2020/02/10

「パラサイト」アカデミー賞受賞からつらつら

 今年のアカデミー作品賞は、ポン・ジュノ監督の「パラサイト」が受賞した。私は観てないので作品自体については何も語れないが、個人的には懐かさも感じる名前がみられたので、昔語り含めて思うところをつらつらと書いてみようと思う。

 ポン・ジュノさんが関わった映画作品との最初の出会いは「ユリョン(幽霊)(1999)」だった。担当は脚本である。脚本家なんて普通覚えることは無いが、ストーリーが当時親韓寄りの一日本人であった私からしてみてもあんまりなものだったから、結構ネガティブな意味で名前を憶えてしまったのだ。はっきり言って観ていて不愉快になった映画だった。本映画では、「借金のかたにロシアから核ミサイル原潜(艦名が「ユリョン」)と核ミサイルを入手したから、日本の諸都市を核攻撃しよう。海上自衛隊の潜水艦も撃沈してやったぞ!」という反乱勢力と、「日本を核攻撃するべきは今ではない、今は止めろ!」という主人公との、核ミサイル原潜内での戦いが描かれる。そして、日本を核攻撃する理由を主人公に問われた反乱勢力のリーダーの回答は、「これは我々の恨(ハン)だ」の一言だった。

 これを観て、日韓は絶対に安定した友好的関係を維持できない理由がある確信した。観た時期が日韓共催サッカーワールドカップと重なったことで、その思いは尚更強くなった。

 「恨」に対応する概念は日本には無いとされるのが一般的だ。2000年ごろに、日本人には「恨」は絶対分からないと本で書いた日本人や韓国人もいた。「恨」に対する私の印象は「相手が悪いんだと決めつけることが許されるという、日本で言うところの空気みたいもの」であり、「甘えの論理」の発露以外の何物でもない。「恨」は韓国人同士でも発動するし、「国民情緒法」や韓国左派の志向、とにかくマウントを取りたいという欲求などとの親和性が実に高い。「ユリョン」では韓国原潜は米国原潜には全く手を出さないが、映画とは言えさすがに日本と同じ扱いはできなかったのだろう。だから余計に「日本への甘え」に見える。

 「恨」を否定も肯定もせず、極端な仮想的状況下で「恨」を振り回す人々の様と「恨」の発露の様を描いた映画、というのが私にとっての「ユリョン」だ。この視点からは、韓国人にとっては何気に自虐的な映画、「恨」の構造そのものの映像化にも見える。全てが「恨」の上に構築された物語であるため、「恨」が無くなると全てが意味を失う。多くの韓国人には「反日エンターテインメント大作」に見えるんだと思うんだけれども、僅かにしかない日本要素の描き方(沈没し、深海で圧壊寸前の海上自衛隊潜水艦から聞こえてくる日本語など)は反日ニュアンスなど含まないかなりニュートラルなものである。とは言え、一日本人に言わせてもらえれば、劇中の反乱勢力や主人公の言行は押し並べて幼稚で不愉快だ。主人公も「恨」を克服している訳ではなく、おそらく「反乱勢力の言行に対する若い正義感に基づく反発」みたいな別の理由によって、結果として「『恨』にどっぷり浸かる楽な態度」から距離を置くことになっているようにしか見えない。どこまでが計算ずくの脚本だったのだろう。

 ちなみにポン・ジュノ監督と韓国保守派との関係は良くない。少なくともとある保守政権では、問題ある人物のリストに含めたことがある。裏を返せば現在の政権は、必要と見れば国を挙げて彼と彼の作品を押すのは間違いない。政府が業界に金を落としている昨今、韓国映画は重要な輸出商品であるとともに政治的な武器とも言える。政権が変われば作られる映画のトーンも変わる。

 とは言え、とある韓国ウォッチャーの文章を読んでいると、政治性の無いエンターテインメント作品や一見左派好みの作品でさえも政権批判(とも取れなくもない要素)や反北朝鮮要素をこっそり忍び込ませる、といったことは最近でも少なからずあるのだそうだ。映画が政治化しようとしているのではなく、政治化されたことに対する映画からの反抗っぽいところがミソだと思う。が、それは作り手がどちらかと言うと保守派寄りである場合の話であって、左派、革新派寄りの場合は時の政権に寄らず、批判の原因である政治や社会の問題の描写がまんまむき出しであることが多い。その代わり、陰にも陽にも政権批判はまぁしない。少なくとも2006年までの作品のポン・ジュノ監督の作風もそんな感じだった。

 むき出しにできるってのは骨があるのか生真面目なのか、個人的にこの辺はもう20年来の謎なのだが、理想家肌の作り手と保守派の反りが悪いことと、保守派でなければこっち側だろうと二分法的に考えている風が見える昨今の左派や革新派の挙動も併せて考えると、話が逆な気もしてきた。左派、革新派だからむき出しなんじゃなくて、むき出しにするから左派、革新派から左派、革新派認定される、むき出しにしなければ左派、革新派から保守派認定される、ということだ。そして、作り手の政治的信条とは関係なく、保守派は左派、革新派の反応を見て、敵味方の判定をする。結局相対的なのだ、「恨」にも似て。

 そもそも中道がない、存在できないとか、保守派もさっぱり頭良さそうな感じがしないとか、脇から見える韓国国内状況からならそんなこともありそうにも思えるから困る。「政治問題、社会問題をむき出しで描くなんて、時の政権であれば左派だろうが革新派だろうが嫌がるでしょ」と思うでしょ?「政治問題、社会問題の原因は全て過去の保守政権」と「悪いのは全て他人」とできるから左派とか革新派なんてやってられるんですよ、「悪いのは朝鮮戦争に介入した米軍」とか何時はっきりと言い出すか分かったもんじゃないですよ・・・きっと、多分、もしかすると・・・まぁ、可能性が全く無いわけじゃないぐらいの話として、ね。

 ここで韓国の映画産業がらみで、さらに脱線する。

 90年代中、後期に韓国映画業界は自ら力をつけた。制作プロセスのデジタル化を一気に進め、ハリウッド作品を彷彿させる画作りをあっと言う間に修得した。強くなった経済力を背景にエンターテインメント大作が作られるようになり、主に軍政時代の事件(例えば、光州事件)を題材とした韓国独自・固有のテーマに基づくやや内省的な作品群も生まれた。短い期間ではあったが、韓国映画は自国の近い歴史を時に批判的に、時に中立的にシリアスに描く作品を生み続けたのだ。私が韓国映画に興味を持ったのがこの時期である。

 そんな一種の自由な制作環境は、映画産業に国が資金を投入し始めた21世紀になって変質していった。「シュリ(1999)」はそんな過渡期最終期の雰囲気をたたえる作品だ。エンターテインメント大作であり、南北分断・対立という朝鮮半島固有の状況を背景とし、デジタル技術を生かした画作りと日本の90年ごろのトレンディドラマ風の画作りが共存する、今見るとちょっとちぐはぐさも感じるサスペンスメロドラマである(私はトレンディドラマとやらを観たことがないので、この辺りの言及は当時一緒に本作を観た人間の感想である。私は時折画が古くさくなるなとしか思っていなかった)。金大中拉致事件を扱った日韓合作「KT(2002)」が後に作られたが、(何時何処で読んだか思い出せないのだが)とある人によれば「この映画の制作時期が、事件当時の乃至は公開当時の政権批判を含む作品が韓国で製作可能だった最後の時期」とのことである。まぁ、もうそういう映画に観客は入らなくなってもいたのだが。

 ポン・ジュノ監督の活動開始時期は、そんな業界の変化と同時期である。韓国近代史上の事件やリアルタイムな国内の政治問題、社会問題をシリアスに描くことが、主張の左右上下に関わらずリスキーなった時代の監督なのだ。後でも少し触れるが、私は韓国のコメディー映画がさっぱり笑えない、面白くない。これは私が韓国の政治や社会のリアリティを知らないせいなのかもしれない。

