2020/03/16

アニメ「映像研には手を出すな!」第11話を観る!

 金森たるものこんな表情を見せてはいかん、いかんなぁw。金森メッチャスキーな面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 今話ばかりは小さいことどころか大きいこともどうでも良いんだぜ、困ったもんだの残念回。やっつけ感満点で「それで何か上手いこと言ったつもり?」的なサムシングだ。言い訳がましく小ネタと辻褄合わせと説明不足な描写が時間方向に連続的に並べられているだけとしか思えない今話、何か言えることがあろうか・・・個人的には「あ、あの女性教師は教頭だったのか」ぐらい?

 盛り込み過ぎだったのでは?と言われれば成程とも思わなくもないけれど、ならばこそ原作由来のエピソードの一部を切るなり捨てるなり、アニメ版オリジナルの部分についても遅くともシナリオ段階での整理が必要だったんじゃないか、とはならないか。

 アニメ版では完全に切ってきていたと(捨てられていたと)思っていた百目鬼の「河童の声・・・」ネタとその周囲のエピソード、このタイミングでは最終話(!!)である次話の展開(≒ピンチ解決)の伏線ぐらいの機能を与えられてでもないとホントに存在意義が無い、時間の無駄でしかない(原作では百目鬼の実質登場エピソードとしての機能があるが、アニメ版ではその機能は当然必要ない)・・・河童そのものには前話まででも十分触れてるし、別に水中に飛び込まなくても風邪をひくことはある・・・万事、そんな感じなのが第11話。アトランティス連合ネタの仕込み?・・・とにかくセリフで説明、絵もとにかく見せただけってレベルでしょ、視聴者に対するネタのインプットとして十分に機能してるかな?百目鬼に関わるシーンをカットする「だけ」でも、3~4秒分はインプットを丁寧にできる。この時点で水崎に「河童の住む・・・かぁ」とか「アトランティス連合かぁ・・・ちょっと面白そう」とか金森の提案や浅草のアイディアの説明に対する反応として言わせておけば、後で生きる。

 水崎「河童?ラフはもう人間で描いちゃってるよ」→浅草「小さな皿を描けば良い」の展開も、「敵の設定とストーリーの説明」の後ではなく、説明の早い段階で入れるべきだったと思う。少なくとも水崎の「え、追加?」より前に、だ。そうしておけば、視聴者にとって画面内の河童(敵)と人間の見た目の区別はより容易(皿の有無だけ見ていれば良い)となり、「敵の設定とストーリーの説明」の内容をより分かりやすく伝えられたのではないかと思わずにはいられない。いや真面目な話、「敵の設定とストーリーの説明」の冒頭で浅草が「河童と人間が戦い、・・・・するストーリーなんだ。」と全体像の説明から開始すればなんてことない、一種のプレゼンテーションとして見做せば、浅草の説明はまず内容のしゃべる順番から見直した方が良い。上記の水崎のツッコミと浅草の対応は、その直後に入れられるでしょ?そうして誰か不幸になるかしらん?ん~、先行する話で触れられており、原作でも「**UFO大戦争」の肝となる「音だ!百目鬼氏!」辺りの内容はもう扱いがノイズレベルで、果たして次話でまっとうに扱われるのかも怪しい感じ。

 原作から持ってきたエピソード内のディテールも含めて必要な要素の幾つかが明らかに描かれず、必要なのかどうか分からない、少なくとも今話内だけでは何の機能もしていない(或いは、明らかに演出などが上手くなくないため機能させ損なっているようにしか見えない)要素が少なくない数、それなりの時間をかけて雑然と描かれる。が、今話の問題のふっとい根は、間違いなく演出やシナリオよりもさらに上流にある。もちろん、シナリオも酷い方だとしか思ってないけどさ。

 本作では以前から気になってはいたのだが、「構成」や「監督」の仕事って何だ?

 あと浅草の使う「マニ車」の例えなんだけど、マニ車が何か、どういう意味や宗教的機能を果たしているか、機械的構造や機能はどうなっているかを知ってる人ほど受け入れ難い(=この例えの所為で浅草の説明内容が逆に分からなくなる)のではないかと思う。まぁ、「(アニメ版の)浅草ってのはそういうことに不勉強なキャラなんですよ」ってことで意図的ならまだ良いんだけどさ、作り手もこの浅草と同レベルですよでは切ないわな。マニ車はチベット仏教系なので問題が起こることはないと思うけど、仏教系であっても民族対立・宗教対立を煽り、一般的にはテロ行為言える行動に出ている集団はある(ミャンマー国内969運動など)。作り手内には米国企業・クリエイターと一緒に仕事をしているスタッフもいるだろうに、そういう宗教絡みのネタを安易に使う(大抵において不正確か大きな誤りを含み、かつ原因は不勉強や怠惰にあるようにしか見えない)ことのリスクに気が回ってない感じは本当に情けなく見える。

 で、ラストの水崎のセリフ「全然合ってない!」は、「曲がシーンに合ってない」の意味なのか「曲とキャラの動きが合ってない」の意味なのか、あのカットでの「水崎」の発言だけに解釈に困る。まぁ、「曲調と作品の画のつくりとが合ってない」といったざっくりとした意味で、水崎のセリフだからといって特に水崎のキャラ(作画へのこだわり)を反映した言葉選びはしてないんだろうなぁと、今話のシナリオに関してはねぇ・・・

2020/03/10

続々々・某YouTube動画の再生数急増

 色々と多方面にすまねぇ、実質1本の動画で1,000 Subscribers行ってもうた。以前にも書いたけど、同じ方向性の動画をアップする予定は今のところ無いので・・・大部分のSubscribersに対してはとにかくすまぬ。可能な範囲のコメ返しでなんとかお許しを。まぁこの数字、ひょいひょい減る(24時間以内に1~2割はSubscribeが解除される。明らかに逆Subscribe狙いだけっぽい場合もある・・・)ので何時まで1,000超で居られることやら。

 この動画をRecommendしてYouTube的に良い事ってなんだろう?広告がらみなのかなぁ・・・自分でこの動画を検索してみたら、「VF-1AならAma〇on」なんていうエラくざっくりとした広告がページトップに表示されたりしましたけどね。

2020/03/09

アニメ「映像研には手を出すな!」第10話を観る!

