REAKTOR PlayerとREAKTOR(フルバージョン)のどちらも使ったことのある知り合いと電話で話をする。
「あ、Playerは全然ダメ。アレは使い物にならん」とあっさり言われる。そもそも別物で、フルバージョンの安定性は段違いに良いそうな、っつーか落ちた経験が無いそうな。これは「REAKTOR買え」と言われたも同然。
またもやNative Instrument社にしてやられたか?
2013/11/06
2013/11/05
使っているソフトシンセについて、ちょっとこぼしてみる
ちなみにOSはWindows7 64bit、DAWはCubase7.0.4ですよ。
- Native instrument RAZOR + REAKTOR Player
なんかエラく不安定で、未だにパラメータをいじるところまで到達できない。OSのカーネルすらクラッシュさせるぐらいの破壊力のある落ち方をする。きっとどっかでメモリーリークが発生してるよ、原因はVST-Bridgeかも知れんけど。REAKTORにすれば良いのかしらん。だったらREAKTOR単体で安く売ってくれ、インストゥルメントはひとつも要らんから。 - Cakewalk Z3TA+2
大好きだったCakewalk PSYNIIの後継として導入。何でスタンドアローンプログラムが有るのか最近になってやっと分かった。音色作りだけに注力しようとすると、DAW立ち上げる必要はないんだよなぁ…。
事前に「できる」と分かる音色は割とあっさりできるんだけど、逆に苦手と言うか未だに作り方があるのかどうかも分からない音色もあるのも実態。ウルトラセブンのUFO風の音とかラムちゃんの飛行音風の音なんかは作れるようになりました。驚きが無くなって、今はちょっと倦怠期みたいな感じ? - KV331 Synthmaster2.6
アディティブシンセ部をもっと理解できるようになったらきっともっと面白い。フィルターのレゾナンスを強くすると豪快に音が痩せるのがリアルというか何と言うか、この辺りはZ3TA+2とは全く違う。とにかくプリセットのパラメータを睨んで勉強中。
おそらくZ3TA+2で出来ることは全部出来る。アンサンブルやユニゾンをONにするだけでプアな音が一瞬でリッチになるのは便利。 - Steinberg Padshop
Cubase7に添付。こいつを触ってグラニュラーシンセってやつが分かった気になった。Z3TA+2で作ったパッド系の音とか自分の声とかを元波形に使ったりするとちょっと面白い。 - Cakewalk D-Pro
基本的にはサンプラーだからメモリ使用量が多いのは致し方ない。ピアノの音とかは重宝。オシレータはしっかりしている(低域から高域までちゃんと出る)ので、プリセット音色をフィルターで加工して使うことが多い。 - KORG M1
「聞いたことあるぞ」といった成程の音が出るが、VSTiとして使っていると時々瞬間的に重くなって(CPU負荷が高くなって)イライラさせられる。こいつばかりは購入して失敗かなぁ。 - Steinberg Groove AGENT ONE
Cubase7に添付のドラム音源(サンプラー)。パッド毎にレイヤーを組めるし、とにかく自分の音色セットを作っていくと、結局他のドラム音源はどんどん使わなくなってしまう。
2013/11/04
iPod touch(Gen 5)ではiOS7.0.2以下は無かったことにするが吉
音楽プレーヤーオンリーユースならば、iPod touch (Gen 5)のiOSはとっとと7.0.3にするのが絶対吉。なぜかと言うと、「操作が分からん!」という辺りが劇的に解消されているから。
iOS7.0.2までは特定の操作に対して「画面上の非常に狭い領域をタップする必要」があったのだが(例えば画面上端中央付近のピンポイント領域)、裏を返せば「タップしても何も起きない画面上の領域」がいっぱいあったと言うことで、なんとも画面の大きさを活かしていないUIと言えた。「画面上の非常に狭い領域をタップする必要」なんて、私みたいな実験癖のある人間でもないと普通気付かない。ま、気付いたからって感心なんか出来るはずもなく、あきれるだけだ。
音楽プレーヤーユースに限れば、iOS7.0.3では「タップしても何も起きない画面上の領域」がほぼ無くなっている。特に、アルバムカバーのタイル表示より下の階層の操作に関して多くの変更、というかお馬鹿な仕様がかなりまともになっているよ。
iOS7.0.2までは特定の操作に対して「画面上の非常に狭い領域をタップする必要」があったのだが(例えば画面上端中央付近のピンポイント領域)、裏を返せば「タップしても何も起きない画面上の領域」がいっぱいあったと言うことで、なんとも画面の大きさを活かしていないUIと言えた。「画面上の非常に狭い領域をタップする必要」なんて、私みたいな実験癖のある人間でもないと普通気付かない。ま、気付いたからって感心なんか出来るはずもなく、あきれるだけだ。
音楽プレーヤーユースに限れば、iOS7.0.3では「タップしても何も起きない画面上の領域」がほぼ無くなっている。特に、アルバムカバーのタイル表示より下の階層の操作に関して多くの変更、というかお馬鹿な仕様がかなりまともになっているよ。
2013/11/03
私の金銭感覚はおかしいのか or かつて「生きてて辛い」と感じていた一個人のぼやき