 他方、朴正煕大統領暗殺事件を扱った映画「ユゴ 大統領有故(2005)」は、ついさっき読んだWikipediaの記事によるとブラックコメディとのことなのだが、初見以来全くそのような認識がなかったので本当に驚いた。本事件に関しては何冊もの本を読み(事件に続く粛軍クーデターの顛末も含め、最初に読んだJICC出版のムック「軍部!」の内容が余りに面白過ぎた)、事件自体の展開が行き当たりばったりなものであることを知っていた。このため「全体として重苦しい画作りで、演出はあるものの、そもそもコメディがかった要素の多い事件経緯をほぼ再現した映画」としか見てなかったのである。今でも「コメディとして作られている」なんて思わない。劇中、「下半身に人格はないからな(笑)」みたいなセリフが日本語で飛び出すが、韓国の観客がどういう思いでそのセリフを聞いていたのかは分からない。

 なお、朴正煕政権内の同世代との内緒話では、うっかり若い世代の人間に聞かれても話の内容が分からないように、日本語を使うことが少なくなかったようである。この点は、世代も、ナショナリズム意識の基盤または国に対するアイデンティティの置き方も違う全斗煥政権以降とは異なるらしい。朴正煕政権は経済発展をテコに「日本の呪縛≒反日≒大きな恨のひとつ」からの精神的自立(≒克日)を、全斗煥政権は軍の米国からの自立をテコに米国からの精神的・政治的自立を、それぞれ志向していたというのが私の理解である。盧泰愚政権以降は・・・うん、一気に「反日」、「反米」の姿勢を取り戻すと言うか、ほとんど再創造してしまった。北朝鮮の「反米」は歴史的経緯から理解は簡単だが、韓国のそれは、例えば米国にはほぼ理解不能だろう。それは士官学校の教官に米国軍人が含まれていた時代を侮辱的と捉えた全斗煥のスタンス(これも「恨」の構造である。自分達が士官学校の教官が全て韓国人となった最初の士官学校生であったことを理由に、全斗煥らは自らを真の「韓国軍士官候補第一期生」と称し、他世代に対してマウントを取ろうとした)を利用した勢力により、政治問題として再創造された側面も持つものだからである。この辺り、戦時統制権に絡む韓国「内」のゴタゴタの筋の悪さと無関係ではないだろう。

 軌道修正。

 北朝鮮の主体思想の立ち上げは、私には「『恨』を乗り越えようとする試み」、「自立への試み」にも見えた(ただし、北朝鮮外で「主体思想」と呼ばれるものの大部分は政治工作用の別物で、「恨」をむしろ利用している)。朴正煕政権の開発独裁手法も、上述したように同じ方向性を持つものと見えた。が、北朝鮮は後に「先軍政治」を叫び、相対的に「主体思想」の影響を国内で薄めた。その結果なのか、北朝鮮の日本への態度に「恨」的な甘えっぽいものを感じることが増えた。 今やその甘えは米国にも発動しているやに見える(年を越えてから良く分からなくなっているが)。片や韓国は盧泰愚政権以降に「恨」は完全に息を吹き返し、その反動として誕生したとも見えた朴槿恵政権(1000年変わらない発言に見るように、アンチ「恨」の体は取らなかったが)も改めて押し流してしまった。

 と言う訳で、韓国の現行政権の中心である左派、場合によっては革新派は、「恨」すら克服できないというか逆にどっぷり浸かった守旧派乃至は単なるポピュリスト、もしかすると50年遅れの北朝鮮であることが明らかとなってしまった。ただ当人たちにその自覚が無い。金日成の大勝利どころか、間違いなく想定外の完全勝利だ。

 この2~3年は南北共に同じ相手(主に日本、米国)に「恨」を発動している状態にいったんなったが、それでもなお北朝鮮には「恨」から距離を取ろうという姿勢はあり(でなければ金日成否定となる)、「北朝鮮が韓国を見下すような態度を取る」根拠となっているというのが私の見立てだ。北朝鮮には現在の韓国政権の精神性が「自分達が50年前に乗り越えたもの」に見えるのである、まともに相手をしようとは思わないだろう。とは言え、そのような北朝鮮の態度も韓国への「恨」の発動とも見えなくもなく、北朝鮮がまともに見えることはあっても、十分にまともな訳ではないだろうという思いは変わらない。目くそ鼻くそを笑う、というやつである。「恨」の呪縛はかくも強烈なのである。

 さて、

ぺ・ドゥナさんというかつての私のお気に入り韓国女優さんがいる。10年代になって「クラウドアトラス(2012)」や「ジュピター(2015)」に出演し、今やハリウッド女優である。日本映画「リンダリンダリンダ(2005)」ではバンドのボーカルを務める韓国人留学生役を演じ、日本のTVCMに起用されたこともある。舞台活動もしている。映画の出来は今二つだが、「春の日のクマは好きですか?(2003)」での彼女が個人的には一番可愛く魅力的だった。

 ポン・ジュノさんの監督デビュー作「吠える犬は咬まない(フランダースの犬)(2000)」はコメディであったが、さっぱり笑えず、面白さが全く分からなかった。が、主役級で出演していたぺ・ドゥナさんを見つけられたのは個人的に大収穫だった。ぺ・ドゥナさんの出演映画は「リング・ウィルス(1999)」から「グエムル(2006)」まで日本で視聴機会のあったものは全て観たが、「グエムル」はポン・ジュノ監督作である。

 ぺ・ドゥナさんは「TUBE(2003)」で「ちょっといい女」っぽい役を演じたりもしているのだが、多少なりとも当たったのがコメディ映画ばかりだったせいか、少なくとも2010年ごろまではワールド・ムービー・データベースで「コメディエンヌ」と書かれていてちょっと可哀そうだった。なお、00年代のぺ・ドゥナさんは明らかに出演作に恵まれていない(婉曲表現)が、観ていないなら、「リンダリンダリンダ」と「グエルム」はまぁ、お勧めできる。「パラサイト」がコメディとして始まりホラーに変わっていく構造と人から聞いたのだが、ならば「グエルム」と似た構造とも言えるかもしれない、知らんけど。

 ソン・ガンホさんは今もお気に入りの韓国男優である。 低予算コメディからシリアスな大作までもこなす、個人的印象としてとても器用な俳優さんである。役を自分に寄せるタイプではない。初見は「シュリ」で、「パラサイト」では主演を務めている。お勧めの出演作は肩の凝らない「反則王(1999)」と胃もたれするかもしれない「殺人の追憶(2003)」だ。

 「殺人の追憶」は今やアカデミー賞タッグとなった監督ポン・ジュノ、主演ソン・ガンホ作品で、最初から最後まで緊張感のあるフィルムだった。同監督の「吠える犬は咬まない」も同主演の「反則王」もコメディだったので侮り、心の準備なく初見に臨んで劇場でちょっと茫然としてしまった。カメラワークなどに、主人公らの経験を観客にも共有させるようとしているといった意図を感じる映画だった。私にとってのポン・ジュノ監督作品は、今も「殺人の追憶」に尽きる。ただ結構重苦しく後味も良くない映画なので、万人にはお勧めしない。

 最後に「パラサイト」の受賞だが、(後出しだから説得力はないけど)個人的にはかなり確率が高いと見ていた。ここまでの追い風はなかなか望めないからだ。トランプ政権の支持基盤は共和党右派で主流派よりも右寄りである。アカデミー協会の政治的逆張り体質は折り紙付き、ポリコレに対する態度はもう敏感を通り越し異常とも言えるレベルであり、更に昨今の海外会員の増加の少なくない部分を韓国人会員が占めている可能性も高い。おそらく韓国政府の働きかけも方々であっただろう。監督がNETFLIXからの投資を受けた経験も、もはやアカデミーでは問題とはされない。NETFLIXも何らかの賞は取らせたいと考えていたのではないか・・・「アイリッシュマン」との兼ね合いはあるが。

