2020/02/10

「パラサイト」アカデミー賞受賞からつらつら

 今年のアカデミー作品賞は、ポン・ジュノ監督の「パラサイト」が受賞した。私は観てないので作品自体については何も語れないが、個人的には懐かさも感じる名前がみられたので、昔語り含めて思うところをつらつらと書いてみようと思う。

 ポン・ジュノさんが関わった映画作品との最初の出会いは「ユリョン(幽霊)(1999)」だった。担当は脚本である。脚本家なんて普通覚えることは無いが、ストーリーが当時親韓寄りの一日本人であった私からしてみてもあんまりなものだったから、結構ネガティブな意味で名前を憶えてしまったのだ。はっきり言って観ていて不愉快になった映画だった。本映画では、「借金のかたにロシアから核ミサイル原潜(艦名が「ユリョン」)と核ミサイルを入手したから、日本の諸都市を核攻撃しよう。海上自衛隊の潜水艦も撃沈してやったぞ!」という反乱勢力と、「日本を核攻撃するべきは今ではない、今は止めろ!」という主人公との、核ミサイル原潜内での戦いが描かれる。そして、日本を核攻撃する理由を主人公に問われた反乱勢力のリーダーの回答は、「これは我々の恨(ハン)だ」の一言だった。

 これを観て、日韓は絶対に安定した友好的関係を維持できない理由がある確信した。観た時期が日韓共催サッカーワールドカップと重なったことで、その思いは尚更強くなった。

 「恨」に対応する概念は日本には無いとされるのが一般的だ。2000年ごろに、日本人には「恨」は絶対分からないと本で書いた日本人や韓国人もいた。「恨」に対する私の印象は「相手が悪いんだと決めつけることが許されるという、日本で言うところの空気みたいもの」であり、「甘えの論理」の発露以外の何物でもない。「恨」は韓国人同士でも発動するし、「国民情緒法」や韓国左派の志向、とにかくマウントを取りたいという欲求などとの親和性が実に高い。「ユリョン」では韓国原潜は米国原潜には全く手を出さないが、映画とは言えさすがに日本と同じ扱いはできなかったのだろう。だから余計に「日本への甘え」に見える。

 「恨」を否定も肯定もせず、極端な仮想的状況下で「恨」を振り回す人々の様と「恨」の発露の様を描いた映画、というのが私にとっての「ユリョン」だ。この視点からは、韓国人にとっては何気に自虐的な映画、「恨」の構造そのものの映像化にも見える。全てが「恨」の上に構築された物語であるため、「恨」が無くなると全てが意味を失う。多くの韓国人には「反日エンターテインメント大作」に見えるんだと思うんだけれども、僅かにしかない日本要素の描き方(沈没し、深海で圧壊寸前の海上自衛隊潜水艦から聞こえてくる日本語など)は反日ニュアンスなど含まないかなりニュートラルなものである。とは言え、一日本人に言わせてもらえれば、劇中の反乱勢力や主人公の言行は押し並べて幼稚で不愉快だ。主人公も「恨」を克服している訳ではなく、おそらく「反乱勢力の言行に対する若い正義感に基づく反発」みたいな別の理由によって、結果として「『恨』にどっぷり浸かる楽な態度」から距離を置くことになっているようにしか見えない。どこまでが計算ずくの脚本だったのだろう。

 ちなみにポン・ジュノ監督と韓国保守派との関係は良くない。少なくともとある保守政権では、問題ある人物のリストに含めたことがある。裏を返せば現在の政権は、必要と見れば国を挙げて彼と彼の作品を押すのは間違いない。政府が業界に金を落としている昨今、韓国映画は重要な輸出商品であるとともに政治的な武器とも言える。政権が変われば作られる映画のトーンも変わる。

 とは言え、とある韓国ウォッチャーの文章を読んでいると、政治性の無いエンターテインメント作品や一見左派好みの作品でさえも政権批判(とも取れなくもない要素)や反北朝鮮要素をこっそり忍び込ませる、といったことは最近でも少なからずあるのだそうだ。映画が政治化しようとしているのではなく、政治化されたことに対する映画からの反抗っぽいところがミソだと思う。が、それは作り手がどちらかと言うと保守派寄りである場合の話であって、左派、革新派寄りの場合は時の政権に寄らず、批判の原因である政治や社会の問題の描写がまんまむき出しであることが多い。その代わり、陰にも陽にも政権批判はまぁしない。少なくとも2006年までの作品のポン・ジュノ監督の作風もそんな感じだった。