 夕方のシーンで終わる回は当たり確率が高いのか?夕方シーンの導入と使いこなしぶりは、個人的にアニメ版の超プラスポイントなのだ、大抵ちゃんと機能してるからね。相も変わらず金森めっしゃスキー、もとい金森目ss茶スキー、もとい金森めっっちゃスキーもとい、金森メッチャスキーな面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。

 体調がすこぶる悪いので、細かいことはほっといてサクっと行こう。作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 ラストの河原のシーンは原作では陽はまだ高い、夕方としてきたのは意図的だろう。「夕方の河原」は学園モノのラストシーンでは一種定番ではあるのだが、まぁ、その辺りの「型」に頼り切ったシーンの作りではない。間に百目鬼のエピソードを挟みつつ、でも全体としては何気に金森回ではと思った今話、幸いにして金森のキャラブレ感はほぼ無し。ただしアバンタイトルで浅草のスケブを軽くとは言えテーブル上に放り出したのは私の金森像からは×。せめて浅草の腕の中へ、無造作に見えてちゃんと浅草が受けとれるような速度、軌道でお願い。それ、価値の流れの大事な上流源だからさ。回単独では良作感があり、アニメで「足してきた」要素については他話との不整合も無いが、原作由来の部分は他話との不整合がちまちまと有る。そこら辺が、私目線での今話の見え方、捉え方(「評価」じゃないよ)を複雑にする。

 「宇宙戦艦ヤマト2199」に関するかつてのエントリで自分の立ち位置を「物語至上主義」としたが、結局それは作品を選ばず、時が経っても変わっていないみたい。カットやシーン、第*話とかのローカルな要素は全てシリーズ全体といったグローバルな要素(≒物語)に従属、或いは整合すべきである、という考え方であり、「作品全体レベルで一貫性や論理性を重視する」と言い換えても良い。結局のところ、そういうことができる、或いはそういうことが大事だと考える作り手が決して多くないと言うことでもある。作品の出来の向上に寄与しない作り手のエゴ丸出しや楽屋落ちは悪いシグナルだ。本作も駄目だったな・・・とほぼ私の中では確定しつつある、残念ながら。

 小ネタはいちいち拾っていかないけど、あのカットは個人的に見てられなくてね、もうね、痛々しい。「アニメの監督」のステレオタイプって今はああなのか?なら良いけどさ。そういうイメージが無く、特定の人物がモデルとしか見えなかった私にはしんどい。これは私が悪いのか?第1話のアバンタイトルやアニ研特別上映会のシーンのように浅草に色々語らせるのは良い。それが浅草の設定でもあるから、アニメ版の作り手が自らの思いをそこに乗せていくのもかまわない。が、アレは違うとしか思えない、作品の質の向上に何か寄与してるだろうかと首を傾げる。

 「これは音っす。」・・・百目鬼周りのエピソードは削られ気味なので、今話のエピソードを削ってこなかったこと自体は嬉しい。今話の百目鬼エピソードは、第1話で「(学校の)対岸の時計」が紹介されていた以上、出てこない筈の無いエピソードだった。が、第9話、第10話(今話)と百目鬼のエピソードの順番を原作と入れ替えつつ、それぞれのエピソードの展開自体はほぼ原作のままとしたのは余りに拙い、プロフェッショナル「の」仕事とはちょっと思えない。当然、プロフェッショナル「な」仕事にも届かない感じ。

 結局、先の段落冒頭に記載した百目鬼のセリフ含め、順番を入れ替えたことによって生じた不整合と言うか、百目鬼のキャラ立てに絡む要素の登場順のちぐはぐさと言うかの調整が為されていないため、色々と不自然極まりない。引っかかる、というやつだ。これは、以前のエントリで危惧しつつ書いた「アニメ観て良く分からんところがあったけど、原作マンガ読んだらあっさり分かった」という状態に極めて近い。とは言え、さすがに怪力線砲/く号に関しては無理が過ぎると判断してか、「これは導かれている・・・」という「信じるか信じないかはなんとやら」的な、或いは某アニメ監督なら「とんち」と呼んだかもしれないレベルの辻褄合わせのためだけとしか聞こえない浅草のセリフが「足されて」いる。なお、ここで言う「とんち」にはめっちゃネガティブなニュアンスが込められている。

 「これは音っす。」と言うセリフは数カット足してでも第9話で出すべきであったのは言わずもがな、「音の可視化」も第9話はグレースケールだが今話はカラーという違いも意味というか、作り手の意図が全く不明だ。っつーか、とにかくシリーズ内での一貫した演出プランの欠如としか思えない状況が頻出する状態は、本当に観ててしんどい。

 「音」の時間軸が2つ有る、波形の横方向はもちろん波形自体が時間変化している、とか言うのは無粋過ぎですかねぇ・・・まぁ、横方向については何処が「今」か分からないのでなんとも、百目鬼の「鐘の音の音出し操作」の描写も純粋に理系視点で見ると理解不能(=論理的におかしい)となって詰む。もちろん、シンセやDAWなどを触っている人なら本当にイメージに過ぎないことは分る筈・・・まずこの種の鐘の倍音構成はですね・・・「操作」の単位の波形は1周期分だけに見えますねぇ・・・とかね。が、「操作」のイメージとしては直感的で、「他にやり方あるかい?」級にめっちゃ良く分かる。

 ただ直感的な表現の効果を高め、表現自体が視聴者にすとんと落ちるようにするには、やはり先行して百目鬼の異能者ぶりなりのキャラ立てをしっかりしておく必要がある。そういう要素が足りないから、表現なり演出なりに良い意味での押しが効かない、間が持たない。この期に及んでも、少なくとも私は、描写される百目鬼自身の行動から(アニメ版における)百目鬼が如何なるキャラかを読み取ろうとしてしまう。良くも悪くも「原作マンガとアニメ版は別物」との視点に立っているから、アニメ版で語られていない部分を原作マンガに基づいて補うようなことはしない。

 「これは音っす。」と言う百目鬼の両手の間には「音」がある。絵面として、周囲の「音」は既に「どこからともなく」やって来ている。そして、百目鬼は「このように書割の様に重ねてあるんです。」と言葉を継ぐ。ならば、周囲の「音」も「どこからともなく」やってこさせるのではなく、百目鬼の両手なりから出てくる、溢れてくる、配置するといった描写を「足して」「見せて」も全く問題なかろう。むしろアニメでこそこの種の描写は映えるのではないか。演出しきれるのなら、百目鬼が魔法の杖を振った瞬間に周囲の「音」が突如現れても良いし、なんならその脇で箒が踊っていたって良い。まぁ原作の百目鬼の描写は「職人」寄りなので、原作に従うならこのようなマジシャンちっくな描写は選択肢にもならないだろうけれどね。

 斯くの如く、百目鬼が音をコントロールする過程すべてを「鐘の音の音出し操作」と同レベルでちゃんと動かして描写しきってしまう、という選択肢も作り手にはあった筈だ。「鐘の音の音出し操作」の描写の出来に照らせば、それらは十分可能だったと信じる。そしてそういうアプローチを取ることで、これまでの百目鬼のキャラ立ての不足を「今話だけで」かなり補うことができたと思うのだ(私だって、論理性に乏しく、直感的な描写、演出であっても「良い」と受け入れる場合はある。このエントリ内では、TVアニメシリーズ「ラーゼフォン」の第19楽章をそんな例のひとつとして挙げている)。