 「パラサイト」はノミネートされた時点で映画として一定レベル以上の出来である評価が定まっており、社会的テーマを取り扱うとともに、(観てはいないがおそらく従来通り)左派視点が盛り込まれているか強く影響した描き方となっているだろう。故に受賞を逃すようであれば、「人種差別を叫ぶ会員が出てきても驚かない」レベルと見ていた。映画としてOK、アカデミーが好きなテーマ性、アンチトランプ(厳密にはアンチ現米国政権なのでざっくりアンチ保守、つまり左派・革新支持)、ポリコレ(アジア人監督作)・・・もうここまででも十分な数の受賞に有利な因子がある。繰り返すが、これまでの受賞歴、評論家のみならず観客からも得た高い評価から、映画としての出来は折り紙付きなのである。アカデミー作品賞受賞の可否は、もう政治マターだったようなものだ。

 もちろん、そうではあっても、アカデミー賞受賞が「パラサイト」の価値を上げることはあっても下げることはないのは当然だ。そしてもう一つ大事なこと。賞は作品なり、監督なり、脚本なり、俳優なりが取ったものであって、国は基本的に関係ないんだ。だから(馬鹿々々しいので以下省略)

2020/02/08

X-32、不憫。

 Boeing X-32は、Lockheed Martin F-35の試作型であるX-35と軍の正式採用を争った第5世代ステルスジェット戦闘機の試作機だ。その外観はモダンな戦闘機としては特異な方で、たまにかわいいと言われることはあっても、かっこいいと言われることは稀なようである。ちなみに私は、機首~空気取入れ口周りの形状が見た目だけでなくエンジニアリング視点でも好きであり(一応、流体力学分野で飯を食っている)、特に斜め後方45度前後、斜め上方-10~+10度範囲の位置から見た全体形状にはX-32にしか見られない独特の機能美を感じてしまう。一方とっても長い主脚は・・・アレは色々とマズそうだ。

 さてYouTubeのチャンネル「USA Military Channel 2」で、「【ボツになった戦闘機】ボーイングX-32ステルス戦闘機」と題する動画が公開された。米軍の日本語版公式チャンネルということで未見の映像が含まれることを期待したが、全て既に観たことのある映像だった。また、以前に観たものより高画質だったという映像も無かった。
 X-32とX-35との、つまりBoeing社とLockeed Martin社との闘いのドキュメンタリーとしては、米国PBSネットワークのNOVA枠で放送された「Battle of X-planes(2003)」が有名だ。上の動画中のほぼ全ての映像は「Battle of X-planes」内で観ることができる。00年代後半のころは、このドキュメンタリーの内容はネットの上の戦闘機好きの間では基本教養と見做されていた。私も何とか観る機会を作り、話題について行こうと当時頑張った。

 今現在も大したレベルではないのだが、このドキュメンタリーを何度も観たことで多少なりとも英語リスニング力が向上したのは間違いない。BBCのドキュメンタリー(ユーロファイター・タイフーンやハリヤー、初期ジェット軍用機のものが多い)もそうだが、ドキュメンタリー番組のナレーションは概して聞き取り易い。自分の興味とマッチするドキュメンタリー番組を見つけて原語で観るというのは、外国語のリスニング力を上げる方法としては効率が良いのではないかと思う。会話重視なら、映画の方が良いかもしれないけど。

 閑話休題。

 「Battle of X-planes」の面白さの一つは、何故X-32が負けたかが良く分かることだ。何故X-35が勝ったか、ではない。

 コンペティション(競争)では両社2機づつの試作機を製作、両社ともに要求仕様に基づく独自の試験計画を作成、実行して自社設計の性能をアピールし合う。軍から派遣される試験パイロットがX-32は海軍、X-35は空軍という違いの影響もあろうが、両者の試験計画はかなり異なっている。

 YF-22のコンペティションの経験を反映してか、試験計画はLockheed Martin社のX-35の方がアグレッシブだった。Boeing社のX-32の試験計画の内容も決してX-35のそれに見劣りするものではなかったが、試験中のミスやトラブルが目立った。そして私が見るところもう一つ重要だったのは、正式採用にあたって大きな設計変更がX-32には必要と、Boeing社自身がコンペティションの途中で認めざるを得なかったことだ。3DCGモデラーとしての視点からだと、X-35からF-35へも外観差も一からそれぞれ作るべきだろうというレベルではあるのだが、それでも全くの別機体とは見做し難い。が、もしF-32が誕生した際には、その外観はX-32とは明らかに別物となる。要素の形や寸法が変わるだけでなく、重要な機能をも持つ構成要素が増えるのだ。

 ドキュメンタリー内で確認できる試験時のミス、トラブルとしては、例えば以下のものがある。
  • 飛行中の操縦プログラム異常
  • 飛行中の油?漏れ
  • 空中給油試験時に、給油ドローグ(先端に漏斗状のエアシュートが付いた給油機側ホース)のエアシュートを空気取入れ口が吸い込みそうになった。このシーンは観ていて結構怖く、映像にも撮影者の心の動揺みたいなものを感じ取れる。文字通り「ふっ」と、或いは「すっ」とエアシュートが空気取入れ口に向かって突然動くのだ。
  • 垂直着陸試験時、ほぼ着陸のタイミングでエンジン異常燃焼
 設計変更は主翼の小型化と水平尾翼の追加とかなり大きなもので、海軍からの要求仕様の変更に対応するための重量低減が目的だ。ドキュメンタリー内ではまず、尾翼構成を通常の垂直尾翼×2+水平尾翼×2とするか、垂直尾翼と水平尾翼の機能を併せ持つ尾翼(ペリカン尾翼)×2とするかをスタッフ内で議論、責任者が決定するシーンが登場する。そして、その後にその決定が覆える様も登場する。小さくない設計変更が必要というだけでもX-32の正式採用には十分逆風なのだが、設計変更内容がふらふらするのもうまくない。Boeing社も良くこんなシーンのTV放送を許したものだと思う。

 X-32の敗因として、軍の多くのパイロットが「あんなカッコ悪い機体には乗りたくない」と言ったなどと聞いたり読んだりすることがある。優秀なパイロットに乗りたいと思わせるために戦闘機のようなF-117という名称が与えられた爆撃機もあったぐらいなので、それもさもありなんとは思う。が、大きな設計変更が避けられなかったことこそ、X-32の敗因だと個人的には考えている。試作機の性能が要求仕様を満足しない、開発期間・コストが更に必要であることが明確、の二重苦状態では勝機は薄い。

 著作権的には問題あるが、「Battle of X-planes」は今はYouTubeで観られる。なお、再生開始位置はX-32の尾翼設計変更に関するところとしてある。

2020/02/06

アニメ「映像研には手を出すな!」第5話を観る!

 金森好きの面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。本エントリの内容が伝わるか伝わらないかはあなた次第(丸投げ。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 アニメ版もきっちり楽しんでいるので念の為。第一人格?が無邪気にストーリーを楽しみ、第二人格?がリアルタイムで演出意図などを分析しているような視聴法になっているのだ。通常、第二人格?は劇中設定そのものや設定を反映した画面中の要素を追うことに使う。アニメーターの遊びなども第二人格?が大概拾う。発見や面倒くさい見方の担当とも言え、視聴回数が限られる映画鑑賞経験を重ねて培った一種の視聴テクニックっぽい。これまでのエントリで何回も触れた通り、原作マンガはアニメ化にひと工夫もふた工夫も必要な特殊な構造を持つ。だから作り手の工夫や考えの発露たる演出や原作からの変更点などに第二人格?の視線を向けている。ちなみに第一人格?だけに従うと褒めっぱなしになっちゃうよ。

 さて、

最後の4分程の「ロボットの改造」シーンは画もテンポも良く、展開を知っていてもワクワク感がたまらなかった。声優さん達も良い。背景を白一色で通し切ったのもプラスに働いていたと思う。原作マンガでは数コマだけだけど背景が描かれたコマがある。このシーンではロボットも前景だから、同じテイストの絵での背景があると画が煩雑になっちゃっただろう。あの絵でロボットの一部を動かしたり、多少とも入り組んだ構造となっている関節部むき出しで立ち上がらせたりするのだから尚更だ。

 とは言え、残念と言うかもったいないと思う点が無かった訳ではない。

 浅草の「シートベルト忘れた!」や水崎の「あ~だけど関節全部隠して良いかな?」などのセリフに合わせて、静止画でも良いから対応する画を見せるカットが欲しかった。特に後者のセリフ前後はドリルをゆっくりスライドさせながら見せる長いカットなので、「セリフで説明するだけかいっ!」と突っ込まずにはいられなかった。別にドリル好きでもない私には、流石にこのカットは長過ぎ、観てて結構しんどかった。新品のドリルなんだから、「反射光キラーン!」ぐらいしてくれて良いのよ。