 むき出しにできるってのは骨があるのか生真面目なのか、個人的にこの辺はもう20年来の謎なのだが、理想家肌の作り手と保守派の反りが悪いことと、保守派でなければこっち側だろうと二分法的に考えている風が見える昨今の左派や革新派の挙動も併せて考えると、話が逆な気もしてきた。左派、革新派だからむき出しなんじゃなくて、むき出しにするから左派、革新派から左派、革新派認定される、むき出しにしなければ左派、革新派から保守派認定される、ということだ。そして、作り手の政治的信条とは関係なく、保守派は左派、革新派の反応を見て、敵味方の判定をする。結局相対的なのだ、「恨」にも似て。

 そもそも中道がない、存在できないとか、保守派もさっぱり頭良さそうな感じがしないとか、脇から見える韓国国内状況からならそんなこともありそうにも思えるから困る。「政治問題、社会問題をむき出しで描くなんて、時の政権であれば左派だろうが革新派だろうが嫌がるでしょ」と思うでしょ?「政治問題、社会問題の原因は全て過去の保守政権」と「悪いのは全て他人」とできるから左派とか革新派なんてやってられるんですよ、「悪いのは朝鮮戦争に介入した米軍」とか何時はっきりと言い出すか分かったもんじゃないですよ・・・きっと、多分、もしかすると・・・まぁ、可能性が全く無いわけじゃないぐらいの話として、ね。

 ここで韓国の映画産業がらみで、さらに脱線する。

 90年代中、後期に韓国映画業界は自ら力をつけた。制作プロセスのデジタル化を一気に進め、ハリウッド作品を彷彿させる画作りをあっと言う間に修得した。強くなった経済力を背景にエンターテインメント大作が作られるようになり、主に軍政時代の事件(例えば、光州事件)を題材とした韓国独自・固有のテーマに基づくやや内省的な作品群も生まれた。短い期間ではあったが、韓国映画は自国の近い歴史を時に批判的に、時に中立的にシリアスに描く作品を生み続けたのだ。私が韓国映画に興味を持ったのがこの時期である。

 そんな一種の自由な制作環境は、映画産業に国が資金を投入し始めた21世紀になって変質していった。「シュリ(1999)」はそんな過渡期最終期の雰囲気をたたえる作品だ。エンターテインメント大作であり、南北分断・対立という朝鮮半島固有の状況を背景とし、デジタル技術を生かした画作りと日本の90年ごろのトレンディドラマ風の画作りが共存する、今見るとちょっとちぐはぐさも感じるサスペンスメロドラマである(私はトレンディドラマとやらを観たことがないので、この辺りの言及は当時一緒に本作を観た人間の感想である。私は時折画が古くさくなるなとしか思っていなかった)。金大中拉致事件を扱った日韓合作「KT(2002)」が後に作られたが、(何時何処で読んだか思い出せないのだが)とある人によれば「この映画の制作時期が、事件当時の乃至は公開当時の政権批判を含む作品が韓国で製作可能だった最後の時期」とのことである。まぁ、もうそういう映画に観客は入らなくなってもいたのだが。

 ポン・ジュノ監督の活動開始時期は、そんな業界の変化と同時期である。韓国近代史上の事件やリアルタイムな国内の政治問題、社会問題をシリアスに描くことが、主張の左右上下に関わらずリスキーなった時代の監督なのだ。後でも少し触れるが、私は韓国のコメディー映画がさっぱり笑えない、面白くない。これは私が韓国の政治や社会のリアリティを知らないせいなのかもしれない。

 他方、朴正煕大統領暗殺事件を扱った映画「ユゴ 大統領有故(2005)」は、ついさっき読んだWikipediaの記事によるとブラックコメディとのことなのだが、初見以来全くそのような認識がなかったので本当に驚いた。本事件に関しては何冊もの本を読み(事件に続く粛軍クーデターの顛末も含め、最初に読んだJICC出版のムック「軍部!」の内容が余りに面白過ぎた)、事件自体の展開が行き当たりばったりなものであることを知っていた。このため「全体として重苦しい画作りで、演出はあるものの、そもそもコメディがかった要素の多い事件経緯をほぼ再現した映画」としか見てなかったのである。今でも「コメディとして作られている」なんて思わない。劇中、「下半身に人格はないからな(笑)」みたいなセリフが日本語で飛び出すが、韓国の観客がどういう思いでそのセリフを聞いていたのかは分からない。

