2012/12/24

大矢アキオ氏「イタリア発 アモーレ!モトーレ!」終了

 大矢アキオ氏のAsahi.comでの連載コラム「イタリア発 アモーレ!モトーレ!」が12/21付で最終回となった。金曜更新で、毎回会社で昼食を取りながら読むのが癖になっていた。連載開始は約8年前、私の普通免許取得(自動車取得ではない)前後である。ほぼ8年乗っている今の車を選ぶ際、彼の別のコラムでのその車に関する記述も重要な決め手の一つとなった。

 氏は、普通の人々の「実は持っている(自分の車に対する)強いこだわり」をさらっと引きだすことのできる人のようだ。当然、濃い人々からはそのこだわりの源泉までも引き出してしまう。文章から感じる氏のまなざしの温かさは、読み手にとっては「なごみ」となる。「イタリア発 アモーレ!モトーレ!」には「ヨーロッパ(特に仏、伊)の車好きに悪い人はいない」と信じさせてしまう力があった。

 連載終了を残念とは思わない、が、とても寂しいというのが本音だ。

今さらながら「鋼の錬金術師」のこと。

 先のエントリで「魔法陣」という単語を使って、少し思い出したことがあったので言葉にしておこうと思う。マンガ・アニメの「鋼の錬金術師」のことである。

 「鋼の錬金術師」の最初のアニメシリーズの初回を観たのは単なる偶然である。夕食を作って何気にTVを点けたらちょうど始まった、というのが正しい。冒頭から一気に引き込まれた。「語るべき物語がある」という表現がぴったりだと感じた。ここ10年ほどで何らかの映像作品でそう感じたのは2回だけだ。放映後、近所の大型書店に文字通り走り、既刊の原作コミックス全巻を大人買いした。

 本当の衝撃は原作コミックスを読んでいる途中に訪れた。主人公の兄弟に対する周囲の人間の視線は掛け値なく優しい。そしてそれは半端な優しさではない。個人的にはマリア・ロス少尉のキャラクター造形において強く感じたが、極めて母性的かつ大きく強い(とても実際には有りそうもない)優しさである。

 著者は「荒川弘」、どう見ても男の名前である。当時私は30代後半に入ったころだったが、それなりに苦労してきた自分に照らしてもとても40才前の男にそんな表現が出来るとは思えなかった。もし「20才代の男」がこんな作品と表現をモノにしているとなれば、そいつは大の付く天才である。一度でも創作の道を志したことのある人間なら嫉妬すべき才能である。クロード・ルルーシュが映画「男と女」を製作したのが20才代後半であったことを彷彿させられた。

 実体はご存じの通り、荒川氏は女性とのことである。この事実を知った時、正直ほっとしたことを良く覚えている。女性となれば上記の「優しい視点」を作品で表現できるかどうかに年齢はほとんど関係ない。必要な人生経験と表現者としての才能があれば十分である。著者が女性だったからどうだ、と言いたい訳ではない。「著者が男性だったら異常かも」という状況に一人で取り乱していたに過ぎない。

 ただ々々作品が著者の望むように育ち、完結することを願った。

2012/12/17

「~的な」という表現について思うこと。

 私も日常会話では使うものの、「~的な」という表現が大嫌いである。日常会話で使う場合は相手の「感覚」に合わせるとき、「察しと思いやり」の精神が必要なときだけである。仕事では、後輩の教育の際に使った方が早いと判断した場合を除いて絶対使わない。「~的な」という表現を使わなくても相手に自分の論理を伝えられるようになれば、エンジニアとしての入口には到達したと見なして良いと考えている。逆に、使っているうちは良くて半人前、正直本質的に駄目である。

 「~的な」という表現には、時代による言葉の意味の変化を原因とする二義性と、思考停止を招きかねない困った効能という二つの問題がある。

 「A的な」という表現の指し示す論理的意味はどのようなものか。充分におっさんな我々の世代の人間の多くは、「AっぽいけどAとは違う」または「Aとは違う可能性が高いのにAのように見える」と理解する。「違う」という意味が重要なのである。言い換えると、「Aとは違うもの(の筈)なのにAのようだ(なぜ?)」である。他方、TVCMなどでの今時の用例における「A的な」は「Aっぽい」までしか意味しておらず、「違う」という意味は完全に抜け落ちている。文字通りに「A的な。」だけの形で口にされない限り、二義性の問題に留意して使うべきである。実際、「カオス的な」という表現はカオスではないもの、カオスと識別できていないものに対してしか使わない。