 対して、アバンタイトルの浅草の「なんじゃぁこりゃ!」の後からミサイルが浅草に命中するまでのシーンは、観ててこっちが「なんじゃぁこりゃ!」となった。テンポがなんか悪いし、演出意図も掴みかねたからだ。この一連のシーンは暗い(透明度が比較的高い黒一色のレイヤーが重ねられている感じ)のだが、私はこの見せ方を浅草の主観の反映と解した。

 しかし、カメラがかなり客観的視点から浅草、水崎を追うのでチグハグ感が半端なかった。「なんじゃぁこりゃ!」までの3カットは徐々に浅草の顔に寄せていくので、例えば「浅草の不安感」の反映と解することができ、観てて全くチグハグ感を感じなかったのとは対照的だ。「浅草の知らないところで進行する、金森、水崎も関わる陰謀の進行」感の反映ならば、それこそ浅草の主観となり、使われているカメラワーク(ほぼ原作準拠?)は明らかに相応しくない。また、画面が通常の明るさに戻るのが、ミサイルの浅草への命中と同時と言うのもおかしい。万が一、「トンデモない陰謀が進行中」と視聴者をミスリードしたかったのであっても、視聴者にカタルシスを与える瞬間は「浅草が状況を正しく理解した」時でなければならず、やはり浅草にミサイルが命中した瞬間ではない。

 じゃぁアンタならどうすんのと問われれば、薄暗いのは「なんじゃぁこりゃ!」まで、または浅草がミサイルに気付いて目を丸くした「え?何?」ってなった瞬間までだろう。ミサイル接近から命中までは可能な限り笑えるもの、または視聴者が「は?」となるものにしたいから、命中過程のカメラワークは浅草の主観を強調した派手なもの(例えばスローモーションや背動駆使、○○サーカスみたいな)とし、命中直後または命中直前の浅草の顔のアップの後にOPに入りたい。OP開け以降は、最初から通常の明るさとしたうえで現行のままの命中シーンから始める。つまり命中シーンは浅草の主観的なカメラワークと客観的なカメラワークで2回見せることになる。これは「解決編」とでも言うべきパートにこれから入りますよ、転換点ですよと、視聴者に明確なキューを送りたい意図の反映だ。くどくやりたければ、OP開けはスコーンスコーンスコーンって感じで、ミサイル命中カットを3回くらい繰り返しても良い。ま、素人にそんなこと言われたくないよってなるでしょうけど、そりゃ当然そうですよねぇ分かります。

 結局、暗く見せた意図はどのようなものだったのだろうか。あ、古代芝浜文明の設定画もなんか「見せただけ」って感じになってたなぁ。他の回でもそうだけど、ちらりと見せるだけみたいにしか出さないなら、その浅草の設定画はいっそ端から見せない方が良いと個人的には思っている。設定画をチラ見するだけにしようが文字を全部読もうが読者次第のマンガと、時間が強制的に進んでいくアニメとの違いを踏まえれば、有り得ない選択肢とは思わない。大型ロボットを含む古代芝浜文明の設定を考えている時の浅草はむしろワクワクしていた、と原作を読みながら思っていた私なら、当然前後含めて薄暗いシーンなんかにはしない。古代芝浜文明の設定画を見せてしまったことも、暗く見せた意図が分からない原因の一つと言える。

 地下探検シーンは「日常」なので、アニメ文法への置き換えの手際は危なげない。水崎のフレーム内妄想シーンも自然で、ここでも声優さんが良い。「遷移過程」であるテッポウガニの設定画の説明も、ロボットとテッポウガニとの絡みも、何の引っかかりも無く観られた。「ロボットの改造」シーン同様、ここでのロボット周りの見せ方はとにかく楽しい。ただし、こちらでは背景は白一色で押し切ったりはせず、時折背景が、時に画面内の一部分だけに、描かれた。ロボット全体が吹っ飛ばされるようなこともあるアクションシーンもあったから、さすがに背景無しでは無理だろう。繰り返すけれど観てて引っかかることは無かったから、手放しで褒めてしまおう。

 ロボ研との打ち合わせシーンで手書き文字で見せた心の声、浅草の「定番の矛盾を・・・心が痛む」や金森の「死ぬほど面倒くせぇ。・・・」はそれぞれ浅草っぽい、金森っぽいと思えてしまう字体が使われていて面白く、凄く良いな上手いなと思いながら観ていた。

 が 、「突然の和解」が手書き文字で画面に表示された瞬間に、頭の中の第二人格?部分がクエスチョンマークだらけになった。いったい誰の書き文字なのか、誰の視点なのか。浅草なのだろうけど、画に、カメラに、浅草主観の要素が皆無だ。上述した暗いシーンと共通するチグハグ感がある。あ、大童さんか!?監督か!?演出か!?メタいがチグハグ感の原因は論理的にすっきり消える。

 ここは小野、浅草、水崎のハモった「同士よ!」という原作には無いセリフだけの方が、面倒くせぇ奴フレンドリーだったと思う。「同士よ!」というセリフの導入に合わせた「突然の和解」の表示の削除は、原作に対して「足す」ことが多いアニメ版において明確な「引く」チャンスだったのでは、と残念感がある。今回アニメ版で追加された要素はこのセリフぐらい(現時点で他には思い当たらない)なので、その思いは尚更強くなる。まぁ上で触れた「ロボットの改造」シーンの白一色の背景の徹底は、アニメ版でも「引く」ことはやってるよってことではあるのだが、ドリル長回しカットも伴うとなると制作現場の状況について勘繰りたくもなる。

 で、

昨日原作マンガ第5巻を入手、早速読んだところ・・・アニ研メンバー登場の1、2コマ目でコーヒー吹いた。そして最後の4ページ、そういう表現で来たかと思わず唸ってしまった。映像化したときのイメージが全然作れない、私の想像力では追っつかない。無念。音絡みの知識はほとんど持ってないから、百目鬼絡みのネタは半分も分からない(感覚的にでも良いというならほぼ全部分かるが)。エコーロケーションってそういうことなのか、絶対できない。こっちも取りあえず無念。

2020/02/05

続・某YouTube動画の再生数急増

 先行するエントリで述べた私がYouTubeへアップロードした特定の動画の再生数急増の件だが、思ったより早く収束しそうな雰囲気が出てきた。ついては後述するように切りのいい感じの数字が出ているので、もう中間評価ということにしてしまおう。

 さて、直近28日間(4週間)の件の動画の1日当たりの再生数は下図の通りだ。急増と言うより激増と言った方が良さそうだ。緑字の「↑>999%」という表示が状況の異常さを良く伝えてくれる。
で、7年半前のアップロードから今日 までの1日当たりの再生数は下図の通りだ。私が笑ってしまったのも分かってもらえると思う。右端以外はほとんど0にしか見えない。
 右端を除く時間域の地を這うようなグラフ線上に、何カ所か小さなギザギザした再生数の増加が見られるが、これらの原因は大部分把握できている。多少なりとも影響力のある人が自身のFacebookまたはTwitterが取り上げてくれたからだ。これらは動画のリファレンス元(=動画のページにどこから来たか)とGoogle検索結果などから、ものの10分ほどで原因となった具体的なユーザやTweetの特定は可能なのだ。

 一方、今回の激増ケースでは動画へのアクセス元の99%以上がYouTube内からであり、明らかにRecommend数の増加が原因である。

 さて、上記した「切りのいい感じの数字」について触れよう。件の動画の今日の1分当たりの再生数は約40回となるが、この数字は年初の1日当たりの再生数に相当する。つまり再生ペースが1440(24[時間]×60[分])倍程度まで大きくなったということだ。いやぁ、やっぱり異常な事態だ。

