「今さらながら」シリーズは評論でも批評でもありませんよ、念の為。
Youtubeで「伝説の巨神 イデオンの絶望と希望」というタイトルの5分ほどのビデオがレコメンドされた。おそらくファンが編集したビデオなのだろうが、個人的に引っかかったのだタイトル中の「希望」という言葉。
「イデオン」の何処に「希望」があったのか?
地球人とバッフクランがまさに接触しようとしたとき、「イデ」は「希望を期待」したかもしれない。が、その期待は地球人とバッフクランの「殺し合い」の発生という形であっけなく裏切られる。しばらく様子をみていたものの両者の敵対関係に改善の兆しはなく、「イデ」は両者ともに「種」としては滅ぼすことを決断する。我々が漠然と口にする「命」というものに「イデ」が頓着している風情はない。映画「発動編」のラストが示唆する内容は、「知的生命体の命とは生命体個人の死をもって失われるもの」ではないと、少なくとも「イデ」は認識しているということである。イデオンでは「種の有り様」と「イデの価値観に基づいて善きものか否か」とがほぼ等価に取り扱われている。劇中で使われる言葉、「業」の位置付けも同様である。
「イデ」は地球人とバッフクランという「種」に対してはおそらく絶望した。「メシア」の存在には「次世代の種」への「期待」を持ったかもしれないが、「希望」と呼べるものではない。まだ誕生もしていない「メシア」はそれでも「悪しき種」の一個体に過ぎず、かといって「善き有り様」を示す機会も与えられない。「イデ」は問答無用に二つの「種」を葬り去るのである。
地球人とバッフクランとの不幸なファースト・コンタクトは、カララ・アジバの軽はずみな行動が原因となっている。理想家肌で「善きもの」に近い存在であったかもしれないカララの行動が「二つの種の殺し合い」、ただし「イデ」の立場からは両者は「単一の種」に過ぎない、を引き起こすという発端は誰もが考えるように極めて皮肉なものである。が、ラスト近く、「メシア」に『皆を導いてあげなさい』と語る資格があるのはカララだけである。それは「メシア」の母であるためではなく、「善きもの」であろうとし続けた存在だからである。
だから、敢えてイデオンの何処に希望があったかと問われれば、「カララは死んでもやっぱりカララだった」という点を挙げよう。「業」とは「こだわり」である。カララのともすれば天然っぽく見えるまでの「こだわりの無さ」は、「メシア」を体内に宿すことになるまでに純粋だ。ただし、「業」を「業」として理解したうえで、さらに「己れの業」を互いに乗り越えるべくドバ・アジバと対峙する。これこそ「善きもの」としての一つの有り様である。ドバ自身も「業」を理解しているものの、カララとは対照的に「己の業」に従う道を選ぶ。
イデオンにおいて、「業を持つこと」は「知的生命体」にとって不可避のものとして描かれる。「イデ」は「知的生命体」に「業」を持つことを求めつつ、それでも「業」を乗り越える「種」の誕生を望んでいるようだ。それは「イデ」自身を超える存在への希望だからだ。
「善きもの」の希求…それは「イデ」の「業」じゃないですか。
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「イデ」が「知的生命体」の「業」を喰うことで存在できるなら、強い「業」を持ちつつ「業」に縛られない「知的生命体」は良い食料ですなぁ。
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