2020/03/05

アニメ「映像研には手を出すな!」第9話を観る!

 原作の「私はその昔、一軒の酒屋が消滅する現場を見た!」のセリフと表情に「金森の原点を見た!」と思った面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。

 原作のこのセリフのコマでの金森は珍しく奥歯まで歯が一本一本描かれていて、「初めて見る表情(の描き方)だなぁ、なんか熱い!」と思っちゃった訳ですよ。改めて原作をざっとチェックしてみても、近い描写は「あんたがこのロボットに満足できないなら、『更に好き勝手描く』以外の選択肢はないんすよ!」のセリフ時とか、やっぱり「熱い!」じゃないですか。でも、アバンタイトルでの「新作を作りますよ!DVDを売りまくりましょう!貴様ら!」というセリフ中の「貴様ら!」はねぇなぁ、要らねぇなぁ・・・私の中の金森像とは完全にマッチしないんだな、これが。例えば「設定や物語を作らない浅草」や「絵を描かない水崎」に対してならともかくね、ここはドス利かせ気味で「お嬢さん方?」の方がまだ俺イメージ寄り。あ、ホワイトボードの微かな光の反射描写は良いね。

 で、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 今回はネガティブな引っかかりは小さなのが一点のみ。やっぱり百目鬼の扱いが雑ですよ。怪力線の発砲前後の音に関して(本ブログで言うところの)「遷移過程」中で百目鬼が独自の音を提示しつつ映像研3人の会話に割って入ってくるけど、唐突過ぎてちょっとしんどい。実は展開そのものは原作通りのなんだけど、原作では先行する話(第20話、水力の鐘みたいなもの(祭具)が登場)で「音の可視化表現」も含めて「遷移過程」中での百目鬼の描写が既にある。アニメ版ではこの先行するシーンが無いため、原作のままの展開では唐突感は出ざるを得ないんですよ。ちなみに、既に百目鬼もいるよ~ってことが分かるカットが先行して有れば、それだけで良かったんじゃないかなぁ。

 んで、浅草のセリフ「そして音だ!百目鬼氏!」から百目鬼の顔のアップの流れは原作では回の最後の3コマなので、アニメ版でも十分に「ばばーん!」となっても良い画作りになってます。このシーンもほぼ原作のままの展開、画作りなので、最終カット感のある百目鬼の顔アップのカットから次のカットへのつながりがイマイチ悪い感じ。百目鬼の顔アップカットでは、どうせなら「よし、やったろうじゃん」みたいな表情変化ぐらいもう付けてやんなよって思いました、正直。

 アニメで「足してきた」スポンサードがらみのシーンや関連する展開、UFOの目的などの金森や水崎の疑問の提示などはすっと受け入れて、とにかく先を期待。「芝浜UFO大戦争」がアニメ版の最終作品になるんだろうから、アニメ最終話に向けて色々仕掛けを「足す」のは必要でしょうね。原作の潜水艇から次元潜航艇への変更は成程&納得、螺旋商店街は裏表逆だろうと違和感バリバリだけど、確かにコレの扱いは難しいから事前の仕掛けは必要だよね。

 ただ、フルーツ担々麺屋の食事スペースから見える厨房の描写はちょっと悩ましいなぁ。何らかの伏線とかなら良いんだけど、単なる引用だったらツマらんな、と。プロによるプロの作品の引用っつーのが心底大嫌いなのでなんとも。作品内で機能していれば無問題なんだけど、「ピュアな引用」、「引用でしかないもの」は大嫌いなんですよ。自分の中で幾つか保留にはしているんだけど、本アニメシリーズでは「引用でしかないもの」っぽいカットや描写が個人的な感触として目立ち気味、少なくとも「引用される側が引用なんてしない」ことには意味があるように見えるんですがねぇ。「リスペクト」って言えば言葉の響きは良いですが、本来それは相互的なものであるべきで、一方的でかつ作品中で機能していない引用はセンスも意味も無いパクリに過ぎないとしか思えないんですね。プロがファンフィルム作っちゃいかんでしょ、それ誰得なんですか派なんですよ。

  あと、アニメ版では学校が面してるのは「芝浜湖」じゃなくて海なのかな?

 ちび森氏のシーンは期待以上の出来、大事にして欲しかったシーンなのでとっても嬉しい。冒頭に原作には無い追加設定の説明があったり、一部の客の見た目を原作から変えてきたりとかあったけど、これらは完全にプラス。原作通りの展開をあの絵のスタイル(「遷移過程」のアニメ版での描写スタイル)できっちりやりきっちゃた上で、アニメ版の武器とも言える「間のコントロール」によって雑貨店の運命を知って呆然とするちび森氏の心情が痛いまでに伝わってきてね、いや、切ない、切ないなぁ。

 作画の凸凹については、今回は「いかにもTVアニメだよね」な動かし方(悪口ではないよ)の多用や、原作の絵に作画を寄せて来た感じがひときわ強い。前者の端的な例としては、浅草が「百・・・八十万円!」と絶句するカットが挙げられようか。見開いた目の位置や大きさはほぼ不動で、それら以外の要素のみ明確に動かすという手慣れた感じの処理で見せる。小さな黒目の大きさもピクピクと変わるなど手は入っていて、手抜き感などは感じないよ。ここでの「手慣れた」は「見慣れた」の裏返しでもあって、視聴者には優しい、理解しやすいってことでもある。

 あと一見して「どのようになってんだ?」「あ、やっちゃうんだ!(褒」と思ったのが、最終カット前の浅草のトランスフォーム。マンガなら大抵コマとコマの間のものとして直接描かれることは無く、アニメでもコマ割りに対応したカット割りを使いそう・・・ん、原作に直接対応するシーンはあったかな?

 頭身の変化だけざっと追っかけると下のような感じになるけど、当然間にある絵の中には微妙なものもあるように見える。動画データが手元にあったら(ご存知の通り入手方法が無い訳ではないんだけどさ)、一度はフレーム単位で絵をチェックしてみたいね。今回使用した絵は、YouTubeに個人が上げた2分ぐらいの動画からのキャプチャしたもの、思い通りのところでは止められんよ。

2020/02/24

アニメ「映像研には手を出すな!」第8話を観る!

 原作からキャラがブレてない金森はやっぱり良いね。Канамолимєтцаский(仮)(カナモリメッチャスキー)の面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。

 作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 細かいことはまずは良いんだぜ。第8話でついに来た、ほぼ手放しで取りあえず言っておこう「アニメ化して良かった!」回。 半分以上はアニメ版で「足してきた」ロボ研メンバーの大活躍によるものだが、第7話と違い色気ある「アニメ」の作画も要所要所で効いている(「色気」については先行エントリ(長い、くどい)内の記述を参照くだされ)。

 段ボールを着て逃げる水崎を金森が誘導するシーンとか、ロボ研小野がジップラインを使って「飛ぶ」シーンとか、マンガでは表現しにくい、効果的な表現には手間がかかって勢いやスピード感が死に易そうなシーンが、TVアニメならではの手際でさらっと効果的に描かれている。良いね。いやマンガでもできるんだけど、クライマックスならともかく、途中で「さらっ」てのはやっぱり難しいと思うんですよ。

 作画に関しては上述のように色気があり、なんちゃって感が多少あってもそこは気にならない。キャラの表情の豊かさ、動画枚数に見合った演技のさせ方・見せ方はTVアニメのある意味真骨頂だ。理想的には「水崎の描いたアニメーション」との対比も出せることになる筈なのだが、そこは後述する視聴者に対する様々なフックなどのせいで、まぁ、良くも悪くもうやむやな感じになっている。ホント、良くも悪くも。

 作画の色気について多少具体的に触れておくと、まず運動途中の物体の移動を表す効果線やブレを模したギザギザの輪郭線の使用がある。例えば、本エントリ上端に示した金森がボードをさっと持ち上げるカット(1枚絵として見ると、「手はどうなっとんねん」とかツッコミどころはあるが)、映像研3人が「気合だー!」と文字通り気合を入れるシーンに先行する水崎が握りしめる手のアップのカットだ。高速で動いて(いるように見えて)ピタッと止まる、観ていて気持ちの良いメリハリある動きだ。まぁ、第7話の「ダンスも動きの・・・」辺りのシーンでとっても欲しかった要素と言える。

 次いで表情の豊かさ、変化はほぼ全てのキャラに及ぶ(百目鬼や1カット?しか登場しないソワンデなどは残念ながら除く)。敢えて1カ所取り出すならば、ラスト近く、水崎が両親と話をし、「さすが役者夫婦・・・」のセリフをしゃべるカット内での表情などの変化だ。定番の軽い驚きを表すような表情と(今度はゆっくりと)首が伸びるような作画(実際の人間では首を後ろに引いたり、姿勢を正したり後ろに反ったりに相当する動きか)に続き、下図のような原作には無いなんとも微妙な表情を見せる。良いね。第7話に欠けていた動きとは別の要素は、まさにこういうところなんだ。あ、ロボ研のロケット発射のカウントダウンのシーンでの、浅草と金森のカウント時の身の乗り出し具合の差や動きのタイミングの微妙な違いも良いね。そしてこういうシチュエーション下では勢いや熱を焚きつけることはあっても、それらを削ぐようなことは絶対しないのが実は熱い奴、金森なんだぜ。
 最後に目に付いた作り手側からのフック、小さな目くばせの類や、個人的な引っかかりをざっと流していこう。

 まず百目鬼は映像研所属ではないということで、今後も扱いはこれまで通りのぞんざいに見えるもののままなのだろう。話数などとの関係で百目鬼主体のエピソードは切らざるを得なかったのかも知れないが、第2シーズンは無いとしておかないと色々と禍根を残すことにはなる。セリフのある登場シーンはアバンタイトルの音声編集シーンだけだが、その後の食事シーンにはカップ麺が4つあるし、火の周りには誰も座っていないクーラーボックスが1個(その前に未開封カップ麺)あるので、いないことにされている訳ではない。まぁ、空いたクーラーボックスの横に入口があるテントで寝ているのかもしれない、原作では昼寝を(一度しか)したことがない百目鬼ではあるが。