 ところで、28日分の再生数グラフを見ると、激増前に5日程度を周期とする微かな再生数の増加が見えるだろうか。実は年越し後、最大約100%の再生数増大(つまり、再生数2倍)が複数回発生していたのだ。このような安定/不安定境界とも言えそうな状況下で何か外乱が入って一気にYouTubeのRecommendシステムが不安定化した・・・というのが先のエントリでも述べた私の見立てだ。ここで不安定化とは所謂「逸走」、一方向に吹っ飛んでいくような、雪だるま式とでもいうような挙動を指す。ちなみに私は、工学分野で現れる非線形システムの安定性問題が、大学生時代から就職後も大好物なんですよ。

2020/02/02

某YouTube動画の再生数急増

 7年以上前にYouTubeにアップロードしたとある動画の再生ペースが1ヵ月前の40倍以上までに急増、併せてチャンネルのSubscribe数も急増し、思わず笑う。こんなこと10年無かったわ。誰か幸せになるんなら良いんだけど、7年以上も経つと価値観や世の中の見え方が変わってしまって私自身がほぼ別人なんだよなぁ。
 チャンネルベースの再生数は下図の通りだが、増分はほぼ上の動画の再生数の増分に等しい。なお再生数絶対値は大したことはなく、収益化対象となるためにはさらに100倍近い再生数の増加が必要なレベルだ。
 問題と言うか申し訳ないのは、同系統の動画を作る予定も上げる予定も現時点では無いことだ。つまりせっかくSubscribeしてもらっても、暫くは期待されているような新規動画が私から上がる可能性はほぼ無い。ということもあって、どうせ2、3週間もすれば再生ペースは元に戻るだろうとドライに考えている。故に喜ぶでもなく笑うしかないのだ。

 ただ思うことは2点ほどある。

 一点目は極めて個人的な内面の話。「喜ぶでもなく」というのが、自分でも一瞬驚いたほどピュアな本心であることだ。件の動画は自分の中では既に完了させた個人プロジェクトのアウトプットであるため、再生数やLike数の増加は私の自己承認欲求や報酬系を全く刺激しないのだ。心から有難いけど別段嬉しくはない。あ、コメントは嬉しみあるかな。

 「じゃぁどういう状態が嬉しいの?」と問われれば、この動画きっかけで3DCGモデリングや動画作成に挑む人が現れることや、「この動画はもう何もかもが古くなってしまった!」と唸らされてしまうような動画が氾濫するような状態の出来だ。故に、7年前に1日12時間労働が日常化していた一人のサラリーマンがストレス解消にちびちび作った動画に、未だにそこそこのペースでLikeが付き続ける現在の状況は、当事者としては実はツマらない。

 なんといっても私のオリジナル要素は無く、志の低い単なる作業の結果披露動画でしかないからだ。価値があるとすれば「誰もまだやっていなかった方向性(作画設定にある詳細構造や全体バランスを可能な限り省略、変更することなく変形過程を再現できるモデリング)で、そこそこの質のレベルまでやっちまった」こと、「初志貫徹!口先だけじゃぁなかったんスよ」の一点に尽きる。理想は「やっちまった以上は、忘れられることなく、早く『クラシック』とか『マイルストーン』とか『リファレンス』と呼ばれるようになる」ことだ。だから、ちびちび再生され続ける状況はちょっと嬉しい、忘れられるのは切ない。そしてオリジナル(要は元ネタ)の放つ魅力は未だ凄い。

 「じゃぁ似た方向性で今後やってみたいことある?」と問われれば、「ファースト・ガンダム」かなぁ・・・「イデオン」でも同じ話にはなるんだけど。

 最近私のチャンネルをSubscribe頂いたLucyさんのチャンネル(Lucy の 3DCG World『不良番町 手八丁口八丁』)内の動画を観ながら、「次はザクだよ!旧ザクもだよ!」と思った訳ですよ。方向性はずばり「安彦ザク」。昨今の3Dとして成立しているザクではなく、最初のTVシリーズ画面内の「作画力で成立させているザク」の3DCGIによる再現ですよ!

 金属製のくせに曲がるわ捻じれるわ部品消えちゃうわ股関節の可動範囲がやたら広いわ、その癖画としては決まっている必要があるという超高難度、そして誰もそれはやっていない(エヴァ新劇場版では、ちょっとそういうところにも踏み込んでいるのかも知れないけど)。誤魔化さないのではなく、積極的かつ美しく誤魔化すためのモデリング、リギング、ライティング、カメラワークの追求!背景と前景の画角は当然僅かに違いますよ。モデルを伸ばすんじゃない、画角を変えて伸びるように見せるんです!これぞ手描きの妙の再現!

 とても今はやれんけど、志は案外高い。考えるだけでわくわくするのは世界で私一人だけですか?

 あと松本零士さんの「戦場マンガシリーズ」の航空機の3DCGI再現も!肝は水彩調の塗りでのアニメーションで、迷彩とかになると本当に面倒くさくなるんだけど、様々なマスクの切り方やレンダリングの順番、合成手順など実現性は一応確認しているんですよ。YouTubeが未だ無かった00年代前半の話なので、実はもうかなり忘れてますけど。

 二点目は個人的な微妙に知的かもなな興味だ。知っている人は知っているように、YouTubeでは3、4年前に「日本の80年代シティポップ(歌詞が英語、おっしゃれー(棒)」が主に海外でバズった。Future Funk(笑)にも一部繋がった動きだった。

 この現象に対する解釈、説明は米国人を中心に幾つか為されたが、個人的には「YouTubeのRecommendエンジンが起こした小さくて奇妙な振舞いをきっかけとして、視聴者とRecommendエンジンとの相互作用がバタフライ効果を起こした結果」としか見做していない。つまりコンテンツ自体よりもそのコンテンツがRecommendされた視聴者の反応の方が支配因子であるシステムの挙動の問題であって、コンテンツやその周辺状況の文化的・社会的分析や解釈にはほとんど意味が無いという立場だ。単に米国人にとってエキゾチックに聞こえただけだった程度の話ではないだろうか。

 現に、意味ある派生的な価値創出は無く(様々なバージョンの竹内まりやさんのイラストがちょびっとミーム化したくらいかな?)、結局はネット内で消費されただけに見える。昨年になってこの現象に触れた日本語コンテンツも出てきてたけど、周回遅れが常習の私より反応遅いって何年遅れですか、っつーか反応があればそれだけで儲けレベルのステマが大半っぽいなぁ。まぁ、若い人たちが聞く機会がほとんどなかった楽曲との出会いの機会が新たに創出されたのなら、それもそれで良しですか。iTunesなどの有名どころからは大抵の楽曲は入手できなかったんですよ、少なくともバズったころは。

 おっと、閑話休題。

 そして今回の件の動画の突然の露出も、そのようなRecommendエンジンのカオス的挙動下のものではないかと考えている。このため、アクセス解析データのダウンロードを始めた。落ち着いた(落ちた)ところでデータを分析してみようと思っている。いやぁ「日本の80年代シティポップ」周りのデータ、YouTubeが公開してくれないかなぁ・・・何本も論文が書けるんじゃないかなぁ。

 ちなみにFuture Funk(笑)とは言え、300曲も聞けば聞くに堪えるものの2、3曲は見つかりますよ。

2020/01/28

2020年、自分への宿題(のひとつ)

 本エントリは昨年12月中旬に書いたもの、公開が1ヵ月以上遅れてしまった。まぁ、個人的なメモだ。なお、年を越してからWake Up, Girls!(WUG)に関わるテキストとしてよふかしさんのWUG関連のブログ記事を熟読、参考とさせて頂いた。WUG作品は観ていないどころか作品自体の存在すら知らなかったぐらいなので、テキストそのままを読解させてもらった。このため私のWUGに関するコンテクストの理解は、よふかしさんのそれを超えることはないどころか、多くの間違いを含んでいるだろうことを明記しておく。

 さて、

ここ最近は、YouTubeで公開されている岡田斗司夫ゼミを流し観していた。もともとは宇宙開発ネタ、SFネタ、特撮ネタ目当てだったが、私が高畑勲氏の作品が総じて苦手と言うか下品に感じてきた理由(と、「赤毛のアン」だけは例外でむしろ好きな理由)や宮崎駿氏の作品が総じて気持ち悪いというか下品に感じてきた理由(ヒロインに対するねっとりとした視点、とでも例えられそうなものの明確な存在)などが「分かった気になった(≒言語化されたが、自分の中でもまだ検証(validate)されておらず、血肉とはできていない)」など得るものがあった。

