2013/04/08

映画「ARGO」を観て思い出したこと。

 予告編を観て劇場で是非観たかった「ARGO」だが、とにかく仕事が忙しくて時間が作れなかった。遅まきながらiTunesでレンタルで観た。
 ベン・アフレックは「なんか頭悪そうな役」が多いという印象が強く、どういうキャリアを目指しているのか他人事ながら心配していたのだが、どうも「出来上がりをきっちり読める」映画監督としての地位は掴んだように見える。同様に俳優、映画監督との二足のわらじを履いているクリント・イーストウッドはインタビューで「撮影前に全てのカットは頭の中に有る」とはっきり言っている。そういう観点からは、「ARGO」冒頭の一連のカットとラストカットの処理が脚本段階から想定されていたものなのか監督の意図なのかはちょっと気になる。「ARGO」という映画に関しては、一か所だけ音楽の使い方に引っかかりがあったが、純粋に楽しんで観た。ただし誰かがどこかで書いていた通り、名字が「メンデス」という主人公をベン・アフレックが演じるのにはやはり無理がある(個人的な印象では、「メンデス」はブラジル系っぽい名前である)。主人公の名前ぐらいは変えても良かったのではないかと思う。

 「ARGO」を観て思い出したのは、かつて「アラビックSF」なんて呼ばれた一連のSF小説群があったことだ。時期的には1980年代である。

 結局のところ「サイバーパンク」なんて呼ばれていたSF小説群の大部分は、新しいガジェットを導入することで(SF的ではないものも含む)古典的なストーリーをさも新しいもののように提示しただけであった。個人的には「サイバーパンク」には価値なんか見出せない。むしろ「サイバーパンク世代の作家」と呼ばれた作家群の中から一味違うと思わされた作家のみが見事に生き残り、「サイバーパンク」ではない新しい作品を生み出していった点の方が重要だ。「サイバーパンク」はマーケティング用語に過ぎず、ムーブメントなどでは無いとしか思っていない。

 「アラビックSF」も同様の観点から見ればアラビアンナイトの(当時の)今日的翻案に過ぎなかった。が、こちらは明確にエンターテインメントであることを示すマーケティング用語であった。大部分の著者が当然ながらイスラム文化圏の人間ではない。何冊も読んだはずなのだが、タイトルを一つも思い出せないという辺りはさもありなんというところだ。

 映画のタイトルでもある劇中のニセ映画「ARGO」には、そこはかとなく「アラビックSF」のニュアンスを感じる。時期的にも「アラビックSF」作品が米国で登場し始めた時期とほぼ一致する。そういう脚本があってもおかしくないのだ。

 「アラビックSF」のことを思い出した原因はもう一つある。「ダークマター(暗黒物質)」の存在を示唆するとされる国際宇宙ステーションでの陽電子測定結果に関する報道だ。とあるアラビックSF作品では、宇宙船が用いるエネルギーは「空間」から取り出される。「ダークマター」「ダークエネルギー」「零点エネルギー」などなど、その作品にはジャーゴン(専門用語を指すネガティブな表現、「訳の分からん専門家の戯言」が源)があふれていた。

 劇中の映画「ARGO」は、もし作られても間違いなく駄作となる運命にあった。映画「ARGO」、或いは「ハリウッド作戦」の欠点を敢えて挙げるならばそこなのかもしれない。

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