2020/02/15

「オルレアンの女」というタイトルのマンガの記憶

 初老親父の独り語りである。

 都市伝説を紹介するYouTube動画を観ていて、英国の「ブラックジャック」という怪物が紹介された。要するに「巨大な黒い犬」である。と、突然「オルレアンの女」というタイトルのマンガを読んだことがあったような・・・という記憶が蘇った。

 「オルレアンの女」だからジャンヌ・ダルクがモチーフっぽいのだが、オルレアンという土地そのものが重要なモチーフで、とにかく「黒い犬」が出ていたような気がしてしょうがないのだ。掲載はマイナー雑誌かおそらく同人誌、絵は諸星大二郎風、読んだ時期は1985~1990年だ。

 ググってみると、長谷川哲也さんが同名の作品を、「えとわす」という媒体に描いた可能性を示唆する個人の文章がひとつだけ見つかった。大量の情報が有るように見えてダブりが多く、90年代前半以前の情報がほとんど無いのが実に日本のインターネット的である。この辺り、ドキュメント化文化(文書の作成、改定、登録、整理、保管、公開の徹底)を欧州よりも一段と先鋭化させた米国とはインターネット上の情報の蓄積具合が全く異なる。とにかく「えとわす」には引っかかるものがあった。

 で、長谷川さんのWikiページからいくつかページをたどると、漫画サークル「ぷーるぐえとわす」とか、くら☆りっささんや、徳光康之さんといった漫画家の名前など、記憶にある(ただしすっかり忘れていた)固有名詞に久しぶりに出会えた。

 Wikiによれば長谷川さんは、佐賀大学の学生を中心とした創作系漫画サークル「ぷーるぐえとわす」の元メンバーであり、九州工業大学出身ということである。また、絵に諸星大二郎の影響がみられた時代もあったとされる。上記の時期は私が福岡県に住んでいた年度であり、おそらく長谷川さんが大学におられた時期とかろうじてダブる期間がある、かろうじて。

 結局のところネットをさらっただけでは、件のマンガが長谷川さん作である可能性が「ゼロではないこと」ぐらいしか分からなかった。掲載誌は私自身が購入したものではなく友人などが既に持っていたものだったなら、発表時期は1985年から2~3年前までは遡れそうではある。

 はたして実際はどうだったのだろう。まぁ解決する必要があるような事案ではないんだけど、今後この種の「あいまいな記憶が突然蘇る」事案は増えそうなんだよね、歳には勝てぬ。

2020/02/12

Youtube Home画面の仕様変更再び

 エントリタイトルの件、今朝からYouTube Mixesのカテゴリが無くなり、その内容はRecommended(あなたへのおすすめ)カテゴリ内に表示されるようになった。Home画面にはRecommendedカテゴリしかなくなったので、カテゴリ分けも意味を失った。益々間抜けな見た目、より頭の悪い感じの論理構造を持つものとなった。

 YouTube MixesはYouTubeが自動的に生成した音楽動画再生リストで歴史ある機能だが、実のところ聴いてみても2曲目で耐えられなくなったことしかなかった。そのため、常に10件以上が表示されていたものの、この1年以上は再生しようとしたことすらなかった。そして今や1件も表示されない、10クリック以下の手間で教育完了だ。

 相変わらずRecommendedは役に立たない。趣味・嗜好に癖があるのは認めるけど、ここまで一向に噛合わないというのも凄い気がする。当日観たばかりの動画を5つも6つも並べて、それも私が検索して自力で見つけてきたものばかりを、しかもしょっちゅうRecommendしてくるというのも頭悪い感じがもの凄い、「Recommend、Recommendって何だ?」ってなる。私の検索キーワードからちょっとだけズラした検索結果を持ってくるだけでRecommendedとして十分機能しそうに思うのだが、一体Recommendedって何をやっているのか?

 昔あったRecent Uploadedカテゴリに相応しい動画を大量に混ぜて数を水増ししているのも見え見えで、もう「Recommendedって名乗るな」ってレベルの理解不能の機能となりつつある。

 アイコンはやっぱり大き過ぎ、画面内の情報密度の低さは依然として不愉快だ。不愉快過ぎるんだ、慣れるなんて無理だよ。

2020/02/11

アニメ「映像研には手を出すな!」第6話を観る!

 ラーメン屋では上着をちゃんとハンガーに掛け、眼鏡を使って髪を上げる金森が大好き面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 原作同様、いざラーメンを食べる時には金森が髪を下ろしていて残念でした。ちなみにハンガーは金森の私物なのか?それと女子高生がラーメンをすする姿はやっぱりはしたないのか?ならば水崎の口元を隠すメニュー表はレビュワーズ的にとかBPO的にとかGJということなのか!?それとも作画(ry

 今回は初見1回のみの記憶に基づいて勢いで書いてるので、事実誤認はお許し下され。

 今回は原作から色々「引く」こともやってきたなとの印象。で、結局観てて引っかかったのは1カ所だけで、金森が音響部退去の強制執行の代行を生徒会から受ける経緯を全く見せなかったところだ。浅草が金森から遅れて音響部部室に現れるのも不自然だ。1、2シーン抜けているのではないか、と感じた視聴者もいたのではないか。この辺りの経緯は、多少説明的でもソワンデとの口頭でのやり取りぐらいで見せても良かったのではないか、原作を知らない視聴者には不親切じゃないか、と正直思った。あれでは、金森が生徒会の一員か、使いっ走りっぽく見えてしまうのではと懸念を持つ。

 金森とソワンデとの関係性は少しピリピリしてるぐらいがやっぱり良い。そういう様子が見えるシチュエーションは回避せずにきちきちと見せて欲しい、と言うか見たい。原作に無くても見たい。ちなみに、対面状態で笑みを見せることがあるのはソワンデだけ、対して金森が笑みを見せることがあるのは二人が別れてから・・・と言うのが私のイメージだ。あと浅草登場の件は、金森が音響部部室に向かって廊下を歩いているシーンの冒頭で、歩きながら浅草とスマホで何か話している様を、それも金森が「じゃぁヨロシク、浅草氏」と言って電話を切る、ぐらいの1カットで示せば十分解決できたのではないかと思う。スマホをポケットにしまった金森がふと顔を上げると、そこには音響部と書かれた札が・・・でOKでは?(自画自賛
2020/2/24追記:金森から浅草への連絡は何らかのSNS使ってたっぽいですね、音響部部室への移動時に金森がスマホいじってたよ・・・ orz

 と、ここで百目鬼の登場が原作より相当早い事にやっと気付いた。音響部引っ越しの猶予が原作の当日中から当月中となったのはリアルだが、百目鬼の登場が早くなったことが原因か、それとも退去猶予にリアリティを与える必要性から逆に百目鬼の登場が早まったのか。ま、どっちでもいいや、どっちにしてもそれら以外の理由にしても全くの無問題。ただ、ちゃんと理由あっての、アニメの作り手が考えた上での変更であればそれに越したことはない。「ちゃんと考えてない感」が見えると、ホント観ていて引っかかる。なお百目鬼絡みの初期エピソードを省略した分、原作より百目鬼登場のインパクトは弱い。ここは本来は何か「足す」べきだったのではないかと思う。私個人は原画丸出しシーンが楽屋落ちにしか見えなくて全く楽しめないので、面白くもなんともないカニ食うカットなんぞを削ってでも、百目鬼のキャラ立てに時間を割り振って欲しかった。

 それはそうと、この流れ、タイミングだと、原作と違って百目鬼は「ロボットvs巨大ガニ」に参加できる・・・ここが重要なところなのかな。仮音入れした水崎のラフのカットはそんな展開への伏線っぽいが、そうなると原作とは違う形で百目鬼のこだわりを描く必要があり、アニメ版の作り手の腕の見せどころとなるのか。まぁOPが付くとか、主人公達から音楽や声への言及があったとか、アニメ版の「ロボットvs巨大ガニ」は原作より3ステップぐらい完成度を上げたものとして描かれるのかなぁ。マンガと違い、アニメでは効果音の質などは誤魔化せないから、百目鬼の参加が早まるのは当然の展開なのかもしれない。

 スーパーランニングマシンのシーンの出来は出色、100点満点で1000点は堅い。ただ、仮音入れした水崎のラフのシーンの前に見せた方が良かったのか後から見せた方が良かったのかはちょっと悩む。これは両者を並置で見せることだけが前提ならブラッシュアップの余地があるかどうかというレベルの話に過ぎないのだが、仮音入れした水崎のラフのシーンだけが今後の展開の伏線と意味付けされるならば然るべき順番があろう。あと音響部部室内の1カット、百目鬼のヘッドホンのヘッドバンドの形がエラいことになってましたね。今回はちょっと作画に凸凹、または力の入り抜きが目立ちました。