 すっごく淡白な描き方なのだが、百目鬼の不在こそアニメ版の百目鬼の性格や行動を反映した描写なのだろう。ただこうも徹底的に映像研3人から百目鬼不在に関する言及が無いと、いよいよ不自然さの方が目立ってくる。アバンタイトルを見る限り、浅草が百目鬼に感じている距離感は、美術部メンバーに対するそれよりも明らかに近い。この辺をサポートするような描写はやっぱり欲しい。ちなみに百目鬼用と思しきカップ麺はカレー味、名はパーカーと英米っぽい。と言うことで、アニメ版では英国系1/4、インド系1/4辺りを想定しているのかねぇ。
 水崎の走りのフォームについては、第1話のカイリー号のシーンでの俯瞰で描かれたちょっと癖のあるフォームが記憶に残っている。第1話での腕はむしろ常に身体の外で開き気味で振られており、本話のそれ、特に段ボールを着ているときの前方で内側に閉じるような腕の振りとはかなり違う。ただ、後方に腕をほとんど引かない点は共通している。なお、第1話では使用人(メンインブラック)との絡みでも走るシーンがあった筈だが、そちらは特に記憶に残っていない(ので、おそらくありがちな走りの表現だったのではないか)。本話内での整合性には問題無いが、「あれが水崎の日常的な走り方ですよ」といきなり言われても、第1話から見てきた一視聴者としては「はい、そうですか」とは言いかねる。
(2020/3/4追記:第5話アバンタイトルでの水崎の走りのフォームも新たに見直すと確かに「癖がある」けど、う~ん、 第1話と本話のそれらの中間か第1話のそれ寄りかなぁ・・・駆け出した瞬間ってのもあるので、多少姿勢や腕の振りが変だったりしても視聴者はそのまま受け入れがちなんじゃばいかな。ちゃんと以前から描写してたのは確かなのだが・・・本話でのフォームの方が「極端な描写となっている」と見做すべきか・・・次話以降での描写次第ってことですかねぇ。)

 「じゃぁ水崎の箸の持ち方は?」と問われるとさすがに困る。第6話のラーメン屋のシーンでテーブルのメニュー表がラーメンを食べる水崎の口元を隠している点については先行するエントリでちゃかしつつ触れているが、「実は水崎の箸の持ち方を視聴者から隠していたんですよ」とかだったらどうしましょうかねぇ、いや伏線の観点からならむしろ見せるべきだったんじゃないかと(確認すると、別回のラーメン屋での静止画による食事カットで確かに見せているのだが、箸がクロスした状態で麺を挟んでいるので持ち方以前に変な絵なのよ)。っつーか、この時点で水崎だったら浅草や金森と箸の持ち方が違うことに気づいても良い様な、音曲浴場ザリガニもあったし学食にも3人で何回も行ってる訳だし・・・水崎家族も使用人達もこれまでの友人達や読モ関係者もどうなのよって考えると、ちょっと無理のある設定ではないですかねぇ。こういうのをご都合主義って言うんじゃないですかね、シリーズ全体の整合性は誰もみていないんですか!ちな、ラーメン屋では水崎はライトブルーのマイ箸持参だったかもです。

 これまで触れてこなかったけど、作画や演出には既存のTVアニメシリーズのDNAと言うか、雰囲気と言うかを感じることが極端に多いのが私にとっての本作の特徴だ。今話は「四畳半神話体系」を思い出しました。「監督いっしょやん」っちゃぁそうですけどね、非常にネガティブな意味で思い出した訳で、そこは言わない方が良いかと。

2020/02/22

続々・某YouTube動画の再生数急増

 私のYouTube動画「SDF Macross - VF-1A Rig Test」の再生数爆増(とその後の減少)についての最終報告です。関連過去エントリは以下。
以前のエントリで予想した通り、3週間(21日)でほぼ状況は終了しました。2/20までの4週間(28日)のチャンネルアナリシスのサマリ(まとめ)は以下の通りです。
Subscriber数(登録者数)は約+155%、Views(再生数)とWatch time(再生時間)は+999%以上と、異常な状態だったことが分かります。なお、昨年夏ごろのチャンネル収益化に必要な条件は登録者数1,000以上、再生時間4,000時間/年とのことなので、意味の無い比較ではありますが、Subscriber数はやや及ばず、再生時間は1年で必要な分以上を4週間で稼いだことになります。

 次いで、件の動画のみの再生数の2/20までの28日間の変化です。
再生数は2/1から急増、ピークは2/4で、その後は基本的に緩やかに減少しています。この再生数の99.6%がYouTube内での再生、99.4%が再生ページのリファレンス元がYouTube内の別ページです。つまりこの再生数の変化の原因は、実質的にYouTube内だけにあると言えます。

 下図は、同動画のImpression数(インプレッション数)の変化です。Impressionとは「YouTubeが動画のサムネイルを表示した回数」であり、ほぼRecommended数(あなたにおすすめの数)となります。 
インプレッション数の変化と再生数の変化との一致がかなり良いことが分かります。両者の変化の微妙な差は、下図のClick-through rate(クリック率)の変化で説明できます。
クリック率は「表示したサムネイルのうちクリックされた割合」であり、2/1以降のインプレッション数の増加とともに徐々に1/3程度まで減少しています。「再生数≒インプレッション数×クリック率」なので、インプレッション数の変化と再生数の変化に微妙な差が出てしまった訳です。またクリック率の低下は「『無駄なあなたにおすすめ』の割合の増加」を意味するので、「あなたにおすすめ」の機能(所謂Recommendエンジン)は、無駄を減らせるようにおすすめ先や数を調整した筈です。

 起きたことは単純です。YouTubeで「あなたにおすすめ」された数が4日間だけ激増、その後ゆっくり減少したため、再生数もその変化にほぼ沿って増減したというだけのことです。1年前には20回/日の動画の再生数が約60,000回/日まで増えました。実に3,000倍です。「あなたにおすすめ」された数の増加から減少へのトレンドの変化には、クリック率の低下が影響している可能性はあるかと思います。

 では「あなたにおすすめ」の急増の原因は何でしょうか?残念ながら入手できるデータからは事実上何も分かりません。ただ、急増までの1年間(2019/2/1~20201/2/1)の件の動画の統計データを見ていると、ちょっと気になるところがありました。まず再生数です。
 10月中旬から11月中旬の約1ヵ月間の間に緩やかなピークがあります。また再生数の微妙な増加は1月中旬から見られます。次いでインプレッション数です。
 増減の特徴は再生数と同じです。特に変なところは見られません。では最後にクリック率です。変動(ギザギザ)の幅が大きいのは、分母のインプレッション数が少ないことが原因です。
ここで、この1ヵ月とは違う特性が見て取れます。インプレッション数が増えると、クリック率も増えているのです!どうやらこの時期、「あなたにおすすめ」は効率の良いおすすめ先、つまり件の動画への興味が高いユーザーのグループでも見つけたようです。

 そこで、見つけたグループと興味の方向性が近そうな、しかし規模が数千倍大きいグループにも件の動画を「おすすめ」してみたら・・・というのが今回の急激な動画再生数変化に対する私の仮説です。さて!

2020/02/19

アニメ「映像研には手を出すな!」第7話を観る!

 金森の性格はきっついが悪くはない、基本冷静だが時に熱く、怒ることはまずない・・・という認識の面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 今回は出先で書いているので、原作マンガが手元にありません。視聴も出先。
⇒ 2020/2/21:帰宅後に原作マンガの内容を確認。追記などはしたけど論旨変更は無しです。

 アバンタイトルはアニメで「足してきた」水崎のエピソード。アニメーションの作画ってそういうものなのか、必要な観察眼ってのはそういうものなのか、とそのまま受け入れてしまえば無問題、画も良く、動きや展開もテンポも良く、おそらく作り手の意図通りの出来であり、面倒くせぇ私も黙らせた。OP突入時には「うむ、今回は水崎フィーチャー回か」と思った。まぁそうなんだけど、OP後は結構ノイジーで、水崎フィーチャー感は大幅にスポイルされている。アバンタイトルの優等生的な出来の良さ感は消失し、良くても「平凡」としか言えない出来となる。水崎の熱い言葉を支える画も結局視聴者に提示されないままで終わり、EDを観ている(恐らく困惑顔の)私の耳元で何者かが水崎の声で囁く。

「『アニメ』に『アニメーション』が表現できないのは当たり前じゃん!」

そりゃそうかもしれないけどさ。

 ここで言うノイズとは、金森のキャラのブレ、百目鬼の描写の原作とのギャップの大きさと見てて悲しくなってくるような扱いのぞんざいさ、原作マンガの絵をそのままなぞったために意味が不自然にならざるを得なかった?カット、動いてはいるけどなんちゃって感の凄い作画などである。

 なお「巨神なんたらvsウルトラなんたら」的なサムシングはどうやってもあーなっちゃうのは避けられそうにないので、私は最後の最後まで「アニメではやらない」ことを期待していた。妄想シーンなので、前フリの追加やBGMのサポート、光線やバリヤーの描写を「浅草らの手描き風」にするなど、他の妄想シーンとの整合性は最低限取らないと、ね。でも、そこまでやっても馴染んだかは分からない。

 さて、

百目鬼の登場が早くなったり美術部が登場してしまったりしているため、映像研内での打ち合わせのシーンはどうしても原作そのままとはいかない。今回の打ち合わせ時の金森の描写は、やたらイライラしているように見えてしまって個人的にはいただけない。舌打ちにもいろいろニュアンスはあるんスよ。イライラ状態というのは一種の思考停止状態だから、浅草らの状態に対して常に「どうしたものか、どうすれば良いか」と考えているという私の金森像と全く一致しない。さすがの金森でも「あんた何してくれてんだ!」となる描写は原作にもあるが、今回の内容はまだそうなるレベルのものじゃない。今回の金森の描き方は、全体として薄っぺらで、頭悪そうに見える方向にブレている。

