2013/04/28

"EVANGELION:3.33 YOU CAN (NOT) REDO. "、観ましたよ

 劇場はおろかDVDやBDでもまだ観ていないが、いずれは観るつもりという人は読まないのが吉。ネタバレとは別次元で、予備知識というものは作品を捉える上での偏向要因でしかないからね。私について言えば、たまたま今日立ち寄ったワングーで目にしたからBDを購入したという塩梅で、そもそもBDなりDVDが何時発売されたかも知らない。まぁなんか特典がいっぱい付いてきたから、まだ発売からは日が浅いのでしよう。

 さて、本題。

 前2作との断絶感が凄いが、一本調子とは言え緊張感のある単体作品としては出色の一本。まず断絶感だが、これはストーリーの話ではなくて画面作りと音声の取り扱い方がかなり違うという話。

 先に音声について言うと、前2作の音楽、効果音、セリフの音量バランスは極めてTV的にオーソドックスなスタイルだったが、本作ではセリフの音量バランスがシーンやカット毎にかなり意識的に変えられているのではないかと思う。5.1チャンネル向けのミックスを単純にステレオに変換したから、なんて話だとちょっと切ないが、個人的には演出意図みたいなものは感じられる。途中、セリフ音量が突然大きくなるカットが一つあって、「俺なら全体音量は変えずにリミッタ―でアタックレベルだけは削るよなぁ」などと引っかかりはあるんだけどね。良い意味で映画的な音声作りに寄ったのではないかと思う。

 ちなみに、劇場用アニメのDVDパッケージで音声がわやくちゃな作品として「スプリガン」がある。劇場ではどうだったのかは知らないが、DVDパッケージではセリフの定位、音量ともにめちゃくちゃで全然聞き取れない。

 軌道修正して絵作りの話。昔8mmフィルム、今はHDビデオ使ってますという人には良く分かると思うが、画面の縦横比の変更は絵作り自体の作法の変更も要求する。画面比1:2.35はかなり幅広(アナモフィックレンズ(ワイドスコープ用の特殊レンズ)風のレンズフレア効果に違和感がやっと無くなったわけだが…)で、アナログTVの3:4、地上デジタルTVの9:16などとは全く違う。

 絵作りの印象は全体にカメラが対象に寄りめであること、別の言い方をすると、9:16向けにいったん絵を作った上で上下を切り取ったような感じに近い。これは良し悪しとは別問題で、寄りめということは余計なものは極力映り込んでいないということだから、演出側が観客側に見せたいものに観客の注意を向けさせる上では悪くない手法かと思う。勢い画面自体はフィックスされる(カメラ固定のいわゆる「長回し」)ことがないから、作画、CGの頑張りもあって高い緊張感が維持される。反面、始終寄りめのままだから、その緊張感は一本調子と成らざるを得ない。遠めの絵がない訳ではないが、ネルフ本部のゲンドウらのカットやベッドに座ったシンジのカットなどが遠めなのはTV時代からのお約束だから、新しい遠めのカットというのは1回観た印象からは無いと言って良い。CGカットの質は圧倒的に向上していて、寄りめの絵作りとの相乗効果は大きい。エンドクレジットで板野一郎氏の名前が見られたが、このあたりは彼と彼と仕事をしてきたスタッフの面目躍如といったところかもしれない。

 音楽的には、いわゆる「なごみ曲」が全く使われないといった点で前2作とは一線を画している。

 逆に連続性という観点からは、ミサトのセリフが個人的には重要だ。

 "EVANGELION:2.22"では、ラスト近く覚醒したエヴァ初号機を見たミサトが「自分の願いのために」とシンジに声をかける。このセリフで、本作に続くEVANGELIONシリーズは私の中で過去の一連のシリーズと完全に分離された。本作でのミサトの最後のセリフは、おそらく14年ぶりの「シンジくん…」である。このセリフによってストーリー、キャラクター達を含む世界観の連続性を完全に納得できた。

 最後に小ネタ類。

 本作では頭部、或いは頭部が無いことへのこだわりみたいなものが目立った。頭部をふっ飛ばされるエヴァ・マーク9、リリスの頭部、頭蓋骨ばかり転がっているセントラルドグマ底部、カヲルの死に方、第12使徒登場時のシーケンス、その他多数ある。

 「眼帯アスカ」は「まごころを君に」直後に描いていたが、「第13使徒が腕4本の白いエヴァ13号機ですよ、槍を2本持ってます」というのもかつて自分のホームページで公開していたファンフィクションで「REBIRTH」直後にやっていた。ちょっとにんまりしてしまいました、えへ。

 追記:

 購入したBDパッケージの冒頭には「巨神兵東京に現る」が入っている。正直、作るべき作品ではなかったのではないかというのが観たうえでの率直な印象だ。映画の円谷特撮を15年ほど遅れで追体験した世代で、かつ伝わってきている円谷英二氏の仕事への取り組み方を尊敬してやまない一個人として心境は複雑だ。

 現代における「特撮」という表現には「絵のテイストまたはフレーバー」という視点と「絵作りのための工夫といった知的かつ簡単にマネできない職人的な作業」という視点が分離されずに込められている。

 爆発音が円谷プロ作品や東宝特撮映画とおんなじだといったこだわりは前者の視点を代表する上で重要だが、後者に相当する「工夫感」が希薄にすぎる。もし、円谷氏が現代にいて、しかも同じ職についていたとしたらどうだろうか。おそらくCGなんて先頭を切って導入するだろうし、デジタル合成なんて当たり前に使うだろうと信じて疑わない。かつ、キャメラマンとして素材撮りにはアナログ時代と同様に工夫を凝らすだろうことも信じて疑わない。その工夫が「特撮」という言葉に含まれる「絵のテイストまたはフレーバー」を今とは違うものにしてしまうだろう。

 個人的には、樋口真嗣氏は優れた職人監督と位置付けている。いわゆる映像作家風の作りには向いていないというのが言いたいことだ。映画「ローレライ」のラスト近くの戦闘シーンで米国艦の甲板にいっさい人影が見られないが、このあたりに職業的にデキる作り手と、作品の完成を遅らせたり完成させられなかったりする職業的には駄目な作り手の線引きがあるやに思う。真上から俯瞰で米国艦を捉えたカットで、「たまたま甲板に出ていた数人の水兵が慌てて甲板を走って横切っている」様子を合成で入れるかどうか。劇場のスクリーン上ですら米粒ぐらいにしか見えないだろう水兵を加えてしまう、そんな執念を感じさせる一手間が私にとっての円谷イズムの現代的解釈であり、「特撮のテイストまたはフレーバー」である。

 「巨神兵東京に現る」では、職人芸ではあるが現代ではローテクと見なさざるを得ない特撮技術と、アマチュア或いは低予算故に取らざる得ない特撮技術との線引きを曖昧としたまま両者ともに使った結果、「工夫感」の無い部分が突出して目立ってしまったのではないかと想像する(実際には予算がなかったのだろう)。別の言い方をすると。私は本作に「プロが使うとローテクでも凄いものが作れるんだ!」と感嘆させられることを期待していたのだが、実際には「あれ?俺達が30年前にやっていたことを、プロが今やってるよ(ガックリ)」となったというあたりが正確かも知れない。

 セリフ(エンドクレジットでは「言葉」)は陳腐で面白みのかけらもありませんなぁ。

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