 原作に「足してきた」要素である美術部との打ち合わせシーンは、観てて引っかかりこそは無かったものの、美術部あるある的に捉えれば良いのか、浅草の試練と捉えれば良いのかは未だに悩む。ウサギのぬいぐるみが浅草の上着ポケット入っていたから後者っぽいのだが、乏しい金森の表情や視線の動きはこの判断に関わるようなヒントをくれない。なお、このシーン付近での降雨も含む天候変化の描写は後者の解釈を支持するようには見え、浅草の気分や機嫌の反映なんだろうなぁと何の抵抗も無く観ていた。頑張れ浅草!踏みとどまれ浅草!続くシーンの夕日も、自然に同じ文脈で捉えられるしね。

 ちなみに美術部との打ち合わせ、アニメ版での今後の展開の伏線張りもしてるんでしょうかねぇ?せっかくのアニメ化です。原作を知る者も「お!」となっちゃうような要素の追加は、キャラがぶれなければ私は大歓迎です。もちろん、アニメという技法ならではというものであれば、尚更歓迎です。

 でもんーと、あそこはカニではなくザリガニを食べさせた方が、「浅草にとっての地続き感みたいものが出せたかも」です。ハサミもあるでよって、あ、アニメではまだザリガニ要素登場していないのか。こちらの慣れもあるんだろうけど、今回の「遷移過程」の描き方のなんという安定感よ、っつーかまんま原画か。

 で、それはそうと、

ロボット警察について口頭で触れる浅草のカット、髪をいじりながらしゃべる姿がやたら愛しかったんですけど、そう感じるのは世界で私だけですか?ま、いじる側の髪が異様に長いし、原作よりも可愛めに寄せてきた浅草の顔をPVで観た時点で予測はできてたんだけど。

岡田斗司夫さんのアニメ業界「ゴールドラッシュ論」について、2020年2月なりに考えてみる

 2016年末ごろ、岡田斗司夫さんは2017年以降の日本アニメ業界の展望として「ゴールドラッシュ論」を展開した。

 私のつたない理解でこの論を説明すると、「NETFLIXなどの配信業者兼新規の出資者の登場により、TV放映権を持つことなどの既得権益に胡坐をかいた既存の出資者達が軒並み倒れ、アニメ制作の現場にもっとお金が落ちるようになる」ことを発端とし、「企画力があったり機動力のあるアニメスタジオだけが同じ土俵内で競争できる、下剋上上等の群雄割拠な戦国時代、乱世の到来」それも「誰もが何度も上洛できる楽しい戦国時代の到来」というものだった。ただし、「乱世となると、既存の中間層、例えば既得権益に胡坐をかいた出資者達や動きの重い中堅以上のアニメスタジオといったものが消えていくことも避けられない」とも言及している。

 これらの考えは、「当時の製作委員会方式の在り方」に対する山本寛さんの批判的な見方や、クラウドファンディングの活用など製作資金調達方法の多様化も(結果として)踏まえてのものとなっている。後段まで読んで、それでも岡田さん自身の語る「ゴールドラッシュ論」に興味があれば再生してみよう。再生開始位置は「ゴールドラッシュ論」に関わる部分に合わせてある。以降は私の戯言だから、ここで読むのを止めるのも一考の価値あり、っつーか、岡田さん自身による現時点での総括が聞きたいなぁ。一から動画を作る必要は無く、動画資本論の適用先として結構良いネタではないですかね。
 さて昨年末ごろ、果たしてこの「ゴールドラッシュ論」はどのくらい妥当だったのかと急に気になりだしていた。「映像研には手を出すな!」の時もそうだったが、PVの冒頭にワーナーブラザースなどの海外の会社のロゴが出る事にも慣れて久しい。明らかに資金の流れに変化が起きていることは感じてきたが、現場に落ちるお金が増えたという話には触れることが無かった。

 が、ついに「乱世」が来たのかもしれない。ほぼ「ゴールドラッシュ論」そのまま、でもちょっとだけ違う過程を経て。毎日新聞の記事、「動画配信急拡大でクリエーター争奪戦 テレビ局守勢『ネトフリは信じられないお金を…』」を読んでそう思った。

 細かい話は記事を読んでもらうとして、まずは「人材の奪い合いと人件費の上昇」への言及がある。これは「乱世」突入のシグナルとも言え、まさに現場によりお金が落ちるようになったことを意味する。さらに「流通側と制作側の力関係は逆転している」と来る。この流れは「ゴールドラッシュ論」での岡田さんの言及そのものだ。

 ここで注意点を一つ。以降の記述は「ゴールドラッシュ」≠「乱世」≠「楽しい戦国時代」という私の考えを反映したものとなっている。より具体的に書くと、まず「乱世」は先行する「ゴールドラッシュ」発生の結果として現れる状態であり、両状態は併存できる。次いで、「ゴールドラッシュ」は必ず終わるが、「乱世」は持続可能性が維持される限りにおいて文字通り持続可能である。そして「楽しい戦国時代」は「乱世」が取り得る状態の一つに過ぎない。進行する「ゴールドラッシュ」と「乱世」の併存状態下でこそ、「楽しい戦国時代」は最も現れ易く、維持し易い。これらは私の文章内での用語の定義であって、岡田さんの「ゴールドラッシュ論」における各用語の定義とはまず間違いなく異なる。このため本来は違う用語を用意すべきなのだが、岡田さんが選択した用語の余りにキャッチーで生き生きしたニュアンスの魅力には抗えなかったため、そのまま拝借させて頂くことにした。

 なお、私の定義においても「ゴールドラッシュ」、「乱世」、「楽しい戦国時代」は上述したように併存可能であり、第三者視点でも業界にとってもそのような併存状態が一種の理想状態、面白くてわくわくさせられるような状態であると言える。岡田さんは「ゴールドラッシュ」、「乱世」、「楽しい戦国時代」という用語を一つの状態に対する別表現とも解釈できる使い方をしている。ならば、「ゴールドラッシュ」、「乱世」、「楽しい戦国時代」の併存状態に対しては、岡田さんも私も実質的には言っていることは同じと見做せるかも知れない。

 では、私が言う「ちょっと違う過程を経て」における「違い」に具体的に触れよう。なお、私に岡田さんらの発言に対する上げ足取りの意図など全くないことを明確に述べておく。私が見るところ、岡田さんや山本さんの語った内容には、ちょっとした仮定、或いは話を分かり易くするための簡略化があったように思う。私の言う「違い」は、お二人の発言内容を私なりに咀嚼したものと、毎日新聞の記事内容から後付けで導き出したものだ。ただ、「ゴールドラッシュ論」について以前から薄ぼんやりと引っかかりがあった点が、今だからこそ言語化できたという側面もある。

 まず一つ目の違いは、アニメスタジオを業界の最小単位としていたことだ。

 毎日新聞の記事を読めば分かるのだが、実のところ海外からの資本流入は、いきなりアニメーターなどクリエーター個人をも対象にしていたのだ。思えば「THE ANIMATRIX(2003)」の時点で、そのような事態の出来の素地は出来ていたようだ(日本のアニメスタジオが米国アニメの下請けで食っていた時代も先行してあったが、あくまで下請けだ)。その後、カートゥーンネットワークで放映するシリーズのうち数話を日本人スタッフが担当するまでになる。

 そして「ゴールドラッシュ」は、サイレントインベージョンの如く静かに始まり、静かに進んだのだ。とは言え、特定のクリエーター(と言う事らしい)の挙動を見ていればそんなことは直ぐに予測できた筈なのだ。疑問は、何故ハズレしか作ってこられなかった彼らにそんなに投資が続くのか、クリエーターに対するちゃんとした目利きはいないのか、ぐらいだった。結果論として、上記の疑問は煙幕みたいなものとして作用し、実際に起きていることを見えにくくしていた。少なくとも私は完全に目くらましを食らってしまっていた。

 が、このような経過を経た結果、アニメ制作現場「全体」の人件費の底上げは遅れた。つまり、全体が「負け組」だった業界内にごく少数の「勝ち組」が現れるところから実は「ゴールドラッシュ」または「乱世」は始まっていたのだが、やっと「勝ち組」だけでなく、「勝ち組」から仕事を受けている「準勝ち組」の割合が目に見えるレベルまで増えてきたのだろう。

 トリクルダウン?結局外資?経〇省のクールなんとかが(以下、自粛)

 今にして思うと、「才能に金を出す」という考えに従えば至極普通の展開であったと分かる。そして、目端の利く既存スタジオ、或いは目端の利く人間が新たに立ち上げたスタジオはとっくの昔に「乱世」に対応しており、配信業者や海外スタジオなどによる囲い込みの対象となっている。反面、人件費の上昇は、業界のコントロールが既存の日本人プレイヤーからかなり失われた結果とも見ることができる。コントロール力を失なったのは自業自得とも言えるが、彼らにとって状況の変化はそこで終わりではない。

 二つ目の違いは、少なくとも短期的には、プロデューサー(資金調達と宣伝などに責任を持つプロデューサー) として日本人が関与、中心的役割を果たすことを想定していることだ。いや、実際にもそうだったのだが、プロデューサー当人たちが当時から「ゴールドラッシュ」に気付いていなかったならばちょっと話は違ってくる。気付いていたならしかるべきタイミングで傷が浅いうちに倒れることもできたのに、気が付くと倒れ損ねていたという状態の出来である。今後は、倒れるときはもれなく致命傷を負っている。