 百目鬼についてはキャラデザ、声ともに原作よりは可愛い方に寄せてきていて、登場時には違和感が凄かった。そのうち慣れるだろうと思っていたが、制服をちゃんと着ているという見た目から始まり、どうにも原作のキャラからアクを抜ききったような淡白な描き方に違和感がぬぐえない。よりにもよってロボットの歩行「音」に関するシーンにも登場させてもらえず、扱いがどうしようなくぞんざいに見える。

 百目鬼は原作中、最もアクが強く、実世界にいても扱いにくいキャラだろう。そういうところが描写に全く見えてこない。「連れション文化圏の人ではない」という言及すら無い。かといってアニメ独自のキャラ付けがあるかと言えばそんなものも無く、原作には出ない久保(美術部)の方がより丁寧に扱われているようにすら見える。金森による直接の言及も有るし、打ち合わせシーンのとあるカットの思案顔の金森の視線の先には明らかに久保がいる。

 今話の美術部との打ち合わせシーンは、レイアウト固定で汗ダラダラな描写(浅草自身は「よくある演出なのでワシは嫌い」と言いそう)と分かり易いまでに浅草の試練シーンとなっていた。前話では数カットを使った天候の変化で表現したと思しき要素が、今話は汗ダラダラ1カットで終わりである。本シリーズにおけるこの種の描写に対する一貫した演出プランの不在は間違いない。「美術部との打ち合わせ+浅草の試練」はアニメ版で「足してきた」要素だが、一貫した演出プランの不在は、その要素のシリーズ全体やストーリーの中での重要度が、作り手内で曖昧なまま共有もされていないということだろう。逆に言えば、ストーリー展開や浅草以外も含む今後のキャラの挙動などに影響しないというレベルということか。ならまだ良いが、「久保の為」なんてことだったら、「いや、百目鬼に手をかけてやれ」ってなりますよ。

 次いで、原作マンガの絵をそのままなぞったために意味が不自然にならざるを得なかった?カットについてだ。

 銭湯で金森が浅草にお湯をぶっかけ、お湯でゆがんで見える浅草の顔?を水崎が観察するシーンがある。「浅草の顔?」がポイントである。この時点で私の記述に引っかかりを感じたり先の展開が読めた人は、私より面倒くせぇ奴に違いない。

 マンガの場合、「お湯でゆがんだ浅草の(オモシロ)顔」をコマで見せてから水崎が「もう一回!」と金森に声をかけるコマで、「水崎はお湯でゆがんだ浅草の(オモシロ)顔を観察しているのだな」と大抵の読者は解釈するだろう。マンガのコマを追うタイミングは読者に委ねられており、更に続くコマの解釈の有無も同様である。一般的に同一のシーケンスを表す一連のコマ運びが繰り返された場合、読者による各々のシーケンスの意味の解釈は最初のシーケンスを読んだ時点で為され、2回目以降のシーケンスで新たに解釈し直すことは稀である。つまり、2回目以降のシーケンスのコマに視線を送ってはいても、流し見しながら「同じことが繰り返されている」という確認をしているだけというのが普通だろうということだ。だから、本エントリ先頭に示した絵が3回目ぐらいのシーケンスで現れても、高確率で読者はさらっと流してしまって、絵を改めて解釈はしない。まぁ再解釈する人がいない訳じゃないんだろうけど、少なくとも原作を読んだ際の私は、マンガで発動しがちなこの一種のマジックに完全にかかっていた。

 しかし、具体的な画であるカットの連なりをリアルタイムで見せざるを得ないアニメでは、マンガでは高確率で発動するその種のマジックは発動しにくくなる。結果、本エントリ先頭に示したカットが現れる(つまり、一定時間強制的に見せられる)と、面倒くせぇけれどもピュアで素直な側面をも持つ視聴者は、それまでの解釈に引きずられることなく新たに明確に認識する・・・「水崎は、実はお湯でゆがむ浅草の『後ろ頭』を観察している」と。これ、アニメの作り手の意図通りなんですかねぇ・・・いや有りがちと言えば有りがちな事態なのだが、プロならば予測可能だと信じたい事態でもある。受け手視点でのマンガとアニメの文法の違い、土俵の違いってやつの一端かも知れない・・・とまで書いたところでオチなのですが、水崎の見ていたのは実は「水の動き」でした。少なくとも水崎はそう言っている。いやぁ、原作を読んだときから始まってアニメ版初見時まで、「お湯でゆがんだ浅草の(オモシロ)顔」に引きずられて二重に勘違いしちゃってたなぁ・・・と水崎のセリフを聞いて一瞬で気付いた時の絶望感たるや、「勘違い野郎」かつ「面倒くせぇ奴」はホント迷惑ですよね、そして「あ、アバンタイトルの内容と(後で分かるが最終カットとも)そう繋げてくるのか」とも。

 あと、お湯の作画には手間をかけたと思しきところが多かったけれども、この種の癖のある描写は視聴者の記憶とのミスマッチから不自然に見えてしまうリスクがある。ミニチュア特撮が水を苦手とした理由と同じだ。一応流体力学分野の技術で飯を食っている身としては、密度が低そう(結果として粘性がより低そう、表面張力がより高そう)に見えるカットが多かった。「原作マンガのお湯の描き方も微妙じゃん」と言われれば確かにその通りなのだが、極端に言うと原作マンガではコマによって表面張力などの水の特性も違って見える。この辺りを説明すると長くなるので詳しくはしないけど、TVアニメではフレーム固定でアップ~ロング(引き)があるだけだが、マンガでは更にフレームに相当するコマの大きさも変わるからねぇ、とだけは書いておこう。で、高速度ビデオカメラのレンタル費用も10年代後半から安くなってきたし、スタジオは一度レンタルして色々撮影してみてはいかがだろうか、エドワード・マイブリッジの馬の連続写真並みに発見があるかもしれませんよ。ちなみに、分裂した水やお湯の塊の大きさや気泡の寸法や形は、主に粘性力の温度依存性の影響で25℃付近より低温か高温かで変わるんだなこれが。と言う訳で、水を使った実験ではちゃんと水温管理をしよう(誰得情報

 さて、

アニメの作画というのは不思議なもので、キャラ達の作画に凸凹が多少あった方が観ていて面白かったりする。これは良し悪しとは別の話なので念の為。ここで凸凹とは、動いたり動かなかったりとか、特定のキャラがやたら可愛かったり可愛くなかったりといったことを指す。例えば第2話について「水崎の顔がやや吉田(健一さん)キャラっぽいカットが有ったな」と以前に書いたが、まぁ、そういうところも楽しみどころになり得るのがアニメのTVシリーズだ。作画の凸凹と言うと、キャラのアップのカットは作画監督などの筆がきっちり入っていてちゃんとしているが、ロングのカットは作画崩壊寸前というケース(視聴者として、心意気だけはきっちり受け取らさせてもらう)もあるが、今話のケースはもちろん違う。

 OPより後は悪い意味で凸凹が無かった。特定のキャラがより可愛く描かれるでもなく、基本的に動いてはいる(これ自体は良いことなんだろう)けれどメリハリある動かし方はほぼ皆無で、無難ではあるんだけど特筆すべきところも無い。動かし方のなんちゃって感も強い。こういうのは説明しにくいんだけどね、魅力が無いとでも言うか、色気が無いとでも言うか。ここでの色気は「セクシー」という意味では当然ない。所謂「色気を出す」といった表現に使われる、現場の判断によるほんのちょっとした一手間の付加や、不自然さは出るかも知れないけど視聴者に対するフックになる意図的なキャラの芝居タイミングのズラしなどに相当するものである。アバンタイトルにはそれらの存在が感じられた。なんちゃって感は「取りあえずこんなもんでしょ感」と言いかえても良い。歩いているけど接地感がないとか、本来動きにラグが生じるような要素の動きにラグがないとかが例に挙げられようか。ダンスのカットとか見るに実は動画枚数少ない?この辺りは良く分からんけど。

 なんちゃって感は、個人的にロケットの打ち上げシーンで極まる。ロケットのハードウェア構成がモデルになった実際のロケットと同じなら、色々と描写が不自然でかなり淡白だ。ブースターの噴射炎の有無などカット間の描写の不整合もある。不自然な点について具体的に細かくは書かないけど、この辺りをどうして本エントリで取り上げるかについて簡単に触れよう。

 このロケット打ち上げシーンは、見せ方という意味で作画と演出について語るシーンなのだが、同時に、浅草のロケットや打ち上げ施設に関する知識や水崎の観察眼の発露の描写でもある。つまり、このシーン内の不自然な描写や誤魔化しは、浅草の知識不足や勘違い、水崎の観察力や観察自体の不足や観察力やこだわりの限界を描写していることに等しい。敢えて極端で酷い書き方をさせてもらうと、浅草や水崎が能力不足に見えるならば、それはアニメの作り手が能力不足であるからだ、となる。或いは、アニメの作り手は無数のこだわりの塊であろう水崎の作画を再現しない又は再現する気が無い又は再現できない、となる。いや、アニメの作り手は、水崎のこだわりなんてこんな程度、と考えているということか。そんなことどうでも良い、と考えているのなら余りに悲しい。

 細かくは書かないとしたけれども、煙を引きながら上昇するロケットの姿を「1枚のロケットの絵を縮小しながらスライドさせて見せた」としか思えない(Flashアニメには失礼ながらFlashアニメかよって)カットには唖然とした。カメラ視点から見たロケットの向きの相対変化(つまりロケットの三次元的な見た目の変化)は当然表現されず、上昇に伴う縮小具合も、水崎がこだわっている筈のロケットの角度も不自然だ。こだわりの作画とは程遠い。こんな画では、浅草や水崎のセリフはただただひたすらにひたすらにどうしようもないまでに空しい、嘘になってしまっている。いや正しいのか、濃厚さの欠片もない作画は視聴者に濃厚さなんぞ伝えない。