 繰り返すけど、回単独では良作感がある。細かいところまで目が行き届いて作られている印象が強く、例えば無くても良さそうな「女性教師がスマホ画面を見ながら表情を曇らせる」カットなどは、一連のカット内のアクセントとして絵的にもストーリー上の意味的にも実に良く効いている。百目鬼の「鐘の音の音出し操作」も、アニメならではでちゃんと動かしつつ見せてくれている。作画に引っかかりが無かったおそらく初めての回でもある。(本ブログで言うところの)「遷移過程」の描写も手慣れたものである。

 ただ小ネタ絡みには一つ疑問があって、水崎のカバン(バックパック)を今回は公衆電話型にしたのは何故なんだろう?アニメ版でこれまで出てきたことあったっけ?とあるカットではカバンの所為で「これ水崎だよね?」って観てて+ワンテンポ入りましたよ。ちなみに原作ではこのカバン、印象に残るぐらいには出てきてるけど、単行本でしか読んでない身には色は分からんのよね。根拠無く黄色だとばっかり思ってた。
 
 2枚の絵を合成したため、右上の窓枠の整合が犠牲となっておりますが・・・。OP明けだったかのシーン内でカメラがテーブルの下から上へ緩急持って移動しつつ金森が足を組む様から顔(顎?)含む上半身までを追うカットや、上図のカメラを横移動させて3人の「いかにもな状態」を順々に見せていくカットなどは、ホント良かったね。ちなこのカットの浅草、何気に可愛いじゃねーか。

2020/03/05

アニメ「映像研には手を出すな!」第9話を観る!

 原作の「私はその昔、一軒の酒屋が消滅する現場を見た!」のセリフと表情に「金森の原点を見た!」と思った面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。

 原作のこのセリフのコマでの金森は珍しく奥歯まで歯が一本一本描かれていて、「初めて見る表情(の描き方)だなぁ、なんか熱い!」と思っちゃった訳ですよ。改めて原作をざっとチェックしてみても、近い描写は「あんたがこのロボットに満足できないなら、『更に好き勝手描く』以外の選択肢はないんすよ!」のセリフ時とか、やっぱり「熱い!」じゃないですか。でも、アバンタイトルでの「新作を作りますよ!DVDを売りまくりましょう!貴様ら!」というセリフ中の「貴様ら!」はねぇなぁ、要らねぇなぁ・・・私の中の金森像とは完全にマッチしないんだな、これが。例えば「設定や物語を作らない浅草」や「絵を描かない水崎」に対してならともかくね、ここはドス利かせ気味で「お嬢さん方?」の方がまだ俺イメージ寄り。あ、ホワイトボードの微かな光の反射描写は良いね。

 で、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 今回はネガティブな引っかかりは小さなのが一点のみ。やっぱり百目鬼の扱いが雑ですよ。怪力線の発砲前後の音に関して(本ブログで言うところの)「遷移過程」中で百目鬼が独自の音を提示しつつ映像研3人の会話に割って入ってくるけど、唐突過ぎてちょっとしんどい。実は展開そのものは原作通りのなんだけど、原作では先行する話(第20話、水力の鐘みたいなもの(祭具)が登場)で「音の可視化表現」も含めて「遷移過程」中での百目鬼の描写が既にある。アニメ版ではこの先行するシーンが無いため、原作のままの展開では唐突感は出ざるを得ないんですよ。ちなみに、既に百目鬼もいるよ~ってことが分かるカットが先行して有れば、それだけで良かったんじゃないかなぁ。

 んで、浅草のセリフ「そして音だ!百目鬼氏!」から百目鬼の顔のアップの流れは原作では回の最後の3コマなので、アニメ版でも十分に「ばばーん!」となっても良い画作りになってます。このシーンもほぼ原作のままの展開、画作りなので、最終カット感のある百目鬼の顔アップのカットから次のカットへのつながりがイマイチ悪い感じ。百目鬼の顔アップカットでは、どうせなら「よし、やったろうじゃん」みたいな表情変化ぐらいもう付けてやんなよって思いました、正直。

 アニメで「足してきた」スポンサードがらみのシーンや関連する展開、UFOの目的などの金森や水崎の疑問の提示などはすっと受け入れて、とにかく先を期待。「芝浜UFO大戦争」がアニメ版の最終作品になるんだろうから、アニメ最終話に向けて色々仕掛けを「足す」のは必要でしょうね。原作の潜水艇から次元潜航艇への変更は成程&納得、螺旋商店街は裏表逆だろうと違和感バリバリだけど、確かにコレの扱いは難しいから事前の仕掛けは必要だよね。

 ただ、フルーツ担々麺屋の食事スペースから見える厨房の描写はちょっと悩ましいなぁ。何らかの伏線とかなら良いんだけど、単なる引用だったらツマらんな、と。プロによるプロの作品の引用っつーのが心底大嫌いなのでなんとも。作品内で機能していれば無問題なんだけど、「ピュアな引用」、「引用でしかないもの」は大嫌いなんですよ。自分の中で幾つか保留にはしているんだけど、本アニメシリーズでは「引用でしかないもの」っぽいカットや描写が個人的な感触として目立ち気味、少なくとも「引用される側が引用なんてしない」ことには意味があるように見えるんですがねぇ。「リスペクト」って言えば言葉の響きは良いですが、本来それは相互的なものであるべきで、一方的でかつ作品中で機能していない引用はセンスも意味も無いパクリに過ぎないとしか思えないんですね。プロがファンフィルム作っちゃいかんでしょ、それ誰得なんですか派なんですよ。

  あと、アニメ版では学校が面してるのは「芝浜湖」じゃなくて海なのかな?

 ちび森氏のシーンは期待以上の出来、大事にして欲しかったシーンなのでとっても嬉しい。冒頭に原作には無い追加設定の説明があったり、一部の客の見た目を原作から変えてきたりとかあったけど、これらは完全にプラス。原作通りの展開をあの絵のスタイル(「遷移過程」のアニメ版での描写スタイル)できっちりやりきっちゃた上で、アニメ版の武器とも言える「間のコントロール」によって雑貨店の運命を知って呆然とするちび森氏の心情が痛いまでに伝わってきてね、いや、切ない、切ないなぁ。

 作画の凸凹については、今回は「いかにもTVアニメだよね」な動かし方(悪口ではないよ)の多用や、原作の絵に作画を寄せて来た感じがひときわ強い。前者の端的な例としては、浅草が「百・・・八十万円!」と絶句するカットが挙げられようか。見開いた目の位置や大きさはほぼ不動で、それら以外の要素のみ明確に動かすという手慣れた感じの処理で見せる。小さな黒目の大きさもピクピクと変わるなど手は入っていて、手抜き感などは感じないよ。ここでの「手慣れた」は「見慣れた」の裏返しでもあって、視聴者には優しい、理解しやすいってことでもある。

 あと一見して「どのようになってんだ?」「あ、やっちゃうんだ!(褒」と思ったのが、最終カット前の浅草のトランスフォーム。マンガなら大抵コマとコマの間のものとして直接描かれることは無く、アニメでもコマ割りに対応したカット割りを使いそう・・・ん、原作に直接対応するシーンはあったかな?