 件の記事のタイトル中にある表現「ネトフリは信じられないお金を…」は、2年前ならともかく、何を今更レベルの耳を疑う発言であり、NETFLIXなど海外資本の動きに対して発言者らが如何に愚鈍だったかのかを如実に表しているようにしか見えない。まぁ、記者が大げさに書いている可能性もあるんだけど、彼らの一部が業界のコントロール力を失いつつあり、かつ状況に追従できていないのは確かなようだ。

 NETFLIXは全額出す、映画だろうがTVシリーズだろうが少なくとも全額出せるだけの資本力がある。その代わり、全ての権利を持っていく、すべてをコントロールする。資金調達や関係者の利害調整・利権配分調整を仕事とするプロデューサーというプレイヤーはもういらない、業界をコントロールする力も当然失う。広告代理店もいらない。中間マージンは極限まで圧縮される。契約、金の流れ、意思決定の流れは米国流にリプレイスされ、日本特有の商習慣は本当に合理的なものを除いて打ち捨てられる。現場をコントロールできる監督は重宝される、中小規模のプロジェクトなら現場プロデューサー(製作進行などに責任を持つプロデューサー)を別途置く必要がないからだ。或いは現場プロデューサーは完全に職業化される、まるで米国大企業の「社長」のようにだ。

 上記の内容も踏まえて2016年以降の状況を脳内シミュレーション、いや妄想力を単にぶん回してみたところ、以下のような結果を得た。消費者目線で歓迎すべきものもあるが、立場によっては悪夢のようなものもある。何れにしても、業界のゲームチェンジ、プレイヤーチェンジは避けられそうにない。とは言えこれらはあくまで私の頭の中の世界、果たして実際はどうなのか、今後はどうなるのか。なお、私の妄想における重大な問題点の一つは、AmazonなどのNETFLIX以外の大手資本の動きを私がほぼ知らないことだ。一方NETFLIXについては、全く別の文脈(経営論、組織論)で色々自身で調べたことがある。
  • 「ゴールドラッシュ」の発生或いは「乱世」への突入は2016~2017年ごろにあった。ただしそれは、岡田さんの言ったような「奴隷の革命」ではなく、海外からの「静かなる侵略」とでも呼べそうな小規模で見えにくいものだった。なお「静かなる侵略」とは呼んだものの、それら外資の行為は「才能に対する投資」という合理的で当然なものと言え、倫理的な問題も無い健全な経済活動の範疇のものである。
  • 「ゴールドラッシュ」は業界のごく一部、クリエーター個人を単位として始まったため、それに当初から気づいていた人間は限られていた。
  • 「ゴールドラッシュ」突入から約3年、やっと業界全体で「人件費の上昇」が見られるようになった。と言うか、主に次項に示す状況の出来により、業界として人件費を上げざるを得なくなった。10年代前半の流儀に基づく製作員会方式では、人件費上昇の結果である製作費の上昇に柔軟に対応できない。これに対して海外資本の導入額増大などにより出資総額を上げる方法もあるが、当然プロジェクトのグリップは海外側に有利となり、既得権益者から見た製作員会方式の旨みは下がる。実際、幹事会社が外資と思われる製作委員会が現れて久しい。製作委員会の在り方自体も、2016年ごろのそれから変質しているかもしれない。
  • 一方、「ゴールドラッシュ」が見えにくい時間が長かったため、誰もが「ゴールドラッシュ」に気付くことになるよりも早く、米国流の資本、契約、意思決定の流れなどが広く普及した。先例も積みあがった。魅力ある人材、スタジオの囲い込みも進んでしまった。
  •  「ゴールドラッシュ」は終わり、やがて「乱世」本番の次フェーズに入る。単独出資や外資主体・支配型の製作委員会が増えることで、まず資金調達、関係者間の利害及び利権調整を仕事とするプロデューサーは余ることになり、淘汰される。次いで、いったん囲い込んだ人材の再選別が始まり、切られる人間も現れる。つまり、上がった人件費に見合う人材とその人数規模に最適化の手が入る。人材と資本とが紐づけされれば、スタジオ再編や人材の流動化がさらに進み、横方向に動く資金量はいったん増える。同時に、資金力が無い或いは投資を呼べる人材を繋ぎ留められないスタジオは淘汰される。極端なケースとして、人材確保のための資金の横移動だけで経営体力を使いつくすも、確保した人材の価値によって他社に吸収されたり新規投資を得られたりすることも考えられる。岡田さんの述べた「京都化」は、淘汰をマイルドにしたり、生き残りを増やすことに寄与し得るが、いずれにしても「楽しい戦国時代」はほとんど見えないままに何時終焉を迎えるかも分からない危うい状態となる。後述する自社権利(原作権や商標権、それらの周辺権)の確保や国内資本の再奮起・競合などの因子が存在しないと、「楽しい戦国時代」の持続可能性は海外からの投資が一定レベル未満となった時点で簡単に失われる。
  • ここで「勝ち組請負人」のような凄腕クリエーターが現れ、スタジオを転々としたりすると面白いことになるのだが・・・ゲームやCPU設計の様に。または「乱世」に対応し、少なくとも国内業界全体の利益を念頭において動ける調整能力も持つ卓越したプロデューサーの登場にも期待したい。このような存在は、現在も存在するマーケティング主体の手法に長けたヒットメーカーと目されるプロデューサーとは、全く異質、別レベルの能力を要求される存在である。このような異能の存在は、外資を利用してかつ儲けさせることはあっても、決してまつろうことのない挑戦者であり、外資べったりの「勝ち組」とは一線を画すものでなければならない。さらに外資に(良い意味で)面従腹背な、腹に一物持つような「勝ち組」が多数加わると、「楽しい戦国時代」出来の芽もある。そうでなければ、「乱世」は業界全体を疲弊させるだけとなる。そのような存在が無いまま「楽しい戦国時代」が維持されるならば、それは見かけだけのもの、外資が何枚も上手であるということに過ぎない。新たなOccupied Japanにようこそ。
  •  日本のアニメ業界には組合が無いので、資本側の意向でのスタジオ再編やスタジオ内の人切りがやり易い。「提携」による囲い込みは、いつ切られるか分からないドライなものと考えておいた方が良い。そもそも「提携」が指すものが「対等な関係」なのか、はたまた「隷属」なのかは部外者には全く分からない。「乱世」なのだ、国内外のゲームスタジオの状況を見よ。逆に組合を作るチャンスは「ゴールドラッシュの終焉」≒「乱世本格突入」より前にしかない。が、「ゴールドラッシュの勝ち組」はおそらく組合など作る気もないだろう。
  •  NETFLIXの出資の流儀だと、クリエーターやスタジオには制作物に関する権利が一切残らないと聞く。それ故に出資額も大きくなっていると言えるが、買い取りみたいなものなので、長期的に見た場合はクリエーターやスタジオの再生産能力に枷を嵌めることにもなり得る。「勝ち組」と言えども仕事を受け続けなければスタジオは維持できない、という状態に陥る可能性はかなり高い。今後NETFLIX一強と言える状態が崩れた場合、配信業者などとの交渉において権利帰属条件を変更できるかは、業界が持続可能かどうかを考えると重要な要素かと思う。まぁ、権利確保と製作費はトレードオフとなるのが通例だ。まぁ、権利を親会社に握られた国内外のゲームスタジオの状況を見よ。制作着手時点では多少の損はしても良いという判断ができる人材や、権利に対して的確な目利きができる人材が育たないと、権利に関して日本は完全に狩場、植民地状態化する可能性がある。例え今後グローバル化への揺り戻しがあっても、より自由になるのは資本の移動だけだ。資本の源泉たり得る権利が囲い込みの対象であることは変わらない。
  •  岡田さんが似たことを言っていたが、スタジオ運営では配信向けの仕事と国内TV向けの仕事をともに受けるのが良いように思う。自社権利は捨てるが前者で確実な利益を得、その利益も使って後者で自社権利を持つコンテンツを生む、というのが一つの理想だ。後者に対しては製作委員会方式も有効だろうが、その場合はスタジオ自体も投資者として参画する必要がある。配信業者を儲けさせつつ、それでも配信業者に一矢報いたい、一目置かせたいと考えるなら、最低でもそれぐらいしないと。或いは外資が消えても生き残れる体制を作るとか、スタジオ自体を高値で売り抜けたいのなら。
  •  人件費上昇に伴う製作費上昇は、クラウドファンディングによる製作プロジェクトの立ち上げの敷居も上げてしまう。従って資金調達方法の多様化は、「ゴールドラッシュ」以前より現実的には後退してしまっている可能性が高い。

