2020/01/13

俺ルールとか正義感とか著作権とか悲しいやら訳分からんやら

 「他者の俺ルールが理解できない、そんなものに基づく非難や攻撃に苦しめられてきた」と過去に言っていた人が、自身の俺ルール丸出しとか見えない無根拠な主張を含む文章を書き。それを読みながら感じざるを得ない一種の悲しみ。あなたもそうか、そうなったか。

 文献資料に基づくオリジナル性・研究性の極めて高いコンテンツを作っている人が、別件では一個人の見解に過ぎないネット上の不確かな情報を無批判にそのまま拡散し。そんな様を見ながら感じざるを得ない一種の悲しみ。あなたもそうか、そうなったか。

 今は一種の悲しみを感じるだけの個人の行為だ。しかしネット上では、類似の行為が相互にエコーチェンバー現象を起こせば直ぐにでも特定の個人、団体の攻撃に変質し得る。起こり得る最悪のシナリオの一つは、攻撃の対象側には何ら非が無いこと、攻撃者の大部分が実は攻撃の理由に対して無関係な人間であること。かくて無自覚の加害者たる攻撃者は勝手に溜飲を下げ、被害者は加害者扱いを強いられる。

  原因は無知やリテラシー不足(主に訓練不足)、そしておそらくは薄っぺらくて純粋な「正義感」。「正義感」或いは「類似の何か」の介在を考えなければ、「大量の無関係な人間が加害者になる」ことは説明しにくい。他方、小集団による攻撃ならば「悪意」の介在がまず考えられるが。あと、「善意」と「正義感」とは別物ですぞ。

 ことネット上においては、どうも日本人は「正義感」を振りかざしてやりすぎることが多いように見える。ネット上で大量の日本人(厳密には日本語の書き言葉を使う人達)が一斉に「正義感」を振りかざす様は、内容の是非に因らず、時に大韓民国での国民情緒法に基づく政策の執行やアラブの春の初期の浮かれ具合に重なって見える。本や映画でしか知らない、紅衛兵たちにも、オンカーに思想教育された子供たちにも。

 「正義感」自体は否定しないが、私は小学低学年時代に意識して使うのをやめた。それまでも、それ以降も、私の周りで「正義感」を振りかざす人間が間違った対象をただただ攻撃だけする様を、リアルな世界でも少なからず見て来た。時に教師も然り。慣習、法よりも感情を優先し、或いは慣習、法を知らないまま感情のみに従い、特定の人間を攻撃する。始まりは「正義感」かもしれないが、結局は「俺ルールを声高に振りかざしているだけ」に直ぐに堕する。大学でのサークルの分裂の原因なんて、大抵はそんなものだ。

 「正義感」だけで始まったものはその初期から論理性も内実も伴わないため、始まりの「状況」とは無関係に行きつく先は同じものとならざるを得ない。「攻撃の手を緩めるな!」か、「飽きたから止める」かだ。シャーデンフロイデや類似の因子が混入すると、更に目も当てられない状況を呈する。

 ただリアルな世界では、薄っぺらい正義感にのみ依拠するような連中自身の薄っぺらさを論理的、直感的を問わずあっさり見抜く人間が多く(多かった)、かつ周囲に影響力があるようなデキる人間ほどそんなもには加担しないものだった。このため、実際のところは真っ赤な顔の人間の数が3人ほどまで減ったところで騒ぎは収まり、リアルなコミュニティ内での自身の立場の変化に気づいて逆に真っ青になるのが常だった。リアルでは「逃げる」と言う手のコストは高い、匿名性は使えない。片やネット上では、「逃げる」こと自体のコストは皆無に等しく、匿名性は当たり前のように行使される。

 少し話は飛躍する。欧米まで含めてのネット上では「正義感」はどのように行使されているだろうか。例えば著作権絡みで、私が具体例を知っているものではどうだったろうか。

 2010年ごろ、私は自作の3DCGモデルデータを米国、カナダのサイトで英文の使用許諾条件テキストファイル付きで無料で公開した。公開におけるデータ使用条件は実効的に一つ、「商用利用をしてはならない」だった(リンク)。が、程なくして「あなたのデータを自作と称して(Mesh theftやModel theftと呼ばれる行為)販売している人がいる」とのメールを受け取るようになった。 経過は省略するが、英、米、カナダ、ブラジルなどの人々(大部分はプロ/アマ3DCGモデラー、アマチュアフィジカルモデラー、プロ/アマCGIアーティスト、コミュニティの管理者など)が許諾条件違反を起こした人間に行使した「正義感」に根ざした行動はせいぜい当人をたしなめるレベルであり、攻撃は全くしなかった。その代り、権利所有者(つまり私)に、とにかく早く、正確な状況を知らせ、情報を共有する努力を尽くしてくれた。

 これは、「許諾条件違反を非難したり、状況の是正を関係する個人、団体、組織に要求する権利を有している人間が居るとすれば、それは権利所有者のみである」という慣習の存在と、関連する法律にその精神が反映されていることについてのコンセンサスが彼らにあったからだ。逆説的に言うと、この時に私が状況を是正する行動を起こさなければ、「許諾条件違反が許される」「私の持つ著作権は無視してよい」といった「前例、先例」を権利所有者自身が作ってしまうことになるのだ。「前例、先例」が重なるとやがて「慣習」と呼ばれる一種のコンセンサスとなる。このプロセスは国際法の成立過程と基本的に同じものだ。かくてほぼ1年の期間内に、4件の許諾条件違反に私自身が対応することになった。自分の権利は自分で守らなければならないのだ。

  許諾条件違反を起こした人間はのらりくらりと言い訳を繰り返し、時に気味悪いがまでにへりくだる、というのが洋の東西を問わずデフォルトだ。これら4件に関しては許諾条件違反を起こした人間の国籍が全て同じだったが、それ自体に意味を見出すつもりはない。ただ、やっぱりドイツとは関わらない方が良いという思いをいっそう強くしたことだけは白状しよう。

