2020/03/09

アニメ「映像研には手を出すな!」第10話を観る!

 夕方のシーンで終わる回は当たり確率が高いのか?夕方シーンの導入と使いこなしぶりは、個人的にアニメ版の超プラスポイントなのだ、大抵ちゃんと機能してるからね。相も変わらず金森めっしゃスキー、もとい金森目ss茶スキー、もとい金森めっっちゃスキーもとい、金森メッチャスキーな面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。

 体調がすこぶる悪いので、細かいことはほっといてサクっと行こう。作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 ラストの河原のシーンは原作では陽はまだ高い、夕方としてきたのは意図的だろう。「夕方の河原」は学園モノのラストシーンでは一種定番ではあるのだが、まぁ、その辺りの「型」に頼り切ったシーンの作りではない。間に百目鬼のエピソードを挟みつつ、でも全体としては何気に金森回ではと思った今話、幸いにして金森のキャラブレ感はほぼ無し。ただしアバンタイトルで浅草のスケブを軽くとは言えテーブル上に放り出したのは私の金森像からは×。せめて浅草の腕の中へ、無造作に見えてちゃんと浅草が受けとれるような速度、軌道でお願い。それ、価値の流れの大事な上流源だからさ。回単独では良作感があり、アニメで「足してきた」要素については他話との不整合も無いが、原作由来の部分は他話との不整合がちまちまと有る。そこら辺が、私目線での今話の見え方、捉え方(「評価」じゃないよ)を複雑にする。

 「宇宙戦艦ヤマト2199」に関するかつてのエントリで自分の立ち位置を「物語至上主義」としたが、結局それは作品を選ばず、時が経っても変わっていないみたい。カットやシーン、第*話とかのローカルな要素は全てシリーズ全体といったグローバルな要素(≒物語)に従属、或いは整合すべきである、という考え方であり、「作品全体レベルで一貫性や論理性を重視する」と言い換えても良い。結局のところ、そういうことができる、或いはそういうことが大事だと考える作り手が決して多くないと言うことでもある。作品の出来の向上に寄与しない作り手のエゴ丸出しや楽屋落ちは悪いシグナルだ。本作も駄目だったな・・・とほぼ私の中では確定しつつある、残念ながら。

 小ネタはいちいち拾っていかないけど、あのカットは個人的に見てられなくてね、もうね、痛々しい。「アニメの監督」のステレオタイプって今はああなのか?なら良いけどさ。そういうイメージが無く、特定の人物がモデルとしか見えなかった私にはしんどい。これは私が悪いのか?第1話のアバンタイトルやアニ研特別上映会のシーンのように浅草に色々語らせるのは良い。それが浅草の設定でもあるから、アニメ版の作り手が自らの思いをそこに乗せていくのもかまわない。が、アレは違うとしか思えない、作品の質の向上に何か寄与してるだろうかと首を傾げる。

 「これは音っす。」・・・百目鬼周りのエピソードは削られ気味なので、今話のエピソードを削ってこなかったこと自体は嬉しい。今話の百目鬼エピソードは、第1話で「(学校の)対岸の時計」が紹介されていた以上、出てこない筈の無いエピソードだった。が、第9話、第10話(今話)と百目鬼のエピソードの順番を原作と入れ替えつつ、それぞれのエピソードの展開自体はほぼ原作のままとしたのは余りに拙い、プロフェッショナル「の」仕事とはちょっと思えない。当然、プロフェッショナル「な」仕事にも届かない感じ。

 結局、先の段落冒頭に記載した百目鬼のセリフ含め、順番を入れ替えたことによって生じた不整合と言うか、百目鬼のキャラ立てに絡む要素の登場順のちぐはぐさと言うかの調整が為されていないため、色々と不自然極まりない。引っかかる、というやつだ。これは、以前のエントリで危惧しつつ書いた「アニメ観て良く分からんところがあったけど、原作マンガ読んだらあっさり分かった」という状態に極めて近い。とは言え、さすがに怪力線砲/く号に関しては無理が過ぎると判断してか、「これは導かれている・・・」という「信じるか信じないかはなんとやら」的な、或いは某アニメ監督なら「とんち」と呼んだかもしれないレベルの辻褄合わせのためだけとしか聞こえない浅草のセリフが「足されて」いる。なお、ここで言う「とんち」にはめっちゃネガティブなニュアンスが込められている。