2020/02/10

「パラサイト」アカデミー賞受賞からつらつら

 今年のアカデミー作品賞は、ポン・ジュノ監督の「パラサイト」が受賞した。私は観てないので作品自体については何も語れないが、個人的には懐かさも感じる名前がみられたので、昔語り含めて思うところをつらつらと書いてみようと思う。

 ポン・ジュノさんが関わった映画作品との最初の出会いは「ユリョン(幽霊)(1999)」だった。担当は脚本である。脚本家なんて普通覚えることは無いが、ストーリーが当時親韓寄りの一日本人であった私からしてみてもあんまりなものだったから、結構ネガティブな意味で名前を憶えてしまったのだ。はっきり言って観ていて不愉快になった映画だった。本映画では、「借金のかたにロシアから核ミサイル原潜(艦名が「ユリョン」)と核ミサイルを入手したから、日本の諸都市を核攻撃しよう。海上自衛隊の潜水艦も撃沈してやったぞ!」という反乱勢力と、「日本を核攻撃するべきは今ではない、今は止めろ!」という主人公との、核ミサイル原潜内での戦いが描かれる。そして、日本を核攻撃する理由を主人公に問われた反乱勢力のリーダーの回答は、「これは我々の恨(ハン)だ」の一言だった。

 これを観て、日韓は絶対に安定した友好的関係を維持できない理由がある確信した。観た時期が日韓共催サッカーワールドカップと重なったことで、その思いは尚更強くなった。

 「恨」に対応する概念は日本には無いとされるのが一般的だ。2000年ごろに、日本人には「恨」は絶対分からないと本で書いた日本人や韓国人もいた。「恨」に対する私の印象は「相手が悪いんだと決めつけることが許されるという、日本で言うところの空気みたいもの」であり、「甘えの論理」の発露以外の何物でもない。「恨」は韓国人同士でも発動するし、「国民情緒法」や韓国左派の志向、とにかくマウントを取りたいという欲求などとの親和性が実に高い。「ユリョン」では韓国原潜は米国原潜には全く手を出さないが、映画とは言えさすがに日本と同じ扱いはできなかったのだろう。だから余計に「日本への甘え」に見える。

 「恨」を否定も肯定もせず、極端な仮想的状況下で「恨」を振り回す人々の様と「恨」の発露の様を描いた映画、というのが私にとっての「ユリョン」だ。この視点からは、韓国人にとっては何気に自虐的な映画、「恨」の構造そのものの映像化にも見える。全てが「恨」の上に構築された物語であるため、「恨」が無くなると全てが意味を失う。多くの韓国人には「反日エンターテインメント大作」に見えるんだと思うんだけれども、僅かにしかない日本要素の描き方(沈没し、深海で圧壊寸前の海上自衛隊潜水艦から聞こえてくる日本語など)は反日ニュアンスなど含まないかなりニュートラルなものである。とは言え、一日本人に言わせてもらえれば、劇中の反乱勢力や主人公の言行は押し並べて幼稚で不愉快だ。主人公も「恨」を克服している訳ではなく、おそらく「反乱勢力の言行に対する若い正義感に基づく反発」みたいな別の理由によって、結果として「『恨』にどっぷり浸かる楽な態度」から距離を置くことになっているようにしか見えない。どこまでが計算ずくの脚本だったのだろう。

 ちなみにポン・ジュノ監督と韓国保守派との関係は良くない。少なくともとある保守政権では、問題ある人物のリストに含めたことがある。裏を返せば現在の政権は、必要と見れば国を挙げて彼と彼の作品を押すのは間違いない。政府が業界に金を落としている昨今、韓国映画は重要な輸出商品であるとともに政治的な武器とも言える。政権が変われば作られる映画のトーンも変わる。

 とは言え、とある韓国ウォッチャーの文章を読んでいると、政治性の無いエンターテインメント作品や一見左派好みの作品でさえも政権批判(とも取れなくもない要素)や反北朝鮮要素をこっそり忍び込ませる、といったことは最近でも少なからずあるのだそうだ。映画が政治化しようとしているのではなく、政治化されたことに対する映画からの反抗っぽいところがミソだと思う。が、それは作り手がどちらかと言うと保守派寄りである場合の話であって、左派、革新派寄りの場合は時の政権に寄らず、批判の原因である政治や社会の問題の描写がまんまむき出しであることが多い。その代わり、陰にも陽にも政権批判はまぁしない。少なくとも2006年までの作品のポン・ジュノ監督の作風もそんな感じだった。

 むき出しにできるってのは骨があるのか生真面目なのか、個人的にこの辺はもう20年来の謎なのだが、理想家肌の作り手と保守派の反りが悪いことと、保守派でなければこっち側だろうと二分法的に考えている風が見える昨今の左派や革新派の挙動も併せて考えると、話が逆な気もしてきた。左派、革新派だからむき出しなんじゃなくて、むき出しにするから左派、革新派から左派、革新派認定される、むき出しにしなければ左派、革新派から保守派認定される、ということだ。そして、作り手の政治的信条とは関係なく、保守派は左派、革新派の反応を見て、敵味方の判定をする。結局相対的なのだ、「恨」にも似て。

 そもそも中道がない、存在できないとか、保守派もさっぱり頭良さそうな感じがしないとか、脇から見える韓国国内状況からならそんなこともありそうにも思えるから困る。「政治問題、社会問題をむき出しで描くなんて、時の政権であれば左派だろうが革新派だろうが嫌がるでしょ」と思うでしょ?「政治問題、社会問題の原因は全て過去の保守政権」と「悪いのは全て他人」とできるから左派とか革新派なんてやってられるんですよ、「悪いのは朝鮮戦争に介入した米軍」とか何時はっきりと言い出すか分かったもんじゃないですよ・・・きっと、多分、もしかすると・・・まぁ、可能性が全く無いわけじゃないぐらいの話として、ね。

 ここで韓国の映画産業がらみで、さらに脱線する。

 90年代中、後期に韓国映画業界は自ら力をつけた。制作プロセスのデジタル化を一気に進め、ハリウッド作品を彷彿させる画作りをあっと言う間に修得した。強くなった経済力を背景にエンターテインメント大作が作られるようになり、主に軍政時代の事件(例えば、光州事件)を題材とした韓国独自・固有のテーマに基づくやや内省的な作品群も生まれた。短い期間ではあったが、韓国映画は自国の近い歴史を時に批判的に、時に中立的にシリアスに描く作品を生み続けたのだ。私が韓国映画に興味を持ったのがこの時期である。

 そんな一種の自由な制作環境は、映画産業に国が資金を投入し始めた21世紀になって変質していった。「シュリ(1999)」はそんな過渡期最終期の雰囲気をたたえる作品だ。エンターテインメント大作であり、南北分断・対立という朝鮮半島固有の状況を背景とし、デジタル技術を生かした画作りと日本の90年ごろのトレンディドラマ風の画作りが共存する、今見るとちょっとちぐはぐさも感じるサスペンスメロドラマである(私はトレンディドラマとやらを観たことがないので、この辺りの言及は当時一緒に本作を観た人間の感想である。私は時折画が古くさくなるなとしか思っていなかった)。金大中拉致事件を扱った日韓合作「KT(2002)」が後に作られたが、(何時何処で読んだか思い出せないのだが)とある人によれば「この映画の制作時期が、事件当時の乃至は公開当時の政権批判を含む作品が韓国で製作可能だった最後の時期」とのことである。まぁ、もうそういう映画に観客は入らなくなってもいたのだが。

 ポン・ジュノ監督の活動開始時期は、そんな業界の変化と同時期である。韓国近代史上の事件やリアルタイムな国内の政治問題、社会問題をシリアスに描くことが、主張の左右上下に関わらずリスキーなった時代の監督なのだ。後でも少し触れるが、私は韓国のコメディー映画がさっぱり笑えない、面白くない。これは私が韓国の政治や社会のリアリティを知らないせいなのかもしれない。

 他方、朴正煕大統領暗殺事件を扱った映画「ユゴ 大統領有故(2005)」は、ついさっき読んだWikipediaの記事によるとブラックコメディとのことなのだが、初見以来全くそのような認識がなかったので本当に驚いた。本事件に関しては何冊もの本を読み(事件に続く粛軍クーデターの顛末も含め、最初に読んだJICC出版のムック「軍部!」の内容が余りに面白過ぎた)、事件自体の展開が行き当たりばったりなものであることを知っていた。このため「全体として重苦しい画作りで、演出はあるものの、そもそもコメディがかった要素の多い事件経緯をほぼ再現した映画」としか見てなかったのである。今でも「コメディとして作られている」なんて思わない。劇中、「下半身に人格はないからな(笑)」みたいなセリフが日本語で飛び出すが、韓国の観客がどういう思いでそのセリフを聞いていたのかは分からない。