 さて、事に当たっての私の対応は単純だ。許諾条件違反者が利用しているサービス(3DCGモデル販売や3Dプリントサービス、例えばSHAPEWAYS社)の提供企業のサポート窓口に、許諾条件違反者が著作権の所在について虚偽の申告をしている旨を証拠(厳密にはネット上の大量のログ類の場所)を付けて通知しただけだった。この手が有効なのは、権利所有者自身からの通知だからだ。

 営利企業であれば権利関係のトラブルを本当に嫌う。どのサービスも対応が早く、テンプレなのだろうが実に丁寧な文章のメールでの連絡とともに、許諾条件違反者へのサービスが停止した。許諾条件違反者は使用していた複数のサービスからほぼ一斉に締め出され、捨て台詞を残して「逃げた」。許諾条件違反者の最初のセールストークから逃亡までのログは、私の具体的な対応のログとともに幾つかのネットコミュニティのスレッドに残った。

 一例としてこのスレッドがある。本スレッドの3ページ目の下端から2つ目のエントリで「私のモデルを使って金銭を得ようとした者」が長々と経過を主張しているが、この内容を信じる理由がなかった。と言うのも、1~2ページ目で彼が内容を編集・削除したエントリが複数あるが、それらの記述と矛盾する内容だったからだ。私の登場は2ページ目の2つ目のエントリだが、その前後で彼の発言内容は一変した。とまれ私の要求は「私のモデルを使って金銭を得るな」の一点のみなので、彼の主張する経過の真偽なんか私にとってはどうでもよいことなのは明らかだろう。スレッドからは分からないが、結局彼は私の要求に従わなかった。故に、彼が利用していたサービスの提供企業に、上述したように私が直接アプローチすることになった。

 ただ、編集・削除したエントリには私を名指しで煽ったり、半ば罵倒するような記述もあったから、私が彼に立腹していなかったかと言えば嘘になる。まさか当人が現れるとは思わず、調子に乗り過ぎたのだろう。彼は引き続いて「自分のアカウントが何者かに利用された」との主張を他のコミュニティのスレッドも含めて始めたが、多数の人間に主張の矛盾点を指摘された上に、私がメールのやり取りを通じて仕掛けた「罠」にも嵌ってさらに矛盾点が露呈、墓穴をより深く掘ることとなった。彼の主張をbollocks(たわごと、でたらめ、キン〇マ・・・)と揶揄する人間もいた。

 で、上述したような経緯を知る人が新たな許諾条件違反者を見つけた際、上記したようなスレッドのリンクを教えると直ぐに「逃げた」こともあったそうだ。許諾条件違反者に「こりゃ面倒くさいことになりそうだな」と思わせるだけの「前例、先例」作りに成功し、結果として「自動的に作動する自分の権利を守る仕組み」みたいなものも形成されたと言うことだろう。私のモデルをレンダリングした画像もネットに多数挙がったし、私のモデルをインポートしたゲームmodもある。全て無料で見たり、入手することができる。ただもう10年モノなので、最近は私のものの方がオリジナルであることを知らない人も増えている。

 これを武勇伝とするつもりは毛頭無い、と言うか、後に書いてあるように大局的には敗北にしかならなかったのだ。私自身が著作権絡みで自ら能動的に動き、一定の結果を得た、ということを分かってもらいたいだけだ。ただの脳内シミュレーションなどではない。外ならず私自身が経験したことなのだ。

 ちなみに、リンクを示したスレッドの中には「(こんなことが繰り返されると)益々モデルデータが公開されなくなる」と言った類の嘆きがある。私も自身のモデルデータの新規公開は止めたし、優れたモデルほど公開されなくなっていった。この辺り、3DCGコミュニティの縮小を早める一要因となったと個人的には考えている。そもそも私が自身のモデルデータを公開したのは、先達が公開してくれたモデルデータから多くを学んだことに対する感謝、恩返しの気持ちからだった。世代から世代へのノウハウ伝達を1サイクル進めることに関与したかった。しかし他の因子も重なり、3DCGコミュニティではその種のサイクルはほぼ失われた。自身の所有する権利を守ることに私や多くの3DCGモデラーは成功した。だがそれらは所詮局地的・一時的勝利に過ぎず、3DCGコミュニティ全体としては行動に移った人間の少なさもあって完全な負け戦となった。当事者である権利所有者が動かなければ、自らや自らの属するコミュニティの権利は守れないのだ。

 で、言いたいことは単純だ。なお以下の内容は法理上は間違っている可能性もあるが、肌感覚・経験則から実効的と信じているものだ。
  • 著作権はどこかへの登録などの如何なる手順をも踏む必要無く創作物に付随して発生し、契約などを介して他者に移譲などしない限り、その所有を認められる。が、それ故に、所有する権利を保護する仕組みはない。著作権所有者は所有する権利を自ら保護しなければならない。換言すれば、コスト(時間、手間、金銭)をかけることなく所有する権利が保護されるとの認識は、法的にも実際的にも誤っている。
  • 著作権所有者が自身の所有する権利を保護するためには、不幸にしてコストを払う必要が生じ得る。あらかじめコストをかける方法の例としては、自作曲の演奏権を管理団体に移管する(金銭支払いというコストが発生)ことが挙げられる。権利管理を他者に移管していない場合や移管できない権利が侵害された場合には、個々の権利侵害事案に権利所有者自身が対応する(時間、手間というコストが発生)必要がある。
  • 著作権の侵害を訴え、望ましくない状況を是正する権利を有するのは、基本的に著作権所有者又は著作権管理者のみである(少なくとも、著作権所有者または管理者ではない人間の権利侵害の訴えに企業等が対応する必然性は皆無である)。俗な言い方をすると、著作権所有者でも著作権管理者でもない人間は、他人の著作権が侵害されている状態に対して何かを主張する「権利」も「理由」も「資格」も本質的に有しない。「正義感」にかられた「匿名の人間」の立場は、まさにそう言うものである。
「解釈」することなく、「読解」して欲しい。 私は誰も攻撃、非難していない。敢えて「正義感」にかられてみた「匿名の人間」として、やりすぎている「正義感」にかられた「匿名の人間」に対して、「やりすぎですよ」、「やり方が違いますよ」と言っているに過ぎない。

