「自虐史観」とか「正しい歴史観」なんて言葉狩りはどうでも良い。「正しい歴史観」という表現が内在する政治的意図は唾棄すべきものだ。
私の考える「適切な歴史観」とは単純、現在の国際状況を説明できる「歴史観」だ。韓国の「正しい歴史観」では東南アジア諸国は反日の筈だ。だが、現実はそうではない。歴史を紐解けば分かる通り、大日本帝国と帝国軍はある時は植民地解放の名の下に現在のアジア諸国の人々と戦い、時に日本帝国軍の軍政の下で共に発展を進めたり逆に搾取したり、またある時にはかつては共に戦った現地軍相手に戦ったりもした。その経緯は国によって様々であり、それらを特定の意図の下で定型化、再編集して作られた「正しい歴史観」なるものは、現在の国際情勢を説明できない矛盾に満ちたものになるのは必定だ。「歴史観」は与えられるものではなく、ましてや無批判に受け入れるものでもなく、歴史を学び、調べる作業を介して身につけるべきものだ。
最近調べて目からウロコだった話がある。沖縄で使われる「うちなー」という言葉の意味、それも概念的なものではなく単語としての意味である。現在、「うちなー」は沖縄県内や沖縄本島を指す。かつては「(沖縄県の人から見た)内地」や「内地人」が訛ったものかと思っていたのだが、実はずばり「沖縄」そのものなのだそうだ。
現在の沖縄県の一部、乃至は多くの島々はかつて琉球国を形成していた。当然、使われる言語はいわゆる現在の日本語とは異なる上、多くの方言もあった。それらの言葉のうち、現在の沖縄本島でかって使われていた言語では「おきなわ/Okinawa」はそのまま発音できない。まず母音に「お」が無い(その代わりと言っては何だが「い」が2種類ある)ので、近い音が選ばれて「O→U」と化ける。ついで、子音の「k」が日本語には無い「ch」に近い音になるので、「ki→chi」と化ける。敢えてひらがなで書いてみれば「つぁ、つぃ、つゅ、つぇ、つょ」が近いのかもしれない。最後は特殊で、「母音にはさまれたwの発音は省略、あるいは無音化する」というもので、「na-wa→na-a」と化ける。
結果、「O-ki-na-wa/沖縄」は「U-chi-na-a/うちなー」となる。「うちなー」は沖縄を指す単語であるが、「意味がそうである」ではなくて沖縄そのものなのだという。本当、調べてみないと分からないものだ。
さて、沖縄関連に脱線したのには意味がある。 産経ニュースの記事「朝日新聞作成の教材 日本軍の残虐性強調 指導要領逸脱の指摘も」から一部を引用したい。
2014.10.26 05:37
朝日新聞が今夏、沖縄戦について「日本軍は住民を守らなかったと語りつがれている」などとする中学・高校生向けの教材を作成して学校に配布し、教育関係者 から「偏向的な内容で子供たちに誤解を与える」と批判の声が上がっていることが25日、分かった。戦争の悲惨さを伝える一方、日本軍の残虐性を強調する記述が多く、学習指導要領の趣旨を逸脱しているとの指摘もある。朝日新聞はこの教材を38万部作成したが、学校現場に適切かどうか議論を呼びそうだ。
また出た、朝日新聞社である。
報道を生業と称しつつ、読者すらも放置して正面切って議論をすることもないまま、(おそらく、実物を見ていないので)「特定の歴史観」に沿った内容の教材(!)を押しつけようとでもしているのかと勘繰らざるを得ない。「嘘をつく、嘘がばれても謝罪もしない、挙句に開き直る」とか、せめて小学生の「道徳」からやり直せと言われて久しい朝日新聞社が教材など笑止だ。自分達が○○や××だからと言って、他者まで○○や××とは思わないで欲しい。間違っても他者よりも自らが優れているとか思って欲しくもない。他者と対話すらしない存在は、「社会的存在」とは言えない。対話「できない」なら「報道機関」の資格すらない。