「『アニメ』に『アニメーション』が表現できないのは当たり前じゃん!」

そりゃそうかもしれないけどさ。そんなの誰の目にも分かってたことじゃんか。だからアニメの作り手がどう挑むのかを見せてもらおうと、第3弾PV以降から毎回観てる訳ですやん、こんなエントリもシリーズ化してしまってる訳ですやん。

 私が以前のエントリで書いた「アニメ化に覚悟がいる原作だ」の理由の一つがここにある。水崎が作画したシーンに相当するシーンは、「水崎が作画したシーンに見える」ようであるべきだ。水崎のこだわりを、或いは限界をも「演じた」作画が必要なのだ。そういう画作りになっていないから、特に原画撮り相当の画を使ったシーンは、私にはアニメの作り手の楽屋落ちにしか見えない。

 幼い水崎のスケッチやクロッキー(つまり、動きの観察結果だ)が、おばあちゃんがベッドから立つことや水崎に手を引かれながらではあるが自分の足で歩くこと繋がるアバンタイトルの展開やシーンは良い。でも劇中の映像研の作品に直接繋がる要素は未だ無い。成程、アバンタイトルの最後で「ロボットのチェーンソーを使った移動カット」のラフが「水崎が車椅子に乗って方向転換などをした経験」に基づいて描かれた様子が示唆されており、その種の作り手からの目くばせが無い訳ではないことはさすがの私でも気付いている。が、現時点ではそこまでだ、

 実は、おばあちゃんがカニを食す様子を幼い水崎がスケッチするシーンがでもあれば、劇中で映像研が製作中のアニメを表現する「原画撮り相当の画を使ったシーン」の見え方や意味は違ってくる。「そんなのギャグになっちゃうじゃないか!」と思う方は、「カニを延々と食う」じゃない場合でもそう思うか考えてみて欲しい。例えば、大型ロボットの人間大縮小版の自立型ロボット(人が操縦しない人型二足歩行ロボット)に、人が補助しながら立つことや歩くことを学習させているシーンだったらどうだろう。仮にもロボ「研」なんだから、そういうのもアリなんじゃないか。

 「カニを延々と食う」シーンがロボ研のリクエストでなければ、それすなわち映像研乃至は浅草の選択ということになる。アニメの作り手の考える浅草のセンスと、原作マンガから私が解釈している(すなわち極めて主観的な、ということ)浅草のセンスとの乖離は大きい。私の中の浅草はもっとセンスが良い。「カニを延々と食う」シーンって、「ロボットvs巨大ガニ」において見せられて面白いものなのかな?劇レベル或いは劇中アニメレベルで何か機能しているのか?

 同じ視点から言えば、実は原作の音に対する百目鬼のこだわりのアニメによる描写は本質的に水崎のそれらより格段に難しいだろう。アニメに全く向かない。原作第5巻の最後の4ページには思わず唸るとともに眩暈もした。どの程度成功していると言えるのかは分からないが、「音のつくる場」のマンガにおける表現方法としての一つの選択、或いは解が具体的に示されている。最終ページに至っては音は飛翔する粒子の如く描かれ、映像研メンバーと相互作用までする。原作ではそんな表現にまで繋がっていくことになる百目鬼の音へのこだわりを描く・・・アニメ版の作り手に覚悟はあるか、挑むのか、必要な力はあるか、それとも自覚的、無自覚を問わず逃げるのか。積極的な逃避はこの期に及んでは見識ある選択肢ではある・・・本作に手を出したことを除くと、その選択に何か問題があるようには思えない。

 手書きアニメによる大型ロケット打ち上げシーンには、幸か不幸か映画「王立宇宙軍」のまさにそのままのシーンがマイルストーン、或いは一種のベンチマークとして存在する。作画陣の執念と気迫を感じるカットの連続だが、同時にロケットの打ち上げ映像などの観察の賜物でもある(筈)。前者はともかく、やる気があったのなら後者に関して多少の気概は本作でも見せられたんじゃないかと思う。私自身がそういうところには敏感なつもりだし、そういうところを感じられなければ面倒くせぇ奴なんて自称することは止める。モデルになったロケット(または先行形式)の打ち上げシーンの動画なんて、ネット上にいくらでもあるでしょうに。

 サターンⅤロケット打ち上げシーンやロケット下段構造物の分離シーンを日常的にTVで観て育ち、映画「王立宇宙軍」のロケット打ち上げ準備から有人カプセルの軌道投入までを「コレコレコレ」と思いながら劇場のスクリーンで眺め、大学生時代には液体窒素や液体酸素を実験で扱い、ドラマ「Form the Earth To the Moon」と「Space Race」を年に一度は必ず見返す現役の宇宙開発オタクはホント面倒くせぇんだぞ。

2020/02/16

Thunderbirds Are Go、シーズン3も大詰めなのかな?

 本ブログでは役立たず扱いのYouTubeの新Home&Recommended機能だが、Home画面変更からほぼ3ヵ月目の今日、ついに初めてサムネイルをクリックした。Thunderbirds Are Goのシーズン3エピソード25のティーザーだ。おそらくRecent Uploaded相当枠で、私の嗜好を反映したRecommendedではないだろう。少なくても1年、Thunderbirds Are Goがらみの動画がHome画面でRecommendされたことは無く、Thunderbirds Are Goがらみの動画も観てないからね。

 それはさておき、360p解像度と低品質なのは何故なんだろう。
 シーズン1はNHKで全話観た。が、シーズン2の頃には体調を崩してTVを観るのもつらくなっていたから、結局国内でTV放送があったのかも知らないまま現在に至っていた。チェックしたシーズン3トレーラー、話数、それに「ZERO-XL(New ZERO-X?)で父親を救出に向かう」というエピソードのストーリーからは、シーズンのみならず、シリーズの大詰めっぽい感じが伝わってくる。

 チャンネル内の動画をつらつら眺めていると、CG、ミニチュアとWeta Digitalが担当しているのは変わってないと思うんだけど、CGカットの出来と言うか、見た目の良さはやはりシーズン1から上がっている。常にひと手間加えられている感じ、と言うのがより正確かもしれない。ミニチュアに対するライティングも、よりスケール感(影のエッジの鋭さ、またはぼやけ具合が効く)を考慮したものになっているようにも見える。水、海がらみで「あ、違う」と感じるカットが現れる頻度が高いね。

2020/02/15

「オルレアンの女」というタイトルのマンガの記憶

 初老親父の独り語りである。

 都市伝説を紹介するYouTube動画を観ていて、英国の「ブラックジャック」という怪物が紹介された。要するに「巨大な黒い犬」である。と、突然「オルレアンの女」というタイトルのマンガを読んだことがあったような・・・という記憶が蘇った。

 「オルレアンの女」だからジャンヌ・ダルクがモチーフっぽいのだが、オルレアンという土地そのものが重要なモチーフで、とにかく「黒い犬」が出ていたような気がしてしょうがないのだ。掲載はマイナー雑誌かおそらく同人誌、絵は諸星大二郎風、読んだ時期は1985~1990年だ。

 ググってみると、長谷川哲也さんが同名の作品を、「えとわす」という媒体に描いた可能性を示唆する個人の文章がひとつだけ見つかった。大量の情報が有るように見えてダブりが多く、90年代前半以前の情報がほとんど無いのが実に日本のインターネット的である。この辺り、ドキュメント化文化(文書の作成、改定、登録、整理、保管、公開の徹底)を欧州よりも一段と先鋭化させた米国とはインターネット上の情報の蓄積具合が全く異なる。とにかく「えとわす」には引っかかるものがあった。

 で、長谷川さんのWikiページからいくつかページをたどると、漫画サークル「ぷーるぐえとわす」とか、くら☆りっささんや、徳光康之さんといった漫画家の名前など、記憶にある(ただしすっかり忘れていた)固有名詞に久しぶりに出会えた。

 Wikiによれば長谷川さんは、佐賀大学の学生を中心とした創作系漫画サークル「ぷーるぐえとわす」の元メンバーであり、九州工業大学出身ということである。また、絵に諸星大二郎の影響がみられた時代もあったとされる。上記の時期は私が福岡県に住んでいた年度であり、おそらく長谷川さんが大学におられた時期とかろうじてダブる期間がある、かろうじて。

 結局のところネットをさらっただけでは、件のマンガが長谷川さん作である可能性が「ゼロではないこと」ぐらいしか分からなかった。掲載誌は私自身が購入したものではなく友人などが既に持っていたものだったなら、発表時期は1985年から2~3年前までは遡れそうではある。

 はたして実際はどうだったのだろう。まぁ解決する必要があるような事案ではないんだけど、今後この種の「あいまいな記憶が突然蘇る」事案は増えそうなんだよね、歳には勝てぬ。

2020/02/12

Youtube Home画面の仕様変更再び

 エントリタイトルの件、今朝からYouTube Mixesのカテゴリが無くなり、その内容はRecommended(あなたへのおすすめ)カテゴリ内に表示されるようになった。Home画面にはRecommendedカテゴリしかなくなったので、カテゴリ分けも意味を失った。益々間抜けな見た目、より頭の悪い感じの論理構造を持つものとなった。

 YouTube MixesはYouTubeが自動的に生成した音楽動画再生リストで歴史ある機能だが、実のところ聴いてみても2曲目で耐えられなくなったことしかなかった。そのため、常に10件以上が表示されていたものの、この1年以上は再生しようとしたことすらなかった。そして今や1件も表示されない、10クリック以下の手間で教育完了だ。

 相変わらずRecommendedは役に立たない。趣味・嗜好に癖があるのは認めるけど、ここまで一向に噛合わないというのも凄い気がする。当日観たばかりの動画を5つも6つも並べて、それも私が検索して自力で見つけてきたものばかりを、しかもしょっちゅうRecommendしてくるというのも頭悪い感じがもの凄い、「Recommend、Recommendって何だ?」ってなる。私の検索キーワードからちょっとだけズラした検索結果を持ってくるだけでRecommendedとして十分機能しそうに思うのだが、一体Recommendedって何をやっているのか?