 他者の有する権利の侵害に対して「正義感」にかられたのなら、権利所有者に状況を知らせ、状況を正すための行動を促し、具体的に権利者を手助けして欲しい。ネットを介してで十分、権利所有者とともに自らもリアルな世界に関与するのだ。「匿名の人間」のままネット上で完結する形で誰かを攻撃するような「安全圏から石を投げる」だけのような卑怯な行為はしないで欲しい、誰も得をしないから、誰も幸せにならないから。攻撃相手を間違えていると、自身が加害者となるばかりか、権利所有者など関連する人間も巻き込まれて加害者視されるリスクにも留意して欲しい。その「権利」も「理由」も「資格」も本質的に有せずに「匿名性」を保ちつつ他者を攻撃する人間は、リアルな世界では大抵「下劣な卑怯者」、良くても「間抜けなお調子者」とみなされる、と言う点も付記しておこう。

 そして、権利所有者が自ら所有する権利を守るために動かないのであれば、そのような権利は誰にも守られない、と言う「慣習」又は「世の現実」を受け入れよう。ついでに「正義感」なんて捨ててしまおう。「安全圏から石を投げる」ような攻撃は、相手に時間を与えるだけで無益だ。「論理」と「実績」だけが武器になる。「事実」なんて誰にも分からない。ネットは特性として権利侵害を助長するばかりで展開も早いので、「前例、先例」といった「実績」はすぐに積みあがる。「悪い奴ら」ほどネット上のサービスやシステムの利用法に長けている。だから権利所有者側も、少なくとも「悪い奴ら」と同じレベルでネットを利用しなければ負ける。

 例えばNoCopyrightSoundsがYouTubeを楽曲の公開先に使う理由についても一考してみて欲しい。著作権フリーの楽曲を自社サイトで提供するサービスが、自身のYouTubeチャンネルを別途持つことの利点は何だろうか?特定の動画がYouTubeのサービスにアップロードされた日時をYouTube自身が疑うだろうか?片やとあるサイト上のhtmlファイルに書きこまれている日時の信頼性を、誰が、どうやってYouTubeに保証してくれる?

 最後に、上で触れた「リテラシー不足(主に訓練不足)」についてのピンポイントな補足。

 例えばYouTube動画での使用音楽に対する権利侵害通知に関しては、国内の「個人」がネット上に公開している情報だけでなく、Redditなどもチェックして、海外でやり取りされているナマの情報や、それらやり取りの結果を反映して信頼性が高められたまとめ情報も参照して欲しいと思う。特に「権利詐欺団体」などと呼ばれるものについては、まじめにチェックして欲しい。

 Redditの特定のスレッドが例として挙げられるような、知識を収集し、信頼性の高い情報にまとめ、更にアップデートを続けるネット上のコミュニティは、日本には(日本語では)存在しない。従って、YouTubeのような国際的なサービスに関する信頼性が高くて有用な情報は、よほどの幸運に恵まれない限り日本語では得られない。

 ネット上に流通している日本語の「権利詐欺団体リスト」なるものの特定の系統は、例えば30年を超える歴史を持ち実態もある海外の演奏権管理団体を含んでいる。そしてそのようなリストを拡散する者、そのリストに載っているから件の演奏権管理団体を権利詐欺団体とみなして攻撃する者が未だに現れる。その演奏権管理団体が含まれていない「日本語」の「権利詐欺団体リスト」の方が系統としては多いように私には見えるのだが。

 またあるブログでは、100年を超える歴史を持ち実態もある海外の演奏権管理団体を権利詐欺団体と攻撃したり、権利侵害に関する問い合わせ先メールアドレスが同じという一点を理由として複数の団体を権利詐欺団体と見做している。成程、問い合わせ先メールアドレスが皆同じというのは確かに怪しい。が、この段階ではまだ怪しいだけだ。少し考えてみて欲しい。YouTubeにアップロードされた動画で使われた楽曲の権利管理という新しくてコストもかかる業務を、作曲権や演奏権の管理を作曲者らから委託された団体が自身で行っているものだろうか。

 実際のところ、「YouTubeにアップロードされた動画で使われた楽曲の権利管理」をサービスとして提供する会社(大抵はAppleやAmazonなどへの楽曲ライセンス提供および管理サービスも行っている)は無数に存在し、かつそのような会社はそれぞれ複数の顧客を持つ。YouTubeからの権利侵害通知に対する問い合わせ先はまずそのようなサービス提供会社の専用窓口となるから、複数の権利侵害通知に対する問い合わせ先メールアドレスが同じという状況は決して不思議なものではない。加えて「単一の楽曲」に対する複数の権利侵害通知の場合、申告者が複数でも国籍や管理権利の範囲が異なる系列会社である可能性が高く、当然同じ管理サービス提供会社を使っている可能性も高い。権利侵害通知がカナダ、米国、アルゼンチンなど複数国の団体、組織からのものであっても、管理サービス提供会社は米国内の一社ということは十分にあり得る、と言うことだ。この場合、問い合わせ先メールアドレスが同一となるのはむしろ当然と言える。

 音楽の著作権及び隣接権の構成は結構ややこしいためか、「YouTube動画での使用音楽に対する権利侵害通知」に関する日本語で書かれた個人のブログには、(自分に有利なような)誤解や知識不足に基づく誤った記述や、やたらと感情的で実効的に無意味な記述が少なくない。第一の原因としては、(上で既に触れてしまった)演奏権/上演権、編曲権など様々な権利の存在を知らない、理解していないことが挙げられる。

 また「動画中で演奏している楽曲の著作権」の権利侵害通知に対して、やっきになって「動画の著作権」をくどくど主張するというイタ過ぎるブログもある。そもそもの状況が「読解」できておらず、誤った「解釈」にただ拘泥し続ける様は読んでてツラいまでにイタい。

 日本人なら文脈から忖度して話がかみ合ってないことを察してあげられるが、論理のみで忖度などしない米国人なら「動画中で演奏している楽曲の著作権が自分にある」という有り得ない主張をしていると理解するか、主張の一部とて理解できないかのいずれかだろう。ブログに埋め込まれたYouTubeへの不服申し立てフォームのスナップショットを見ると、チェックされている項目は「自分に全ての権利がある」に相当するものだった。この対応、実は「相手をする価値もない、バレバレな嘘をつく変な奴」と思われても仕方ないものなのである。