車の購入契約をした。決して安い買い物でないのだが、あっさりと決めてしまった。もちろん布石が無かった話ではなく、ある種既定路線と言って良いだろうし、むしろ3年遅かったと言って良い。
実際のところ3年前は一番健康状態が悪かったころで、車の購入なんて考える余裕なぞ無かった。そういう意味では体調が本来のそれに戻りつつあるとも言えるかもしれない。主観的には「3年遅れたことで、自分の望んでいたものにより近いものが購入できた」とすら思う。裏返せば、「3年前に妥協して購入していたら、今頃後悔していたかもしれない」ということであり、これこそ「遺憾ですとも流ポジティブ思考法」の真骨頂だ。
で、
私の父親は譲れるところと譲れないところをはっきりさせる人である。買い物、特に毎日使う物の購入には一切と言って良いほど妥協をしない。片や母親はネガティブ思考のスパイラルにハマって自縄自縛状態に陥りがちな人だった。勘違いしないで欲しいが、幸いにして両親とも健在だ。母親についてのみ過去形なのは、今は全然違うからである。父親は母親のネガティブ思考を好しとはしなかった。そして、ほとんど40年近い時間をかけて母親を変えたと言って良い。時間はかかろうとも、人は年を重ねてからも変われるという良い例だと思う。
親戚に言わせると、私の見た目はほとんど父親のコピーのようなのだそうだ。若いころは「?」だったが、今や少なくとも自分の声は父親のそれと瓜二つであることが良く分かる。にも関わらず、精神的なものはほとんど母親のコピーだったと言って良い。中学生までは本当に生きてることが辛かった。なぜ辛かったのか?
転機は高校時代に運動部に属し、そこそこの結果も残しつつ、3年生の夏休み前に円満に引退したことである。部活を続けることは母親はもちろん、担任教師からも反対され続けた。高校生になって初めて、私はガチで「部活を続けることは譲れない」という覚悟を示すことになった訳だ。ちなみに父親は賛成も反対もせず、それでも公式試合はよく観に来てくれた。応援もしてくれたし、怪我が付きものの競技ゆえ身体の心配もしてくれていたのだろう。が、おそらく「私の覚悟」の顛末も見てやろうとも考えていたはずだと思う。実は円満引退で「私の覚悟」が終わった訳ではなかった。「私の覚悟」の成就には、母親や担任教師が部活を早くやめるように説く理由、つまり大学受験も成功させなければならなかったのだ。結局一点突破戦術に徹し、受験は1校のみという背水の陣まで敷いてなんとか大学に合格できた。かくて、「私の覚悟」に対して明確な結果が出た訳だ。
中学生までの生き辛さの大きな原因が、「本来は譲れないところを譲ってしまう態度」にあったことが今では良く分かる。更に、「譲れるところと譲れないところをはっきりさせる」ためには、自分を等身大に捉える努力と、一種のセンスの良さ(読みの良さ)が必要だということも改めて分かる、そしてそれは意識し続ければ一定のレベルまでは高められるということも。
結局、「私の覚悟」の顛末は私を変え、母親にも強く影響を与えることになったようだ。父親の無言の教え(本人もどのくらい意識的かは分からないが…)は、ざっくり纏めると以下のようなものだ。
「本来は譲れないところを譲ってしまう態度」は「他人にも自分にも嘘をついている状態」と言い換えて良いと思う。「なんか生きてて辛い」のは当たり前だ。キレるところまで計算づくで出来ようになれば、「遺憾ですとも流ポジティブ思考法」の免許皆伝だ。大学も就職先も私は直観的に選んできたこと、これら選択が「結果オーライ」だったことをここで明言しておこう。
さて、やっと本題に入る。
今回の車の購入契約のような高額の支払いが発生する事項に対して私が余りにあっさりと態度を決めてしまうため、「お前の金銭感覚はおかしい」と言われることが多い。が、これは大いなる誤解と、やはりちょっとおかしいかもというところが入り混じったものだ。
そう、大事なことをひとつ言い忘れるところだった。
実際のところ3年前は一番健康状態が悪かったころで、車の購入なんて考える余裕なぞ無かった。そういう意味では体調が本来のそれに戻りつつあるとも言えるかもしれない。主観的には「3年遅れたことで、自分の望んでいたものにより近いものが購入できた」とすら思う。裏返せば、「3年前に妥協して購入していたら、今頃後悔していたかもしれない」ということであり、これこそ「遺憾ですとも流ポジティブ思考法」の真骨頂だ。
で、
私の父親は譲れるところと譲れないところをはっきりさせる人である。買い物、特に毎日使う物の購入には一切と言って良いほど妥協をしない。片や母親はネガティブ思考のスパイラルにハマって自縄自縛状態に陥りがちな人だった。勘違いしないで欲しいが、幸いにして両親とも健在だ。母親についてのみ過去形なのは、今は全然違うからである。父親は母親のネガティブ思考を好しとはしなかった。そして、ほとんど40年近い時間をかけて母親を変えたと言って良い。時間はかかろうとも、人は年を重ねてからも変われるという良い例だと思う。
親戚に言わせると、私の見た目はほとんど父親のコピーのようなのだそうだ。若いころは「?」だったが、今や少なくとも自分の声は父親のそれと瓜二つであることが良く分かる。にも関わらず、精神的なものはほとんど母親のコピーだったと言って良い。中学生までは本当に生きてることが辛かった。なぜ辛かったのか?