 頭身の変化だけざっと追っかけると下のような感じになるけど、当然間にある絵の中には微妙なものもあるように見える。動画データが手元にあったら(ご存知の通り入手方法が無い訳ではないんだけどさ)、一度はフレーム単位で絵をチェックしてみたいね。今回使用した絵は、YouTubeに個人が上げた2分ぐらいの動画からのキャプチャしたもの、思い通りのところでは止められんよ。

2020/02/24

アニメ「映像研には手を出すな!」第8話を観る!

 原作からキャラがブレてない金森はやっぱり良いね。Канамолимєтцаский(仮)(カナモリメッチャスキー)の面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。

 作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 細かいことはまずは良いんだぜ。第8話でついに来た、ほぼ手放しで取りあえず言っておこう「アニメ化して良かった!」回。 半分以上はアニメ版で「足してきた」ロボ研メンバーの大活躍によるものだが、第7話と違い色気ある「アニメ」の作画も要所要所で効いている(「色気」については先行エントリ(長い、くどい)内の記述を参照くだされ)。

 段ボールを着て逃げる水崎を金森が誘導するシーンとか、ロボ研小野がジップラインを使って「飛ぶ」シーンとか、マンガでは表現しにくい、効果的な表現には手間がかかって勢いやスピード感が死に易そうなシーンが、TVアニメならではの手際でさらっと効果的に描かれている。良いね。いやマンガでもできるんだけど、クライマックスならともかく、途中で「さらっ」てのはやっぱり難しいと思うんですよ。

 作画に関しては上述のように色気があり、なんちゃって感が多少あってもそこは気にならない。キャラの表情の豊かさ、動画枚数に見合った演技のさせ方・見せ方はTVアニメのある意味真骨頂だ。理想的には「水崎の描いたアニメーション」との対比も出せることになる筈なのだが、そこは後述する視聴者に対する様々なフックなどのせいで、まぁ、良くも悪くもうやむやな感じになっている。ホント、良くも悪くも。

 作画の色気について多少具体的に触れておくと、まず運動途中の物体の移動を表す効果線やブレを模したギザギザの輪郭線の使用がある。例えば、本エントリ上端に示した金森がボードをさっと持ち上げるカット(1枚絵として見ると、「手はどうなっとんねん」とかツッコミどころはあるが)、映像研3人が「気合だー!」と文字通り気合を入れるシーンに先行する水崎が握りしめる手のアップのカットだ。高速で動いて(いるように見えて)ピタッと止まる、観ていて気持ちの良いメリハリある動きだ。まぁ、第7話の「ダンスも動きの・・・」辺りのシーンでとっても欲しかった要素と言える。

 次いで表情の豊かさ、変化はほぼ全てのキャラに及ぶ(百目鬼や1カット?しか登場しないソワンデなどは残念ながら除く)。敢えて1カ所取り出すならば、ラスト近く、水崎が両親と話をし、「さすが役者夫婦・・・」のセリフをしゃべるカット内での表情などの変化だ。定番の軽い驚きを表すような表情と(今度はゆっくりと)首が伸びるような作画(実際の人間では首を後ろに引いたり、姿勢を正したり後ろに反ったりに相当する動きか)に続き、下図のような原作には無いなんとも微妙な表情を見せる。良いね。第7話に欠けていた動きとは別の要素は、まさにこういうところなんだ。あ、ロボ研のロケット発射のカウントダウンのシーンでの、浅草と金森のカウント時の身の乗り出し具合の差や動きのタイミングの微妙な違いも良いね。そしてこういうシチュエーション下では勢いや熱を焚きつけることはあっても、それらを削ぐようなことは絶対しないのが実は熱い奴、金森なんだぜ。
 最後に目に付いた作り手側からのフック、小さな目くばせの類や、個人的な引っかかりをざっと流していこう。

 まず百目鬼は映像研所属ではないということで、今後も扱いはこれまで通りのぞんざいに見えるもののままなのだろう。話数などとの関係で百目鬼主体のエピソードは切らざるを得なかったのかも知れないが、第2シーズンは無いとしておかないと色々と禍根を残すことにはなる。セリフのある登場シーンはアバンタイトルの音声編集シーンだけだが、その後の食事シーンにはカップ麺が4つあるし、火の周りには誰も座っていないクーラーボックスが1個(その前に未開封カップ麺)あるので、いないことにされている訳ではない。まぁ、空いたクーラーボックスの横に入口があるテントで寝ているのかもしれない、原作では昼寝を(一度しか)したことがない百目鬼ではあるが。

 すっごく淡白な描き方なのだが、百目鬼の不在こそアニメ版の百目鬼の性格や行動を反映した描写なのだろう。ただこうも徹底的に映像研3人から百目鬼不在に関する言及が無いと、いよいよ不自然さの方が目立ってくる。アバンタイトルを見る限り、浅草が百目鬼に感じている距離感は、美術部メンバーに対するそれよりも明らかに近い。この辺をサポートするような描写はやっぱり欲しい。ちなみに百目鬼用と思しきカップ麺はカレー味、名はパーカーと英米っぽい。と言うことで、アニメ版では英国系1/4、インド系1/4辺りを想定しているのかねぇ。
 水崎の走りのフォームについては、第1話のカイリー号のシーンでの俯瞰で描かれたちょっと癖のあるフォームが記憶に残っている。第1話での腕はむしろ常に身体の外で開き気味で振られており、本話のそれ、特に段ボールを着ているときの前方で内側に閉じるような腕の振りとはかなり違う。ただ、後方に腕をほとんど引かない点は共通している。なお、第1話では使用人(メンインブラック)との絡みでも走るシーンがあった筈だが、そちらは特に記憶に残っていない(ので、おそらくありがちな走りの表現だったのではないか)。本話内での整合性には問題無いが、「あれが水崎の日常的な走り方ですよ」といきなり言われても、第1話から見てきた一視聴者としては「はい、そうですか」とは言いかねる。
(2020/3/4追記:第5話アバンタイトルでの水崎の走りのフォームも新たに見直すと確かに「癖がある」けど、う~ん、 第1話と本話のそれらの中間か第1話のそれ寄りかなぁ・・・駆け出した瞬間ってのもあるので、多少姿勢や腕の振りが変だったりしても視聴者はそのまま受け入れがちなんじゃばいかな。ちゃんと以前から描写してたのは確かなのだが・・・本話でのフォームの方が「極端な描写となっている」と見做すべきか・・・次話以降での描写次第ってことですかねぇ。)