 人間の考えられることを適切かつ客観的に表現するには話し言葉、書き言葉は全くの無力であり、エンジニアリングではグラフ、図、数表、数式の力も借りねばならない。哲学などの世界でも、新しい言葉を定義や概念ととともに提示することが繰り返し行われてきた。これは、人間の思考活動や内容が、話し言葉や書き言葉で表現できる範囲に制約されていないことを意味する。しかし、人間は言葉にしてしまうと分かった気になりがちなのも事実である。

 この「分かった気」は思考停止以外の何物でもない。今日的な「~的な」という表現の恐ろしさは、「実際のところどうなのか、何なのか」という判断は保留しつつ、言葉にできるところにある。「~的な」という表現を口にすることで「分かった気」になってしまう、という事態は、二重に思考停止しているのである。おっさん世代の「~的な」は、少なくとも「実際のところどうなのか、何なのか」という問いに対する個々人の判断結果が暗黙のうちに含まれており、積極的にそのような表現が使われたこと自体にも論理的な意味がある。

 後者の思考停止は、前者の二義性と無関係には見えない。今日的な用例において「違う」という意味合いが抜け落ちているのは、単に思考停止している様が露わになっただけかも知れない。私の周囲で最近起きたバカバカしい事態はその可能性を強く示唆しており、この一文を書くきっかけのひとつともなった。

 ある後輩が実験をして、Aという結果を得た。後輩らのグループはBという結果を実は期待していたのだが、Aの振る舞いはCに極めて似ていた。実験直後の結果検討会に呼ばれた際に後輩から「C的ですよね?」と問われ、私も「C的だね。」と答えた。それから1ヶ月ほど経って、まだ実験結果が説明できないから知恵を貸してくれという。後輩の説明が始まってものの30秒で全ての状況が分かってしまった。上述の二義性を思い出して欲しい。

 後輩は「C的ですよね?」と言葉にすることでBの可能性をいったん捨てた。私は「C的だね。」と言うことで「Cに見えるけど十中ハ九Bだね。」と伝えたつもりだった。が、実際には後輩にCである可能性を完全に捨てさせてしまっていたのだ。「ということは、あんたにも非があるだろう」という意見は正しい。が、失敗やミスを他人のせいに「だけ」してはいけない。彼は例えばこう問えば良かっただけの話なのだ。

「データの振る舞いだけならCのように見えます。」

対する私の答は例えばこうである。

「***な条件ではBはCのように振る舞う場合があると***の論文に書いてあった。Cのように振る舞う条件範囲でしか実験していない可能性はないか?」

 「~的な」なんて表現を使うからおかしくなったのだ。上記の仮定の会話では、試験自体が失敗している可能性にも既に触れている。

 で、実際のAの正体はどうだったのか。特定の条件を満たした場合に現れるBの特殊なケースである。C的な振る舞いの原因は試験条件が適切に設定できない試験装置の設計ミスと設計手順上のミスの重畳である。装置改造後は極めて快調である。

 で、結局何が言いたいかというと…
  1. とある船に、とある存在が「女神」と形容し、ハードウェアとしての存在が検出可能な「何か」が搭載されている。
  2. 霊感の強い少女がそのとある船に乗っている。彼女は自縛霊などの幽霊を見た経験がある。
  3. 霊感の強い少女が「何か」の近くで女性の姿をした「別の何か」を目撃、失神する。
という状況が仮にあったとする。①と②から純粋に論理的に示唆される③に対する説明は、「『別の何か』は幽霊である可能性が高い。『何か』、『別の何か』、『女神』相互の関連性を示唆するものは何もない。敢えて言えば、少女が『別の何か』を目撃したのが『何か』の近くであったことに何らかの意味があるかもしれない。」である。ここで「何か」=「女神」≒「別の何か」を成立させる論理的凄技は、「幽霊」や「霊感」を論理的に定義するところから始めなければ繰り出せない。が、21世紀の我々は素敵な武器を手に入れた。「~的な」という表現への新たな意味付け、或いはこのような意味付けの土壌となる「論理破綻に気付けない思考停止」や「論理性の必要を誰も要求しない(何かの)レベル低下」である。

 百歩譲ろう。「幽霊的なもの」、それは何か?