 念の為に繰り返すが、ここでのYouTubeからの通知は「動画中で演奏している楽曲の著作権」の権利侵害である。件のフォーム入力結果を受け取ったYouTube側の人はビックリしただろうなぁ、世界的にヒットした楽曲の作曲権を、無名の日本人が突如主張した訳だからね。

 あと言うまでもないことだが、捻じれはもう一つある。他者が権利を持つ楽曲を動画中で演奏している以上、動画自体の権利所有者が動画作成者(ここでは演奏者でもあり、アップロード者でもある)のみである筈がない。権利侵害通知がたとえ「動画の著作権」に対するものであったとしても、不服申し立てフォームでチェックした項目は間違っているのである。

 片やネット上で正確な情報にまで至っていながら、その情報の誤読から結論を(自分に不利なように)間違えているという逆に残念なブログもある。日本語文章を素直に読解すれば良かっただけなのだが。

 時に公共の敵の如く嫌われるJASRACだが、彼らのウェブサイトに掲載されている著作権、隣接権の説明はなんだかんだ言って良くまとまっており、音楽著作権の理解が必要と考える向きには一度は目を通しておくことをお勧めする。JASRACはかっちり理論武装しているから、説明はそりゃ正確で簡潔、歪められてもいない。

 以前に音楽教室からの徴収について騒ぎがあったが、JASRACの音楽著作権の説明を頭に入れておけば法的な議論が実質的に発生しなかった理由、「正義感」に基づくような声に全く頓着しなかった理由は直ぐに理解できる。徴収額の根拠はともかく、演奏権に基づく徴収自体は完全に合法だからだ。自身の著作権(演奏権を当然含む)の管理をJASRACに委託した人達、すなわちJASRACが耳を傾け得る個人や法人から成る数少ない集団の一つ、のほぼすべての構成員がそれに異を唱えなかったからだ。

 個人的な理解(=JASRACになったつもりで考えたこと)ではあるが、JASRACが踏み込んだこととは、まず「音楽教室から徴収しないという法的根拠の無い慣習を止めたこと」、そして本丸は「法的根拠の無い慣習は止められる、という実績を作ったこと」である。いやぁ、エグいエグい。

 他方、プロの演奏家/上演者自身の書くブログなどの文章は、自身を守るためにも権利に関する理解が厳密かつ正確であることや実体験も反映しているため、記載内容の信頼性が極めて高い。プロのピアニストという職業が如何に様々な権利侵害のリスクにさらされているのかに驚くとともに、「Vocaloidを使ったカバー曲をYouTubeにアップロードしている自分」が「複数の権利侵害から慣習的に大目にみられているという事実」に背筋が凍る思いもする。替え歌も勝手な訳詞も1声を2声にするようなちょっとした演奏の変更も、音楽著作権・隣接権を杓子定規に適用していくと実はアウト、しかも・・・とかね。

2020/01/08

続・SONY WH-1000XM3、結構ウマくない - Sonarworks Reference 4を使ってみる

 使ってみる、と言っても試用版。

 先行するエントリ「SONY WH-1000XM3、結構ウマくない」を書きながら、「こんな時のために何かソフトがあった筈・・・あった筈・・・」ともやもやしていたのだが、正月にそれを思い出した。

 Sonarworks社のReferenceシリーズだ。

 調べてみると現在はReference 4 Headphone Editionという製品があり、WH-1000MX3もサポートされていることが分かった。Reference 4 Headphone Editionは所謂キャリブレーション・ソフトウェアで、ヘッドホン毎の再生周波数特性を揃えることができる。つまり、マスタリングにおいてターゲットとされる環境での音を、リーズナブルな価格帯のヘッドホンでシミュレートしようというものだ。Windows10であればOSレベルでもキャリブレーションはサポートされ、当然ながらOSレベルのキャリブレーションと排他的に動作するDAW用プラグインも用意されている。

 なお、WH-1000MX3のキャリブレーションデータが用意されていたのは有線時のみだ。

 で、試用版を使ってみた結果なのだが、思わず笑ってしまうぐらい音は別物になった。失笑レベルではなく、思わずのけぞってしまい、椅子に座っていたらそのまま笑いながら後ろに倒れてしまいそうなぐらいの衝撃的な結果だった。ちゃぶ台PC設置環境で助かった。

 まずキャリブレーションしない場合、事前に測定済の再生周波数特性がソフトウェアのウインドウ上に表示されている。40~300Hz、5~15kHzが結構持ち上げられている一方、1~5kHz、15kHz以上が低い。先のエントリで触れた疑われる再生周波数特性は、当たらずとも遠からずと言ったところだろう。「低域盛り過ぎ」という他の方のレビューも基本的に正しい。が問題は、グラフ縦方向の分布幅が±6dbを越えるいう点にありそうだ。この分布幅は、そういう製品であるとの説明が無い以上、大きすぎると思う。±6dbと言うのは、それぞれ音量2倍、1/2倍に相当するのだ。このため、本来は同じ音量で再生されるべき音が、周波数が違うと4倍以上も音量に差が発生し得る。ちなみにSENNHEISER HD599の再生周波数特性は、形状こそ60Hz以上の範囲では似たり寄ったりだが、上下方向ともに6dbを超えてはいない。
  楽曲を再生しながらキャリブレーションをONにし、まずは再生周波数特性をフラットとする。ベース、バスドラ、スネア、ボーカルと全ての聴こえ方が変わる。全体に音の横、奥行き方向の分布の幅が小さくなるが、音の重なりが無くなり音毎の分離はむしろ良くなる。バスドラは奥に引っ込み、ベース音も奥に引っ込むと同時に音自体も変わることがあり、ボーカルは前に出てきてやや広がり、スネアの音は別物になる。1~5kHzの特性がボーカルやスネアに効いている感じだ。iTunesで購入した楽曲も自分のカバー曲も同じ印象で、ピアノ、ストリングス、女声スキャットなどは生まれ変わる。Stelvio CiprianiのMary's Theme(iTunesでも買えるよ!)なんて、ホント別物になる。宇宙戦艦ヤマトの楽曲群も蘇るね!ただし、ベース持ち上げ気味の味付けの音に慣れた耳のせいか、癖の無い分、音に若干味気無さも感じる。
  次いでPredefined Target CurvesをONにする。 ざっくり言ってマスタリング時に参照すべき特性の一つで、見ての通り再生周波数特性は全体としてやや右下がりだ。フラットな場合と比べて音の味気無さは弱まり、「ああ、コ↓レ↑コ↓レ↑」感が出てくる。「グラフィックイコライザーなどで好みの音に加工するのが当然」のリスナーやベースブースト系ヘッドホンのユーザーに聴かれても、この辺りの特性でマスタリングしておけば破綻はしなさそうに思える。