「ヒトラー権力掌握の二〇ヵ月」(分かり易さ優先で話が一部単純化されているので、他の文献での知識の補足をお勧めするが)は読んで理解できても、「ナチスの知識人部隊」は読んでも理解できないのかな?まぁ、おそらくどちらも読んでいないのだろう。前者の内容を理解すれば、ひとたび「大衆運動」が勃発した際に自分達がどういう運命と向き合うことになるかは一目了然だ。後者を読めば第二次世界大戦の欧州戦争は第一世界大戦の延長に過ぎず、ヒトラーやナチスの存在がその勃発に必須とは言えない可能性に気づくだろう。さらに、ユーロ圏の危うさ、もっと言えばドイツ視点で眺めた場合の胡散臭さにまで思いは至る。英国がなぜ自国通貨ポンドを固守するのか、自国内銀行の欧州連合からの独立にこだわるのか、といった現状に対して自分なりの説明、理解が得られているのは、それを支える自分なりの歴史観があるからである。
件の教材の内容では「沖縄独立運動」や「米軍基地フェンスへ黄色いリボンを結び付ける反基地運動」は説明できるが、「沖縄の本土復帰運動」や「まだ米国統治時代に甲子園に出場した沖縄の高校球児が持ち帰った『甲子園の土』を、検疫上の理由で泣く泣く船上から海に捨てなければならなかったことがあった」ことや、「基地反対派がフェンスに結び付けたリボンを外して回る基地近隣住民の存在」 を説明できるだろうか?これら多様性故に一見対立する複数の事案を同時に説明できなければ、その教材とやらの依拠する歴史観が「適切或いは健全な歴史観」である資格はない。
「歴史観」とは現在を理解するための一種の出発点である。出発点が間違っていれば、それだけ正しい現在の理解に至ることは難しくなるだろう。ただそれだけだ。
報道を生業と称しつつ、読者すらも放置して正面切って議論をすることもないまま、(おそらく、実物を見ていないので)「特定の歴史観」に沿った内容の教材(!)を押しつけようとでもしているのかと勘繰らざるを得ない。「嘘をつく、嘘がばれても謝罪もしない、挙句に開き直る」とか、せめて小学生の「道徳」からやり直せと言われて久しい朝日新聞社が教材など笑止だ。自分達が○○や××だからと言って、他者まで○○や××とは思わないで欲しい。間違っても他者よりも自らが優れているとか思って欲しくもない。他者と対話すらしない存在は、「社会的存在」とは言えない。対話「できない」なら「報道機関」の資格すらない。
「ヒトラー権力掌握の二〇ヵ月」(分かり易さ優先で話が一部単純化されているので、他の文献での知識の補足をお勧めするが)は読んで理解できても、「ナチスの知識人部隊」は読んでも理解できないのかな?まぁ、おそらくどちらも読んでいないのだろう。前者の内容を理解すれば、ひとたび「大衆運動」が勃発した際に自分達がどういう運命と向き合うことになるかは一目了然だ。後者を読めば第二次世界大戦の欧州戦争は第一世界大戦の延長に過ぎず、ヒトラーやナチスの存在がその勃発に必須とは言えない可能性に気づくだろう。さらに、ユーロ圏の危うさ、もっと言えばドイツ視点で眺めた場合の胡散臭さにまで思いは至る。英国がなぜ自国通貨ポンドを固守するのか、自国内銀行の欧州連合からの独立にこだわるのか、といった現状に対して自分なりの説明、理解が得られているのは、それを支える自分なりの歴史観があるからである。
件の教材の内容では「沖縄独立運動」や「米軍基地フェンスへ黄色いリボンを結び付ける反基地運動」は説明できるが、「沖縄の本土復帰運動」や「まだ米国統治時代に甲子園に出場した沖縄の高校球児が持ち帰った『甲子園の土』を、検疫上の理由で泣く泣く船上から海に捨てなければならなかったことがあった」ことや、「基地反対派がフェンスに結び付けたリボンを外して回る基地近隣住民の存在」 を説明できるだろうか?これら多様性故に一見対立する複数の事案を同時に説明できなければ、その教材とやらの依拠する歴史観が「適切或いは健全な歴史観」である資格はない。
「歴史観」とは現在を理解するための一種の出発点である。出発点が間違っていれば、それだけ正しい現在の理解に至ることは難しくなるだろう。ただそれだけだ。