 なお、朴正煕政権内の同世代との内緒話では、うっかり若い世代の人間に聞かれても話の内容が分からないように、日本語を使うことが少なくなかったようである。この点は、世代も、ナショナリズム意識の基盤または国に対するアイデンティティの置き方も違う全斗煥政権以降とは異なるらしい。朴正煕政権は経済発展をテコに「日本の呪縛≒反日≒大きな恨のひとつ」からの精神的自立(≒克日)を、全斗煥政権は軍の米国からの自立をテコに米国からの精神的・政治的自立を、それぞれ志向していたというのが私の理解である。盧泰愚政権以降は・・・うん、一気に「反日」、「反米」の姿勢を取り戻すと言うか、ほとんど再創造してしまった。北朝鮮の「反米」は歴史的経緯から理解は簡単だが、韓国のそれは、例えば米国にはほぼ理解不能だろう。それは士官学校の教官に米国軍人が含まれていた時代を侮辱的と捉えた全斗煥のスタンス(これも「恨」の構造である。自分達が士官学校の教官が全て韓国人となった最初の士官学校生であったことを理由に、全斗煥らは自らを真の「韓国軍士官候補第一期生」と称し、他世代に対してマウントを取ろうとした)を利用した勢力により、政治問題として再創造された側面も持つものだからである。この辺り、戦時統制権に絡む韓国「内」のゴタゴタの筋の悪さと無関係ではないだろう。

 軌道修正。

 北朝鮮の主体思想の立ち上げは、私には「『恨』を乗り越えようとする試み」、「自立への試み」にも見えた(ただし、北朝鮮外で「主体思想」と呼ばれるものの大部分は政治工作用の別物で、「恨」をむしろ利用している)。朴正煕政権の開発独裁手法も、上述したように同じ方向性を持つものと見えた。が、北朝鮮は後に「先軍政治」を叫び、相対的に「主体思想」の影響を国内で薄めた。その結果なのか、北朝鮮の日本への態度に「恨」的な甘えっぽいものを感じることが増えた。 今やその甘えは米国にも発動しているやに見える(年を越えてから良く分からなくなっているが)。片や韓国は盧泰愚政権以降に「恨」は完全に息を吹き返し、その反動として誕生したとも見えた朴槿恵政権(1000年変わらない発言に見るように、アンチ「恨」の体は取らなかったが)も改めて押し流してしまった。

 と言う訳で、韓国の現行政権の中心である左派、場合によっては革新派は、「恨」すら克服できないというか逆にどっぷり浸かった守旧派乃至は単なるポピュリスト、もしかすると50年遅れの北朝鮮であることが明らかとなってしまった。ただ当人たちにその自覚が無い。金日成の大勝利どころか、間違いなく想定外の完全勝利だ。

 この2~3年は南北共に同じ相手(主に日本、米国)に「恨」を発動している状態にいったんなったが、それでもなお北朝鮮には「恨」から距離を取ろうという姿勢はあり(でなければ金日成否定となる)、「北朝鮮が韓国を見下すような態度を取る」根拠となっているというのが私の見立てだ。北朝鮮には現在の韓国政権の精神性が「自分達が50年前に乗り越えたもの」に見えるのである、まともに相手をしようとは思わないだろう。とは言え、そのような北朝鮮の態度も韓国への「恨」の発動とも見えなくもなく、北朝鮮がまともに見えることはあっても、十分にまともな訳ではないだろうという思いは変わらない。目くそ鼻くそを笑う、というやつである。「恨」の呪縛はかくも強烈なのである。

 さて、

ぺ・ドゥナさんというかつての私のお気に入り韓国女優さんがいる。10年代になって「クラウドアトラス(2012)」や「ジュピター(2015)」に出演し、今やハリウッド女優である。日本映画「リンダリンダリンダ(2005)」ではバンドのボーカルを務める韓国人留学生役を演じ、日本のTVCMに起用されたこともある。舞台活動もしている。映画の出来は今二つだが、「春の日のクマは好きですか?(2003)」での彼女が個人的には一番可愛く魅力的だった。

 ポン・ジュノさんの監督デビュー作「吠える犬は咬まない(フランダースの犬)(2000)」はコメディであったが、さっぱり笑えず、面白さが全く分からなかった。が、主役級で出演していたぺ・ドゥナさんを見つけられたのは個人的に大収穫だった。ぺ・ドゥナさんの出演映画は「リング・ウィルス(1999)」から「グエムル(2006)」まで日本で視聴機会のあったものは全て観たが、「グエムル」はポン・ジュノ監督作である。

 ぺ・ドゥナさんは「TUBE(2003)」で「ちょっといい女」っぽい役を演じたりもしているのだが、多少なりとも当たったのがコメディ映画ばかりだったせいか、少なくとも2010年ごろまではワールド・ムービー・データベースで「コメディエンヌ」と書かれていてちょっと可哀そうだった。なお、00年代のぺ・ドゥナさんは明らかに出演作に恵まれていない(婉曲表現)が、観ていないなら、「リンダリンダリンダ」と「グエルム」はまぁ、お勧めできる。「パラサイト」がコメディとして始まりホラーに変わっていく構造と人から聞いたのだが、ならば「グエルム」と似た構造とも言えるかもしれない、知らんけど。

 ソン・ガンホさんは今もお気に入りの韓国男優である。 低予算コメディからシリアスな大作までもこなす、個人的印象としてとても器用な俳優さんである。役を自分に寄せるタイプではない。初見は「シュリ」で、「パラサイト」では主演を務めている。お勧めの出演作は肩の凝らない「反則王(1999)」と胃もたれするかもしれない「殺人の追憶(2003)」だ。

 「殺人の追憶」は今やアカデミー賞タッグとなった監督ポン・ジュノ、主演ソン・ガンホ作品で、最初から最後まで緊張感のあるフィルムだった。同監督の「吠える犬は咬まない」も同主演の「反則王」もコメディだったので侮り、心の準備なく初見に臨んで劇場でちょっと茫然としてしまった。カメラワークなどに、主人公らの経験を観客にも共有させるようとしているといった意図を感じる映画だった。私にとってのポン・ジュノ監督作品は、今も「殺人の追憶」に尽きる。ただ結構重苦しく後味も良くない映画なので、万人にはお勧めしない。

 最後に「パラサイト」の受賞だが、(後出しだから説得力はないけど)個人的にはかなり確率が高いと見ていた。ここまでの追い風はなかなか望めないからだ。トランプ政権の支持基盤は共和党右派で主流派よりも右寄りである。アカデミー協会の政治的逆張り体質は折り紙付き、ポリコレに対する態度はもう敏感を通り越し異常とも言えるレベルであり、更に昨今の海外会員の増加の少なくない部分を韓国人会員が占めている可能性も高い。おそらく韓国政府の働きかけも方々であっただろう。監督がNETFLIXからの投資を受けた経験も、もはやアカデミーでは問題とはされない。NETFLIXも何らかの賞は取らせたいと考えていたのではないか・・・「アイリッシュマン」との兼ね合いはあるが。

 「パラサイト」はノミネートされた時点で映画として一定レベル以上の出来である評価が定まっており、社会的テーマを取り扱うとともに、(観てはいないがおそらく従来通り)左派視点が盛り込まれているか強く影響した描き方となっているだろう。故に受賞を逃すようであれば、「人種差別を叫ぶ会員が出てきても驚かない」レベルと見ていた。映画としてOK、アカデミーが好きなテーマ性、アンチトランプ(厳密にはアンチ現米国政権なのでざっくりアンチ保守、つまり左派・革新支持)、ポリコレ(アジア人監督作)・・・もうここまででも十分な数の受賞に有利な因子がある。繰り返すが、これまでの受賞歴、評論家のみならず観客からも得た高い評価から、映画としての出来は折り紙付きなのである。アカデミー作品賞受賞の可否は、もう政治マターだったようなものだ。

 もちろん、そうではあっても、アカデミー賞受賞が「パラサイト」の価値を上げることはあっても下げることはないのは当然だ。そしてもう一つ大事なこと。賞は作品なり、監督なり、脚本なり、俳優なりが取ったものであって、国は基本的に関係ないんだ。だから(馬鹿々々しいので以下省略)

2020/02/08

X-32、不憫。

 Boeing X-32は、Lockheed Martin F-35の試作型であるX-35と軍の正式採用を争った第5世代ステルスジェット戦闘機の試作機だ。その外観はモダンな戦闘機としては特異な方で、たまにかわいいと言われることはあっても、かっこいいと言われることは稀なようである。ちなみに私は、機首~空気取入れ口周りの形状が見た目だけでなくエンジニアリング視点でも好きであり(一応、流体力学分野で飯を食っている)、特に斜め後方45度前後、斜め上方-10~+10度範囲の位置から見た全体形状にはX-32にしか見られない独特の機能美を感じてしまう。一方とっても長い主脚は・・・アレは色々とマズそうだ。

 さてYouTubeのチャンネル「USA Military Channel 2」で、「【ボツになった戦闘機】ボーイングX-32ステルス戦闘機」と題する動画が公開された。米軍の日本語版公式チャンネルということで未見の映像が含まれることを期待したが、全て既に観たことのある映像だった。また、以前に観たものより高画質だったという映像も無かった。
 X-32とX-35との、つまりBoeing社とLockeed Martin社との闘いのドキュメンタリーとしては、米国PBSネットワークのNOVA枠で放送された「Battle of X-planes(2003)」が有名だ。上の動画中のほぼ全ての映像は「Battle of X-planes」内で観ることができる。00年代後半のころは、このドキュメンタリーの内容はネットの上の戦闘機好きの間では基本教養と見做されていた。私も何とか観る機会を作り、話題について行こうと当時頑張った。

