2018/05/09

「銀河英雄伝説 Die Neue These」への不安

 Gyao!で観てます。私と「銀河英雄伝説」という作品との関係はと言うと、原作、旧アニメシリーズともにリアルタイム、ビデオ化以前から地域のSF好きが作った無名の「銀河英雄伝説」同人誌に短編小説を寄せたり、その表紙を描いたりしてました。まぁそういう距離感を持つ身ということです。

 キャラデザインに関わる話は余りするつもりはありませんが、女性キャラのデザインで使っている要素幅が狭い感じがあり、今後キャラごとの描き分けが十分にできるのかちょっと不安になりました。以前のエントリではキルヒアイスについて似た懸念を持つことに触れています。対して、声優さん方は本当に良い仕事をしていると感じます。声による「キャラごと、キャラの状態/気分の描き分け」への支援は期待できそうです。

 ちなみに某アニメの女性キャラ群「Dパイ(フォレスト、可能性としてヤクルトおばちゃんも含めておこう。ただしヤクルトおばちゃんは全盛期ならば暗殺者枠でも有り得、おっさんまたは超美少女の変装の可能性が・・・)」個々のキャラの立て方、描き方は、教科書的ですらあります。が、「分かりやすくてかつ(少なくとも初見では)面白い」というその一点をきっちり抑えていて、観ていて実に上手いものだと思いました。ただし、赤塚不二夫原作アニメチックな演出は抑える方向が良いと思います。業務内容ごとや勤務内外で髪型を変えたり(変える人と変えない人、または変えたように見えない人が居る事も含みますよ)とか、芸が細かいと言うよりはリアルな印象を受けてます。今回のフレデリカは髪が長めのデザインなので、髪型も演出上で上手く使って欲しく思います。

 まぁ、旧アニメ版の声から推定される演出意図だと、常にきちっとしているせいで結果として髪型が変わらない・・・という事だったのかもという可能性はあるのですが。普段から「可愛い可愛い扱いしていたり」とさらに演出の幅を狭めてしまうと、作品的に「本当に可愛く見えるべきとき」にそう描けなくなる可能性がありますからね。「頬を赤く染めて視線を下に外し」ではうっかりすると60年代の演出ですし、端正なキャラデザインでそれではギャグにしかなりません。部下、恋人、新妻、未亡人、国家元首・・・さぁ、それぞれの演出プランや如何に(個人的には、眼鏡、コンタクトレンズネタは封印をお願いしたい)?

 で、本エントリにおける「本当の不安」はここからです。

 「製作者は劇中で視聴者に最小限の説明しかしない方針」のように見受けられます。現時点までの「脚本の淡白さ」は、世界観の説明すらほぼせず、時間経過の描写もかなり曖昧です。従って私の印象、見立てが妥当であれば、原作や旧アニメを知らない視聴者は、周辺情報を漁ること無しに「銀河英雄伝説 Die Neue These」が描いている内容を理解できるとは思えません。

 なるほど、現実世界には「説明的なセリフ」が存在できる余地はほとんどありません。ですから、そういう状況下で如何に上手く「説明的なセリフ」やそれを代替する画や描写を作品に盛り込むかという部分に物語の語り手の腕が問われるのです。「全ての説明を冒頭のナレーションまたはテロップで済ませる」という荒業もありますが、その使用が許される本編のレベルは「世界中から桁違いの収益を上げられる出来」である必要があるでしょう。

 実のところ、「作品単体だけでは作品自体が理解できない」小説や映画などは以前から存在しますし、理由も様々です。ただし、たいてい失敗作扱いされています。

 「銀河英雄伝説 Die Neue These」についても、最初は「脚本家が原作や旧アニメが好きすぎて、それらを知らない視聴者が居ることにまで気が回っていない」とすら思いました。が、作画されたものやキャラの劇中の発言は「脚本の淡白さ」を補うどころか、情報や意味の有無という意味では脚本に劣らず淡白(説明的な要素が皆無)なのです。

 「某回廊」や「某要塞」は「中学校」ではありません。つまり、誰もが知っていたり、そこに所属したことがあるような想像可能な場所ではありません。そんな状況下、「某回廊」や「某要塞」がどういうものかについての説明をほぼ省いたまま、「銀河英雄伝説 Die Neue These」は要塞攻略戦を描き始めようとしています。これでは攻略の困難さすら視聴者には伝わらず、それを反映したキャラのセリフの意味も理解されないでしょう。これは大いなるコミュニケーションの欠落ではありませんか?

 利点と言えば、「物理的に核爆発が起こり得ない条件下で核爆発を発生させた方法を説明せずに済むかも」ぐらいでしょうか。

 さて、同様の不安について、より直接的に本ブログで触れた作品が既にあります。

 「自分と他人は考え方や意見が、解釈が違う」というのは対人間コミュニケーションの基本です。ですから「合意形成」が必要であり、作り手は必要に応じて言葉を尽くすべきなのです。如何に効率良く、分かりやすく、確実に言葉や画で視聴者に必要な情報を伝えるか・・・それも可能な限り視聴者には自然に受け入れられるように・・・プロの仕事足らんとすればここは問われます。「他者が自分と同じように考える、解釈することを前提とし、加えて前提の理由を当人の個人的な感覚や気分に置く」ととあるアニメ作品のようになりかねません。また、「個人的な感覚や気分」を「思い込み」や「思い入れ」に置き換えれば分るように、この種の悲劇はリメイクの方が発生しやすそうです。

 かつて私は、とあるアニメ作品に対する一種の批判のために「物語至上主義」という言葉を本ブログ内で使いました。別の表現をすれば、物語を語るに必要なことは全て触れる(=コンテクスト/文脈の明確化)、物語を語るに不必要なことは「物語を語ること以外の意図」が無い限り触れない(=ノイズの低減、ミスリードのためのミスリードの排除など)、個人的感覚や気分に基づく判断は実行内容から完全に排除(=自慰行為、過剰な自画自賛や非論理的物語展開の隠蔽、回避など)となります。

 「銀河英雄伝説 Die Neue These」、果たしてどう仕上がっていくでしょうか?・・・不安でしかない(饅頭的に・・・んですがねぇ。

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