 「じゃぁ水崎の箸の持ち方は?」と問われるとさすがに困る。第6話のラーメン屋のシーンでテーブルのメニュー表がラーメンを食べる水崎の口元を隠している点については先行するエントリでちゃかしつつ触れているが、「実は水崎の箸の持ち方を視聴者から隠していたんですよ」とかだったらどうしましょうかねぇ、いや伏線の観点からならむしろ見せるべきだったんじゃないかと(確認すると、別回のラーメン屋での静止画による食事カットで確かに見せているのだが、箸がクロスした状態で麺を挟んでいるので持ち方以前に変な絵なのよ)。っつーか、この時点で水崎だったら浅草や金森と箸の持ち方が違うことに気づいても良い様な、音曲浴場ザリガニもあったし学食にも3人で何回も行ってる訳だし・・・水崎家族も使用人達もこれまでの友人達や読モ関係者もどうなのよって考えると、ちょっと無理のある設定ではないですかねぇ。こういうのをご都合主義って言うんじゃないですかね、シリーズ全体の整合性は誰もみていないんですか!ちな、ラーメン屋では水崎はライトブルーのマイ箸持参だったかもです。

 これまで触れてこなかったけど、作画や演出には既存のTVアニメシリーズのDNAと言うか、雰囲気と言うかを感じることが極端に多いのが私にとっての本作の特徴だ。今話は「四畳半神話体系」を思い出しました。「監督いっしょやん」っちゃぁそうですけどね、非常にネガティブな意味で思い出した訳で、そこは言わない方が良いかと。

2020/02/22

続々・某YouTube動画の再生数急増

 私のYouTube動画「SDF Macross - VF-1A Rig Test」の再生数爆増(とその後の減少)についての最終報告です。関連過去エントリは以下。
以前のエントリで予想した通り、3週間(21日)でほぼ状況は終了しました。2/20までの4週間(28日)のチャンネルアナリシスのサマリ(まとめ)は以下の通りです。
Subscriber数(登録者数)は約+155%、Views(再生数)とWatch time(再生時間)は+999%以上と、異常な状態だったことが分かります。なお、昨年夏ごろのチャンネル収益化に必要な条件は登録者数1,000以上、再生時間4,000時間/年とのことなので、意味の無い比較ではありますが、Subscriber数はやや及ばず、再生時間は1年で必要な分以上を4週間で稼いだことになります。

 次いで、件の動画のみの再生数の2/20までの28日間の変化です。
再生数は2/1から急増、ピークは2/4で、その後は基本的に緩やかに減少しています。この再生数の99.6%がYouTube内での再生、99.4%が再生ページのリファレンス元がYouTube内の別ページです。つまりこの再生数の変化の原因は、実質的にYouTube内だけにあると言えます。

 下図は、同動画のImpression数(インプレッション数)の変化です。Impressionとは「YouTubeが動画のサムネイルを表示した回数」であり、ほぼRecommended数(あなたにおすすめの数)となります。 
インプレッション数の変化と再生数の変化との一致がかなり良いことが分かります。両者の変化の微妙な差は、下図のClick-through rate(クリック率)の変化で説明できます。
クリック率は「表示したサムネイルのうちクリックされた割合」であり、2/1以降のインプレッション数の増加とともに徐々に1/3程度まで減少しています。「再生数≒インプレッション数×クリック率」なので、インプレッション数の変化と再生数の変化に微妙な差が出てしまった訳です。またクリック率の低下は「『無駄なあなたにおすすめ』の割合の増加」を意味するので、「あなたにおすすめ」の機能(所謂Recommendエンジン)は、無駄を減らせるようにおすすめ先や数を調整した筈です。

 起きたことは単純です。YouTubeで「あなたにおすすめ」された数が4日間だけ激増、その後ゆっくり減少したため、再生数もその変化にほぼ沿って増減したというだけのことです。1年前には20回/日の動画の再生数が約60,000回/日まで増えました。実に3,000倍です。「あなたにおすすめ」された数の増加から減少へのトレンドの変化には、クリック率の低下が影響している可能性はあるかと思います。

 では「あなたにおすすめ」の急増の原因は何でしょうか?残念ながら入手できるデータからは事実上何も分かりません。ただ、急増までの1年間(2019/2/1~20201/2/1)の件の動画の統計データを見ていると、ちょっと気になるところがありました。まず再生数です。
 10月中旬から11月中旬の約1ヵ月間の間に緩やかなピークがあります。また再生数の微妙な増加は1月中旬から見られます。次いでインプレッション数です。
 増減の特徴は再生数と同じです。特に変なところは見られません。では最後にクリック率です。変動(ギザギザ)の幅が大きいのは、分母のインプレッション数が少ないことが原因です。
ここで、この1ヵ月とは違う特性が見て取れます。インプレッション数が増えると、クリック率も増えているのです!どうやらこの時期、「あなたにおすすめ」は効率の良いおすすめ先、つまり件の動画への興味が高いユーザーのグループでも見つけたようです。

 そこで、見つけたグループと興味の方向性が近そうな、しかし規模が数千倍大きいグループにも件の動画を「おすすめ」してみたら・・・というのが今回の急激な動画再生数変化に対する私の仮説です。さて!

2020/02/19

アニメ「映像研には手を出すな!」第7話を観る!

 金森の性格はきっついが悪くはない、基本冷静だが時に熱く、怒ることはまずない・・・という認識の面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 今回は出先で書いているので、原作マンガが手元にありません。視聴も出先。
⇒ 2020/2/21:帰宅後に原作マンガの内容を確認。追記などはしたけど論旨変更は無しです。

 アバンタイトルはアニメで「足してきた」水崎のエピソード。アニメーションの作画ってそういうものなのか、必要な観察眼ってのはそういうものなのか、とそのまま受け入れてしまえば無問題、画も良く、動きや展開もテンポも良く、おそらく作り手の意図通りの出来であり、面倒くせぇ私も黙らせた。OP突入時には「うむ、今回は水崎フィーチャー回か」と思った。まぁそうなんだけど、OP後は結構ノイジーで、水崎フィーチャー感は大幅にスポイルされている。アバンタイトルの優等生的な出来の良さ感は消失し、良くても「平凡」としか言えない出来となる。水崎の熱い言葉を支える画も結局視聴者に提示されないままで終わり、EDを観ている(恐らく困惑顔の)私の耳元で何者かが水崎の声で囁く。

「『アニメ』に『アニメーション』が表現できないのは当たり前じゃん!」

そりゃそうかもしれないけどさ。

 ここで言うノイズとは、金森のキャラのブレ、百目鬼の描写の原作とのギャップの大きさと見てて悲しくなってくるような扱いのぞんざいさ、原作マンガの絵をそのままなぞったために意味が不自然にならざるを得なかった?カット、動いてはいるけどなんちゃって感の凄い作画などである。

 なお「巨神なんたらvsウルトラなんたら」的なサムシングはどうやってもあーなっちゃうのは避けられそうにないので、私は最後の最後まで「アニメではやらない」ことを期待していた。妄想シーンなので、前フリの追加やBGMのサポート、光線やバリヤーの描写を「浅草らの手描き風」にするなど、他の妄想シーンとの整合性は最低限取らないと、ね。でも、そこまでやっても馴染んだかは分からない。