 と言う訳で、SONY WH-1000XM3、より客観的見地からも結構ウマくないと言うことになってしまった。ちなみにReference 4 Headphone Editionは€99、意地張って親戚にお年玉とか出しちゃった金の無い身にはすぐには手は出せないなぁ・・・。

2020/01/06

アニメ「映像研には手を出すな!」第1話を観る!

 第1話を観る。

 先行するエントリで書いた、気になっていた点については

 「なんか今、とんでもないところへ行ったんじゃ・・・」
 「凄い画が見えた気がしたんだけど・・・」

のセリフで「先送り?」な感じで、個人的には完全なる不完全燃焼。もし「先送り」でないのなら、今後も画的には面白いものは期待できないかも。「あれが・・・最強の・・・世界・・・」とのセリフに値する画は「今回は見せてもらってない」と言わざるを得ない、残念ながら。作品上、「気分」や「思わせぶり」で処理しちゃダメなところの筈なんだよなぁ。

 「完全に逃げた」ろ、ココ。

 評論でもなく、作品が面白いとかつまらないとかとは全く別の話を今回もつらつら。

 先行するエントリで私の言うところの「遷移過程」において、効果音を声だけにしたり声を効果音に重ねたりする音響処理は絶対アリで、いかにも「遷移過程」ぽかった。まさに、飛行機模型を片手に持って動かしながら「ぶ~ん」と言ってるとか、マンガのコマを描きながら効果音を思わず口にしてしまっているといった状況を彷彿させる処理だ。ただ「遷移過程」そのものの描写は冗長、かつ展開は作品の成立性には寄与するような論理性や必然性を伴うものではなかった。つまり、単なる尺稼ぎ、制作作業量の節約としか機能していない。

 作中人物をもっと動かしてやんなよ、「最強の世界」を具体的に画にしてやんなよ。EDの頭辺りのラフ画のようなカットを、本編内で仕上げた形で見せてなきゃいけなかったんじゃないのかな。

 アバンからOPの最初1/4ぐらいまでは「お!」と思いながら観てたんだけど、本編に入ると作画も声も既にテンパってる感(余裕がない感じ)があるのだが・・・実際はそうじゃないことを祈るばかりだ。で、PVの一部作画を観てどっかで来るんじゃないかと思ってたけど、青木俊直氏の一枚絵、いきなり来たか。

2020/01/01

アニメ「映像研には手を出すな!」のPVを観る!

 もう1年以上病気でまともに動けない状態もあって今日になって知った、大童澄瞳さんのマンガ「映像研には手を出すな!」のTVアニメ化。「半年ぐらい前が最初のアニメ化に良い頃合いだったよなぁ」と突如閃いて元旦にググってみたら・・・。

 原作は飛ばし飛ばしで数としても10話も読んでないという体たらくだが、第1話を一読した時点から映像化されたときの「俺イメージ」と言うか、「演出プランもどき」と言うか、が明確にあった。そういうものを喚起させられる、どうすれば良いだろうかと一度は考えてしまう、私にとって稀有なマンガなのだ。健康上の問題が無ければ、少なくとも単行本はリアルタイムで追いかけていただろうと思う。

 で、最新のPVを観る。

 ん~彩度が高めの色彩設計だなぁ、というのが一見しての印象、例えば制服の上着の青さとかね(黒のラインとのコントラストが出なくて、見にくい気もする)。これは批評とか好みとか言う話とは無関係で、要はマンガから喚起された「アニメ化時の俺イメージ」との差分以外の何物でもない。もうちょっと正確に書いておくと、「日常世界」シーンは敢えてもっと色をくすませていてもいいんじゃないかなぁ・・・と言うこと。「日常世界」シーンと所謂「最強の世界」シーンとの演出上の区別のために彩度差も使えるようにしておこう、という意図が裏にあるよーな気もする、我ながら。

 じゃぁ「俺イメージ」の源流はどこにあったんだろうと考えてみると、日常側は16コマ/秒の8mmフィルム(Fuji)のライブ映像、「アニメ内アニメ」たる「最強の世界」側は16mmフィルムで撮影されたかつての普通のTVアニメの映像なんじゃないかなぁと。原作マンガを読んでいた時、8mmフィルムで映画を撮っていた若いころのことを思い出していたのかもね。とは言えあくまで「フィルムの持つ色味の風合い」の記憶を喚起されたのではないかと言うだけであって、実際のカメラやレンズの限界や絵作りは別問題。もちろん日常側で粒子の粗い画を使うという意味じゃない、色だけの話。

 第1話をベースに考えても「映像研には手を出すな!」は、ざっくりと言って「日常世界」と所謂「最強の世界」と両世界の「遷移過程(トランジション)」を連続的に描く必要があり、このあたりをTVアニメがどう取り扱うかには興味を持たざるを得ない。アニメ版における所謂「最強の世界」シーンは言わば「アニメ内アニメ」、「アニメでアニメの画を表現するシーン」であるため、特定の画が「日常世界」のものなのか所謂「最強の世界」のものなのかの正しい判断を、作り手側からのサインなど無くして、視聴者に期待することは必ずしもできない。

 本質的にはレベルが違う話だが、アニメ劇中のTV画面上の映像がアニメなのか実写なのか明確に区別できるか、と言う問題を考えてみて欲しい。TV画面上のキャラクターと劇中のキャラクターのデザインが異なる場合は、作り手側から区別のための何らかのサインが送られている可能性がある(或いは、原画家が好きなアイドルを自分の手癖丸出しで描いただけかも知れない)。対してデザインに差が無い場合はどうだろうか?