 そんな中、「観たけれど自分の中での処理は保留」、より具体的に言うと「登場した人物がしゃべった内容をそのまま理解するに止め、解釈や分析は今はしない(=読解しかしない)」とした回がある。映画・アニメ監督である山本寛氏との2016年における三回の対談()だ。後日知ることになるが、何のかんの言ってこの頃の山本氏の口頭における言葉の強さは2019年7月ごろに比べれば低い。相手が岡田氏ということも影響していたのかも知れないけれど。

 ちなみにこれら対談における山本氏の印象は、「おもろいけど、めんどくさそうなあんちゃん」だ。

 「あんちゃん」の部分は、私の方が明らかに年上ということによる慣用的な表現だ。他意は全くなく、私が年下だったら「おっちゃん」となるだけだ。「おもろい」には二つ意味があって、一つは「関西の間合いが分かってるので、万が一に話をする機会があったらとても楽しそう」、もう一つは「間違いなく頭良さそう」である。関東暮らしの長い関西文化圏出身者である私は「関西の間合い」に常に飢えていると言ってよい。また京都大学出身とのことなので、後は言わずもがな。ただ私はピュアにボケなので、まかりまちがって話す機会があっても上手くテンポが作れない可能性が高い、済まぬ。

 で、「めんどくさそう」は「ポストモダン」といった用語をポンっと使うところにある。若くて今よりも頭の回転が良かった時代にあっても筒井康隆氏の文学部唯野教授シリーズすら消化できなかった私には、文系のアカデミックな用語や概念に対して拭い難い苦手意識がある。つまり「めんどくさそう」の理由はこちら側にある。

 とまぁとにかく、ポストモダンとかについては来年に持ち越しね、とばかりに頭の中は完全に年末年始にのんびりモードに切り替わりつつあったのだが・・・

 今日、YouTubeでrecommendされたポテト元帥さんの動画「万策尽きて延期しまくったアニメ紹介【ゆっくり解説】」から、takaさんの動画「比較動画【メルヘン・メドヘン(9話)】放送版 vs BD版」へ行ったら、OAO OUOさんの動画「Wake Up, Girls! 『7 Girls War!』 PSV版と山本寛版と板垣伸版比較動画」がrecommendされたので観た。

 どのアニメ作品も知らないので、正直どれもなんじゃこりゃぁ状態ではあったのだが、面白がるでも無くとにかく観ている間はほぼ「ほえー」状態だった。ちなみにニコ動発祥と思しきミーム類はどうしてこうも不快なものが多いのだろう、不思議。ま、それはそれとして。

 と、観終わった後に、なんか頭の中で色々とスイッチが入ったような変な感じが。

 「山本氏がポストモダン化と呼んでいた具体的なもの」とか「『画が保っていない』具体的な状態」とか、岡田斗司夫ゼミ中で言及があった幾つかの事項に対する具体例らしきものがフラッシュバックしたほか、「MMDダンス動画が個人的につまらな過ぎる理由のうち、言語化できていなかったもの」など多数の「自分の中で言語化できていなかった概念の具体的イメージ」が一瞬頭を駆け巡った。

 キーワードの一つはやはり「ポストモダン化」で、私の頭を駆け巡った直感的な何かが多少なりとも正鵠を射ているのなら、この世の中、「外部状況・環境とは無関係に内部が多様化するばかりの個が、外部状況・環境下で他の個との軋轢を生む」という状態がより生まれ易くなってきているということだ。多様化とは聞こえが良いが、ここでは勝手な思い込みや妄想による個々間の内部の差も含む。「読解」よりも「解釈(厳密には、個が正しいと信じていること)」が幅を利かすという事態の出来とも言える。

 twitterのアカウントを作ったのは10年以上前だが、結局U-streamで2回呟いた後は放りっぱなしにしている理由も実はこの認識と無関係じゃないな、などと色々と思い出す。その時点でtwitterには絶望していたんだわな。コミュニケーションツールとしてのtwitterは本質的に欠陥品だし、00年代はまだテキストも音声もOKなピア・ツー・ピアのメッセージアプリが幅を利かせていたからね。

 うーん・・・といったんは上のように書いてしまったが、これらはあくまで直感。本当にそう言えるか、適切に言語化できているか、これらは来年への宿題。

アニメ「映像研には手を出すな!」第4話を観る!


 観てて色々しんどかった。

 1/27公開の「攻殻機動隊 SAC_2045」の予告編も大概しんどかったけど、同じ思いの人が多い様なので今回はスルーしたい。とは言えライティングというかダイナミックレンジの確保(特に明度)というか、レンダリング技法が高度化しても画作りが下手な人はいつまでもたっても下手なままなんだなぁ、影が上手く使えてねぇんだよなぁ、と。

 さて、評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 細かい事はもうでーでもいーや。自走三脚式重カメラのシーンと「そのマチェットを強く握れ!」の本映像(劇中内映像だが)とが全く整合していないとか、「そのマチェットを強く握れ!」映写中の「劇中の観客」の主観描写がめちゃくちゃ過ぎるとか、の2点だけでもうお腹いっぱい。

 前者の例は、自走三脚式重カメラで撮った筈の映像が「そのマチェットを強く握れ!」の本編映像に含まれていないこと。原作マンガでは「そのマチェットを強く握れ!」本編の舞台も自走三脚式重カメラのシーンも廃墟内なので、マンガ内の「そのマチェットを強く握れ!」本編描写で自走三脚式重カメラで撮った筈の映像が描かれていなくとも、この種の矛盾が生じていないことを読者は十分受け入れ可能だろう。

 が、アニメでは「そのマチェットを強く握れ!」本編の舞台が廃墟ではないので、当然の帰結として矛盾だらけとなる。さらに、アニメ第3話で作品(「そのマチェットを強く握れ!」となる)のために三人で選んだ廃墟っぽいロケーションって何だったの、ともなる。つまり、第3話で作り手自らが描いたものに対して、第4話ではそれと矛盾する内容が描かれている。そう、二重に捻じれているのだ。

 原作では「廃墟」をロケ地に選び、「廃墟」で自走三脚式重カメラを走らせ、「廃墟」で少女と戦車を戦わせた。アニメでは「廃墟」をロケ地に選び、「廃墟」で自走三脚式重カメラを走らせ、「岩場のある荒野」で少女と戦車を戦わせた。台無しですよ、奥さん。結局、第3話の時点で引っかかっていた点の一つはこの可能性だったのかと納得。

 これらの捻じれは、アニメの作り手は原作もちゃんと読めていない、自分たちが以前にやったことも理解していないか覚えていないということを意味していないかな?少なくとも見かけ上はそうだ。

 しんどい。

 まぁ浅草閣下、「屈辱的な背景の繰り返し横スクロール」を本編で使わずに済んで良かったね。あと、横方向に延びるレンズフレアは見栄えが良いからJJでなくてもつい使っちゃうよね、画から想定されるレンズがそうでなくてもさ。

 後者の例は、予算審議会会場(上映会場でもある)内で煙を上げる空薬きょうの描写。観客であるモブキャラの主観シーンだが、予算審議会会場に空薬きょうが実際には存在しなかったことを示唆する描写はなかった。作り手は視聴者にどのような忖度を要求しているのだろう。あの描き方だと、空薬きょうが本当にスクリーンから飛び出して予算審議会会場に存在した、という解釈が視聴者にとっては自然ではないか。モブキャラが目頭を押さえた後に見直したら空薬きょうが無くなっていて、思わず「これは凄い」って感じの表情を見せる・・・なんて方が「まるでスクリーンから空薬きょうが飛び出してきたように感じる迫力ある映像」の演出としてむしろ素直ではないか。「シーンが変われば無かったことに」は、この原作に対して使って良い手じゃない。

 しんどい、しんどい。

 一貫性とか論理性の有無は細かい話じゃないよ、有ることが大前提。作品に一貫性とか論理性を与えるのは知性の一種の発露(か、記憶力ぐらいあることの証明)であって、作品を物語たらんとしたければ踏み外しちゃいけないんだ。

 私の見るところ、原作マンガは時に複数話にわたる伏線未満の細かい整合性にも細かく目くばせしている、繊細だ(ただし、タヌキが武器だったネタみたいに、伏線回収とともにぽいぽい捨てることが多い)。「細かすぎて伝わらないんじゃないの」と思うような描写に、その後の回でさらっと触れている場合もある。マンガのお約束とでも呼ぶべき弾力性の高い(抵抗なく忖度できることが多い)枠組みにサポートされている点もあろうが、それはどんなマンガでも同じことである。

 一方アニメ版は、少なくとも第4話まで観る限り、著しく作り手に繊細さが欠けている。

 あと、劇中アニメ(アニメ中アニメ、となる)では輪郭線を使わない、っていう第1話来の処理の意図や論理がさっぱり分からず、これもしんどい。

2020/01/25

アニメ「映像研には手を出すな!」第3話を観る!