転機は高校時代に運動部に属し、そこそこの結果も残しつつ、3年生の夏休み前に円満に引退したことである。部活を続けることは母親はもちろん、担任教師からも反対され続けた。高校生になって初めて、私はガチで「部活を続けることは譲れない」という覚悟を示すことになった訳だ。ちなみに父親は賛成も反対もせず、それでも公式試合はよく観に来てくれた。応援もしてくれたし、怪我が付きものの競技ゆえ身体の心配もしてくれていたのだろう。が、おそらく「私の覚悟」の顛末も見てやろうとも考えていたはずだと思う。実は円満引退で「私の覚悟」が終わった訳ではなかった。「私の覚悟」の成就には、母親や担任教師が部活を早くやめるように説く理由、つまり大学受験も成功させなければならなかったのだ。結局一点突破戦術に徹し、受験は1校のみという背水の陣まで敷いてなんとか大学に合格できた。かくて、「私の覚悟」に対して明確な結果が出た訳だ。
中学生までの生き辛さの大きな原因が、「本来は譲れないところを譲ってしまう態度」にあったことが今では良く分かる。更に、「譲れるところと譲れないところをはっきりさせる」ためには、自分を等身大に捉える努力と、一種のセンスの良さ(読みの良さ)が必要だということも改めて分かる、そしてそれは意識し続ければ一定のレベルまでは高められるということも。
結局、「私の覚悟」の顛末は私を変え、母親にも強く影響を与えることになったようだ。父親の無言の教え(本人もどのくらい意識的かは分からないが…)は、ざっくり纏めると以下のようなものだ。
- 悩んでもしようがないことには悩まない。ただし、悩まなくても良いかどうかは「熟慮の上で判断」しなければならない。
- 自分で結果がコントロールできない事項に対しては、然るべき対策を早めに打って結果の振れ幅を小さくする努力をすることしかできない。ここで悩むことには実質的に意味が無いし、対策については内容、タイミングともに重要である。
- 上記の態度で事に望む限り、「結果オーライ」は幸運ではなく、自ら招き寄せた結果と考えて良い。この種の「結果オーライ」を多数経験すれば、それは自信に変えて良い。
- 欲しい物、有って欲しい事は、それらを意識して待っている人の前にしか現れない。実際は、具体的に意識しておかないと、目の前にあっても気付かない可能性ばかり高くなるということだろう。
- 待っていた人は、待っていた物や事を目の当たりにした瞬間に次に自分がどう振る舞うべきか判断できる。
- この期に及んでまだ選択に悩むようなら、どれを選択しても結果に大差はない。結局、悩みがいはない。
- 自分の直観を信じられるようになったら、直観に従おう。
- 「やらなかったこと」を悔やむ意味は基本的に無い。「次はこうしよう」と考えるきっかけぐらいの意味しかない。「次を上手くやれればお釣りがくる」ぐらいに捉えておいて、「次は上手くやる」ことに注力すべきだ。
「本来は譲れないところを譲ってしまう態度」は「他人にも自分にも嘘をついている状態」と言い換えて良いと思う。「なんか生きてて辛い」のは当たり前だ。キレるところまで計算づくで出来ようになれば、「遺憾ですとも流ポジティブ思考法」の免許皆伝だ。大学も就職先も私は直観的に選んできたこと、これら選択が「結果オーライ」だったことをここで明言しておこう。
さて、やっと本題に入る。