 今現在も大したレベルではないのだが、このドキュメンタリーを何度も観たことで多少なりとも英語リスニング力が向上したのは間違いない。BBCのドキュメンタリー(ユーロファイター・タイフーンやハリヤー、初期ジェット軍用機のものが多い)もそうだが、ドキュメンタリー番組のナレーションは概して聞き取り易い。自分の興味とマッチするドキュメンタリー番組を見つけて原語で観るというのは、外国語のリスニング力を上げる方法としては効率が良いのではないかと思う。会話重視なら、映画の方が良いかもしれないけど。

 閑話休題。

 「Battle of X-planes」の面白さの一つは、何故X-32が負けたかが良く分かることだ。何故X-35が勝ったか、ではない。

 コンペティション(競争)では両社2機づつの試作機を製作、両社ともに要求仕様に基づく独自の試験計画を作成、実行して自社設計の性能をアピールし合う。軍から派遣される試験パイロットがX-32は海軍、X-35は空軍という違いの影響もあろうが、両者の試験計画はかなり異なっている。

 YF-22のコンペティションの経験を反映してか、試験計画はLockheed Martin社のX-35の方がアグレッシブだった。Boeing社のX-32の試験計画の内容も決してX-35のそれに見劣りするものではなかったが、試験中のミスやトラブルが目立った。そして私が見るところもう一つ重要だったのは、正式採用にあたって大きな設計変更がX-32には必要と、Boeing社自身がコンペティションの途中で認めざるを得なかったことだ。3DCGモデラーとしての視点からだと、X-35からF-35へも外観差も一からそれぞれ作るべきだろうというレベルではあるのだが、それでも全くの別機体とは見做し難い。が、もしF-32が誕生した際には、その外観はX-32とは明らかに別物となる。要素の形や寸法が変わるだけでなく、重要な機能をも持つ構成要素が増えるのだ。

 ドキュメンタリー内で確認できる試験時のミス、トラブルとしては、例えば以下のものがある。
  • 飛行中の操縦プログラム異常
  • 飛行中の油?漏れ
  • 空中給油試験時に、給油ドローグ(先端に漏斗状のエアシュートが付いた給油機側ホース)のエアシュートを空気取入れ口が吸い込みそうになった。このシーンは観ていて結構怖く、映像にも撮影者の心の動揺みたいなものを感じ取れる。文字通り「ふっ」と、或いは「すっ」とエアシュートが空気取入れ口に向かって突然動くのだ。
  • 垂直着陸試験時、ほぼ着陸のタイミングでエンジン異常燃焼
 設計変更は主翼の小型化と水平尾翼の追加とかなり大きなもので、海軍からの要求仕様の変更に対応するための重量低減が目的だ。ドキュメンタリー内ではまず、尾翼構成を通常の垂直尾翼×2+水平尾翼×2とするか、垂直尾翼と水平尾翼の機能を併せ持つ尾翼(ペリカン尾翼)×2とするかをスタッフ内で議論、責任者が決定するシーンが登場する。そして、その後にその決定が覆える様も登場する。小さくない設計変更が必要というだけでもX-32の正式採用には十分逆風なのだが、設計変更内容がふらふらするのもうまくない。Boeing社も良くこんなシーンのTV放送を許したものだと思う。

 X-32の敗因として、軍の多くのパイロットが「あんなカッコ悪い機体には乗りたくない」と言ったなどと聞いたり読んだりすることがある。優秀なパイロットに乗りたいと思わせるために戦闘機のようなF-117という名称が与えられた爆撃機もあったぐらいなので、それもさもありなんとは思う。が、大きな設計変更が避けられなかったことこそ、X-32の敗因だと個人的には考えている。試作機の性能が要求仕様を満足しない、開発期間・コストが更に必要であることが明確、の二重苦状態では勝機は薄い。

 著作権的には問題あるが、「Battle of X-planes」は今はYouTubeで観られる。なお、再生開始位置はX-32の尾翼設計変更に関するところとしてある。

2020/02/06

アニメ「映像研には手を出すな!」第5話を観る!

 金森好きの面倒くせぇ奴の戯言、今回もはっじま~るよ~。本エントリの内容が伝わるか伝わらないかはあなた次第(丸投げ。評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 アニメ版もきっちり楽しんでいるので念の為。第一人格?が無邪気にストーリーを楽しみ、第二人格?がリアルタイムで演出意図などを分析しているような視聴法になっているのだ。通常、第二人格?は劇中設定そのものや設定を反映した画面中の要素を追うことに使う。アニメーターの遊びなども第二人格?が大概拾う。発見や面倒くさい見方の担当とも言え、視聴回数が限られる映画鑑賞経験を重ねて培った一種の視聴テクニックっぽい。これまでのエントリで何回も触れた通り、原作マンガはアニメ化にひと工夫もふた工夫も必要な特殊な構造を持つ。だから作り手の工夫や考えの発露たる演出や原作からの変更点などに第二人格?の視線を向けている。ちなみに第一人格?だけに従うと褒めっぱなしになっちゃうよ。

 さて、

最後の4分程の「ロボットの改造」シーンは画もテンポも良く、展開を知っていてもワクワク感がたまらなかった。声優さん達も良い。背景を白一色で通し切ったのもプラスに働いていたと思う。原作マンガでは数コマだけだけど背景が描かれたコマがある。このシーンではロボットも前景だから、同じテイストの絵での背景があると画が煩雑になっちゃっただろう。あの絵でロボットの一部を動かしたり、多少とも入り組んだ構造となっている関節部むき出しで立ち上がらせたりするのだから尚更だ。

 とは言え、残念と言うかもったいないと思う点が無かった訳ではない。

 浅草の「シートベルト忘れた!」や水崎の「あ~だけど関節全部隠して良いかな?」などのセリフに合わせて、静止画でも良いから対応する画を見せるカットが欲しかった。特に後者のセリフ前後はドリルをゆっくりスライドさせながら見せる長いカットなので、「セリフで説明するだけかいっ!」と突っ込まずにはいられなかった。別にドリル好きでもない私には、流石にこのカットは長過ぎ、観てて結構しんどかった。新品のドリルなんだから、「反射光キラーン!」ぐらいしてくれて良いのよ。

 対して、アバンタイトルの浅草の「なんじゃぁこりゃ!」の後からミサイルが浅草に命中するまでのシーンは、観ててこっちが「なんじゃぁこりゃ!」となった。テンポがなんか悪いし、演出意図も掴みかねたからだ。この一連のシーンは暗い(透明度が比較的高い黒一色のレイヤーが重ねられている感じ)のだが、私はこの見せ方を浅草の主観の反映と解した。

 しかし、カメラがかなり客観的視点から浅草、水崎を追うのでチグハグ感が半端なかった。「なんじゃぁこりゃ!」までの3カットは徐々に浅草の顔に寄せていくので、例えば「浅草の不安感」の反映と解することができ、観てて全くチグハグ感を感じなかったのとは対照的だ。「浅草の知らないところで進行する、金森、水崎も関わる陰謀の進行」感の反映ならば、それこそ浅草の主観となり、使われているカメラワーク(ほぼ原作準拠?)は明らかに相応しくない。また、画面が通常の明るさに戻るのが、ミサイルの浅草への命中と同時と言うのもおかしい。万が一、「トンデモない陰謀が進行中」と視聴者をミスリードしたかったのであっても、視聴者にカタルシスを与える瞬間は「浅草が状況を正しく理解した」時でなければならず、やはり浅草にミサイルが命中した瞬間ではない。

 じゃぁアンタならどうすんのと問われれば、薄暗いのは「なんじゃぁこりゃ!」まで、または浅草がミサイルに気付いて目を丸くした「え?何?」ってなった瞬間までだろう。ミサイル接近から命中までは可能な限り笑えるもの、または視聴者が「は?」となるものにしたいから、命中過程のカメラワークは浅草の主観を強調した派手なもの(例えばスローモーションや背動駆使、○○サーカスみたいな)とし、命中直後または命中直前の浅草の顔のアップの後にOPに入りたい。OP開け以降は、最初から通常の明るさとしたうえで現行のままの命中シーンから始める。つまり命中シーンは浅草の主観的なカメラワークと客観的なカメラワークで2回見せることになる。これは「解決編」とでも言うべきパートにこれから入りますよ、転換点ですよと、視聴者に明確なキューを送りたい意図の反映だ。くどくやりたければ、OP開けはスコーンスコーンスコーンって感じで、ミサイル命中カットを3回くらい繰り返しても良い。ま、素人にそんなこと言われたくないよってなるでしょうけど、そりゃ当然そうですよねぇ分かります。