 さて、

百目鬼の登場が早くなったり美術部が登場してしまったりしているため、映像研内での打ち合わせのシーンはどうしても原作そのままとはいかない。今回の打ち合わせ時の金森の描写は、やたらイライラしているように見えてしまって個人的にはいただけない。舌打ちにもいろいろニュアンスはあるんスよ。イライラ状態というのは一種の思考停止状態だから、浅草らの状態に対して常に「どうしたものか、どうすれば良いか」と考えているという私の金森像と全く一致しない。さすがの金森でも「あんた何してくれてんだ!」となる描写は原作にもあるが、今回の内容はまだそうなるレベルのものじゃない。今回の金森の描き方は、全体として薄っぺらで、頭悪そうに見える方向にブレている。

 百目鬼についてはキャラデザ、声ともに原作よりは可愛い方に寄せてきていて、登場時には違和感が凄かった。そのうち慣れるだろうと思っていたが、制服をちゃんと着ているという見た目から始まり、どうにも原作のキャラからアクを抜ききったような淡白な描き方に違和感がぬぐえない。よりにもよってロボットの歩行「音」に関するシーンにも登場させてもらえず、扱いがどうしようなくぞんざいに見える。

 百目鬼は原作中、最もアクが強く、実世界にいても扱いにくいキャラだろう。そういうところが描写に全く見えてこない。「連れション文化圏の人ではない」という言及すら無い。かといってアニメ独自のキャラ付けがあるかと言えばそんなものも無く、原作には出ない久保(美術部)の方がより丁寧に扱われているようにすら見える。金森による直接の言及も有るし、打ち合わせシーンのとあるカットの思案顔の金森の視線の先には明らかに久保がいる。

 今話の美術部との打ち合わせシーンは、レイアウト固定で汗ダラダラな描写(浅草自身は「よくある演出なのでワシは嫌い」と言いそう)と分かり易いまでに浅草の試練シーンとなっていた。前話では数カットを使った天候の変化で表現したと思しき要素が、今話は汗ダラダラ1カットで終わりである。本シリーズにおけるこの種の描写に対する一貫した演出プランの不在は間違いない。「美術部との打ち合わせ+浅草の試練」はアニメ版で「足してきた」要素だが、一貫した演出プランの不在は、その要素のシリーズ全体やストーリーの中での重要度が、作り手内で曖昧なまま共有もされていないということだろう。逆に言えば、ストーリー展開や浅草以外も含む今後のキャラの挙動などに影響しないというレベルということか。ならまだ良いが、「久保の為」なんてことだったら、「いや、百目鬼に手をかけてやれ」ってなりますよ。

 次いで、原作マンガの絵をそのままなぞったために意味が不自然にならざるを得なかった?カットについてだ。

 銭湯で金森が浅草にお湯をぶっかけ、お湯でゆがんで見える浅草の顔?を水崎が観察するシーンがある。「浅草の顔?」がポイントである。この時点で私の記述に引っかかりを感じたり先の展開が読めた人は、私より面倒くせぇ奴に違いない。

 マンガの場合、「お湯でゆがんだ浅草の(オモシロ)顔」をコマで見せてから水崎が「もう一回!」と金森に声をかけるコマで、「水崎はお湯でゆがんだ浅草の(オモシロ)顔を観察しているのだな」と大抵の読者は解釈するだろう。マンガのコマを追うタイミングは読者に委ねられており、更に続くコマの解釈の有無も同様である。一般的に同一のシーケンスを表す一連のコマ運びが繰り返された場合、読者による各々のシーケンスの意味の解釈は最初のシーケンスを読んだ時点で為され、2回目以降のシーケンスで新たに解釈し直すことは稀である。つまり、2回目以降のシーケンスのコマに視線を送ってはいても、流し見しながら「同じことが繰り返されている」という確認をしているだけというのが普通だろうということだ。だから、本エントリ先頭に示した絵が3回目ぐらいのシーケンスで現れても、高確率で読者はさらっと流してしまって、絵を改めて解釈はしない。まぁ再解釈する人がいない訳じゃないんだろうけど、少なくとも原作を読んだ際の私は、マンガで発動しがちなこの一種のマジックに完全にかかっていた。

 しかし、具体的な画であるカットの連なりをリアルタイムで見せざるを得ないアニメでは、マンガでは高確率で発動するその種のマジックは発動しにくくなる。結果、本エントリ先頭に示したカットが現れる(つまり、一定時間強制的に見せられる)と、面倒くせぇけれどもピュアで素直な側面をも持つ視聴者は、それまでの解釈に引きずられることなく新たに明確に認識する・・・「水崎は、実はお湯でゆがむ浅草の『後ろ頭』を観察している」と。これ、アニメの作り手の意図通りなんですかねぇ・・・いや有りがちと言えば有りがちな事態なのだが、プロならば予測可能だと信じたい事態でもある。受け手視点でのマンガとアニメの文法の違い、土俵の違いってやつの一端かも知れない・・・とまで書いたところでオチなのですが、水崎の見ていたのは実は「水の動き」でした。少なくとも水崎はそう言っている。いやぁ、原作を読んだときから始まってアニメ版初見時まで、「お湯でゆがんだ浅草の(オモシロ)顔」に引きずられて二重に勘違いしちゃってたなぁ・・・と水崎のセリフを聞いて一瞬で気付いた時の絶望感たるや、「勘違い野郎」かつ「面倒くせぇ奴」はホント迷惑ですよね、そして「あ、アバンタイトルの内容と(後で分かるが最終カットとも)そう繋げてくるのか」とも。

 あと、お湯の作画には手間をかけたと思しきところが多かったけれども、この種の癖のある描写は視聴者の記憶とのミスマッチから不自然に見えてしまうリスクがある。ミニチュア特撮が水を苦手とした理由と同じだ。一応流体力学分野の技術で飯を食っている身としては、密度が低そう(結果として粘性がより低そう、表面張力がより高そう)に見えるカットが多かった。「原作マンガのお湯の描き方も微妙じゃん」と言われれば確かにその通りなのだが、極端に言うと原作マンガではコマによって表面張力などの水の特性も違って見える。この辺りを説明すると長くなるので詳しくはしないけど、TVアニメではフレーム固定でアップ~ロング(引き)があるだけだが、マンガでは更にフレームに相当するコマの大きさも変わるからねぇ、とだけは書いておこう。で、高速度ビデオカメラのレンタル費用も10年代後半から安くなってきたし、スタジオは一度レンタルして色々撮影してみてはいかがだろうか、エドワード・マイブリッジの馬の連続写真並みに発見があるかもしれませんよ。ちなみに、分裂した水やお湯の塊の大きさや気泡の寸法や形は、主に粘性力の温度依存性の影響で25℃付近より低温か高温かで変わるんだなこれが。と言う訳で、水を使った実験ではちゃんと水温管理をしよう(誰得情報