今回の車の購入契約のような高額の支払いが発生する事項に対して私が余りにあっさりと態度を決めてしまうため、「お前の金銭感覚はおかしい」と言われることが多い。が、これは大いなる誤解と、やはりちょっとおかしいかもというところが入り混じったものだ。
- 自分でも「衝動買い」と照れ隠しに言うこともあるが、実は自分の中では「衝動買い」は一切無い。まず、「自分の経済力」に対しての判断が購入に至る前に白黒付けられており、「自分の経済力」に釣り合わない額の買い物は最初っから選択肢とはなり得ない。加えて、「有ったら良いな、有ったら買うな」と既に考えたことのあるものでなければ、購入という選択に瞬時に至ることは無い。
- 「譲れるところと譲れないところがはっきり」していて、かつ、上記の「自分の経済力」で選択肢と成り得る額の買い物に関しては、「支払い額の大小」は何らの判断基準とはならない。むしろ時期を逃して「買わなかったことを悔やむ」という結果の方が私にとって望ましくないものということだ。つまり、私の買う/買わないの判断において「支払い額の大小」の占めるウェイトが余りに低いのである。いや、はっきり言おう。「支払額なんて全く気にしない、悩んだり考えたり値切ったりする『時間が惜しい』」
そう、大事なことをひとつ言い忘れるところだった。
- 自分に対する「時間の値段」を決めておこう。
2013/10/30
アクセス解析:検索ワードラウンドアップ:その3
- リピッシュの耳
マニアックですね。アレクサンダー・リピッシュ先生についてはウィキペディアで。「リピッシュの耳」というのは「主翼端の下げ」で、有名な例はハインケルHe162。「リピッシュ先生の耳」ではなくて「リピッシュ先生の提案したある犬種の耳みたいな主翼端下げ」ですので念の為。効能は飛行時の横方向安定性の向上で、類似の構造はMig-25の試作機や、イランのF-313(笑)とかに見られますね。
これがHe162、ちなみに"M23"は「見本(試作機)23」の意味です。 - イデオン 絶望
また来ました。 - ヤマト2199 itune 音質 ひどい
最近はかなり良くなりましたが、iTunes Storeの初期の楽曲データは音質が酷いものが多かったのも事実。同じ楽曲をCDから同ビットレートのAAC形式でiTunesに取り込んだところ、ダウンロードデータより格段に音質が良かったという経験は何度かあります。ダウンロードデータでは音の奥行き方向の定位が完全に潰れていた、とかが典型的な例。モンティ・パイソンのネタで"How could you miss?!(お前らどうやったら(銃の狙いを)外せるんだ?!)"というのがありましたが、将にそういう感じ。どうやったらそんな酷い音質にできるの?ってことです。そういうのに限って非プロテクトデータへの更新がないとか、最初が駄目なところは駄目な状態を平気で放置できるようです。どうなんですか、 エイベックス・トラックスさん?
もしOST1のことならば、そもそものマスタリングが酷い(という表現でも生ぬるいほどの絶望的なまでに恥しい出来、こんなものにお金を払ってはいけません。演奏者にも失礼です。)ですからもうどうしようもありません。非圧縮のCDリップデータを違法ダウンロードしてもCDを買っても音質的には何も良いことはありませんし、iTunes Store並びにAppleには何ら非はありません。 - 奥さんと連絡するディーラー
探偵の出番でしょうか?ストーリー有り気な珠玉の検索ワードかも。 - jjj
じぇじぇじぇ?