 昔あったRecent Uploadedカテゴリに相応しい動画を大量に混ぜて数を水増ししているのも見え見えで、もう「Recommendedって名乗るな」ってレベルの理解不能の機能となりつつある。

 アイコンはやっぱり大き過ぎ、画面内の情報密度の低さは依然として不愉快だ。不愉快過ぎるんだ、慣れるなんて無理だよ。

2020/02/11

アニメ「映像研には手を出すな!」第6話を観る!

 ラーメン屋では上着をちゃんとハンガーに掛け、眼鏡を使って髪を上げる金森が大好き面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 原作同様、いざラーメンを食べる時には金森が髪を下ろしていて残念でした。ちなみにハンガーは金森の私物なのか?それと女子高生がラーメンをすする姿はやっぱりはしたないのか?ならば水崎の口元を隠すメニュー表はレビュワーズ的にとかBPO的にとかGJということなのか!?それとも作画(ry

 今回は初見1回のみの記憶に基づいて勢いで書いてるので、事実誤認はお許し下され。

 今回は原作から色々「引く」こともやってきたなとの印象。で、結局観てて引っかかったのは1カ所だけで、金森が音響部退去の強制執行の代行を生徒会から受ける経緯を全く見せなかったところだ。浅草が金森から遅れて音響部部室に現れるのも不自然だ。1、2シーン抜けているのではないか、と感じた視聴者もいたのではないか。この辺りの経緯は、多少説明的でもソワンデとの口頭でのやり取りぐらいで見せても良かったのではないか、原作を知らない視聴者には不親切じゃないか、と正直思った。あれでは、金森が生徒会の一員か、使いっ走りっぽく見えてしまうのではと懸念を持つ。

 金森とソワンデとの関係性は少しピリピリしてるぐらいがやっぱり良い。そういう様子が見えるシチュエーションは回避せずにきちきちと見せて欲しい、と言うか見たい。原作に無くても見たい。ちなみに、対面状態で笑みを見せることがあるのはソワンデだけ、対して金森が笑みを見せることがあるのは二人が別れてから・・・と言うのが私のイメージだ。あと浅草登場の件は、金森が音響部部室に向かって廊下を歩いているシーンの冒頭で、歩きながら浅草とスマホで何か話している様を、それも金森が「じゃぁヨロシク、浅草氏」と言って電話を切る、ぐらいの1カットで示せば十分解決できたのではないかと思う。スマホをポケットにしまった金森がふと顔を上げると、そこには音響部と書かれた札が・・・でOKでは?(自画自賛
2020/2/24追記:金森から浅草への連絡は何らかのSNS使ってたっぽいですね、音響部部室への移動時に金森がスマホいじってたよ・・・ orz

 と、ここで百目鬼の登場が原作より相当早い事にやっと気付いた。音響部引っ越しの猶予が原作の当日中から当月中となったのはリアルだが、百目鬼の登場が早くなったことが原因か、それとも退去猶予にリアリティを与える必要性から逆に百目鬼の登場が早まったのか。ま、どっちでもいいや、どっちにしてもそれら以外の理由にしても全くの無問題。ただ、ちゃんと理由あっての、アニメの作り手が考えた上での変更であればそれに越したことはない。「ちゃんと考えてない感」が見えると、ホント観ていて引っかかる。なお百目鬼絡みの初期エピソードを省略した分、原作より百目鬼登場のインパクトは弱い。ここは本来は何か「足す」べきだったのではないかと思う。私個人は原画丸出しシーンが楽屋落ちにしか見えなくて全く楽しめないので、面白くもなんともないカニ食うカットなんぞを削ってでも、百目鬼のキャラ立てに時間を割り振って欲しかった。

 それはそうと、この流れ、タイミングだと、原作と違って百目鬼は「ロボットvs巨大ガニ」に参加できる・・・ここが重要なところなのかな。仮音入れした水崎のラフのカットはそんな展開への伏線っぽいが、そうなると原作とは違う形で百目鬼のこだわりを描く必要があり、アニメ版の作り手の腕の見せどころとなるのか。まぁOPが付くとか、主人公達から音楽や声への言及があったとか、アニメ版の「ロボットvs巨大ガニ」は原作より3ステップぐらい完成度を上げたものとして描かれるのかなぁ。マンガと違い、アニメでは効果音の質などは誤魔化せないから、百目鬼の参加が早まるのは当然の展開なのかもしれない。

 スーパーランニングマシンのシーンの出来は出色、100点満点で1000点は堅い。ただ、仮音入れした水崎のラフのシーンの前に見せた方が良かったのか後から見せた方が良かったのかはちょっと悩む。これは両者を並置で見せることだけが前提ならブラッシュアップの余地があるかどうかというレベルの話に過ぎないのだが、仮音入れした水崎のラフのシーンだけが今後の展開の伏線と意味付けされるならば然るべき順番があろう。あと音響部部室内の1カット、百目鬼のヘッドホンのヘッドバンドの形がエラいことになってましたね。今回はちょっと作画に凸凹、または力の入り抜きが目立ちました。

 原作に「足してきた」要素である美術部との打ち合わせシーンは、観てて引っかかりこそは無かったものの、美術部あるある的に捉えれば良いのか、浅草の試練と捉えれば良いのかは未だに悩む。ウサギのぬいぐるみが浅草の上着ポケット入っていたから後者っぽいのだが、乏しい金森の表情や視線の動きはこの判断に関わるようなヒントをくれない。なお、このシーン付近での降雨も含む天候変化の描写は後者の解釈を支持するようには見え、浅草の気分や機嫌の反映なんだろうなぁと何の抵抗も無く観ていた。頑張れ浅草!踏みとどまれ浅草!続くシーンの夕日も、自然に同じ文脈で捉えられるしね。

 ちなみに美術部との打ち合わせ、アニメ版での今後の展開の伏線張りもしてるんでしょうかねぇ?せっかくのアニメ化です。原作を知る者も「お!」となっちゃうような要素の追加は、キャラがぶれなければ私は大歓迎です。もちろん、アニメという技法ならではというものであれば、尚更歓迎です。

 でもんーと、あそこはカニではなくザリガニを食べさせた方が、「浅草にとっての地続き感みたいものが出せたかも」です。ハサミもあるでよって、あ、アニメではまだザリガニ要素登場していないのか。こちらの慣れもあるんだろうけど、今回の「遷移過程」の描き方のなんという安定感よ、っつーかまんま原画か。

 で、それはそうと、

ロボット警察について口頭で触れる浅草のカット、髪をいじりながらしゃべる姿がやたら愛しかったんですけど、そう感じるのは世界で私だけですか?ま、いじる側の髪が異様に長いし、原作よりも可愛めに寄せてきた浅草の顔をPVで観た時点で予測はできてたんだけど。

岡田斗司夫さんのアニメ業界「ゴールドラッシュ論」について、2020年2月なりに考えてみる

 2016年末ごろ、岡田斗司夫さんは2017年以降の日本アニメ業界の展望として「ゴールドラッシュ論」を展開した。

 私のつたない理解でこの論を説明すると、「NETFLIXなどの配信業者兼新規の出資者の登場により、TV放映権を持つことなどの既得権益に胡坐をかいた既存の出資者達が軒並み倒れ、アニメ制作の現場にもっとお金が落ちるようになる」ことを発端とし、「企画力があったり機動力のあるアニメスタジオだけが同じ土俵内で競争できる、下剋上上等の群雄割拠な戦国時代、乱世の到来」それも「誰もが何度も上洛できる楽しい戦国時代の到来」というものだった。ただし、「乱世となると、既存の中間層、例えば既得権益に胡坐をかいた出資者達や動きの重い中堅以上のアニメスタジオといったものが消えていくことも避けられない」とも言及している。

 これらの考えは、「当時の製作委員会方式の在り方」に対する山本寛さんの批判的な見方や、クラウドファンディングの活用など製作資金調達方法の多様化も(結果として)踏まえてのものとなっている。後段まで読んで、それでも岡田さん自身の語る「ゴールドラッシュ論」に興味があれば再生してみよう。再生開始位置は「ゴールドラッシュ論」に関わる部分に合わせてある。以降は私の戯言だから、ここで読むのを止めるのも一考の価値あり、っつーか、岡田さん自身による現時点での総括が聞きたいなぁ。一から動画を作る必要は無く、動画資本論の適用先として結構良いネタではないですかね。
 さて昨年末ごろ、果たしてこの「ゴールドラッシュ論」はどのくらい妥当だったのかと急に気になりだしていた。「映像研には手を出すな!」の時もそうだったが、PVの冒頭にワーナーブラザースなどの海外の会社のロゴが出る事にも慣れて久しい。明らかに資金の流れに変化が起きていることは感じてきたが、現場に落ちるお金が増えたという話には触れることが無かった。

 が、ついに「乱世」が来たのかもしれない。ほぼ「ゴールドラッシュ論」そのまま、でもちょっとだけ違う過程を経て。毎日新聞の記事、「動画配信急拡大でクリエーター争奪戦 テレビ局守勢『ネトフリは信じられないお金を…』」を読んでそう思った。

 細かい話は記事を読んでもらうとして、まずは「人材の奪い合いと人件費の上昇」への言及がある。これは「乱世」突入のシグナルとも言え、まさに現場によりお金が落ちるようになったことを意味する。さらに「流通側と制作側の力関係は逆転している」と来る。この流れは「ゴールドラッシュ論」での岡田さんの言及そのものだ。

 ここで注意点を一つ。以降の記述は「ゴールドラッシュ」≠「乱世」≠「楽しい戦国時代」という私の考えを反映したものとなっている。より具体的に書くと、まず「乱世」は先行する「ゴールドラッシュ」発生の結果として現れる状態であり、両状態は併存できる。次いで、「ゴールドラッシュ」は必ず終わるが、「乱世」は持続可能性が維持される限りにおいて文字通り持続可能である。そして「楽しい戦国時代」は「乱世」が取り得る状態の一つに過ぎない。進行する「ゴールドラッシュ」と「乱世」の併存状態下でこそ、「楽しい戦国時代」は最も現れ易く、維持し易い。これらは私の文章内での用語の定義であって、岡田さんの「ゴールドラッシュ論」における各用語の定義とはまず間違いなく異なる。このため本来は違う用語を用意すべきなのだが、岡田さんが選択した用語の余りにキャッチーで生き生きしたニュアンスの魅力には抗えなかったため、そのまま拝借させて頂くことにした。