2012/12/16

「エウレカセブンAO」第23/24話で終了ですか…

 Gyaoで視聴。

 先行作である「交響詩篇エウレカセブン」は最終話でガックリの実に良い話であった。私がDVDボックスを全て持っていたりするのは色々な流れがあってのことなのでここでは置いとくとして、「エウレカセブン」には製作者側の趣味に基づく余分な情報が多かった。なぜアッシェンダでなくハッシェンダなのか、といった辺りも含めて分かる人には苦笑い、分からない人には世界観の一部を与える雰囲気としての機能を果たしていたと言って問題はないだろう。幸か不幸か、私の立ち位置は苦笑いばかりする方だった。

 「エウレカセブンAO」第23/24話を観終わっての感想は、「あぁ、今度は第22話までの7~8割が余分な情報だったか」。

 「エウレカセブンAO」については「製作者が何したいのか分からない」といった意見がネット上などで多々見られたが、「製作者が何をしたかったのか」ということについては個人的には最初のクォーツガンの発砲以降には思うところがあった。もし私の思うところと製作者の意図とが一致しているなら、「エウレカセブンAO」でのそれの取り扱い方は小説などでの一般的な物語構成方法の観点からは最初っから間違っている。というか、最初での取り扱い方が間違っている。

 つまり、「物語上は何ら機能しない意味のない余分な情報」を「舞台とする多数の世界それぞれ」に「もっともらしく大量に」与えなければ「最後が語れない」、という製作側にとっても視聴者側にとっても上手くない事態の発生である。観てて面白い筈が無いし、結局のところ主人公のキャラクター付けに重要な「最初の世界」とオーラスで主人公が飛び込んでいく「最後の世界」以外の世界の有り様には論理的な必然性がない。結局、主人公の決断、行動を方向づけるためにご都合主義的に途中の世界の有り様が選ばれるのが必然だ。また、この観点からの「トゥルース」の導入の意味は、製作者が途中の世界にディテールを与える苦労をしなくとも主人公の決断、行動を方向性付けられるという便利な機能の導入に過ぎない。主人公は「トゥルース」の言葉に耳を傾けなければならない(製作者により強制される)が、視聴者にとっては彼の語りに何の意味も無い。彼の語りには物語展開上の「そのときに必要な情報」しか含まれていないから、彼の言葉から物語上の何かを読み取ろうとしても無駄である。

 それはおそらく致し方ないことで、本来4~6話分程度のネタで24話分のストーリーを作るにはああするしかなかったというのが実態なのではないか、残念ながら。

2012/12/15

"Pacific Rim"予告編、怪獣ですよ!人型決戦兵器ですよ!

 仕事に追われてここ三日ほどチェックを怠っていましたが、"Pacific Rim"の予告編公開です。怪獣です、巨大人型兵器です、Rinko Kikuchiです。

2012/12/10

音楽の計画/石山正明ヘビロテ中です。

 「音楽の計画」は言わずと知れたYMO/坂本龍一氏/ピーター・バラカン氏の曲。面白いカバーとかないかなとiTunes Storeで3ヶ月に一度ぐらいは思わず検索してしまう大好きな曲のひとつ。ただ昔の彼女に言わせると「私の音楽の趣味・嗜好はかなり変」らしいので、そこは勘案ヨロシク。坂本氏+トーマス・ドルビー氏の"Exhibition"は実につまらない曲だけど、坂本氏のやったことは面白がれる得な嗜好なのですよ。いずれにしてもサザンは歌謡曲だよねぇ。

 8月発売なので完全に「遅ぇーよ」ってタイミングだが、石山正明氏のカバーが実にツボ、ここ2日のPC作業中のBGMは完全にこの曲のみ。"What's the plan?"のところのヴォイスのメロディーラインの変更と曲のラストの余りにあっさりした処理は個人的にはちょっと不満があるが、それら以外は本当にツボ。まさにMusak的な使い方で申し訳なく思いつつも、本家YMOが自曲のそのような評価や側面を面白がったり、逆手に取ろうとした節があるのも事実かと思う。

 曲はほぼ完全にグレー、周囲は半透明の白で覆われているため視界は明るい灰色でほぼ飽和。昔から音楽は視覚化しても認識しているのだが、波形が色に、さらに非整数倍音の量が色の透明度や輝き具合に、整数倍音の量が色の鮮やかさに変換されているみたい、というのが大昔にシンセをいじっていたころの経験則。残念ながら音程は視覚化できないが、シンセの音色編集には実に直観的で便利な脳の機能、歳を重ねるにつれて空間分解能が下がってきているのはちと残念ではあるが。グレーということはまず整数倍音の割合が多めということのよう。ベル系の音も重ねられているが、非整数倍音が多めのため透明度が高くて輝きのフレアもか細いため、ベースの若干緑がかったグレーの上に色を重ねるに至っていない感じ。

 アルバム「Ymo Rewake」が本家に全く肉薄できていなくて(え、そんなこと目指してないって?なら聞く価値もないでしょう。)ガックリだったが、これでかなり救われましたよ。