 なお、朴正煕政権内の同世代との内緒話では、うっかり若い世代の人間に聞かれても話の内容が分からないように、日本語を使うことが少なくなかったようである。この点は、世代も、ナショナリズム意識の基盤または国に対するアイデンティティの置き方も違う全斗煥政権以降とは異なるらしい。朴正煕政権は経済発展をテコに「日本の呪縛≒反日≒大きな恨のひとつ」からの精神的自立(≒克日)を、全斗煥政権は軍の米国からの自立をテコに米国からの精神的・政治的自立を、それぞれ志向していたというのが私の理解である。盧泰愚政権以降は・・・うん、一気に「反日」、「反米」の姿勢を取り戻すと言うか、ほとんど再創造してしまった。北朝鮮の「反米」は歴史的経緯から理解は簡単だが、韓国のそれは、例えば米国にはほぼ理解不能だろう。それは士官学校の教官に米国軍人が含まれていた時代を侮辱的と捉えた全斗煥のスタンス(これも「恨」の構造である。自分達が士官学校の教官が全て韓国人となった最初の士官学校生であったことを理由に、全斗煥らは自らを真の「韓国軍士官候補第一期生」と称し、他世代に対してマウントを取ろうとした)を利用した勢力により、政治問題として再創造された側面も持つものだからである。この辺り、戦時統制権に絡む韓国「内」のゴタゴタの筋の悪さと無関係ではないだろう。

 軌道修正。

 北朝鮮の主体思想の立ち上げは、私には「『恨』を乗り越えようとする試み」、「自立への試み」にも見えた(ただし、北朝鮮外で「主体思想」と呼ばれるものの大部分は政治工作用の別物で、「恨」をむしろ利用している)。朴正煕政権の開発独裁手法も、上述したように同じ方向性を持つものと見えた。が、北朝鮮は後に「先軍政治」を叫び、相対的に「主体思想」の影響を国内で薄めた。その結果なのか、北朝鮮の日本への態度に「恨」的な甘えっぽいものを感じることが増えた。 今やその甘えは米国にも発動しているやに見える(年を越えてから良く分からなくなっているが)。片や韓国は盧泰愚政権以降に「恨」は完全に息を吹き返し、その反動として誕生したとも見えた朴槿恵政権(1000年変わらない発言に見るように、アンチ「恨」の体は取らなかったが)も改めて押し流してしまった。

 と言う訳で、韓国の現行政権の中心である左派、場合によっては革新派は、「恨」すら克服できないというか逆にどっぷり浸かった守旧派乃至は単なるポピュリスト、もしかすると50年遅れの北朝鮮であることが明らかとなってしまった。ただ当人たちにその自覚が無い。金日成の大勝利どころか、間違いなく想定外の完全勝利だ。

 この2~3年は南北共に同じ相手(主に日本、米国)に「恨」を発動している状態にいったんなったが、それでもなお北朝鮮には「恨」から距離を取ろうという姿勢はあり(でなければ金日成否定となる)、「北朝鮮が韓国を見下すような態度を取る」根拠となっているというのが私の見立てだ。北朝鮮には現在の韓国政権の精神性が「自分達が50年前に乗り越えたもの」に見えるのである、まともに相手をしようとは思わないだろう。とは言え、そのような北朝鮮の態度も韓国への「恨」の発動とも見えなくもなく、北朝鮮がまともに見えることはあっても、十分にまともな訳ではないだろうという思いは変わらない。目くそ鼻くそを笑う、というやつである。「恨」の呪縛はかくも強烈なのである。

 さて、

ぺ・ドゥナさんというかつての私のお気に入り韓国女優さんがいる。10年代になって「クラウドアトラス(2012)」や「ジュピター(2015)」に出演し、今やハリウッド女優である。日本映画「リンダリンダリンダ(2005)」ではバンドのボーカルを務める韓国人留学生役を演じ、日本のTVCMに起用されたこともある。舞台活動もしている。映画の出来は今二つだが、「春の日のクマは好きですか?(2003)」での彼女が個人的には一番可愛く魅力的だった。