 結局、暗く見せた意図はどのようなものだったのだろうか。あ、古代芝浜文明の設定画もなんか「見せただけ」って感じになってたなぁ。他の回でもそうだけど、ちらりと見せるだけみたいにしか出さないなら、その浅草の設定画はいっそ端から見せない方が良いと個人的には思っている。設定画をチラ見するだけにしようが文字を全部読もうが読者次第のマンガと、時間が強制的に進んでいくアニメとの違いを踏まえれば、有り得ない選択肢とは思わない。大型ロボットを含む古代芝浜文明の設定を考えている時の浅草はむしろワクワクしていた、と原作を読みながら思っていた私なら、当然前後含めて薄暗いシーンなんかにはしない。古代芝浜文明の設定画を見せてしまったことも、暗く見せた意図が分からない原因の一つと言える。

 地下探検シーンは「日常」なので、アニメ文法への置き換えの手際は危なげない。水崎のフレーム内妄想シーンも自然で、ここでも声優さんが良い。「遷移過程」であるテッポウガニの設定画の説明も、ロボットとテッポウガニとの絡みも、何の引っかかりも無く観られた。「ロボットの改造」シーン同様、ここでのロボット周りの見せ方はとにかく楽しい。ただし、こちらでは背景は白一色で押し切ったりはせず、時折背景が、時に画面内の一部分だけに、描かれた。ロボット全体が吹っ飛ばされるようなこともあるアクションシーンもあったから、さすがに背景無しでは無理だろう。繰り返すけれど観てて引っかかることは無かったから、手放しで褒めてしまおう。

 ロボ研との打ち合わせシーンで手書き文字で見せた心の声、浅草の「定番の矛盾を・・・心が痛む」や金森の「死ぬほど面倒くせぇ。・・・」はそれぞれ浅草っぽい、金森っぽいと思えてしまう字体が使われていて面白く、凄く良いな上手いなと思いながら観ていた。

 が 、「突然の和解」が手書き文字で画面に表示された瞬間に、頭の中の第二人格?部分がクエスチョンマークだらけになった。いったい誰の書き文字なのか、誰の視点なのか。浅草なのだろうけど、画に、カメラに、浅草主観の要素が皆無だ。上述した暗いシーンと共通するチグハグ感がある。あ、大童さんか!?監督か!?演出か!?メタいがチグハグ感の原因は論理的にすっきり消える。

 ここは小野、浅草、水崎のハモった「同士よ!」という原作には無いセリフだけの方が、面倒くせぇ奴フレンドリーだったと思う。「同士よ!」というセリフの導入に合わせた「突然の和解」の表示の削除は、原作に対して「足す」ことが多いアニメ版において明確な「引く」チャンスだったのでは、と残念感がある。今回アニメ版で追加された要素はこのセリフぐらい(現時点で他には思い当たらない)なので、その思いは尚更強くなる。まぁ上で触れた「ロボットの改造」シーンの白一色の背景の徹底は、アニメ版でも「引く」ことはやってるよってことではあるのだが、ドリル長回しカットも伴うとなると制作現場の状況について勘繰りたくもなる。

 で、

昨日原作マンガ第5巻を入手、早速読んだところ・・・アニ研メンバー登場の1、2コマ目でコーヒー吹いた。そして最後の4ページ、そういう表現で来たかと思わず唸ってしまった。映像化したときのイメージが全然作れない、私の想像力では追っつかない。無念。音絡みの知識はほとんど持ってないから、百目鬼絡みのネタは半分も分からない(感覚的にでも良いというならほぼ全部分かるが)。エコーロケーションってそういうことなのか、絶対できない。こっちも取りあえず無念。

2020/02/05

続・某YouTube動画の再生数急増

 先行するエントリで述べた私がYouTubeへアップロードした特定の動画の再生数急増の件だが、思ったより早く収束しそうな雰囲気が出てきた。ついては後述するように切りのいい感じの数字が出ているので、もう中間評価ということにしてしまおう。

 さて、直近28日間(4週間)の件の動画の1日当たりの再生数は下図の通りだ。急増と言うより激増と言った方が良さそうだ。緑字の「↑>999%」という表示が状況の異常さを良く伝えてくれる。
で、7年半前のアップロードから今日 までの1日当たりの再生数は下図の通りだ。私が笑ってしまったのも分かってもらえると思う。右端以外はほとんど0にしか見えない。
 右端を除く時間域の地を這うようなグラフ線上に、何カ所か小さなギザギザした再生数の増加が見られるが、これらの原因は大部分把握できている。多少なりとも影響力のある人が自身のFacebookまたはTwitterが取り上げてくれたからだ。これらは動画のリファレンス元(=動画のページにどこから来たか)とGoogle検索結果などから、ものの10分ほどで原因となった具体的なユーザやTweetの特定は可能なのだ。

 一方、今回の激増ケースでは動画へのアクセス元の99%以上がYouTube内からであり、明らかにRecommend数の増加が原因である。

 さて、上記した「切りのいい感じの数字」について触れよう。件の動画の今日の1分当たりの再生数は約40回となるが、この数字は年初の1日当たりの再生数に相当する。つまり再生ペースが1440(24[時間]×60[分])倍程度まで大きくなったということだ。いやぁ、やっぱり異常な事態だ。

 ところで、28日分の再生数グラフを見ると、激増前に5日程度を周期とする微かな再生数の増加が見えるだろうか。実は年越し後、最大約100%の再生数増大(つまり、再生数2倍)が複数回発生していたのだ。このような安定/不安定境界とも言えそうな状況下で何か外乱が入って一気にYouTubeのRecommendシステムが不安定化した・・・というのが先のエントリでも述べた私の見立てだ。ここで不安定化とは所謂「逸走」、一方向に吹っ飛んでいくような、雪だるま式とでもいうような挙動を指す。ちなみに私は、工学分野で現れる非線形システムの安定性問題が、大学生時代から就職後も大好物なんですよ。

2020/02/02

某YouTube動画の再生数急増

 7年以上前にYouTubeにアップロードしたとある動画の再生ペースが1ヵ月前の40倍以上までに急増、併せてチャンネルのSubscribe数も急増し、思わず笑う。こんなこと10年無かったわ。誰か幸せになるんなら良いんだけど、7年以上も経つと価値観や世の中の見え方が変わってしまって私自身がほぼ別人なんだよなぁ。
 チャンネルベースの再生数は下図の通りだが、増分はほぼ上の動画の再生数の増分に等しい。なお再生数絶対値は大したことはなく、収益化対象となるためにはさらに100倍近い再生数の増加が必要なレベルだ。
 問題と言うか申し訳ないのは、同系統の動画を作る予定も上げる予定も現時点では無いことだ。つまりせっかくSubscribeしてもらっても、暫くは期待されているような新規動画が私から上がる可能性はほぼ無い。ということもあって、どうせ2、3週間もすれば再生ペースは元に戻るだろうとドライに考えている。故に喜ぶでもなく笑うしかないのだ。

 ただ思うことは2点ほどある。

 一点目は極めて個人的な内面の話。「喜ぶでもなく」というのが、自分でも一瞬驚いたほどピュアな本心であることだ。件の動画は自分の中では既に完了させた個人プロジェクトのアウトプットであるため、再生数やLike数の増加は私の自己承認欲求や報酬系を全く刺激しないのだ。心から有難いけど別段嬉しくはない。あ、コメントは嬉しみあるかな。

 「じゃぁどういう状態が嬉しいの?」と問われれば、この動画きっかけで3DCGモデリングや動画作成に挑む人が現れることや、「この動画はもう何もかもが古くなってしまった!」と唸らされてしまうような動画が氾濫するような状態の出来だ。故に、7年前に1日12時間労働が日常化していた一人のサラリーマンがストレス解消にちびちび作った動画に、未だにそこそこのペースでLikeが付き続ける現在の状況は、当事者としては実はツマらない。

 なんといっても私のオリジナル要素は無く、志の低い単なる作業の結果披露動画でしかないからだ。価値があるとすれば「誰もまだやっていなかった方向性(作画設定にある詳細構造や全体バランスを可能な限り省略、変更することなく変形過程を再現できるモデリング)で、そこそこの質のレベルまでやっちまった」こと、「初志貫徹!口先だけじゃぁなかったんスよ」の一点に尽きる。理想は「やっちまった以上は、忘れられることなく、早く『クラシック』とか『マイルストーン』とか『リファレンス』と呼ばれるようになる」ことだ。だから、ちびちび再生され続ける状況はちょっと嬉しい、忘れられるのは切ない。そしてオリジナル(要は元ネタ)の放つ魅力は未だ凄い。

 「じゃぁ似た方向性で今後やってみたいことある?」と問われれば、「ファースト・ガンダム」かなぁ・・・「イデオン」でも同じ話にはなるんだけど。

 最近私のチャンネルをSubscribe頂いたLucyさんのチャンネル(Lucy の 3DCG World『不良番町 手八丁口八丁』)内の動画を観ながら、「次はザクだよ!旧ザクもだよ!」と思った訳ですよ。方向性はずばり「安彦ザク」。昨今の3Dとして成立しているザクではなく、最初のTVシリーズ画面内の「作画力で成立させているザク」の3DCGIによる再現ですよ!