 困った、本当に困った。一貫性が無い、論理が読めない。思わず引っかかるノイズが多過ぎる。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 従来のエントリで繰り返し触れてきたように、「日常」と「最強の世界」、これら二つの世界を結ぶ「遷移過程(トランジション)」 をどのように描くか、具体的にどのように視覚化するか、に興味深々なのである。

 原作マンガ1~4巻は買って読んだし、アニメ版はアニメ版で素直に観ている。それはそれで措いておいて、作り手の考えていることや具体的に提示される画に対するアイディアなども同時に味わってみよう、少しは分析的にも見てやろう、と言うことだ。

 「日常」が指すものについては説明不要だろう。私の呼ぶ「最強の世界」は、「劇中で完成されたアニメーション作品そのもの」または「作中人物が登場する自身らによる妄想」を指す。前者はアニメ版にはまだ無くて、原作マンガにおける作品「そのマチェットを強く握れ!」の完成版がそれにあたることになるだろう。後者は「飛行ポッド・カイリー号が街の上を飛んでいるカット(原作第1話・単行本第1巻 p.32-33見開き)」が典型的だが、何故かアニメ第1話では描かれず、未だにアニメ版に対して私が持つ不完全燃焼感と言うかアニメ版の作り手の考えが良く分からないと感じる原因となっている。ただこの後者については、続く「遷移過程」との境界がちょっと曖昧に見えるのも事実だ。

 「遷移過程」は 「日常」と「最強の世界」を繋ぐ部分であり、アニメ版・原作第1話ならば、「合作作業」開始後に作中人物が着替えたりヘルメットを被ったりして「画の世界」に入ってから、「最強の、世界」と口にするまでがそうだ。この部分は2つの点で「最強の世界」における「作中人物が登場する自身らによる妄想」とは異なる。

 まず、循環的な言い方になるが、「最強の世界」が後に控えていること。アニメ第3話(原作第4話)の「部室屋根/宇宙船修理ミッション」のシーンはそれ自体が既に「最強の世界」なので、「遷移過程」とはならない。次いで、描写されている画の視点は第三者にあり、描写自体は作中人物の行動のメタファーであること。前述した「部室屋根/宇宙船修理ミッション」のシーンの描写は作中人物の妄想、つまり主観そのものなので、やはり「遷移過程」とはならない。対してアニメ第1話(原作第1話)の「飛行ポッド・カイリー号の改造作業」などは「日常」における作中人物による作画作業のメタファーであり、作中人物が何か妄想していたとしてもその内容は無視して良い。常に「日常」が侵食、介入可能でもある。別の言い方をすると、描写はあくまでメタファーなので、「日常」が同じでも描写自体は作り手によって(つまりマンガとアニメで)変わって良い、と言うことだ。

 本当に繰り返しになるが、「遷移過程」の描写が原作とアニメで異なるのは当たり前だろうと私は考えているため、アニメ版ならではの描写を当然のように期待し、今も期待し続けていると言って良い。マンガとアニメでは「表現の土俵」が違う、というあの話である。

  なお本エントリ中の画像はTV画面のカメラ撮り画像から起こしているが、水平出しやらモアレを目立たなくする作業とか、撮影時、後処理時ともに色々面倒くさかったのでもう二度とやらない。コントラストが高くなっている理由はそういう面倒くさい作業の影響だ。

 さて、アニメ第3話。

 まずは「最強の世界」たる「部室屋根/宇宙船修理ミッション」のシーンだが、原作マンガでの描写に沿った描写で特に引っかかりも無く・・・と言いたいところだが、金森に「妄想」を発動させてしまったのは個人的に甚だ疑問だ。金森のキャラクターがかなりブレてしまっていると思う。

 原作における金森の「部室屋根/宇宙船修理ミッションごっこ」への反応は、浅草らに「合わせてやっている」という類の一種の大人の態度にしか見えない。金森の勘の良さ、頭の回転の速さを表しているように見えることはあっても、浅草らのごっこ遊びに一緒にノッているようにはとても見えない。原作第4話の表紙(+1コマ)に描かれた宇宙服姿の金森を出すこと自体は否定しないが、あのようなくどいまでの出し方は明らかに上手くない。

 「遷移過程」に行こう。最初は「部室屋根/宇宙船修理ミッション」の冒頭にインサートされる浅草による部室船計画のイメージボードの説明シーンだ。まずイメージボード全体を見せる、次いでイメージボードの一部をアップで見せつつ浅草がまくしたてる。流れだけ見れば極めて普通、むしろ非凡過ぎると言ってもよいやり方だが、それでも色々と引っかかる辺りがしんどいポイントだ。
  イメージボード全体を見せる時間が短過ぎたり、アップにされたイメージボードの一部の絵の情報量が低過ぎたりが原因で、視聴者に何が伝わるんだ、何の機能を果たすシーンなんだ、と他人事ながら不安になる。浅草の設定マニアぶりは伝わるかも知れないが、浅草の作った設定自体を視聴者が楽しめるような描写にはなっていない。作画の手間が少なくやけに長いシーンなので、尺稼ぎの意図でもあるのだろうかと勘繰ってしまう。ただ、金森の「長い!」と言うツッコミは、間の良さもあって、「日常」からの介入の描写として上手く機能していると思う。ちなみに、声優さんたちの声や演技には全く引っかかりを感じたことはない、っつーかエラく気に入っている。

 なお、同じ手法が「個人防衛戦車」についても使用されているが、こちらでは絵に動きが加えられているなどイメージボードの一部アップ時の画面内情報量とそれらの整理具合が絶妙に良く、部室船計画と比べて「あからさまに薄い(原作準拠ではある)」浅草の喋りの内容とも良くマッチしていた。テンポ良く、長くもない。頭がぼーっとした状態で観ていた私でさえ、思わず「190km/hって速くね!?」とツッコミ入れそうになったぐらいなので、内容は普通に視聴者に伝わるでしょう。つまり、こっちは全然引っかからなかった。

 ちなみにアニメ第2話のイメージボードシーンの処理は下図のようなもので、アニメだからこそできたものの感があり、面白いとも思った。ただし、枠や矢印を伴う説明文が動き続ける上に表示時間も短く、更にセリフによるサポートも無いため、やはり浅草の作った設定自体を視聴者が楽しめるような描写にはなっていなかった。また原作マンガでは同じ描写手法を使っているシーンの描き方がアニメでは各話で違い、かつ機能の仕方もバラバラという状態からは、アニメの作り手の「考えていない感」や「一貫性のある演出プランの欠如」を感じざるを得ず、何か色々と損ねている気がする。
 浅草のネタ帳に3人が「入って」からの一連のシーンは原作マンガの描写に忠実ながら、手慣れた感じのアニメの文法への変換によって安心して観ていられる。ページがめくられる様も良い。
 で、第3話のクライマックスにして「遷移過程」でもある「そのマチェットを強く握れ!」の「検討」シーンだ。夕陽、窓に重ねて固定されたスケッチブックのページ、浅草と水崎が次々とページに絵を描き込んでいく・・・という「日常」描写はアニメで導入されたイメージであり、浅草と水崎との「合作作業」を強く意識させる象徴的な描写に(たった2回使われただけだが)既になりつつあるように思う。これは上述した浅草のイメージボードの描写のバラバラさ具合とは対照的だ。

 で、そのような「日常」作業のメタファーとして描かれた「遷移過程」の描写の内容はと言うとアニメならでは、と言えばそうなのだが、「アニメの作り方教えます」ちっくな「アニメスタジオの楽屋オチ」みたいで釈然としないのだ。「夏のアニメ特集 メイキング編 」とか、面白いですか?

