2018/05/17

「銀河英雄伝説 Die Neue These」への不安・続

 最新話で某要塞攻略が描かれる。不安通りと言うか、おそらく「私がちゃんと描くべきではないかと考える要素」に今回の作り手は興味が無いのだろう。例えば、

某大佐の軽口を如何にカッコよく聞こえるようにするか

とか・・・つまり

某大佐の軽口(特に異性に関わるもの)をダサく聞こえるようなものにしないこと

とかだ。キャラクターデザインはとても助けになるものではないから、脚本や演出、画が頑張らなければならない。声優さんの頑張りにも限界がある(と言うか、頑張り代が声優さんに与えられていない)。あと、最新話のフレデリカの描き方での「可愛さなどキャラの個性に関わるような要素の欠如」も同様に異常。扱えないなら、今後女性キャラは出さない方が良いのではないかと思う。作り手の人生経験やカメラやレンズに関する知識ってどの程度なんだろうね。

 I.G.にはレイアウトシステム(画角と画角内の描画対象の位置を決めるプロセス。手描き絵のパースも実質的に決める。CGIとの合成が前提の場合、CGIで使うカメラやレンズの特性やカメラの位置、向きを決めるプロセスと等価だ)に長けた人材が多くいたはずなのだが、それらが使われている感じが全くしないのも違和感が大きい。つまり、パースがヘンに感じたりするとか、あるべきパースが無いと感じることがあるという事だ。

 2000年代、米国のTVドラマシリーズには宇宙を舞台としたSF作品が多かった。この時期、宇宙船飛翔シーンなどのVFXシーンの製作方法は模型ベース の特殊撮影からCGにほぼ移行していた。そして、無数の大小の宇宙船が乱れ飛ぶ戦闘シーンまでもが当たり前に使られるようになると、その種の仕事が任せられるCGI制作会社は極めて短時間のうちに淘汰された。これは、制作予算やスケジュールの管理能力があることは当然として、必要な演出ができる人材を確保できていたかどうかが大きい。

 当時生き残った代表的な会社にZoicがある。当時Zoicが制作したCGIでは、宇宙船の相対的大きさの表現が上手いと感じたものが多い。巨大戦艦に大量に群がる小型戦闘艇、巨大戦艦に単騎で戦闘を挑むボロ旧式戦闘艇といったシーンが非常に魅力的に仕上げられていた。

 この時期の作品に「Battlestar Galactica」がある。Zoicはこの作品のミニシリーズ(パイロット版相当で、DVDではシーズン1の1、2話に割り当てられた)~シーズン2のVFXを担当し、シーズン2では所謂「The Adama Maneuver」も描く。この機動、長さ1400m級の大型宇宙船が惑星大気中を自由落下しながら艦載機を発進させたのち、地上激突前に瞬間移動(FTLジャンプ)で惑星大気外へ退避するという「アイディアは新しくないが、良くぞ具体的な画に仕上げ切った!ついにここまでできる時代になったんだ!」と多くの視聴者から評価されたもの。某日本映画が劣化した形でモロパクリし、分かってる国内の筋からのみならず、動画サイトで違法視聴した海外の多くの人々からも映画や監督らは今でもバカにされ続けている。余りの作りに、私は1回観てから中古購入したこの日本映画のDVDを躊躇なく割ることになる・・・ちょ、待てよ・・・なんて言われても割るよ!。
 で、その「Battlestar Galactica」だが、シーズン3に入って主に予算の制限から以下のように制作体制が変わった。
  • CGI制作が番組制作会社Universalのインハウスチーム担当となる。
  • 監督/演出家のキャリアが2レベルは下がる。
  • 脚本家は複数の一流作家からほぼ一人の新人に代わる。プロデューサーは「才能ある新人」と呼んでいたが、「プロ意識はしっかりと持った(スケジュールは守るという意味)アマチュア」との印象しかない。
 結果、VFXは輝きを完全に失い、特に宇宙船の巨大感は完全に失われてしまう。おそらく、Zoicの担当者とは違ってインハウススチームのスタッフはカメラやレンズに関する知識に著しく欠けたのだろう、画角をちゃんとコントロールしたカットやシーンがあった記憶が無い(使用ソフトのデフォルト値のまま?)。ライティングも下手だった(使用ソフトのデフォルト値のまま?)。カッコ良い宇宙艦隊シーンなんて、作れと言われても作れなかっただろう。加えて、脚本、演出共に酷い出来で、2回目観る気がついぞ起こらなかった。でもね、そんな中、俳優陣は結構頑張ってましたよ・・・。

 うん、少なくともここまでの「銀河英雄伝説 Die Neue These」は、まるでシーズン3以降の「Battlestar Galactica」の様なのだ。会話含む脚本、CGI含む画作り、音楽などなど、個々の要素のレベルで意図が分からない。相互に整合していないし、揃えたように平凡以下だ。プロの作ったレベルのものではあるが、省エネ具合の酷さと言うか安全運転するばかりというか熱の無さと言うか、まるで飯のためだけに作ってると言わんばかりに見える。でも声優さんたちは頑張ってるよね。

 で、某大佐のセリフ絡みで補足しておくと、旧アニメは「時に外連味もある舞台的なセリフ回しや演技を、舞台ではなくより現実的な空間内で見せる」という、そもそもアニメ以外でやりようがなさそうな手法を選び、挑んだものだったと思います。日本の当時のアニメって総じてそんなものでしょう、という意見には同意します。が、「舞台的な」といった部分を高いレベルで意識化していたのは間違いないと思います。ある種の重厚さや品を作品に感じたならば、このようなアプローチの貢献度は低くないでしょう。キャラからローゼンリッター、帝国軍の装甲服(どう考えても機能よりキャラ付けとリンクした見栄えが優先)まで大部分のデザインはその手法にきっちり従属し、当然ながら手法自体を支えます。また舞台的な描写は、帝国内社交界などの形式化が進んだイベント類の描写との親和性も高そうです。形式化が進んだものを形式化が進んだものとして見えるように描く・・・それが出来てこそ、帝国の様々な要素を「行き過ぎた形式化どころか硬直化したもの」と見做す劇中人物の認識を視聴者は疑似的に共有できるんじゃないかなぁ・・・

 一方、新アニメには独自とも敢えて選択したとも思われる方法論を未だ見出せません。見た目は「書割に立ち絵」なので、動き、外連味、キャラの物体の裏表や割りばしの無い「ミニパト」と実は変わりません。「ミニパト」の方法論でもちゃんと動きのある社交ダンス描写は難しそうな(と言うか向いていない)なところにきて、その超絶劣化版です。作られるだろう社交ダンスシーンの画は容易に想像できます・・・それぐらいしかやりようが無いですからね(ただし、社交ダンスシーンは明らかに面倒くさいので、これまでの流儀からの類推として、止め画すら作らず、画面上では触れない可能性が高いです)。「ミニパト」の方法論は「用意さたセリフ」に従属すべく研ぎ澄まされています。「ミニパト」の画面内要素は、セリフのためだけに、セリフに合うように、過不足なく用意、配置、移動、除去され続けるのです。作品の出来や良し悪しは別にして、なんと贅沢な、何と純粋な。

 「某大佐のセリフが徹頭徹尾ダサかった」のは当たり前、それはピエロの格好で営業運転終了後の千代田線列車の運転席内でヒンズースクワット風の意味の無い運動を繰り返しながら古典落語を演じるが如く、セリフの周囲に用意された何もかもがセリフに対してちぐはぐだからなのです。

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