 なお、私の定義においても「ゴールドラッシュ」、「乱世」、「楽しい戦国時代」は上述したように併存可能であり、第三者視点でも業界にとってもそのような併存状態が一種の理想状態、面白くてわくわくさせられるような状態であると言える。岡田さんは「ゴールドラッシュ」、「乱世」、「楽しい戦国時代」という用語を一つの状態に対する別表現とも解釈できる使い方をしている。ならば、「ゴールドラッシュ」、「乱世」、「楽しい戦国時代」の併存状態に対しては、岡田さんも私も実質的には言っていることは同じと見做せるかも知れない。

 では、私が言う「ちょっと違う過程を経て」における「違い」に具体的に触れよう。なお、私に岡田さんらの発言に対する上げ足取りの意図など全くないことを明確に述べておく。私が見るところ、岡田さんや山本さんの語った内容には、ちょっとした仮定、或いは話を分かり易くするための簡略化があったように思う。私の言う「違い」は、お二人の発言内容を私なりに咀嚼したものと、毎日新聞の記事内容から後付けで導き出したものだ。ただ、「ゴールドラッシュ論」について以前から薄ぼんやりと引っかかりがあった点が、今だからこそ言語化できたという側面もある。

 まず一つ目の違いは、アニメスタジオを業界の最小単位としていたことだ。

 毎日新聞の記事を読めば分かるのだが、実のところ海外からの資本流入は、いきなりアニメーターなどクリエーター個人をも対象にしていたのだ。思えば「THE ANIMATRIX(2003)」の時点で、そのような事態の出来の素地は出来ていたようだ(日本のアニメスタジオが米国アニメの下請けで食っていた時代も先行してあったが、あくまで下請けだ)。その後、カートゥーンネットワークで放映するシリーズのうち数話を日本人スタッフが担当するまでになる。

 そして「ゴールドラッシュ」は、サイレントインベージョンの如く静かに始まり、静かに進んだのだ。とは言え、特定のクリエーター(と言う事らしい)の挙動を見ていればそんなことは直ぐに予測できた筈なのだ。疑問は、何故ハズレしか作ってこられなかった彼らにそんなに投資が続くのか、クリエーターに対するちゃんとした目利きはいないのか、ぐらいだった。結果論として、上記の疑問は煙幕みたいなものとして作用し、実際に起きていることを見えにくくしていた。少なくとも私は完全に目くらましを食らってしまっていた。

 が、このような経過を経た結果、アニメ制作現場「全体」の人件費の底上げは遅れた。つまり、全体が「負け組」だった業界内にごく少数の「勝ち組」が現れるところから実は「ゴールドラッシュ」または「乱世」は始まっていたのだが、やっと「勝ち組」だけでなく、「勝ち組」から仕事を受けている「準勝ち組」の割合が目に見えるレベルまで増えてきたのだろう。

 トリクルダウン?結局外資?経〇省のクールなんとかが(以下、自粛)

 今にして思うと、「才能に金を出す」という考えに従えば至極普通の展開であったと分かる。そして、目端の利く既存スタジオ、或いは目端の利く人間が新たに立ち上げたスタジオはとっくの昔に「乱世」に対応しており、配信業者や海外スタジオなどによる囲い込みの対象となっている。反面、人件費の上昇は、業界のコントロールが既存の日本人プレイヤーからかなり失われた結果とも見ることができる。コントロール力を失なったのは自業自得とも言えるが、彼らにとって状況の変化はそこで終わりではない。

 二つ目の違いは、少なくとも短期的には、プロデューサー(資金調達と宣伝などに責任を持つプロデューサー) として日本人が関与、中心的役割を果たすことを想定していることだ。いや、実際にもそうだったのだが、プロデューサー当人たちが当時から「ゴールドラッシュ」に気付いていなかったならばちょっと話は違ってくる。気付いていたならしかるべきタイミングで傷が浅いうちに倒れることもできたのに、気が付くと倒れ損ねていたという状態の出来である。今後は、倒れるときはもれなく致命傷を負っている。

 件の記事のタイトル中にある表現「ネトフリは信じられないお金を…」は、2年前ならともかく、何を今更レベルの耳を疑う発言であり、NETFLIXなど海外資本の動きに対して発言者らが如何に愚鈍だったかのかを如実に表しているようにしか見えない。まぁ、記者が大げさに書いている可能性もあるんだけど、彼らの一部が業界のコントロール力を失いつつあり、かつ状況に追従できていないのは確かなようだ。

 NETFLIXは全額出す、映画だろうがTVシリーズだろうが少なくとも全額出せるだけの資本力がある。その代わり、全ての権利を持っていく、すべてをコントロールする。資金調達や関係者の利害調整・利権配分調整を仕事とするプロデューサーというプレイヤーはもういらない、業界をコントロールする力も当然失う。広告代理店もいらない。中間マージンは極限まで圧縮される。契約、金の流れ、意思決定の流れは米国流にリプレイスされ、日本特有の商習慣は本当に合理的なものを除いて打ち捨てられる。現場をコントロールできる監督は重宝される、中小規模のプロジェクトなら現場プロデューサー(製作進行などに責任を持つプロデューサー)を別途置く必要がないからだ。或いは現場プロデューサーは完全に職業化される、まるで米国大企業の「社長」のようにだ。

 上記の内容も踏まえて2016年以降の状況を脳内シミュレーション、いや妄想力を単にぶん回してみたところ、以下のような結果を得た。消費者目線で歓迎すべきものもあるが、立場によっては悪夢のようなものもある。何れにしても、業界のゲームチェンジ、プレイヤーチェンジは避けられそうにない。とは言えこれらはあくまで私の頭の中の世界、果たして実際はどうなのか、今後はどうなるのか。なお、私の妄想における重大な問題点の一つは、AmazonなどのNETFLIX以外の大手資本の動きを私がほぼ知らないことだ。一方NETFLIXについては、全く別の文脈(経営論、組織論)で色々自身で調べたことがある。
  • 「ゴールドラッシュ」の発生或いは「乱世」への突入は2016~2017年ごろにあった。ただしそれは、岡田さんの言ったような「奴隷の革命」ではなく、海外からの「静かなる侵略」とでも呼べそうな小規模で見えにくいものだった。なお「静かなる侵略」とは呼んだものの、それら外資の行為は「才能に対する投資」という合理的で当然なものと言え、倫理的な問題も無い健全な経済活動の範疇のものである。
  • 「ゴールドラッシュ」は業界のごく一部、クリエーター個人を単位として始まったため、それに当初から気づいていた人間は限られていた。
  • 「ゴールドラッシュ」突入から約3年、やっと業界全体で「人件費の上昇」が見られるようになった。と言うか、主に次項に示す状況の出来により、業界として人件費を上げざるを得なくなった。10年代前半の流儀に基づく製作員会方式では、人件費上昇の結果である製作費の上昇に柔軟に対応できない。これに対して海外資本の導入額増大などにより出資総額を上げる方法もあるが、当然プロジェクトのグリップは海外側に有利となり、既得権益者から見た製作員会方式の旨みは下がる。実際、幹事会社が外資と思われる製作委員会が現れて久しい。製作委員会の在り方自体も、2016年ごろのそれから変質しているかもしれない。
  • 一方、「ゴールドラッシュ」が見えにくい時間が長かったため、誰もが「ゴールドラッシュ」に気付くことになるよりも早く、米国流の資本、契約、意思決定の流れなどが広く普及した。先例も積みあがった。魅力ある人材、スタジオの囲い込みも進んでしまった。
  •  「ゴールドラッシュ」は終わり、やがて「乱世」本番の次フェーズに入る。単独出資や外資主体・支配型の製作委員会が増えることで、まず資金調達、関係者間の利害及び利権調整を仕事とするプロデューサーは余ることになり、淘汰される。次いで、いったん囲い込んだ人材の再選別が始まり、切られる人間も現れる。つまり、上がった人件費に見合う人材とその人数規模に最適化の手が入る。人材と資本とが紐づけされれば、スタジオ再編や人材の流動化がさらに進み、横方向に動く資金量はいったん増える。同時に、資金力が無い或いは投資を呼べる人材を繋ぎ留められないスタジオは淘汰される。極端なケースとして、人材確保のための資金の横移動だけで経営体力を使いつくすも、確保した人材の価値によって他社に吸収されたり新規投資を得られたりすることも考えられる。岡田さんの述べた「京都化」は、淘汰をマイルドにしたり、生き残りを増やすことに寄与し得るが、いずれにしても「楽しい戦国時代」はほとんど見えないままに何時終焉を迎えるかも分からない危うい状態となる。後述する自社権利(原作権や商標権、それらの周辺権)の確保や国内資本の再奮起・競合などの因子が存在しないと、「楽しい戦国時代」の持続可能性は海外からの投資が一定レベル未満となった時点で簡単に失われる。
  • ここで「勝ち組請負人」のような凄腕クリエーターが現れ、スタジオを転々としたりすると面白いことになるのだが・・・ゲームやCPU設計の様に。または「乱世」に対応し、少なくとも国内業界全体の利益を念頭において動ける調整能力も持つ卓越したプロデューサーの登場にも期待したい。このような存在は、現在も存在するマーケティング主体の手法に長けたヒットメーカーと目されるプロデューサーとは、全く異質、別レベルの能力を要求される存在である。このような異能の存在は、外資を利用してかつ儲けさせることはあっても、決してまつろうことのない挑戦者であり、外資べったりの「勝ち組」とは一線を画すものでなければならない。さらに外資に(良い意味で)面従腹背な、腹に一物持つような「勝ち組」が多数加わると、「楽しい戦国時代」出来の芽もある。そうでなければ、「乱世」は業界全体を疲弊させるだけとなる。そのような存在が無いまま「楽しい戦国時代」が維持されるならば、それは見かけだけのもの、外資が何枚も上手であるということに過ぎない。新たなOccupied Japanにようこそ。
  •  日本のアニメ業界には組合が無いので、資本側の意向でのスタジオ再編やスタジオ内の人切りがやり易い。「提携」による囲い込みは、いつ切られるか分からないドライなものと考えておいた方が良い。そもそも「提携」が指すものが「対等な関係」なのか、はたまた「隷属」なのかは部外者には全く分からない。「乱世」なのだ、国内外のゲームスタジオの状況を見よ。逆に組合を作るチャンスは「ゴールドラッシュの終焉」≒「乱世本格突入」より前にしかない。が、「ゴールドラッシュの勝ち組」はおそらく組合など作る気もないだろう。
  •  NETFLIXの出資の流儀だと、クリエーターやスタジオには制作物に関する権利が一切残らないと聞く。それ故に出資額も大きくなっていると言えるが、買い取りみたいなものなので、長期的に見た場合はクリエーターやスタジオの再生産能力に枷を嵌めることにもなり得る。「勝ち組」と言えども仕事を受け続けなければスタジオは維持できない、という状態に陥る可能性はかなり高い。今後NETFLIX一強と言える状態が崩れた場合、配信業者などとの交渉において権利帰属条件を変更できるかは、業界が持続可能かどうかを考えると重要な要素かと思う。まぁ、権利確保と製作費はトレードオフとなるのが通例だ。まぁ、権利を親会社に握られた国内外のゲームスタジオの状況を見よ。制作着手時点では多少の損はしても良いという判断ができる人材や、権利に対して的確な目利きができる人材が育たないと、権利に関して日本は完全に狩場、植民地状態化する可能性がある。例え今後グローバル化への揺り戻しがあっても、より自由になるのは資本の移動だけだ。資本の源泉たり得る権利が囲い込みの対象であることは変わらない。
  •  岡田さんが似たことを言っていたが、スタジオ運営では配信向けの仕事と国内TV向けの仕事をともに受けるのが良いように思う。自社権利は捨てるが前者で確実な利益を得、その利益も使って後者で自社権利を持つコンテンツを生む、というのが一つの理想だ。後者に対しては製作委員会方式も有効だろうが、その場合はスタジオ自体も投資者として参画する必要がある。配信業者を儲けさせつつ、それでも配信業者に一矢報いたい、一目置かせたいと考えるなら、最低でもそれぐらいしないと。或いは外資が消えても生き残れる体制を作るとか、スタジオ自体を高値で売り抜けたいのなら。
  •  人件費上昇に伴う製作費上昇は、クラウドファンディングによる製作プロジェクトの立ち上げの敷居も上げてしまう。従って資金調達方法の多様化は、「ゴールドラッシュ」以前より現実的には後退してしまっている可能性が高い。