2012/12/08

「メリダとおそろしの森」見ましたよ。

 ディズニー作品になってしまった。 --- これは極めてネガティブな意味である。

 「トイ・ストーリー」のキャラが薄気味悪いこともあって敬遠気味ではあるのだが、「レミーのおいしいレストラン」が個人的にとても面白かったためピクサー作品は取り合えずチェックしてきている。ただ、「レミーのおいしいレストラン」の面白さはおそらく監督に負うところが大きく、同監督のピクサー以前の作品「アイアンジャイアント」も楽しんで見たクチだ。

 ディズニー買収前のピクサーは、「ディズニーでは作れない作品を作り、商業ベースで成功させた会社」だった筈だ。つまり、ディズニー一極化に対するカウンターとして機能していたのだ。この認識からの一つの帰結は、「ピクサー作品のディズニー作品化はピクサーが存在意義を失うに等しい」である。

 正統なディズニー作品の否定などは念頭にもない。「ディズニー作品ではないことを期待して見た作品のディズニー作品化」に対する悔しみがあるだけである。

BSG:B&C フィナーレです。

 Battlestar Galactica: Blood & Chromeネットワーク版の最終エピソードが公開されました。番組の時間に比してセリフが多いとの前情報からの推測通り、ストーリーの胆の部分はセリフで豪快に説明されてしまいました。英語のリスニングは駄目な人なので、理解度はせいぜい1/4。もう一回見てみませう。

 劇中のViperはどう見てもMk.IIではなく、どうやらMk.IIIとのこと。BSG本編(ミニシリーズ)ではウィリアム・「ハスカー」・アダマはMk.IIに懐かしげに触れ、BSG: Razor及びBSG: Razor Flashbackでも間違いなく彼はMk.IIを駆っていました。もうBSGは完全に駄目っぽい。

 世界観の拡張と多様化は従来はファンが主に担い、本家はどーんと構えていたもの。さらに言えば、ファンの想像力なんて知れたものとばかりに凄い次弾を撃ってきたものですよ。Universalは幾つかのBSG関連のGame Mods開発チームに法律家を介した圧力を加え、実質的に開発中止に追い込んでいる。自らのコンテンツであるGalactica Onlineを保護するためだということは分かるが、本家が極めてファン活動的な世界観の拡張と多様化を進めるに及んでは苦笑することすらできない。そこにプロフェッショナルかつクリエイティブな仕事を見ることはできない。Mikalaさんのブログエントリ"Blood and Chrome..., more like Blood and Stool "の内容は厳しいながらもかなり本質的かと思う。ちなみに"Super D bag"とは「どうしようもない役立たず、グズ」とか「***野郎!」みたいな意味で、どうやっても誉め言葉にはなりません。

 リメイクや続編で有りがち、かつ世界観を台無しにしまう典型的なケースは、オリジナルに「足す」ことしかしないこと。GalacticaもKEW(砲塔、Kinetic Energy Weaponの略)が増えてるし、劇中にはこれまで見たことのないデザインの船も多数出てきましたよ。ファンは「引くことによる世界観やデザインの純化」なんて求めてないよ、というのが商業的視点なのでしょうかねぇ。せめて、某CMに曰く「何も足さない、何も引かない」って訳にはいかないですか、残念。

2012/12/07

宇宙戦艦ヤマト2199 OST Part 1を試聴したのですが…

 「コスモタイガー (Wan・Dah・Bah)」には興ざめですよ。ワンダバ欲しけりゃ自分で付けるし、つーか全く要らない。それに全然ハネてないのはなぜ?ストリングスのぐっーーーと入ってくる感じとのコントラストがこの曲のポイントのひとつだと思うのだが。あと「イスカンダル」に相当する曲が無いのも個人的には×。

 全体にコンプレッサ/リミッタ効かせすぎなのか(つまり、音圧重視の今時のポップスのマスタリング。オーケストラに対してそんなマスタリングはもったいないだろう)、もともと音の強弱をつけない演奏としたのか、どの曲も表情が乏しい感じで残念過ぎ。ピッチコレクト効かせすぎて全然面白くなくなったVocaloidの歌の如し。アホ毛もそうだが、なんか変にアマチュアっぽい方向にブレかつ中途半端に過ぎるのが2199のとっても変なところ、もしかしたら本質的にダメなところ。

 一応3秒ほど悩んでみましたが結局買わずに帰宅。今、「不滅の宇宙戦艦ヤマト」のレコード聴いてマス。「イスカンダル」最高。

2012/12/02

BSG: B&C エピソード7 & 8

 今回はほとんど会話が聞き取れませんでした。疲れているみたい。安く番組を作る秘訣の一つはパイロ(火薬特殊効果)を使わないこと、"Starship Troopers 2"も火薬使ってませんでしたよね。