2013/10/29
「宇宙戦艦ヤマト2199」Vol.7で地球帰還です。
「宇宙戦艦ヤマト2199」の最終回をTVで観たあと、下記のように書いた。
単にご都合主義で、無用に感傷的で、時に演出が過剰に感覚的で、ネタを散々食い散らかしながら大事なところに限って回収しなかったのが「宇宙戦艦ヤマト2199」だ。物語や世界観との整合を欠いた「ちょっとしたアイディア」は「とんち」ではない。物語や世界観の論理性や合理性の欠如は回を重ねるにつれて耐えがたいレベルにまで達し、夢の機械「コスモリバースシステム」は作品の製作者のためにのみ存在することがあからさまとなり、「青い地球の回復」のカットにカタルシスはない。
Vol.7をあらためて観てもその思いは変わらない。むしろながら見だったTV放映時よりも印象は悪くなった。引用の多さはそのセンスの無さも含めて耐えがたい。「罪と罰」の本の登場は、「罪と罰」をちゃんと読んだ人ほど意味が分からないんじゃないだろうか。引用に対してどの程度腹くくりができていたのだろう。いかにも表層的、独りよがりな感じは「プロの作品」としては観ていて実に気持ち悪い。挙句の果てには"Battlestar Galactica"を引用したかのような「どこかで観たな」というカットのオンパレードである。
キャラクターを多数出しながら群像劇としての構造はついに与えられず、消化不良との印象も否めない。
製作者達は本作の物語にきっちりとした骨格も筋肉も与えていない。これは一種の例えだが、言いたいことは「つまらない雑音」をねじふせてでも「物語」を視聴者に「物語」と感じさせるだけの「力」がないということだ。
TVアニメシリーズ「ラーゼフォン」も似たような構造を持っている。物語全体としてはヒルコの如くぐにゃぐにゃで骨格は無いに等しい。「東京ジュピター」から街中の映画のポスターまでも含めて多くの引用はつまらないし、センスがあるとも思わない。映画版に至っては何もかもがギャグにしか思えなくなる、たちの悪いTVシリーズのパロディのようだ。
が、第19楽章のような回もあった。第19楽章の戦闘シーンでの街中の電光掲示板などの描写は、真面目に考えると「理屈が全く分からない」。しかし、前半での細かなエピソードの積み重ねが不合理な描写を力ずくで成立させる。「力ずく」には骨格も筋肉も必要だ。一瞬であっても物語が「力強さ」を獲得すれば、「感傷的で、時に演出が過剰に感覚的で」あっても「理屈が全く分からなく」ともその物語を受け入れることができる。別の言い方をすると、「理屈が全く分からなくてもええやんけ」と言えるようになる。「良いものは良い」と言う表現は実は全然論理的じゃないが、そうとしか言えないものの一つや二つは誰にだってあるだろう。
「宇宙戦艦ヤマト2199」はついにその種の「力強さ」を獲得できぬまま終わった。なんとも残念なことだ。新作劇場版は「力強さ」を獲得できるだろうか。
2013/10/24
F-22 vs Rafale
会社の同僚に教えられ、フランスの戦闘機ダッソー・ラファールが模擬空戦でアメリカのステルス戦闘機ロッキード・マーティン F-22 ラプターを撃墜してしまう動画を観る。
HUD(ヘッド・アップ・ディスプレイ)の表示を勝手に解釈しつつ、気になるところというか見どころと言うかを気ままに挙げてみよう。
個人的にちょっとびっくりしたのは「HUD表示が基本的に英語であること」。フランスには意地でも英語は使わないってイメージがあるから、なんかフランスっぽくない。まぁ、NATO加盟国だし、少なくとも民間航空の標準語は英語だから仕方ないのかな。
HUD(ヘッド・アップ・ディスプレイ)の表示を勝手に解釈しつつ、気になるところというか見どころと言うかを気ままに挙げてみよう。
- 冒頭
画面左端に"SIM""DGFT"と表示される。おそらく、「模擬ドッグファイト(模擬近接戦闘)」モードに入ったということだろう。上部の表示は左から対気速度とマッハ数、機体の方角、高度(三角形が回って動く円内)だろう。また"RDR"はレーダー、"AOA"はアングル・オブ・アタック(迎え角、機体の進行方向に対する機首の角度)だろう。 - 0:11辺り
画面左端近く、高さ方向中央に丸と十字形が表示される。十字形に対する丸の位置が自機の機体方向に対する敵機の位置と思われる。つまり、パイロットにから見て敵機は左上にいること、そして敵機であるF-22は「ラファールに既にロックオンされている」。
画面やや左下の"MIW 6 EM"は兵装としてアクティブレーダーホーミング型空対空ミサイル"MICA EM"が選択されたものと思われる。 - 0:30辺り
画面右端下側の"G"の下の数字は加速度だろう。表示からはパイロットは8.0G(重力の8倍)を超える加速度に呻いていることが分かる。 - 0:40~0:53
選択兵装が"MIR"に変わる。おそらく赤外線画像式ホーミング空対空ミサイル"MICA IR"を選択したものと思われる。F-22が画面上部中央から画面中央右端へと移動し、画面からF-22が消える直前にパイロットが「フォ…フォックス・ツー」とミサイル発射をコールするが、ミサイルがF-22をきっちりロックオンしているかはちょっと不明で、おそらく撃墜とは判定されなかったと思われる。 - 0:55
選択兵装が"GUN"に変わる。画面中央付近をうにょうにょ動く曲線は発砲した際の弾丸の軌跡を表しており、ロックオンした標的が射程内に入ると先端付近に円弧状の表示が現れることから「スネークアイ(表示法)」と呼ぶことがある。 - 2:11
画面右下に"FUEL"の表示、「残り燃料が少ない」という表示? - 2:17
F-22を画面中央に捉え、スネークアイ表示の曲線が完全にF-22の機影に重なる。おそらくこれで「ガン・キル(撃墜)」と判定されたと思われる。
個人的にちょっとびっくりしたのは「HUD表示が基本的に英語であること」。フランスには意地でも英語は使わないってイメージがあるから、なんかフランスっぽくない。まぁ、NATO加盟国だし、少なくとも民間航空の標準語は英語だから仕方ないのかな。
2013/10/22
「はやぶさ」は「隼」だった!?