 金属製のくせに曲がるわ捻じれるわ部品消えちゃうわ股関節の可動範囲がやたら広いわ、その癖画としては決まっている必要があるという超高難度、そして誰もそれはやっていない(エヴァ新劇場版では、ちょっとそういうところにも踏み込んでいるのかも知れないけど)。誤魔化さないのではなく、積極的かつ美しく誤魔化すためのモデリング、リギング、ライティング、カメラワークの追求!背景と前景の画角は当然僅かに違いますよ。モデルを伸ばすんじゃない、画角を変えて伸びるように見せるんです!これぞ手描きの妙の再現!

 とても今はやれんけど、志は案外高い。考えるだけでわくわくするのは世界で私一人だけですか?

 あと松本零士さんの「戦場マンガシリーズ」の航空機の3DCGI再現も!肝は水彩調の塗りでのアニメーションで、迷彩とかになると本当に面倒くさくなるんだけど、様々なマスクの切り方やレンダリングの順番、合成手順など実現性は一応確認しているんですよ。YouTubeが未だ無かった00年代前半の話なので、実はもうかなり忘れてますけど。

 二点目は個人的な微妙に知的かもなな興味だ。知っている人は知っているように、YouTubeでは3、4年前に「日本の80年代シティポップ(歌詞が英語、おっしゃれー(棒)」が主に海外でバズった。Future Funk(笑)にも一部繋がった動きだった。

 この現象に対する解釈、説明は米国人を中心に幾つか為されたが、個人的には「YouTubeのRecommendエンジンが起こした小さくて奇妙な振舞いをきっかけとして、視聴者とRecommendエンジンとの相互作用がバタフライ効果を起こした結果」としか見做していない。つまりコンテンツ自体よりもそのコンテンツがRecommendされた視聴者の反応の方が支配因子であるシステムの挙動の問題であって、コンテンツやその周辺状況の文化的・社会的分析や解釈にはほとんど意味が無いという立場だ。単に米国人にとってエキゾチックに聞こえただけだった程度の話ではないだろうか。

 現に、意味ある派生的な価値創出は無く(様々なバージョンの竹内まりやさんのイラストがちょびっとミーム化したくらいかな?)、結局はネット内で消費されただけに見える。昨年になってこの現象に触れた日本語コンテンツも出てきてたけど、周回遅れが常習の私より反応遅いって何年遅れですか、っつーか反応があればそれだけで儲けレベルのステマが大半っぽいなぁ。まぁ、若い人たちが聞く機会がほとんどなかった楽曲との出会いの機会が新たに創出されたのなら、それもそれで良しですか。iTunesなどの有名どころからは大抵の楽曲は入手できなかったんですよ、少なくともバズったころは。

 おっと、閑話休題。

 そして今回の件の動画の突然の露出も、そのようなRecommendエンジンのカオス的挙動下のものではないかと考えている。このため、アクセス解析データのダウンロードを始めた。落ち着いた(落ちた)ところでデータを分析してみようと思っている。いやぁ「日本の80年代シティポップ」周りのデータ、YouTubeが公開してくれないかなぁ・・・何本も論文が書けるんじゃないかなぁ。

 ちなみにFuture Funk(笑)とは言え、300曲も聞けば聞くに堪えるものの2、3曲は見つかりますよ。

2020/01/28

2020年、自分への宿題(のひとつ)

 本エントリは昨年12月中旬に書いたもの、公開が1ヵ月以上遅れてしまった。まぁ、個人的なメモだ。なお、年を越してからWake Up, Girls!(WUG)に関わるテキストとしてよふかしさんのWUG関連のブログ記事を熟読、参考とさせて頂いた。WUG作品は観ていないどころか作品自体の存在すら知らなかったぐらいなので、テキストそのままを読解させてもらった。このため私のWUGに関するコンテクストの理解は、よふかしさんのそれを超えることはないどころか、多くの間違いを含んでいるだろうことを明記しておく。

 さて、

ここ最近は、YouTubeで公開されている岡田斗司夫ゼミを流し観していた。もともとは宇宙開発ネタ、SFネタ、特撮ネタ目当てだったが、私が高畑勲氏の作品が総じて苦手と言うか下品に感じてきた理由(と、「赤毛のアン」だけは例外でむしろ好きな理由)や宮崎駿氏の作品が総じて気持ち悪いというか下品に感じてきた理由(ヒロインに対するねっとりとした視点、とでも例えられそうなものの明確な存在)などが「分かった気になった(≒言語化されたが、自分の中でもまだ検証(validate)されておらず、血肉とはできていない)」など得るものがあった。

 そんな中、「観たけれど自分の中での処理は保留」、より具体的に言うと「登場した人物がしゃべった内容をそのまま理解するに止め、解釈や分析は今はしない(=読解しかしない)」とした回がある。映画・アニメ監督である山本寛氏との2016年における三回の対談()だ。後日知ることになるが、何のかんの言ってこの頃の山本氏の口頭における言葉の強さは2019年7月ごろに比べれば低い。相手が岡田氏ということも影響していたのかも知れないけれど。

 ちなみにこれら対談における山本氏の印象は、「おもろいけど、めんどくさそうなあんちゃん」だ。

 「あんちゃん」の部分は、私の方が明らかに年上ということによる慣用的な表現だ。他意は全くなく、私が年下だったら「おっちゃん」となるだけだ。「おもろい」には二つ意味があって、一つは「関西の間合いが分かってるので、万が一に話をする機会があったらとても楽しそう」、もう一つは「間違いなく頭良さそう」である。関東暮らしの長い関西文化圏出身者である私は「関西の間合い」に常に飢えていると言ってよい。また京都大学出身とのことなので、後は言わずもがな。ただ私はピュアにボケなので、まかりまちがって話す機会があっても上手くテンポが作れない可能性が高い、済まぬ。

 で、「めんどくさそう」は「ポストモダン」といった用語をポンっと使うところにある。若くて今よりも頭の回転が良かった時代にあっても筒井康隆氏の文学部唯野教授シリーズすら消化できなかった私には、文系のアカデミックな用語や概念に対して拭い難い苦手意識がある。つまり「めんどくさそう」の理由はこちら側にある。

 とまぁとにかく、ポストモダンとかについては来年に持ち越しね、とばかりに頭の中は完全に年末年始にのんびりモードに切り替わりつつあったのだが・・・

 今日、YouTubeでrecommendされたポテト元帥さんの動画「万策尽きて延期しまくったアニメ紹介【ゆっくり解説】」から、takaさんの動画「比較動画【メルヘン・メドヘン(9話)】放送版 vs BD版」へ行ったら、OAO OUOさんの動画「Wake Up, Girls! 『7 Girls War!』 PSV版と山本寛版と板垣伸版比較動画」がrecommendされたので観た。

 どのアニメ作品も知らないので、正直どれもなんじゃこりゃぁ状態ではあったのだが、面白がるでも無くとにかく観ている間はほぼ「ほえー」状態だった。ちなみにニコ動発祥と思しきミーム類はどうしてこうも不快なものが多いのだろう、不思議。ま、それはそれとして。

 と、観終わった後に、なんか頭の中で色々とスイッチが入ったような変な感じが。

 「山本氏がポストモダン化と呼んでいた具体的なもの」とか「『画が保っていない』具体的な状態」とか、岡田斗司夫ゼミ中で言及があった幾つかの事項に対する具体例らしきものがフラッシュバックしたほか、「MMDダンス動画が個人的につまらな過ぎる理由のうち、言語化できていなかったもの」など多数の「自分の中で言語化できていなかった概念の具体的イメージ」が一瞬頭を駆け巡った。

 キーワードの一つはやはり「ポストモダン化」で、私の頭を駆け巡った直感的な何かが多少なりとも正鵠を射ているのなら、この世の中、「外部状況・環境とは無関係に内部が多様化するばかりの個が、外部状況・環境下で他の個との軋轢を生む」という状態がより生まれ易くなってきているということだ。多様化とは聞こえが良いが、ここでは勝手な思い込みや妄想による個々間の内部の差も含む。「読解」よりも「解釈(厳密には、個が正しいと信じていること)」が幅を利かすという事態の出来とも言える。

 twitterのアカウントを作ったのは10年以上前だが、結局U-streamで2回呟いた後は放りっぱなしにしている理由も実はこの認識と無関係じゃないな、などと色々と思い出す。その時点でtwitterには絶望していたんだわな。コミュニケーションツールとしてのtwitterは本質的に欠陥品だし、00年代はまだテキストも音声もOKなピア・ツー・ピアのメッセージアプリが幅を利かせていたからね。

 うーん・・・といったんは上のように書いてしまったが、これらはあくまで直感。本当にそう言えるか、適切に言語化できているか、これらは来年への宿題。