 「遷移過程」の描写は、少なくとも時系列的に画を追っている視聴者にとっては、「日常世界」と所謂「最強の世界」の切り替えの明確な判断基準となる。故に、「遷移過程」は「双方向ともに、かつ遷移過程であると明示的に」描かれることが例えば必要だろう。もちろんもっと良い手法が使われればその限りではない。

 対して「日常世界」と所謂「最強の世界」との区別を視聴者に丸投げしたり、「遷移過程」の描写がスタイルのみを志向して「日常世界」と所謂「最強の世界」の切り替えを明示する機能を実効的に果たさせなかったりすれば、「アニメ化」には失敗したと見做さざるを得ないだろう。実際、「映像研には手を出すな!」の「アニメ化」、より厳密には「アニメならではの再現乃至は表現上の拡張を伴うコピー」、は本質的に難しいものと思わずにはいられないのだ。ここで「コピー」とは、「オリジナルとの関係性を維持している」、「結果としてオリジナル(原作マンガ)の持つ良さや面白さも語ってしまう」という意味を込めたポジティブな表現であるので念の為。

 ポストモダン化したとか言われて久しい今日のアニメ作品の在り方からは、それに慣れた作り手の手癖に従って、「日常世界」と所謂「最強の世界」との画面上での区別を視聴者へ丸投げする可能性も危惧される。このような事態が出来してしまった場合、この原作の構造・内容(マンガ内アニメをマンガで描く)をしてその態度は作り手側の怠惰や甘えでしかないと敢えて書いてしまっておこう。「アニメ内アニメを、それも作中人物が物語内で実体化した又は具体的かつ理想的に思い描いたアニメを、メタ的にアニメで描く」ための「アニメの文法、お約束」は無いから、それに対応するプランやアイディア、それに向かい合う覚悟は多少なりともアニメの作り手に期待する。

 ただしこれは昨今のTVアニメに多々見られる流儀に慣れた、擦れた視聴者にとって面白いものになるとかならないとか、商用的にどうのこうのとは別問題なのは言わずもがな。要は、擦れていないアニメ視聴者や原作マンガ未読者が「アニメ観て良く分からんところがあったけど、原作マンガ読んだらあっさり分かった」となったらツマらんよね、と言うだけの話。それじゃぁただの「シミュラクル(≠コピー)」じゃんか、原作マンガの表層・見た目をなぞっただけやん、ってね。つまり、アニメ版は作品として独立して成立していないってことだ。

 PVではマンガ第1話の分も含めて「遷移過程」の具体的処理を垣間見ることはできる。なるほどそういうやり方か、分かりやすい、と思う。上から目線を許してもらえれば、「ひとつの正解」だと思う。が、所謂「最強の世界」の処理はちょい見せと言うか寸止め状態で、作中人物の描画方法は「遷移過程」と同じだがメカは手描き調からCGに変えるのかな、ぐらいのことしか分からない。個人的な好みから言えば、所謂「最強の世界」の描写こそ、CGで作った部分もうまく処理して「必要なら手描き感てんこ盛りで、作中人物が実際に作ったアニメ作品っぽく見える」ものであって欲しい。でもCG丸出しの方が実際のプロダクト(制作物)っぽく見えるのが今時なのかなぁ。

 ちなみに「俺イメージ」にはアニメ化版だけでなく当然のように実写化版もある。むしろ「映像研には手を出すな!」は実写の方が演出的なハードルは低い。これはライブアクションによる「日常世界」とアニメによる所謂「最強の世界」とが、その見た目から否応なく別物となる点にある。「遷移過程」はアイディア勝負で、作り手のセンスが問われそうだ。

 出来としては、特撮カットが全てアニメカットに置き換えられた特撮映画をイメージしてもらえば大枠間違いない。ここで所謂「最強の世界」の描写では、手描きアニメーション内にライブアクションの作中人物が合成され、時に合成された実写俳優と手描きアニメキャラが相互がモーフする・・・そういう絵作りに作品上の必然性はあるし、技術的には可能だし、作り手にセンスがあれば絶対面白い画が作れる筈。音楽と音響効果にも画に負けないためのアイデアは必要で、まぁ、製作費10億円は最低限だよね。

・・・あ、実写版も製作中?えー・・・「遷移過程」は例えば手描き絵と切り抜いたスチール写真での低フレームレートのアニメとかでもいいけどさ、製作費はいくらなんだろう?

追記(2020/1/2):
 NHKのニュースを観ようとしていたら「映像研には手を出すな!」の番宣に遭遇、PVでは寸止めされて出てこない所謂「最強の世界」の(おそらく)最初の1カットを観ることができた。正直「?」。期待していたのはものすごく情報量の多い(訳が分からんぐらいに)ディテールに溢れる光景だったのだが、エラく淡白な陰影の強い画(光景)が・・・。

 まぁ、続くカットで期待していたような画になる可能性もあるし、私の期待や想像力をはるかに超える画を見せてもらえることを期待したいと思う。

 ちなみに「期待していた画のディテール」とは、空間内のものと言うより、時間方向の蓄積や逸脱を含めた創作過程を象徴的に表現するようなものだ。ものすごく即物的な例えでは、作中人物がその日描いたイメージボードなり設定画の内容の奥(向こう側)に昨日描いたイメージボードなり設定画の内容が見え、更に奥にはうっすらと二日前に・・・と言うようなものだ。或いは、確固たる単一のイメージではなく、無数のあり得るイメージが多層的に重なったようなもの、と言った方がより正確かもしれない。多数の光景が一斉に見えているという、シュレディンガーの猫チックな頭の中でしか存在できないような状態だ。