2020/02/10

「パラサイト」アカデミー賞受賞からつらつら

 今年のアカデミー作品賞は、ポン・ジュノ監督の「パラサイト」が受賞した。私は観てないので作品自体については何も語れないが、個人的には懐かさも感じる名前がみられたので、昔語り含めて思うところをつらつらと書いてみようと思う。

 ポン・ジュノさんが関わった映画作品との最初の出会いは「ユリョン(幽霊)(1999)」だった。担当は脚本である。脚本家なんて普通覚えることは無いが、ストーリーが当時親韓寄りの一日本人であった私からしてみてもあんまりなものだったから、結構ネガティブな意味で名前を憶えてしまったのだ。はっきり言って観ていて不愉快になった映画だった。本映画では、「借金のかたにロシアから核ミサイル原潜(艦名が「ユリョン」)と核ミサイルを入手したから、日本の諸都市を核攻撃しよう。海上自衛隊の潜水艦も撃沈してやったぞ!」という反乱勢力と、「日本を核攻撃するべきは今ではない、今は止めろ!」という主人公との、核ミサイル原潜内での戦いが描かれる。そして、日本を核攻撃する理由を主人公に問われた反乱勢力のリーダーの回答は、「これは我々の恨(ハン)だ」の一言だった。

 これを観て、日韓は絶対に安定した友好的関係を維持できない理由がある確信した。観た時期が日韓共催サッカーワールドカップと重なったことで、その思いは尚更強くなった。

 「恨」に対応する概念は日本には無いとされるのが一般的だ。2000年ごろに、日本人には「恨」は絶対分からないと本で書いた日本人や韓国人もいた。「恨」に対する私の印象は「相手が悪いんだと決めつけることが許されるという、日本で言うところの空気みたいもの」であり、「甘えの論理」の発露以外の何物でもない。「恨」は韓国人同士でも発動するし、「国民情緒法」や韓国左派の志向、とにかくマウントを取りたいという欲求などとの親和性が実に高い。「ユリョン」では韓国原潜は米国原潜には全く手を出さないが、映画とは言えさすがに日本と同じ扱いはできなかったのだろう。だから余計に「日本への甘え」に見える。

 「恨」を否定も肯定もせず、極端な仮想的状況下で「恨」を振り回す人々の様と「恨」の発露の様を描いた映画、というのが私にとっての「ユリョン」だ。この視点からは、韓国人にとっては何気に自虐的な映画、「恨」の構造そのものの映像化にも見える。全てが「恨」の上に構築された物語であるため、「恨」が無くなると全てが意味を失う。多くの韓国人には「反日エンターテインメント大作」に見えるんだと思うんだけれども、僅かにしかない日本要素の描き方(沈没し、深海で圧壊寸前の海上自衛隊潜水艦から聞こえてくる日本語など)は反日ニュアンスなど含まないかなりニュートラルなものである。とは言え、一日本人に言わせてもらえれば、劇中の反乱勢力や主人公の言行は押し並べて幼稚で不愉快だ。主人公も「恨」を克服している訳ではなく、おそらく「反乱勢力の言行に対する若い正義感に基づく反発」みたいな別の理由によって、結果として「『恨』にどっぷり浸かる楽な態度」から距離を置くことになっているようにしか見えない。どこまでが計算ずくの脚本だったのだろう。

 ちなみにポン・ジュノ監督と韓国保守派との関係は良くない。少なくともとある保守政権では、問題ある人物のリストに含めたことがある。裏を返せば現在の政権は、必要と見れば国を挙げて彼と彼の作品を押すのは間違いない。政府が業界に金を落としている昨今、韓国映画は重要な輸出商品であるとともに政治的な武器とも言える。政権が変われば作られる映画のトーンも変わる。

 とは言え、とある韓国ウォッチャーの文章を読んでいると、政治性の無いエンターテインメント作品や一見左派好みの作品でさえも政権批判(とも取れなくもない要素)や反北朝鮮要素をこっそり忍び込ませる、といったことは最近でも少なからずあるのだそうだ。映画が政治化しようとしているのではなく、政治化されたことに対する映画からの反抗っぽいところがミソだと思う。が、それは作り手がどちらかと言うと保守派寄りである場合の話であって、左派、革新派寄りの場合は時の政権に寄らず、批判の原因である政治や社会の問題の描写がまんまむき出しであることが多い。その代わり、陰にも陽にも政権批判はまぁしない。少なくとも2006年までの作品のポン・ジュノ監督の作風もそんな感じだった。

 むき出しにできるってのは骨があるのか生真面目なのか、個人的にこの辺はもう20年来の謎なのだが、理想家肌の作り手と保守派の反りが悪いことと、保守派でなければこっち側だろうと二分法的に考えている風が見える昨今の左派や革新派の挙動も併せて考えると、話が逆な気もしてきた。左派、革新派だからむき出しなんじゃなくて、むき出しにするから左派、革新派から左派、革新派認定される、むき出しにしなければ左派、革新派から保守派認定される、ということだ。そして、作り手の政治的信条とは関係なく、保守派は左派、革新派の反応を見て、敵味方の判定をする。結局相対的なのだ、「恨」にも似て。

 そもそも中道がない、存在できないとか、保守派もさっぱり頭良さそうな感じがしないとか、脇から見える韓国国内状況からならそんなこともありそうにも思えるから困る。「政治問題、社会問題をむき出しで描くなんて、時の政権であれば左派だろうが革新派だろうが嫌がるでしょ」と思うでしょ?「政治問題、社会問題の原因は全て過去の保守政権」と「悪いのは全て他人」とできるから左派とか革新派なんてやってられるんですよ、「悪いのは朝鮮戦争に介入した米軍」とか何時はっきりと言い出すか分かったもんじゃないですよ・・・きっと、多分、もしかすると・・・まぁ、可能性が全く無いわけじゃないぐらいの話として、ね。

 ここで韓国の映画産業がらみで、さらに脱線する。

 90年代中、後期に韓国映画業界は自ら力をつけた。制作プロセスのデジタル化を一気に進め、ハリウッド作品を彷彿させる画作りをあっと言う間に修得した。強くなった経済力を背景にエンターテインメント大作が作られるようになり、主に軍政時代の事件(例えば、光州事件)を題材とした韓国独自・固有のテーマに基づくやや内省的な作品群も生まれた。短い期間ではあったが、韓国映画は自国の近い歴史を時に批判的に、時に中立的にシリアスに描く作品を生み続けたのだ。私が韓国映画に興味を持ったのがこの時期である。