「はやぶさ」と言えば、サンプルリターン技術の実証と言う本来の目標を達成するとともに、小惑星イトカワの表面サンプルを持ち帰るという学術的成果も挙げた宇宙探査機、特に説明は要らないだろう。
故あって、「はやぶさ」プロジェクトのプロジェクトマネージャーを務めた川口淳一郎さんの講演(の残念ながら一部)を聞く機会を得た。内容については、実際に講演を聞く機会を是非見つけて確認して欲しい。ここでは、講演でのプレゼンテーションで示された二つの「とんち」を紹介しておこう。
①「はやぶさ」はまさに「隼」だ!
②「隼」と「人」で(小惑星表面サンプルを)「集」めた。
故あって、「はやぶさ」プロジェクトのプロジェクトマネージャーを務めた川口淳一郎さんの講演(の残念ながら一部)を聞く機会を得た。内容については、実際に講演を聞く機会を是非見つけて確認して欲しい。ここでは、講演でのプレゼンテーションで示された二つの「とんち」を紹介しておこう。
①「はやぶさ」はまさに「隼」だ!
②「隼」と「人」で(小惑星表面サンプルを)「集」めた。
2013/10/21
原子力発電は必要か?
原発推進/反対の二分法に従えば、私は間違いなく推進側ということになる。ただ少しだけ丁寧に考えを書かせてもらえるならば、「我々は原発なしでは成り立たない生活様式を既に選んでしまった」という表現がより正確だ。そういう考えに至ったのは1985年ごろ、私が大学生になるころだ。その考えは今も変わらない。むしろ、より強くなっているというのが正直なところだ。
1960年代生まれの人間の一部には、抜きがたい幼少期のトラウマが幾つかあり、一部は未だ解消されていない。
恐怖の大王は置くとして、オゾン層の破壊と全面核戦争については様々な人々の努力、決断によりほぼ解消されつつある。石油枯渇も採掘技術の進歩によってやや先の話となり、シェールオイルやシェールガスが採掘可能となることで利用可能な化石燃料の埋蔵量(可採量)は増えたと言える(ただし現在のシェールガスの採掘方法の環境、地域へのダメージについては極めて悲観的な立場だ)。また、メタンハイドレードの採掘技術開発も進んでいる(気象変動による海流変化がメタン再放出に繋がる可能性もあり、メタンハイドレードの存在は両刃の剣とも言える)。
となると、残りは「地球温暖化」である。先の台風被害も見るにつけ、気象変動は動かし難い事実として認めざるを得ない状況と思える。いわゆる温室効果ガス排出を原因とする地球温暖化は、いよいよ抜き差しならないフェーズに入った可能性が高い。近年の研究で、地球温暖化は明らかに加速傾向にあり、さらに進行を加速する要因や新たな問題の発生が予測されるという。
だから、採掘~発電~使用済み燃料処分の全ライフサイクルで炭酸ガス放出量が少なく、かつ排出量が管理可能な原子力発電に期待したし、それを進めることに一定の意味があるというのが私の考えだ。「我々は原発なしでは成り立たない生活様式を既に選んでしまった」のは仕方ないとしても、「何時まで原子力発電に頼るつもりなのか?」という問いかけに対する答えを口にするべき人間が口にしないことに非常にフラストレーションを感じる。
1980年代前半の太陽電池は余りに変換効率が低く、風力発電用風車も材料の関係で大型化は望み薄だった。地熱、海水温度差、波力などの他の再生可能エネルギーも立地の制限や効率の低さから経済性の観点から普及は厳しいものだった。実のところ、これらの状況は今も基本的に変わっていない。人々の意識も決して変わったとは言い難い。先の震災後に様々な「節電方法」がTVなどで紹介されたが、個人的には笑止千万。大部分の工夫は1980年代から私などが当たり前に実践してきたことだ。
1980年代前半との一番の違いは、蓄電技術のコモディティ化ペースの加速だ。ハイブリッド車はその一つの成果だと言える。蓄電技術のコモディティ化を推進するとともに、国内の炭酸ガス排出量の半分以上を占める自動車からの排出量を低減している。
蓄電技術のコモディティ化は、一国のエネルギー政策や災害対策を変え得る。これまでの発電における常識は、「電気は貯めることができない」、故に「発電設備の容量は最大使用量で決まる」というものだ。これは、トータルでみた場合の発電総量が、トータルでみた必要電力総量を大きく上回るということだ。100%効率の蓄電技術がもし実現すれば、必要電力総量をいったん満たせば、もはや発電しなくても良いことを意味する。