 さて、

アニメの作画というのは不思議なもので、キャラ達の作画に凸凹が多少あった方が観ていて面白かったりする。これは良し悪しとは別の話なので念の為。ここで凸凹とは、動いたり動かなかったりとか、特定のキャラがやたら可愛かったり可愛くなかったりといったことを指す。例えば第2話について「水崎の顔がやや吉田(健一さん)キャラっぽいカットが有ったな」と以前に書いたが、まぁ、そういうところも楽しみどころになり得るのがアニメのTVシリーズだ。作画の凸凹と言うと、キャラのアップのカットは作画監督などの筆がきっちり入っていてちゃんとしているが、ロングのカットは作画崩壊寸前というケース(視聴者として、心意気だけはきっちり受け取らさせてもらう)もあるが、今話のケースはもちろん違う。

 OPより後は悪い意味で凸凹が無かった。特定のキャラがより可愛く描かれるでもなく、基本的に動いてはいる(これ自体は良いことなんだろう)けれどメリハリある動かし方はほぼ皆無で、無難ではあるんだけど特筆すべきところも無い。動かし方のなんちゃって感も強い。こういうのは説明しにくいんだけどね、魅力が無いとでも言うか、色気が無いとでも言うか。ここでの色気は「セクシー」という意味では当然ない。所謂「色気を出す」といった表現に使われる、現場の判断によるほんのちょっとした一手間の付加や、不自然さは出るかも知れないけど視聴者に対するフックになる意図的なキャラの芝居タイミングのズラしなどに相当するものである。アバンタイトルにはそれらの存在が感じられた。なんちゃって感は「取りあえずこんなもんでしょ感」と言いかえても良い。歩いているけど接地感がないとか、本来動きにラグが生じるような要素の動きにラグがないとかが例に挙げられようか。ダンスのカットとか見るに実は動画枚数少ない?この辺りは良く分からんけど。

 なんちゃって感は、個人的にロケットの打ち上げシーンで極まる。ロケットのハードウェア構成がモデルになった実際のロケットと同じなら、色々と描写が不自然でかなり淡白だ。ブースターの噴射炎の有無などカット間の描写の不整合もある。不自然な点について具体的に細かくは書かないけど、この辺りをどうして本エントリで取り上げるかについて簡単に触れよう。

 このロケット打ち上げシーンは、見せ方という意味で作画と演出について語るシーンなのだが、同時に、浅草のロケットや打ち上げ施設に関する知識や水崎の観察眼の発露の描写でもある。つまり、このシーン内の不自然な描写や誤魔化しは、浅草の知識不足や勘違い、水崎の観察力や観察自体の不足や観察力やこだわりの限界を描写していることに等しい。敢えて極端で酷い書き方をさせてもらうと、浅草や水崎が能力不足に見えるならば、それはアニメの作り手が能力不足であるからだ、となる。或いは、アニメの作り手は無数のこだわりの塊であろう水崎の作画を再現しない又は再現する気が無い又は再現できない、となる。いや、アニメの作り手は、水崎のこだわりなんてこんな程度、と考えているということか。そんなことどうでも良い、と考えているのなら余りに悲しい。

 細かくは書かないとしたけれども、煙を引きながら上昇するロケットの姿を「1枚のロケットの絵を縮小しながらスライドさせて見せた」としか思えない(Flashアニメには失礼ながらFlashアニメかよって)カットには唖然とした。カメラ視点から見たロケットの向きの相対変化(つまりロケットの三次元的な見た目の変化)は当然表現されず、上昇に伴う縮小具合も、水崎がこだわっている筈のロケットの角度も不自然だ。こだわりの作画とは程遠い。こんな画では、浅草や水崎のセリフはただただひたすらにひたすらにどうしようもないまでに空しい、嘘になってしまっている。いや正しいのか、濃厚さの欠片もない作画は視聴者に濃厚さなんぞ伝えない。

「『アニメ』に『アニメーション』が表現できないのは当たり前じゃん!」

そりゃそうかもしれないけどさ。そんなの誰の目にも分かってたことじゃんか。だからアニメの作り手がどう挑むのかを見せてもらおうと、第3弾PV以降から毎回観てる訳ですやん、こんなエントリもシリーズ化してしまってる訳ですやん。

 私が以前のエントリで書いた「アニメ化に覚悟がいる原作だ」の理由の一つがここにある。水崎が作画したシーンに相当するシーンは、「水崎が作画したシーンに見える」ようであるべきだ。水崎のこだわりを、或いは限界をも「演じた」作画が必要なのだ。そういう画作りになっていないから、特に原画撮り相当の画を使ったシーンは、私にはアニメの作り手の楽屋落ちにしか見えない。

 幼い水崎のスケッチやクロッキー(つまり、動きの観察結果だ)が、おばあちゃんがベッドから立つことや水崎に手を引かれながらではあるが自分の足で歩くこと繋がるアバンタイトルの展開やシーンは良い。でも劇中の映像研の作品に直接繋がる要素は未だ無い。成程、アバンタイトルの最後で「ロボットのチェーンソーを使った移動カット」のラフが「水崎が車椅子に乗って方向転換などをした経験」に基づいて描かれた様子が示唆されており、その種の作り手からの目くばせが無い訳ではないことはさすがの私でも気付いている。が、現時点ではそこまでだ、

 実は、おばあちゃんがカニを食す様子を幼い水崎がスケッチするシーンがでもあれば、劇中で映像研が製作中のアニメを表現する「原画撮り相当の画を使ったシーン」の見え方や意味は違ってくる。「そんなのギャグになっちゃうじゃないか!」と思う方は、「カニを延々と食う」じゃない場合でもそう思うか考えてみて欲しい。例えば、大型ロボットの人間大縮小版の自立型ロボット(人が操縦しない人型二足歩行ロボット)に、人が補助しながら立つことや歩くことを学習させているシーンだったらどうだろう。仮にもロボ「研」なんだから、そういうのもアリなんじゃないか。

 「カニを延々と食う」シーンがロボ研のリクエストでなければ、それすなわち映像研乃至は浅草の選択ということになる。アニメの作り手の考える浅草のセンスと、原作マンガから私が解釈している(すなわち極めて主観的な、ということ)浅草のセンスとの乖離は大きい。私の中の浅草はもっとセンスが良い。「カニを延々と食う」シーンって、「ロボットvs巨大ガニ」において見せられて面白いものなのかな?劇レベル或いは劇中アニメレベルで何か機能しているのか?