 ポン・ジュノさんの監督デビュー作「吠える犬は咬まない(フランダースの犬)(2000)」はコメディであったが、さっぱり笑えず、面白さが全く分からなかった。が、主役級で出演していたぺ・ドゥナさんを見つけられたのは個人的に大収穫だった。ぺ・ドゥナさんの出演映画は「リング・ウィルス(1999)」から「グエムル(2006)」まで日本で視聴機会のあったものは全て観たが、「グエムル」はポン・ジュノ監督作である。

 ぺ・ドゥナさんは「TUBE(2003)」で「ちょっといい女」っぽい役を演じたりもしているのだが、多少なりとも当たったのがコメディ映画ばかりだったせいか、少なくとも2010年ごろまではワールド・ムービー・データベースで「コメディエンヌ」と書かれていてちょっと可哀そうだった。なお、00年代のぺ・ドゥナさんは明らかに出演作に恵まれていない(婉曲表現)が、観ていないなら、「リンダリンダリンダ」と「グエルム」はまぁ、お勧めできる。「パラサイト」がコメディとして始まりホラーに変わっていく構造と人から聞いたのだが、ならば「グエルム」と似た構造とも言えるかもしれない、知らんけど。

 ソン・ガンホさんは今もお気に入りの韓国男優である。 低予算コメディからシリアスな大作までもこなす、個人的印象としてとても器用な俳優さんである。役を自分に寄せるタイプではない。初見は「シュリ」で、「パラサイト」では主演を務めている。お勧めの出演作は肩の凝らない「反則王(1999)」と胃もたれするかもしれない「殺人の追憶(2003)」だ。

 「殺人の追憶」は今やアカデミー賞タッグとなった監督ポン・ジュノ、主演ソン・ガンホ作品で、最初から最後まで緊張感のあるフィルムだった。同監督の「吠える犬は咬まない」も同主演の「反則王」もコメディだったので侮り、心の準備なく初見に臨んで劇場でちょっと茫然としてしまった。カメラワークなどに、主人公らの経験を観客にも共有させるようとしているといった意図を感じる映画だった。私にとってのポン・ジュノ監督作品は、今も「殺人の追憶」に尽きる。ただ結構重苦しく後味も良くない映画なので、万人にはお勧めしない。

 最後に「パラサイト」の受賞だが、(後出しだから説得力はないけど)個人的にはかなり確率が高いと見ていた。ここまでの追い風はなかなか望めないからだ。トランプ政権の支持基盤は共和党右派で主流派よりも右寄りである。アカデミー協会の政治的逆張り体質は折り紙付き、ポリコレに対する態度はもう敏感を通り越し異常とも言えるレベルであり、更に昨今の海外会員の増加の少なくない部分を韓国人会員が占めている可能性も高い。おそらく韓国政府の働きかけも方々であっただろう。監督がNETFLIXからの投資を受けた経験も、もはやアカデミーでは問題とはされない。NETFLIXも何らかの賞は取らせたいと考えていたのではないか・・・「アイリッシュマン」との兼ね合いはあるが。

 「パラサイト」はノミネートされた時点で映画として一定レベル以上の出来である評価が定まっており、社会的テーマを取り扱うとともに、(観てはいないがおそらく従来通り)左派視点が盛り込まれているか強く影響した描き方となっているだろう。故に受賞を逃すようであれば、「人種差別を叫ぶ会員が出てきても驚かない」レベルと見ていた。映画としてOK、アカデミーが好きなテーマ性、アンチトランプ(厳密にはアンチ現米国政権なのでざっくりアンチ保守、つまり左派・革新支持)、ポリコレ(アジア人監督作)・・・もうここまででも十分な数の受賞に有利な因子がある。繰り返すが、これまでの受賞歴、評論家のみならず観客からも得た高い評価から、映画としての出来は折り紙付きなのである。アカデミー作品賞受賞の可否は、もう政治マターだったようなものだ。

 もちろん、そうではあっても、アカデミー賞受賞が「パラサイト」の価値を上げることはあっても下げることはないのは当然だ。そしてもう一つ大事なこと。賞は作品なり、監督なり、脚本なり、俳優なりが取ったものであって、国は基本的に関係ないんだ。だから(馬鹿々々しいので以下省略)

0 件のコメント:

コメントを投稿