「今、原発は必要か?」と問われれば、「必要だ」と答えよう。
「なぜ?」と問われれば、「地球温暖化対策と蓄電技術のコモディティ化を進める上でのベース電源として、もっとも現実的な選択肢だから」と答えよう。
「将来も原発は必要か?」と問われれば、「原発依存脱却のシナリオを明確化し、具体的な目標と施策を決定し、それらを確実に実行しない限り必要だ」と答えよう。
福島第一原子力発電所事故を経験しながら、国内の原発に対する議論は感情的で、規制側の対応は過剰に性悪説的に見える。そこには、論理性、客観性、合理性は無く、それらに基づく考えの導入を頑なに拒み、ポピュリズムに走る傾向すら見える。「悪を生むための相対的な正義」なんぞ要らないのだ。今こそ、原発の議論に論理性、客観性、合理性が求められていると思う。
1980年代後半、米国のある工学生グループが掲げたスローガン:
「日本の原発に対する態度の一種の不健全さ」、海外の報道を見るに日本は再び理解不能な「不思議の国」としての顔を見せているやに思える。
1960年代生まれの人間の一部には、抜きがたい幼少期のトラウマが幾つかあり、一部は未だ解消されていない。
- 1999年に恐怖の大王が降って来る。
- 30年で石油は無くなる。
- オゾン層の破壊によって強烈な紫外線が地表に降り注ぐようになる。
- 全面核戦争が起こり、人類は絶滅する。
- 地球温暖化が海面上昇を引き起こし、人類の生息域が著しく制限される。
恐怖の大王は置くとして、オゾン層の破壊と全面核戦争については様々な人々の努力、決断によりほぼ解消されつつある。石油枯渇も採掘技術の進歩によってやや先の話となり、シェールオイルやシェールガスが採掘可能となることで利用可能な化石燃料の埋蔵量(可採量)は増えたと言える(ただし現在のシェールガスの採掘方法の環境、地域へのダメージについては極めて悲観的な立場だ)。また、メタンハイドレードの採掘技術開発も進んでいる(気象変動による海流変化がメタン再放出に繋がる可能性もあり、メタンハイドレードの存在は両刃の剣とも言える)。
となると、残りは「地球温暖化」である。先の台風被害も見るにつけ、気象変動は動かし難い事実として認めざるを得ない状況と思える。いわゆる温室効果ガス排出を原因とする地球温暖化は、いよいよ抜き差しならないフェーズに入った可能性が高い。近年の研究で、地球温暖化は明らかに加速傾向にあり、さらに進行を加速する要因や新たな問題の発生が予測されるという。
- シベリアなどの永久凍土の表面が溶け始めた。永久凍土内には温室効果ガスであるメタンが大量に閉じ込められており、永久凍土が溶けることによってメタンガスの放出量が加速度的に増大、永久凍土の溶解も加速されて地球温暖化が一気に進む可能性がある。
- 各地の大陸氷河は1990年代から後退傾向にあり、1980年代以前に形成された氷河が溶ける可能性が高まっている。1980年代以前の氷河には、炭酸ガスのほか、排出規制以前の化石燃料の燃焼や金属精錬加工過程で大気中に放出された重金属類、大気圏内核実験で大気中に放出された放射性物質を含んでいる。このため、氷河を水源とする水は生活用水としては不適となるどころか、あらたな公害病、被曝症状の発生源と成り得る。
だから、採掘~発電~使用済み燃料処分の全ライフサイクルで炭酸ガス放出量が少なく、かつ排出量が管理可能な原子力発電に期待したし、それを進めることに一定の意味があるというのが私の考えだ。「我々は原発なしでは成り立たない生活様式を既に選んでしまった」のは仕方ないとしても、「何時まで原子力発電に頼るつもりなのか?」という問いかけに対する答えを口にするべき人間が口にしないことに非常にフラストレーションを感じる。
1980年代前半の太陽電池は余りに変換効率が低く、風力発電用風車も材料の関係で大型化は望み薄だった。地熱、海水温度差、波力などの他の再生可能エネルギーも立地の制限や効率の低さから経済性の観点から普及は厳しいものだった。実のところ、これらの状況は今も基本的に変わっていない。人々の意識も決して変わったとは言い難い。先の震災後に様々な「節電方法」がTVなどで紹介されたが、個人的には笑止千万。大部分の工夫は1980年代から私などが当たり前に実践してきたことだ。
