私も日常会話では使うものの、「~的な」という表現が大嫌いである。日常会話で使う場合は相手の「感覚」に合わせるとき、「察しと思いやり」の精神が必要なときだけである。仕事では、後輩の教育の際に使った方が早いと判断した場合を除いて絶対使わない。「~的な」という表現を使わなくても相手に自分の論理を伝えられるようになれば、エンジニアとしての入口には到達したと見なして良いと考えている。逆に、使っているうちは良くて半人前、正直本質的に駄目である。
「~的な」という表現には、時代による言葉の意味の変化を原因とする二義性と、思考停止を招きかねない困った効能という二つの問題がある。
「A的な」という表現の指し示す論理的意味はどのようなものか。充分におっさんな我々の世代の人間の多くは、「AっぽいけどAとは違う」または「Aとは違う可能性が高いのにAのように見える」と理解する。「違う」という意味が重要なのである。言い換えると、「Aとは違うもの(の筈)なのにAのようだ(なぜ?)」である。他方、TVCMなどでの今時の用例における「A的な」は「Aっぽい」までしか意味しておらず、「違う」という意味は完全に抜け落ちている。文字通りに「A的な。」だけの形で口にされない限り、二義性の問題に留意して使うべきである。実際、「カオス的な」という表現はカオスではないもの、カオスと識別できていないものに対してしか使わない。
人間の考えられることを適切かつ客観的に表現するには話し言葉、書き言葉は全くの無力であり、エンジニアリングではグラフ、図、数表、数式の力も借りねばならない。哲学などの世界でも、新しい言葉を定義や概念ととともに提示することが繰り返し行われてきた。これは、人間の思考活動や内容が、話し言葉や書き言葉で表現できる範囲に制約されていないことを意味する。しかし、人間は言葉にしてしまうと分かった気になりがちなのも事実である。
この「分かった気」は思考停止以外の何物でもない。今日的な「~的な」という表現の恐ろしさは、「実際のところどうなのか、何なのか」という判断は保留しつつ、言葉にできるところにある。「~的な」という表現を口にすることで「分かった気」になってしまう、という事態は、二重に思考停止しているのである。おっさん世代の「~的な」は、少なくとも「実際のところどうなのか、何なのか」という問いに対する個々人の判断結果が暗黙のうちに含まれており、積極的にそのような表現が使われたこと自体にも論理的な意味がある。
後者の思考停止は、前者の二義性と無関係には見えない。今日的な用例において「違う」という意味合いが抜け落ちているのは、単に思考停止している様が露わになっただけかも知れない。私の周囲で最近起きたバカバカしい事態はその可能性を強く示唆しており、この一文を書くきっかけのひとつともなった。
ある後輩が実験をして、Aという結果を得た。後輩らのグループはBという結果を実は期待していたのだが、Aの振る舞いはCに極めて似ていた。実験直後の結果検討会に呼ばれた際に後輩から「C的ですよね?」と問われ、私も「C的だね。」と答えた。それから1ヶ月ほど経って、まだ実験結果が説明できないから知恵を貸してくれという。後輩の説明が始まってものの30秒で全ての状況が分かってしまった。上述の二義性を思い出して欲しい。
後輩は「C的ですよね?」と言葉にすることでBの可能性をいったん捨てた。私は「C的だね。」と言うことで「Cに見えるけど十中ハ九Bだね。」と伝えたつもりだった。が、実際には後輩にCである可能性を完全に捨てさせてしまっていたのだ。「ということは、あんたにも非があるだろう」という意見は正しい。が、失敗やミスを他人のせいに「だけ」してはいけない。彼は例えばこう問えば良かっただけの話なのだ。
「データの振る舞いだけならCのように見えます。」
対する私の答は例えばこうである。
「***な条件ではBはCのように振る舞う場合があると***の論文に書いてあった。Cのように振る舞う条件範囲でしか実験していない可能性はないか?」
「~的な」なんて表現を使うからおかしくなったのだ。上記の仮定の会話では、試験自体が失敗している可能性にも既に触れている。
で、実際のAの正体はどうだったのか。特定の条件を満たした場合に現れるBの特殊なケースである。C的な振る舞いの原因は試験条件が適切に設定できない試験装置の設計ミスと設計手順上のミスの重畳である。装置改造後は極めて快調である。
で、結局何が言いたいかというと…
- とある船に、とある存在が「女神」と形容し、ハードウェアとしての存在が検出可能な「何か」が搭載されている。
- 霊感の強い少女がそのとある船に乗っている。彼女は自縛霊などの幽霊を見た経験がある。
- 霊感の強い少女が「何か」の近くで女性の姿をした「別の何か」を目撃、失神する。
という状況が仮にあったとする。①と②から純粋に論理的に示唆される③に対する説明は、「『別の何か』は幽霊である可能性が高い。『何か』、『別の何か』、『女神』相互の関連性を示唆するものは何もない。敢えて言えば、少女が『別の何か』を目撃したのが『何か』の近くであったことに何らかの意味があるかもしれない。」である。ここで「何か」=「女神」≒「別の何か」を成立させる論理的凄技は、「幽霊」や「霊感」を論理的に定義するところから始めなければ繰り出せない。が、21世紀の我々は素敵な武器を手に入れた。「~的な」という表現への新たな意味付け、或いはこのような意味付けの土壌となる「論理破綻に気付けない思考停止」や「論理性の必要を誰も要求しない(何かの)レベル低下」である。
百歩譲ろう。「幽霊的なもの」、それは何か?