 同じ視点から言えば、実は原作の音に対する百目鬼のこだわりのアニメによる描写は本質的に水崎のそれらより格段に難しいだろう。アニメに全く向かない。原作第5巻の最後の4ページには思わず唸るとともに眩暈もした。どの程度成功していると言えるのかは分からないが、「音のつくる場」のマンガにおける表現方法としての一つの選択、或いは解が具体的に示されている。最終ページに至っては音は飛翔する粒子の如く描かれ、映像研メンバーと相互作用までする。原作ではそんな表現にまで繋がっていくことになる百目鬼の音へのこだわりを描く・・・アニメ版の作り手に覚悟はあるか、挑むのか、必要な力はあるか、それとも自覚的、無自覚を問わず逃げるのか。積極的な逃避はこの期に及んでは見識ある選択肢ではある・・・本作に手を出したことを除くと、その選択に何か問題があるようには思えない。

 手書きアニメによる大型ロケット打ち上げシーンには、幸か不幸か映画「王立宇宙軍」のまさにそのままのシーンがマイルストーン、或いは一種のベンチマークとして存在する。作画陣の執念と気迫を感じるカットの連続だが、同時にロケットの打ち上げ映像などの観察の賜物でもある(筈)。前者はともかく、やる気があったのなら後者に関して多少の気概は本作でも見せられたんじゃないかと思う。私自身がそういうところには敏感なつもりだし、そういうところを感じられなければ面倒くせぇ奴なんて自称することは止める。モデルになったロケット(または先行形式)の打ち上げシーンの動画なんて、ネット上にいくらでもあるでしょうに。

 サターンⅤロケット打ち上げシーンやロケット下段構造物の分離シーンを日常的にTVで観て育ち、映画「王立宇宙軍」のロケット打ち上げ準備から有人カプセルの軌道投入までを「コレコレコレ」と思いながら劇場のスクリーンで眺め、大学生時代には液体窒素や液体酸素を実験で扱い、ドラマ「Form the Earth To the Moon」と「Space Race」を年に一度は必ず見返す現役の宇宙開発オタクはホント面倒くせぇんだぞ。

2020/02/16

Thunderbirds Are Go、シーズン3も大詰めなのかな?

 本ブログでは役立たず扱いのYouTubeの新Home&Recommended機能だが、Home画面変更からほぼ3ヵ月目の今日、ついに初めてサムネイルをクリックした。Thunderbirds Are Goのシーズン3エピソード25のティーザーだ。おそらくRecent Uploaded相当枠で、私の嗜好を反映したRecommendedではないだろう。少なくても1年、Thunderbirds Are Goがらみの動画がHome画面でRecommendされたことは無く、Thunderbirds Are Goがらみの動画も観てないからね。

 それはさておき、360p解像度と低品質なのは何故なんだろう。
 シーズン1はNHKで全話観た。が、シーズン2の頃には体調を崩してTVを観るのもつらくなっていたから、結局国内でTV放送があったのかも知らないまま現在に至っていた。チェックしたシーズン3トレーラー、話数、それに「ZERO-XL(New ZERO-X?)で父親を救出に向かう」というエピソードのストーリーからは、シーズンのみならず、シリーズの大詰めっぽい感じが伝わってくる。

 チャンネル内の動画をつらつら眺めていると、CG、ミニチュアとWeta Digitalが担当しているのは変わってないと思うんだけど、CGカットの出来と言うか、見た目の良さはやはりシーズン1から上がっている。常にひと手間加えられている感じ、と言うのがより正確かもしれない。ミニチュアに対するライティングも、よりスケール感(影のエッジの鋭さ、またはぼやけ具合が効く)を考慮したものになっているようにも見える。水、海がらみで「あ、違う」と感じるカットが現れる頻度が高いね。

2020/02/15

「オルレアンの女」というタイトルのマンガの記憶

 初老親父の独り語りである。

 都市伝説を紹介するYouTube動画を観ていて、英国の「ブラックジャック」という怪物が紹介された。要するに「巨大な黒い犬」である。と、突然「オルレアンの女」というタイトルのマンガを読んだことがあったような・・・という記憶が蘇った。

 「オルレアンの女」だからジャンヌ・ダルクがモチーフっぽいのだが、オルレアンという土地そのものが重要なモチーフで、とにかく「黒い犬」が出ていたような気がしてしょうがないのだ。掲載はマイナー雑誌かおそらく同人誌、絵は諸星大二郎風、読んだ時期は1985~1990年だ。

 ググってみると、長谷川哲也さんが同名の作品を、「えとわす」という媒体に描いた可能性を示唆する個人の文章がひとつだけ見つかった。大量の情報が有るように見えてダブりが多く、90年代前半以前の情報がほとんど無いのが実に日本のインターネット的である。この辺り、ドキュメント化文化(文書の作成、改定、登録、整理、保管、公開の徹底)を欧州よりも一段と先鋭化させた米国とはインターネット上の情報の蓄積具合が全く異なる。とにかく「えとわす」には引っかかるものがあった。

 で、長谷川さんのWikiページからいくつかページをたどると、漫画サークル「ぷーるぐえとわす」とか、くら☆りっささんや、徳光康之さんといった漫画家の名前など、記憶にある(ただしすっかり忘れていた)固有名詞に久しぶりに出会えた。

 Wikiによれば長谷川さんは、佐賀大学の学生を中心とした創作系漫画サークル「ぷーるぐえとわす」の元メンバーであり、九州工業大学出身ということである。また、絵に諸星大二郎の影響がみられた時代もあったとされる。上記の時期は私が福岡県に住んでいた年度であり、おそらく長谷川さんが大学におられた時期とかろうじてダブる期間がある、かろうじて。

 結局のところネットをさらっただけでは、件のマンガが長谷川さん作である可能性が「ゼロではないこと」ぐらいしか分からなかった。掲載誌は私自身が購入したものではなく友人などが既に持っていたものだったなら、発表時期は1985年から2~3年前までは遡れそうではある。

 はたして実際はどうだったのだろう。まぁ解決する必要があるような事案ではないんだけど、今後この種の「あいまいな記憶が突然蘇る」事案は増えそうなんだよね、歳には勝てぬ。

2020/02/12

Youtube Home画面の仕様変更再び

 エントリタイトルの件、今朝からYouTube Mixesのカテゴリが無くなり、その内容はRecommended(あなたへのおすすめ)カテゴリ内に表示されるようになった。Home画面にはRecommendedカテゴリしかなくなったので、カテゴリ分けも意味を失った。益々間抜けな見た目、より頭の悪い感じの論理構造を持つものとなった。

 YouTube MixesはYouTubeが自動的に生成した音楽動画再生リストで歴史ある機能だが、実のところ聴いてみても2曲目で耐えられなくなったことしかなかった。そのため、常に10件以上が表示されていたものの、この1年以上は再生しようとしたことすらなかった。そして今や1件も表示されない、10クリック以下の手間で教育完了だ。

 相変わらずRecommendedは役に立たない。趣味・嗜好に癖があるのは認めるけど、ここまで一向に噛合わないというのも凄い気がする。当日観たばかりの動画を5つも6つも並べて、それも私が検索して自力で見つけてきたものばかりを、しかもしょっちゅうRecommendしてくるというのも頭悪い感じがもの凄い、「Recommend、Recommendって何だ?」ってなる。私の検索キーワードからちょっとだけズラした検索結果を持ってくるだけでRecommendedとして十分機能しそうに思うのだが、一体Recommendedって何をやっているのか?

 昔あったRecent Uploadedカテゴリに相応しい動画を大量に混ぜて数を水増ししているのも見え見えで、もう「Recommendedって名乗るな」ってレベルの理解不能の機能となりつつある。

 アイコンはやっぱり大き過ぎ、画面内の情報密度の低さは依然として不愉快だ。不愉快過ぎるんだ、慣れるなんて無理だよ。