 もちろん、実際にそんな画を具体化することは難しいし、私に具体化のアイディアがある訳ではない。が、アニメなら時間方向(=時間経過描写の向きと速度、連続性の有無)や視点(≒カメラ位置、パースペクティブ)の移動・変化過程も演出に使えるし、複数カットを使えば何かやりようはあるんじゃないかと思う。第1話の所謂「最強の世界」シーンではまだ作中人物がそれぞれ違う光景を観ていても(≒作中人物が描いたイメージ群から違うイメージを抽出していても)良い筈だし、例えば作中人物が観る光景が瞬き毎に変化するような主観描写を積み上げる見せ方ぐらいなら、これまで積み上げられてきた「アニメの文法、お約束」内で楽々描ける。

 「エラく淡白な陰影の強い画(光景)」で終わったらそれこそポストモダン時代的、視聴者への丸投げですよ。「読むべきもの(=読解力を発揮すべき対象)」の提示をせずに視聴者の「解釈」を「作品を成立させるために要求」されても、私は乗れん(=解釈なんてしてやらない、作り手が成立させられていないものを成立しているかのように取り扱うような一種の悪事の共犯にはなれない)わなぁ。つまらん。

 作中人物が呆然としつつ初めて観る「最強の世界」の光景、どう描かれるんでしょうかねぇ。

2019/12/08

「岡田斗司夫ゼミLive 宮崎駿『On Your Mark』特集」を観る

 YouTubedeでの無料版だけの視聴だけど尺は2時間弱で内容も充実。下記リンク先は編集版です。


 または


 岡田氏はCHAGE and ASKAの楽曲のPV「On Your Mark」と言う作品を、見た目の展開(≒ストーリー)から始めて、暗喩や構成などの視点から6階層(レベル1~6)で「読む」ことができるとし、無料版ではレベル1(≒見た目のストーリー展開)および2(=岡田氏曰く「宮崎氏が描き、作品に込めた3つの悪意」)について説明した。

 レベル1の説明を聞きながら、なんか一度だけ、それも部分的に観たことがあるようなないような、変な感じに襲われた。

 レベル2に関しては「ほぼ見えている≒さりげなく画面で描かれている」ものなので、レベル1の説明の段階で半分以上は私も読み取れていた。私が宮崎氏の原子力利用に対する姿勢を知っていたり、スリーマイル島及びチェルノブイリ原発事故やその後についての知識があることは、当然「レベル2の読み取り」に大きく寄与している。

 レベル2までの説明なので、岡田氏の分析に対する私の意見などは保留とするのが妥当だろう。特に反対意見とかは無いんですけどね。レベル3が構成に関わるものとなるらしく、個人的にはキモとなるのではないかと予想。レベル2までの説明だとラストで描かれている内容は「空想側」の筈だが、「現実側」としないとせっかくの「悪意」がスポイルされるしまう。「空想側」としても誰の「空想」なのかが不明だ(主要登場人物は途中で死んでいる、と岡田氏はうっかり?口にしてしまっている)。この辺りを「構成」レベルの読み込み(レベル3?)で明らかにしてくれるとかなりすっきりしそう・・・レベル6までの説明を聴くため、ゼミの有料会員になっても良いかなとちょっと思う。まぁ、とっとと体調戻さないと金銭的にね・・・

 最後に一言。

 「描かれたイメージ、引用元」、「表面的な構成・現実と空想との対立や、ラストまで大部分があやふやななままの現実と空想との境界」や「悪意の存在とそれらの紛れ込ませ方」、そしてもしかしたら「構成は、空想-現実ではなくて空想-悪夢-現実かも」などは、テリー・ギリアム監督の映画「未来世紀ブラジル」っぽくないですかね?

ソフトシンセFALCONの勉強開始

 2017年ごろまで主力として使っていたソフトシンセはz3ta+2だった。z3ta+2は音作りし易く、当時としてもCPU負荷は小さめと良いソフトシンセだった。しかし、今やWindows10上での使い勝手の悪さなどを含めて色々と問題が出てきた。そこで私の健康状態が未だ良かった2017年、z3ta+2の置き換えを念頭にXfer社のSerumとUVI社のFALCONの二つのソフトシンセを思いきって購入した。

 さて、欲しい音が無ければ一から作る、或いはプリセットを編集するのが私の基本姿勢だ。だから音作りがし易い方が置き換えとして有望、更に言えばz3ta+2で以前に作った音を短時間で再現できる方が望ましい。ユーザインターフェース(UI)の分かり易さはSerumの方が圧倒的に勝っていたので、これまでは積極的にSerumを使ってきた。z3ta+2で作った音の再現も面白いように進んだ。

 Serumで単純なサイン波を出す場合の見た目は下のようになる。実はベロシティの取り扱いに癖がある(他の多くのソフトシンセと違い、ユーザが一から設定しなければならない)のだが、UIは直感的で分かり易い。
 が、如何せんSerumのCPU負荷はデカすぎた。今の私のPCとCubase10との組み合わせでは、6本もvstiとして挿すと再生時に音が飛ぶ飛ぶ。z3ta+2なら10本挿してもなんともないのとは対照的だ。

 そこで改めてググってみたところ、やはりSerumのCPU負荷は大きい方であること、対して FALCONのCPU負荷はz3ta+2程ではないものの小さい方であることが分かった。と言う訳で、急遽FALCONでの音作りの勉強を始めた次第である。

 で、FALCONで単純なサイン波を出す場合の見た目は下のようになる。一日前は「Program?Layer?Keygroup?何?何?」だったが、2時間程うんうん言いながら触ることで、なんとか音作りのフローと言うか、全体的な考え方と言うかが理解できたように思う。ただUIは、分かり易いとか見通しが良いとか言えるものではないよね、構造は論理的ではあるけど。UVI社のチュートリアルとヒント(日本語)が有って本当に助かった。
 現在はAdditiveオシレータを一から勉強中なのだが、これ自分にニーズがあるのかは未だ分かんないなぁ・・・。ちなみにサンプラーもあるよ。

 元はz3ta+2で作って(Thatness and Thernessのカバー(YouTube)で使用)、Serumで再現した簡単なベース音を、更にFALCONで再現してみた ^_^。これぐらいなら結構簡単かな。とは言え特性が同じフィルタは用意されていないから、フィルタのパラメータ調整は完全に耳頼り。