 そんな一種の自由な制作環境は、映画産業に国が資金を投入し始めた21世紀になって変質していった。「シュリ(1999)」はそんな過渡期最終期の雰囲気をたたえる作品だ。エンターテインメント大作であり、南北分断・対立という朝鮮半島固有の状況を背景とし、デジタル技術を生かした画作りと日本の90年ごろのトレンディドラマ風の画作りが共存する、今見るとちょっとちぐはぐさも感じるサスペンスメロドラマである(私はトレンディドラマとやらを観たことがないので、この辺りの言及は当時一緒に本作を観た人間の感想である。私は時折画が古くさくなるなとしか思っていなかった)。金大中拉致事件を扱った日韓合作「KT(2002)」が後に作られたが、(何時何処で読んだか思い出せないのだが)とある人によれば「この映画の制作時期が、事件当時の乃至は公開当時の政権批判を含む作品が韓国で製作可能だった最後の時期」とのことである。まぁ、もうそういう映画に観客は入らなくなってもいたのだが。

 ポン・ジュノ監督の活動開始時期は、そんな業界の変化と同時期である。韓国近代史上の事件やリアルタイムな国内の政治問題、社会問題をシリアスに描くことが、主張の左右上下に関わらずリスキーなった時代の監督なのだ。後でも少し触れるが、私は韓国のコメディー映画がさっぱり笑えない、面白くない。これは私が韓国の政治や社会のリアリティを知らないせいなのかもしれない。

 他方、朴正煕大統領暗殺事件を扱った映画「ユゴ 大統領有故(2005)」は、ついさっき読んだWikipediaの記事によるとブラックコメディとのことなのだが、初見以来全くそのような認識がなかったので本当に驚いた。本事件に関しては何冊もの本を読み(事件に続く粛軍クーデターの顛末も含め、最初に読んだJICC出版のムック「軍部!」の内容が余りに面白過ぎた)、事件自体の展開が行き当たりばったりなものであることを知っていた。このため「全体として重苦しい画作りで、演出はあるものの、そもそもコメディがかった要素の多い事件経緯をほぼ再現した映画」としか見てなかったのである。今でも「コメディとして作られている」なんて思わない。劇中、「下半身に人格はないからな(笑)」みたいなセリフが日本語で飛び出すが、韓国の観客がどういう思いでそのセリフを聞いていたのかは分からない。

 なお、朴正煕政権内の同世代との内緒話では、うっかり若い世代の人間に聞かれても話の内容が分からないように、日本語を使うことが少なくなかったようである。この点は、世代も、ナショナリズム意識の基盤または国に対するアイデンティティの置き方も違う全斗煥政権以降とは異なるらしい。朴正煕政権は経済発展をテコに「日本の呪縛≒反日≒大きな恨のひとつ」からの精神的自立(≒克日)を、全斗煥政権は軍の米国からの自立をテコに米国からの精神的・政治的自立を、それぞれ志向していたというのが私の理解である。盧泰愚政権以降は・・・うん、一気に「反日」、「反米」の姿勢を取り戻すと言うか、ほとんど再創造してしまった。北朝鮮の「反米」は歴史的経緯から理解は簡単だが、韓国のそれは、例えば米国にはほぼ理解不能だろう。それは士官学校の教官に米国軍人が含まれていた時代を侮辱的と捉えた全斗煥のスタンス(これも「恨」の構造である。自分達が士官学校の教官が全て韓国人となった最初の士官学校生であったことを理由に、全斗煥らは自らを真の「韓国軍士官候補第一期生」と称し、他世代に対してマウントを取ろうとした)を利用した勢力により、政治問題として再創造された側面も持つものだからである。この辺り、戦時統制権に絡む韓国「内」のゴタゴタの筋の悪さと無関係ではないだろう。

 軌道修正。

 北朝鮮の主体思想の立ち上げは、私には「『恨』を乗り越えようとする試み」、「自立への試み」にも見えた(ただし、北朝鮮外で「主体思想」と呼ばれるものの大部分は政治工作用の別物で、「恨」をむしろ利用している)。朴正煕政権の開発独裁手法も、上述したように同じ方向性を持つものと見えた。が、北朝鮮は後に「先軍政治」を叫び、相対的に「主体思想」の影響を国内で薄めた。その結果なのか、北朝鮮の日本への態度に「恨」的な甘えっぽいものを感じることが増えた。 今やその甘えは米国にも発動しているやに見える(年を越えてから良く分からなくなっているが)。片や韓国は盧泰愚政権以降に「恨」は完全に息を吹き返し、その反動として誕生したとも見えた朴槿恵政権(1000年変わらない発言に見るように、アンチ「恨」の体は取らなかったが)も改めて押し流してしまった。

 と言う訳で、韓国の現行政権の中心である左派、場合によっては革新派は、「恨」すら克服できないというか逆にどっぷり浸かった守旧派乃至は単なるポピュリスト、もしかすると50年遅れの北朝鮮であることが明らかとなってしまった。ただ当人たちにその自覚が無い。金日成の大勝利どころか、間違いなく想定外の完全勝利だ。

 この2~3年は南北共に同じ相手(主に日本、米国)に「恨」を発動している状態にいったんなったが、それでもなお北朝鮮には「恨」から距離を取ろうという姿勢はあり(でなければ金日成否定となる)、「北朝鮮が韓国を見下すような態度を取る」根拠となっているというのが私の見立てだ。北朝鮮には現在の韓国政権の精神性が「自分達が50年前に乗り越えたもの」に見えるのである、まともに相手をしようとは思わないだろう。とは言え、そのような北朝鮮の態度も韓国への「恨」の発動とも見えなくもなく、北朝鮮がまともに見えることはあっても、十分にまともな訳ではないだろうという思いは変わらない。目くそ鼻くそを笑う、というやつである。「恨」の呪縛はかくも強烈なのである。

 さて、

ぺ・ドゥナさんというかつての私のお気に入り韓国女優さんがいる。10年代になって「クラウドアトラス(2012)」や「ジュピター(2015)」に出演し、今やハリウッド女優である。日本映画「リンダリンダリンダ(2005)」ではバンドのボーカルを務める韓国人留学生役を演じ、日本のTVCMに起用されたこともある。舞台活動もしている。映画の出来は今二つだが、「春の日のクマは好きですか?(2003)」での彼女が個人的には一番可愛く魅力的だった。

 ポン・ジュノさんの監督デビュー作「吠える犬は咬まない(フランダースの犬)(2000)」はコメディであったが、さっぱり笑えず、面白さが全く分からなかった。が、主役級で出演していたぺ・ドゥナさんを見つけられたのは個人的に大収穫だった。ぺ・ドゥナさんの出演映画は「リング・ウィルス(1999)」から「グエムル(2006)」まで日本で視聴機会のあったものは全て観たが、「グエムル」はポン・ジュノ監督作である。

 ぺ・ドゥナさんは「TUBE(2003)」で「ちょっといい女」っぽい役を演じたりもしているのだが、多少なりとも当たったのがコメディ映画ばかりだったせいか、少なくとも2010年ごろまではワールド・ムービー・データベースで「コメディエンヌ」と書かれていてちょっと可哀そうだった。なお、00年代のぺ・ドゥナさんは明らかに出演作に恵まれていない(婉曲表現)が、観ていないなら、「リンダリンダリンダ」と「グエルム」はまぁ、お勧めできる。「パラサイト」がコメディとして始まりホラーに変わっていく構造と人から聞いたのだが、ならば「グエルム」と似た構造とも言えるかもしれない、知らんけど。

 ソン・ガンホさんは今もお気に入りの韓国男優である。 低予算コメディからシリアスな大作までもこなす、個人的印象としてとても器用な俳優さんである。役を自分に寄せるタイプではない。初見は「シュリ」で、「パラサイト」では主演を務めている。お勧めの出演作は肩の凝らない「反則王(1999)」と胃もたれするかもしれない「殺人の追憶(2003)」だ。

 「殺人の追憶」は今やアカデミー賞タッグとなった監督ポン・ジュノ、主演ソン・ガンホ作品で、最初から最後まで緊張感のあるフィルムだった。同監督の「吠える犬は咬まない」も同主演の「反則王」もコメディだったので侮り、心の準備なく初見に臨んで劇場でちょっと茫然としてしまった。カメラワークなどに、主人公らの経験を観客にも共有させるようとしているといった意図を感じる映画だった。私にとってのポン・ジュノ監督作品は、今も「殺人の追憶」に尽きる。ただ結構重苦しく後味も良くない映画なので、万人にはお勧めしない。

 最後に「パラサイト」の受賞だが、(後出しだから説得力はないけど)個人的にはかなり確率が高いと見ていた。ここまでの追い風はなかなか望めないからだ。トランプ政権の支持基盤は共和党右派で主流派よりも右寄りである。アカデミー協会の政治的逆張り体質は折り紙付き、ポリコレに対する態度はもう敏感を通り越し異常とも言えるレベルであり、更に昨今の海外会員の増加の少なくない部分を韓国人会員が占めている可能性も高い。おそらく韓国政府の働きかけも方々であっただろう。監督がNETFLIXからの投資を受けた経験も、もはやアカデミーでは問題とはされない。NETFLIXも何らかの賞は取らせたいと考えていたのではないか・・・「アイリッシュマン」との兼ね合いはあるが。

 「パラサイト」はノミネートされた時点で映画として一定レベル以上の出来である評価が定まっており、社会的テーマを取り扱うとともに、(観てはいないがおそらく従来通り)左派視点が盛り込まれているか強く影響した描き方となっているだろう。故に受賞を逃すようであれば、「人種差別を叫ぶ会員が出てきても驚かない」レベルと見ていた。映画としてOK、アカデミーが好きなテーマ性、アンチトランプ(厳密にはアンチ現米国政権なのでざっくりアンチ保守、つまり左派・革新支持)、ポリコレ(アジア人監督作)・・・もうここまででも十分な数の受賞に有利な因子がある。繰り返すが、これまでの受賞歴、評論家のみならず観客からも得た高い評価から、映画としての出来は折り紙付きなのである。アカデミー作品賞受賞の可否は、もう政治マターだったようなものだ。

 もちろん、そうではあっても、アカデミー賞受賞が「パラサイト」の価値を上げることはあっても下げることはないのは当然だ。そしてもう一つ大事なこと。賞は作品なり、監督なり、脚本なり、俳優なりが取ったものであって、国は基本的に関係ないんだ。だから(馬鹿々々しいので以下省略)