1980年代前半との一番の違いは、蓄電技術のコモディティ化ペースの加速だ。ハイブリッド車はその一つの成果だと言える。蓄電技術のコモディティ化を推進するとともに、国内の炭酸ガス排出量の半分以上を占める自動車からの排出量を低減している。
蓄電技術のコモディティ化は、一国のエネルギー政策や災害対策を変え得る。これまでの発電における常識は、「電気は貯めることができない」、故に「発電設備の容量は最大使用量で決まる」というものだ。これは、トータルでみた場合の発電総量が、トータルでみた必要電力総量を大きく上回るということだ。100%効率の蓄電技術がもし実現すれば、必要電力総量をいったん満たせば、もはや発電しなくても良いことを意味する。
「今、原発は必要か?」と問われれば、「必要だ」と答えよう。
「なぜ?」と問われれば、「地球温暖化対策と蓄電技術のコモディティ化を進める上でのベース電源として、もっとも現実的な選択肢だから」と答えよう。
「将来も原発は必要か?」と問われれば、「原発依存脱却のシナリオを明確化し、具体的な目標と施策を決定し、それらを確実に実行しない限り必要だ」と答えよう。
福島第一原子力発電所事故を経験しながら、国内の原発に対する議論は感情的で、規制側の対応は過剰に性悪説的に見える。そこには、論理性、客観性、合理性は無く、それらに基づく考えの導入を頑なに拒み、ポピュリズムに走る傾向すら見える。「悪を生むための相対的な正義」なんぞ要らないのだ。今こそ、原発の議論に論理性、客観性、合理性が求められていると思う。
1980年代後半、米国のある工学生グループが掲げたスローガン:
Sunshine is ALL RIGHT! Nuclear power is ALL NIGHT!私の考えもこれに近いところにある。再生可能エネルギーの導入促進と原子力発電所の再稼働がなぜ排他的なのか理解できない、両者の関係は極めて相補的としか思えない。「将来の原発依存体質の脱却のため、環境変動抑制のため、今こそ原発技術を最大限活用して時間を生み出さねばならない」、これは私にとっては論理的、合理的な帰結だ(客観性は低い)。
「日本の原発に対する態度の一種の不健全さ」、海外の報道を見るに日本は再び理解不能な「不思議の国」としての顔を見せているやに思える。
2013/10/20
"Bizarre Love Triangle / feat. Megpoid Eng."リボーン
いったん終わらせたつもりの"Bizarre Love Triangle"だが、さる友人から
「この曲のベースはもっとベキベキしてるもんだろう、カバーってよりコピーに近いんだからさ」
との言葉を頂く。うむ。
ベース音は勝手知ったる"Z3TA+2"で作っているから、「ベキベキ」させるのは非常に簡単。エンベロープ・ジェネレータ(EG)とモジュレーション・マトリクスをちょいちょいいじること3分ほどで新しいベース音は完成、むしろベース音の輪郭がはっきりした分、全体の再調整に時間がかかった。
結局、キック(バスドラム)の音は差し替え、他の音も一部定位を縦方向でいじることになった。また、キックとベース変更に伴ってボーカロイドの発声タイミングのリズムに対するルーズさが目立つようになったので、わざとずらしている所を除いて発声タイミングを再調整することになった。
ベース音を除けば、まぁ、ぱっと聞きでは従来バージョンとの差は分からないだろう。が、自分の中では完全に別バージョンだなのだ。
「この曲のベースはもっとベキベキしてるもんだろう、カバーってよりコピーに近いんだからさ」
との言葉を頂く。うむ。
ベース音は勝手知ったる"Z3TA+2"で作っているから、「ベキベキ」させるのは非常に簡単。エンベロープ・ジェネレータ(EG)とモジュレーション・マトリクスをちょいちょいいじること3分ほどで新しいベース音は完成、むしろベース音の輪郭がはっきりした分、全体の再調整に時間がかかった。
結局、キック(バスドラム)の音は差し替え、他の音も一部定位を縦方向でいじることになった。また、キックとベース変更に伴ってボーカロイドの発声タイミングのリズムに対するルーズさが目立つようになったので、わざとずらしている所を除いて発声タイミングを再調整することになった。
ベース音を除けば、まぁ、ぱっと聞きでは従来バージョンとの差は分からないだろう。が、自分の中では完全に別バージョンだなのだ。
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