サッカー日本代表をどうしても応援してしまう。サポーターの熱狂を一種のナショナリズムの発露と見る向きもあるが、私自身はそうは思わない。
現在の日本社会は良くも悪くもナショナリズムとは一線を画している。教育の為せる業か、或いは日本人自体が元来ナショナリズムとは縁遠いのか。海上にしか国境を持たず、大和朝廷の成立以降は民族単位の大きな内戦を経験していないことも思うと、強烈なナショナリズムを内部に育む因子に欠ける気がする。
「『ネ申○○○』といった表現は一種の『思考停止状態の表明』である」といった趣旨の文章を書いた人がいた。私自身もこの考えを支持するが、これを単純にネガティブにとらえることには反対だ。これは表現が違うだけで、日本人の心情には従来よりフィットするものだ。
さて、大風呂敷を広げよう。
私の子ども時代には「皇室アルバム」なるTV番組が放送されていた。皇室の1週間の動向を紹介する番組で、おそらく年配者、女性層を中心に視聴者数も多かったと思われる。私自身の皇室との距離感は適した言葉が見つからない。ただはっきり言えることは、かの震災以降により顕著に感じられるようになった通り、「皇室が国民に寄りそう」とでも表現できる状態を非常に好ましく思っている。いや、「有難いこと」だと思っていると言った方がより正確だろううし、広い意味で「皇室を愛している」と言っても良いだろう。私は「皇室を中心とする大家族としての日本人」という枠組みを肯定し、居心地の良さを感じているのだろう。
だがしかし待て、その「肯定」は自ら考えた結果なのか?もしそうでなければ私の「皇室への思い」も一種の「思考停止」と見做すべきではないか。
作家トールキンは「英国における神話の不在」を憂い、民族固有の神話の代替物として「指輪物語」を書いたとどこかで読んだことがある。神話は概して民族と強く結び付いており、民族のアイデンティティにも関わる重要なものだ。「共通の神話の共有」の有無は「同胞」かどうかの大きな判断材料となり得る。ネイティブアメリカンの部族ごとの神話は共通点も多いが、小さいものの重要な差異があるという。 「共有する神話」という観点からは、ネイティブアメリカンをひとくくりの文化的民族区分と見做すことには無理があるということなのだろう。中国の民族同化政策の胆のひとつは、明らかに個別の民族固有の神話(或いは宗教)のはく奪である。とある文化人類学者が書いたように、「三世代にわたって独自の神話が伝承されないと、その民族は失われる」のである。
「皇室を中心とする大家族としての日本人」という心情的な枠組みは政治的な形態である「国体」とは実際になじまないものだが、戦前の「国家神道」を介して「心情的な形態」と「政体における国体」とは緩やかに結び付けられた。それ故に、戦後の教育において「国家神道」との分離が難しい「神道における神話」はほぼ語られなくなった。私の世代でも「いなばのしろうさぎ」「スサノオの八岐大蛇退治」がせいぜいである。さらに戦後、東宝が特撮映画「日本誕生」、東映がアニメ映画「わんぱく王子の大蛇退治」を製作した時代とも明らかに現在の状況は違う。
現在の日本人において、「神道における神話」は共有されるものとはなっていない。では日本人としてのアイデンティティを何処に求めるべきか。そこで最初の話に戻る。サッカー日本代表への熱狂、サポーターの振る舞いを私はナショナリズムの発露とは思えないと書いた。では何かと問われると、それは「日本人なら、頑張っている日本人を応戦するよね」といった極めて曖昧な共通認識だ。なぜ曖昧なのかというと、その共通認識自体が「日本人」と「日本人以外」を分ける要素を一切含んでいないからだ。でもそれはそれで良いのではないかと思う。
「ULTRAS NIPPON」に代表されるサッカー日本代表サポーターの応援は熱狂的であり、ふがいない試合に対しては抑制されてはいるものの不満も隠さない。相手国を貶めるようなことはせず、試合後にはスタンドのゴミをちゃんと片付けるなどとも聞く。おそらく彼らには「日本人ならどう振る舞うべきか」ということに人一番自覚的なのではないかと思う。なんとなく受け継がれてきた日本人の美徳とでも言うべきもの(それは小さな島国の中でひしめき合った暮らしてきたという事実とは不可分では無い)を図らずも彼らは引き継ぎ、実践しているのではないかと思う。
「日本人とは?」という問いをひとまず封印し、「日本人ならば○○○」というところに共通点を見出す。だからただ突っ立っているだけでは日本人同士でも日本人とは認識できない。せめて日本語を話し、如何にも日本人然とした振る舞いをして初めて互いに「同胞」と認識できる。一部の観光国では買い物をするとすぐに日本人と分かるそうである。少なくとも中国人、韓国人、日本人のうち、買い物時に客なのに店員に礼を言うのは日本人だけだという。「他者の視線」を要求するところがちょっと弱いが、美点と呼べる価値観或いは倫理観に従った「日本人ならばこう振る舞う」という共通認識で結び付くのも悪くないと思うのだ。確信犯として、私はそういう枠組みを受け入れ、しばしの思考停止状態に身を委ねてみようと思う。
ちなみに「ネ申○○○」の共有は、比較的共通した価値観を持つ者同士の「生ける神話」の共有と見做すこともできるのではないかと思う。そして、そういうものは常に求められ続けているのだろう、日本人はこれまでも「○○の神様」を多数産み出してきたではないか。それと何が違うのか。一種の思考停止であることは認めよう。だが、力のある一部の人間はいったん産み出した「ネ申」をもやがて超えてみせる筈だ。だから、幾ら卑近であろうとも今現在の「ネ申」をもって将来について語ったり将来を憂えたりするのは正当ではないだろうと思う。
ただ、あなたの「ネ申」が私にとっても「ネ申」たり得るかは別の話だ。「思考停止」が許されるのは、「思考停止」状態にあることを自覚できる人間だけであることをお忘れなく。私はあなたの「ネ申」よりも先に行ってるかもしれない。
最後に一言。
こんな私でもとある分野で海外の人間から"almost a god"と呼ばれたことがある。「私如きを"God"と呼ぶようじゃこの分野、レベルは知れてるな」と一瞬でも思ったことがあることを告白しておこう。もしあなたが多数の「ネ申」を持っているようなら、ちょっとは自分の有様に思いを巡らすぐらいはしてもいいんじゃないかな。ちなみに私は「ネ申」を持っていない。
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