!ってことなんでしょうが、セリフに対してやや「
非リアルな感じ」に寄せた演出がそれをサポートして良い味出してます。ここで演出が声優さんの演技に寄せ過ぎると不要な生臭さが出ていたかもしれません。8話は大小含めて恋愛絡みの会話やエピソードが多数含まれていますし、何しろ「愛の告白」があります。ですから、このような演出、そのキャラの型からの距離感の確立は8話には絶対必要だったと思います。結果、私は8話の「有り様」に魅了されました。
8話の物語進行はゆっくりしていますが、並行する複数の小さな物語を終えたり、転換を与えたりと大事な会話に事欠きません。そのような結構重要な会話の一方、あすか先輩の飄々としたある意味心のこもっていない発言は浮きまくり、実に正解だと思います。これも新たに確立した演出スタイルが可能としたものです。久美子と麗奈が大吉山を登っていく一連のシーケンスはこの演出スタイルの確立宣言みたいなもの、加えて「演出的にこの作品は実はこんな作品なんですよという遅れて来た宣言」として実質的に機能しており、「愛の告白」シーンを盛り上げるための単なる準備を越えた意味を備える(結果的に備えてしまった)に至っています。
ですから大吉山を登るシーケンスをカットしまくった劇場版は、「愛の告白」の前後の演出のトーン(特に、画面上の演出と声優さんの演技の「リアルな感じ」への寄せ具合)の違いが目立つことになっています。これは単一の作品として見た場合は不幸としか言えませんし、実際に作品を損ねる要素となってしまっていると思います。
以降、TVシリーズ2も含めて「響け!」の演出トーンは新たに確立したものに準じます(TVシリーズ2は群像劇要素が増したので、煩雑さを避けるために意図的に「型」に寄せた感はあります)が、「死んだ魚の目」だけは例外でしょう。あれはああしないと不要に生臭くなってしまいそうですからね。
かくて、TVシリーズ1の8話は私を魅了し、TVシリーズという一種の生き物を観る楽しみを再確認させてくれました。実際のところ演出スタイルの変化は小さなものなのかもしれませんが、私にとっては「実写でやった方が絶対面白いやん」から「アニメで正解、アニメ”ならでは”全開でOK!」に心変わりするぐらい、一線をを越えた感があったのです。声優の皆さんの演技は、それを支えるどころか、むしろ引っ張っていてとにかくGJ!!と断言してしまいます!
しかしまぁ、個人的に久美子の「何で?」というセリフがエラくリアルにイタく感じられる作品でした。ブログ主は「女性に言われた『何で?』」には少なくないトラウマがあります。様々な状況で、様々なニュアンスで使われましたが、実はこの言葉、そういう状況で使うなんて少なくともおっさん世代の男性は思いもよりません。ですからショックも受けるし、「ずるい」とか「何無かったことにしようとしてんの?」とか思っちゃう訳です。逆に、同様のシチュエーションで「ちゃんと説明して欲しい」とか「ちゃんと言葉にして欲しい」と言えちゃう人は可愛くてしょうがなくなっちゃいます(汗)