 正直、明確に言いたいことはあるのだが、現時点では未だ上手く言葉にできない。「日常」において全く手が付けられていない段階なのに過度に原画撮りっぽい画に違和感があるとか、主人公の少女がセル塗りになるカットの存在の論理性が全く見えないとか、引っかかったところそのものを列挙しても意味がないので本エントリではこれ以上は触れない。

 要は原画撮りっぽい画には「作中人物の妄想」っぽさも感じなければ「日常における作中人物の行動のメタファー」っぽさも感じず、故に楽屋オチっぽいと言うことだ。いくら原画っぽく見えても、劇中ではあくまでスケッチブックに描かれた絵だ、原画でも動画でも絵コンテでもない。なんか中途半端なのだ。加えて、この一連のシーンを描いたアニメーターは「水崎が描いた絵」を描いたのか?(≒水崎を演じたのか?)そうでなければ演出として捻じくれている。感覚や感性のみによりかかり、最低限の論理性や必然性すら獲得できていないようにしか見えない。
 最後に、このような描写を作り手が選んだ理由に関して頭を掠めた幾つかの可能性についてだが・・・

 一つ目は、アニメ版では原作第6話の内容をほぼすっ飛ばし、原作第7話の予算審議会に一気に話を進める可能性。この場合、演出が為された後の原画っぽさの意図は作品制作過程の描写の先取りである。ただ、そのようなことをする理由は思いつかないし、変なやり方なのは言わずもがな。原作第6話の内容のすっ飛ばしは、原作26話への伏線を一つ張らないことになる。

 二つ目は、原作第6話に相当する内容によって「実際には描かれることが無くなった原画、動画」である可能性。つまり、次話で浅草らに現実という名のカウンターパンチ(画が上がらない!)を強烈に食らわせるために、「これは!!上手くいってしまうのではないだろうか!!」とばかりにとにかく(視聴者も釣りつつ)浅草を舞い上がらせるための無理筋上等の演出・・・って、やはりそのようなことをする理由は思いつかないし、変なやり方なのは言わずもがな。ならば原画とか動画とかではなく、完成時の絵を見せる方が自然だ。

 そして三つ目は、やはり作り手が真面目に考えていないか、作り手当人にとっては面白いのだろう「アニメ屋の楽屋オチ」の可能性である。ならば、アニメ以外のドラマや映画、演劇とか観ない人たちなのかねぇ、作ってるの・・・ってなる。

 はてさて。 あ、こんなこと全話やるつもりはありませんよ。

2020/01/21

「そこを全部引き受けると、二次創作になる」

 たまたま観たYouTube Live番組内でのインタビュー(対談の方が正確かな?)で、アニメーション監督・片渕須直さんが発した言葉。思わず頷く。

 「マンガと劇映画は表現の土俵が違う(=劇映画の監督として違う土俵を設定した)、だからマンガとそれを原作とする劇映画で表現が変わるのは当然」といった文脈下で、「マンガを原作とする劇映画において、マンガと違う表現となるべきところにマンガの表現をそのまま持ってくる」場合を指しての発言だ。もちろん、ネガティブなニュアンスである。

 片渕さんの言う「劇映画」という言葉の指す範囲は正確には分からないし、「表現の土俵」という言葉で表現したものに対する私の理解が適切かどうかにも不安はあるが、ここは「TVアニメシリーズ」でも同じ考え方が適用できる筈ということにしてしまおう。そうすると、私が先行するエントリ「アニメ『映像研には手を出すな!』のPVを観る!」でくどくどと書いたこともかなりすっきりと書き換えられる。

 「TVアニメシリーズには原作マンガと違う表現の土俵を設定することを期待する。マンガとして特異な構造・構成を持つ(マンガ内アニメがある)故にアニメ化においてマンガとは『違う表現の土俵』を設定する必然性がある原作なので、作り手の哲学なり知性なりの発露たるTVアニメシリーズならではの表現を見せて欲しい」、だ。「単なる引き写しだと、二次創作に(過ぎなく)なる。それではツマらん、アニメ化した甲斐がない」、とも。

 ちなみに同じインタビュー内の違う文脈での発言で、片渕さんは「マンガを原作とする劇映画とTVシリーズでは、当然違う表現の土俵を設定することになる。TVシリーズなら回毎、パート毎で違う表現の土俵を設定し得る」ことを明確に示唆していた。筋が通ってる。

 あ、「映像研には手を出すな!」第3話は明日か明後日に観ます。

2020/01/14

アニメ「映像研には手を出すな!」第2話を観る!

 第1話を観ながら感じた「スケジュール厳しいのかな?」感は大幅緩和、作画とアフレコとのミスマッチを感じるカットも無く、そりゃ凸凹はあるけど作画も良かった。原画担当の人数、数えちゃうんだよね。

 ただ、なんか色々と引っかるところはあって、スムースに観れなったのも事実。例えば撮影台の説明の下りや色指定に関する蘊蓄とか、必要だったのかと。

 評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 これらは別に有っても良いんだけど、時間をかけて描いてはいないので、そもそも知らない人には伝わってなかったり、内容を咀嚼する時間が与えられてなかったり、というのが実情ではなかろうか。正直、個人的には「誰得情報?」って感じだ。セル、撮影台ともに今後も出番無いでしょ?雰囲気、気分で良かったのなら、部屋中を見回す金森の背後で、浅草や水崎が「おースゲースゲー」って感じでまくしたてるようにしゃべり続ける様を(音声は当然オフ気味に)描いて置けば十分だろう。

 演出に関しては3カット、影の色や使い方(+目への光の入れ方)が不自然過ぎ、無理過ぎとの印象を受けたが、そこら以外は良い意味で気になったところは無かった。あ、アンビエントオクルージョンという現象の存在は当然知ってますよ、そのうえで不自然過ぎ。ただ影が気になったカット周辺は作画が凸の(つまり良い)部分だったから、気分は本当に複雑。金森の表情とか良かったからね。

 「金森専用の演出として今後も一貫的に使う、形式化する」って言うなら、まぁアリとは思うけど。ただこのレベルの形式化はただのローカルルール、普遍性がほぼ無いですからね、悪手だと思います。「やった本人が思っているほどうまく機能する手じゃない、その癖真似は簡単なので、劣化した形で安易に類似の手を使う人間が現れる」、という流れが発生しないことを祈ります。「いや、80年代から良くある演出じゃないか。マンガでも使う」という意見もあろうが、ならば「影の形が違う、縦方向の輪郭線は左右対称の波型だ」と言いたい。

 で、最大の引っ掛かり点はラスト近く、「最強の風車」のカットだ。風を遮っているビルに穴を開けた後で、何故風車のデザインが変化したのだろう?羽根や軸受け周りなんかは完全に別物だ。「最強の~」のシーンの冒頭時に既に変化していれば忖度の余地もあるけど、途中からってのはその理由や作り手の意図が全く読めないなぁ・・・と思ってもやもやしていたのだが、原作マンガを改めてチェックすると、アニメ程ではないけど風車のデザインが実は変化していた。ありゃりゃ、「読む」ってのはいつまで経っても難しいなぁ。

 でも変化後のアニメ版の風車の羽根のデザインは、実用性の観点からはかなり「最弱」寄りだよね。より回らん形になってるよ。

 今回の一枚は吉田健一氏、想定外でした。水崎の顔がやや吉田キャラっぽいカットが有ったなとは思ったりしていたのですが。ちなみに私がリアルタイムに追い続けた最後のTVアニメは「エウレカセブン」・・・どうでもいいか。