 「これは音っす。」と言うセリフは数カット足してでも第9話で出すべきであったのは言わずもがな、「音の可視化」も第9話はグレースケールだが今話はカラーという違いも意味というか、作り手の意図が全く不明だ。っつーか、とにかくシリーズ内での一貫した演出プランの欠如としか思えない状況が頻出する状態は、本当に観ててしんどい。

 「音」の時間軸が2つ有る、波形の横方向はもちろん波形自体が時間変化している、とか言うのは無粋過ぎですかねぇ・・・まぁ、横方向については何処が「今」か分からないのでなんとも、百目鬼の「鐘の音の音出し操作」の描写も純粋に理系視点で見ると理解不能(=論理的におかしい)となって詰む。もちろん、シンセやDAWなどを触っている人なら本当にイメージに過ぎないことは分る筈・・・まずこの種の鐘の倍音構成はですね・・・「操作」の単位の波形は1周期分だけに見えますねぇ・・・とかね。が、「操作」のイメージとしては直感的で、「他にやり方あるかい?」級にめっちゃ良く分かる。

 ただ直感的な表現の効果を高め、表現自体が視聴者にすとんと落ちるようにするには、やはり先行して百目鬼の異能者ぶりなりのキャラ立てをしっかりしておく必要がある。そういう要素が足りないから、表現なり演出なりに良い意味での押しが効かない、間が持たない。この期に及んでも、少なくとも私は、描写される百目鬼自身の行動から(アニメ版における)百目鬼が如何なるキャラかを読み取ろうとしてしまう。良くも悪くも「原作マンガとアニメ版は別物」との視点に立っているから、アニメ版で語られていない部分を原作マンガに基づいて補うようなことはしない。

 「これは音っす。」と言う百目鬼の両手の間には「音」がある。絵面として、周囲の「音」は既に「どこからともなく」やって来ている。そして、百目鬼は「このように書割の様に重ねてあるんです。」と言葉を継ぐ。ならば、周囲の「音」も「どこからともなく」やってこさせるのではなく、百目鬼の両手なりから出てくる、溢れてくる、配置するといった描写を「足して」「見せて」も全く問題なかろう。むしろアニメでこそこの種の描写は映えるのではないか。演出しきれるのなら、百目鬼が魔法の杖を振った瞬間に周囲の「音」が突如現れても良いし、なんならその脇で箒が踊っていたって良い。まぁ原作の百目鬼の描写は「職人」寄りなので、原作に従うならこのようなマジシャンちっくな描写は選択肢にもならないだろうけれどね。

 斯くの如く、百目鬼が音をコントロールする過程すべてを「鐘の音の音出し操作」と同レベルでちゃんと動かして描写しきってしまう、という選択肢も作り手にはあった筈だ。「鐘の音の音出し操作」の描写の出来に照らせば、それらは十分可能だったと信じる。そしてそういうアプローチを取ることで、これまでの百目鬼のキャラ立ての不足を「今話だけで」かなり補うことができたと思うのだ(私だって、論理性に乏しく、直感的な描写、演出であっても「良い」と受け入れる場合はある。このエントリ内では、TVアニメシリーズ「ラーゼフォン」の第19楽章をそんな例のひとつとして挙げている)。

 繰り返すけど、回単独では良作感がある。細かいところまで目が行き届いて作られている印象が強く、例えば無くても良さそうな「女性教師がスマホ画面を見ながら表情を曇らせる」カットなどは、一連のカット内のアクセントとして絵的にもストーリー上の意味的にも実に良く効いている。百目鬼の「鐘の音の音出し操作」も、アニメならではでちゃんと動かしつつ見せてくれている。作画に引っかかりが無かったおそらく初めての回でもある。(本ブログで言うところの)「遷移過程」の描写も手慣れたものである。

 ただ小ネタ絡みには一つ疑問があって、水崎のカバン(バックパック)を今回は公衆電話型にしたのは何故なんだろう?アニメ版でこれまで出てきたことあったっけ?とあるカットではカバンの所為で「これ水崎だよね?」って観てて+ワンテンポ入りましたよ。ちなみに原作ではこのカバン、印象に残るぐらいには出てきてるけど、単行本でしか読んでない身には色は分からんのよね。根拠無く黄色だとばっかり思ってた。
 
 2枚の絵を合成したため、右上の窓枠の整合が犠牲となっておりますが・・・。OP明けだったかのシーン内でカメラがテーブルの下から上へ緩急持って移動しつつ金森が足を組む様から顔(顎?)含む上半身までを追うカットや、上図のカメラを横移動させて3人の「いかにもな状態」を順々に見せていくカットなどは、ホント良かったね。ちなこのカットの浅草、何気に可愛いじゃねーか。

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