先週頭に久しぶりに英文論文を投稿した。おそらく査読が始まったころだと思う。新規性には問題ないだろうが、如何せん英語が下手なのは英語ネイティブに添削してもらっても限界がある。
かと言って、とてつもない事を発見した訳ではない。むしろ何故同じことをやる人間がこの40年間に現れなかったのか、とすら思う様ななんちゃ無いことである。ただし有効性、汎用性は明らかに高いと思う。他人にやられていたら、もの凄く悔しい思いをしただろうと思う。と言う訳で、ここ20年くらいの関連論文を1ヶ月ほどひたすら読み漁った。他の研究者が既に同じ結果を発表していたらとても恥しいじゃないですか、着想から結果の確認まで高々3日程の内容なんだから。
で、何となく見えてきたのが近年論文数の増加が著しい中韓在住研究者の論文内容の一般的傾向である。はっきり言って「まだ」面白くない。
韓国研究者はとにかく一人当たりの論文数が多い。 おそらく所属機関内での評価に論文数が効くのであろう。ただ結果として試験結果の出し惜しみとも取れる傾向がある。また、常に新しい試験結果は出てくるが、結果評価に用いる手法やモデルは30年前のままなのである。結論の「これらモデルは試験結果と合わなかった」が予定調和とすら感じられるぐらいなのである。試験結果を共有してくれるのは有難いし、その点において新規性もあるのだが、しょせんそこまでなのは遺憾としか言いようが無い。本来、独自の試験データを持つ研究者が一番強いはずである。他の研究者が打ち破れない壁を文字通りぶっ壊すための鍵を持っている可能性があるからだ。先行研究者の知見を発展的に打ち壊す、そういうパワーが論文から感じられないのが「まだ」面白くない理由の一つと言える。こと知的活動においては量は質を凌駕できないのが現実だ。
この種のパワー、という観点からは、中共研究者の論文から読み取れる研究開発姿勢は韓国からも10年以上遅れている。何故それをやるかは理解できるが、試験自体が他の研究者の後追いに過ぎないことが多い。国家プロジェクト絡みなんだからもっと大規模な試験をやれば良いのにと思うのだが、米国大学の試験装置みたいなレベルで留まっている感じがぬぐえないし、試験結果自体が新しいものになり得ない。しかし、導き出す結論は無理筋までに大きいことが多い。やった内容、結果と結論の内容の間のギャップが激しいのだ。「それは言い過ぎだろう」と突っ込みたくなる論文が多いということだ。質が伴わないのはものさびしいものである。
一般化はできないし、やるべきでもないが、心象としての傾向はズバリ、「韓国の研究者は論文の数を多く見せたい、中共の研究者はやった事を大きく見せたい」だ。これら、各々が所属する集団の文化をも反映しているのではとすら感じられる一種のステレオタイプを打ち破る研究者の登場を心待ちにしている、というのは偽らざる心境だ。重要なのは論文自体、という当たり前の姿勢を是非示して欲しい。
誰が何と言おうが研究開発には「王道」がある。王道を本当の意味で離れて新しい何かを手に入れる、或いは王道を極めるためには、「王道」自体を理解することが必須と言える。韓国、中共の研究者に論文を介して共通して感じるのは、彼らが「王道」を歩みつつ、それから離れる意思がないように見えることだ。果たして彼らが王道を本当に理解しているのか、意識してその道に留まっているのかは現時点では私には分からない。
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