2019/12/07

EDIROLブランド製品とWindows10バージョン1803サポートの終了

 本ブログのキラーコンテンツ的エントリと言えば「Windows10でEDIROL PCR-M1が使えるようになったよ!」。2015年のエントリだが、未だに月当たり10回以上のアクセスがある。内容は、Windows10用ドライバがサポートされなかったEDIROLブランドMIDIコントローラを、Windows8用ドライバを使ってWindows10上で使えるようにする方法の説明だ。今では同じ内容をもっと丁寧に説明しているブログもあるので、なかなかにニーズがある情報のようだ。

 ただエントリで説明している方法は「マイクロソフト社的に推奨されないもの」なので、Windows10の大型アップデートを適用するとご破算、ドライバや設定は引き継がれない。そのため半年毎の大型アップデートの度に件のエントリ記載の手順を繰り返さなければならない。ちなみに私は、2017年夏のPCR-M1の故障を機にIK MULTIMEDIA iRig Key(Windows10のUSB接続MIDIキーボード標準ドライバが対応)を新たに導入した。このため、件のエントリで説明した方法が未だ有効なのかどうかは確認できなくなっている。

 で、この一カ月の件のエントリへのアクセス数が3倍以上に急増した。 一瞬「?」となったが、ちょっと思い当たる節もあったのでそれについて書いておこうと思う。

 Windows10のバージョン1803、つまり2018年3月バージョンのサポート期限が2019年11月いっぱいで切れた(筈)。このためだろう、バージョン1803を使用していたPCでは10月初旬ごろから盛んにバージョン1909(最新バージョン)へのアップデートを促すメッセージが表示されるようになった。と言うのも、親が使っている実家のPCがそういう状態になっていたのだ。色々な手を尽くしたものの実家のPCのアップデートは失敗し続けたため(結局、「コンピュータに加えた変更を元に戻しています」となる)、バージョン1909のクリーンインストールを余儀なくされた。

 ちなみにアップデートログによれば、アップデート失敗の原因は古いバージョンのWindowsフォルダのバックアップコピーの失敗だった。少し具体的に書くと、「古いバージョンのWindowsフォルダ」を含むドライブの指定が、本来あるべき「C:」ではなく「D:」となっていたのである。無いフォルダをコピーしようとするからエラーになる。ググってみると分かるのだが、同じ原因での失敗はバージョン8.1以前のWindowsからWindows10へのアップデート時に既に発生が報告されている。由緒あると言うか、これ、マイクロソフトに原因があるでしょ?

 さて、そのような経験を踏まえると、この一カ月ほどの間に(失敗はしなかったにしても)Windows10の予定外の大型アップデートを強いられた人は少なくないと思える。そしてこの予定外の大型アップデート適用が、上述した件のエントリへのアクセス数の急増の原因ではないかと推測している。実際のところはどうなのだろう?

 アクセスがあること自体、またエントリの内容が役に立ったということがあれば単純に嬉しい。と同時に、「ブランド消滅からほぼ10年、未だ愛されてるEDIROL製品があるんだなぁ」とちょっとほっこりした気分にもなりますね。

2019/12/03

「読解力」は「解釈力」ではない

 「解釈力」なんて日本語は無いとは思うけど、まぁ、そこは流して。

 NHKのニュースで、経済協力開発機構(OECD)が2018年に行った学習到達度調査(PISA)の結果、日本は「読解力」が15位と前回8位から順位が下がったとの報道を観た。番組中、とある小学校での「読解力」を高めるための取り組みの様子、とやらも紹介された。そこには、児童文学作品「ごんぎつね」を題材に自身の「解釈」や「感想」を交換し合う子供たちの姿があった。

 これはダメだ、と思った。

 「読解力」とは、文章として書かれている内容そのもの、或いは論理を理解することである。正しく読解された論理は読解した主体に依存することなく、(使用された単語の曖昧さの範囲内で)一致しなければならない。対して「解釈」は、正しく読解されたとしても解釈した主体によって違い得る。従って「解釈」の訓練(或いは「解釈」が評価対象となるようなカリキュラム)などいくらやっても「読解力」の向上には繋がらない。

 ニュースでは「英語などもやらないといけなくなった現在、『読解力』向上のための手を打つ時間をひねり出すことが難しい」旨の言及があった。ならば、英語をきっちりやれば良い。曖昧さをより排して論理が明確な文章を書くには、総じて日本語より英語の方が向いている。逆もまた然りなので、英文を英語のまま読む(日本語に翻訳せずに)、英文で書かれている論理を理解する、すなわち日本文よりも論理がより露わであることが多い英文の「読解力」を訓練すればよい。

 どうせ英語教育カリキュラムの要求は「読解」までで、読解したものを「解釈」することは求めない。テストの回答に「解釈」を記述しても点は貰えない。ちょっと勘の良い子供なら、国語、英語の授業を通じて、「読解」と「解釈」が別物であることはすぐに理解できる(この理解の有無がテストで得られる点数に確実に影響するからだ)。問題は、教師の多くがそれを理解していない可能性が高そうなこと、加えて意図的に生徒にそれを教えていない場合(「読解力」の無い大人の生産を意図?私が共産主義革命を夢見る教師ならばやるかもしれない)もあり得ることだ。

 昔、日本国憲法を「ある人達が自分達の言葉で書き換えたもの」が出版されたことがあった。出張帰りにJR上野駅内の本屋で立ち読みし、すぐにこれはダメだ、と思った。行間に見え隠れする特定の方向の政治的思想は措いておこう、それらは私の「解釈」に過ぎないかもしれないからだ。だが、それら「書き換えたもの」の示す論理、すなわち「読解」した結果が、「オリジナルの文章」(原文)の示す論理と大幅に違ったのは大問題だ。換言すると、「書き換えたもの」の示す論理が、「原文に対する書き換えた主体の『勝手な解釈に過ぎない』」としか判断できず、なんらの価値も見いだせなかったからだ。「自分達の言葉で書き換える」ことは構わないが、書かれている論理が変わってしまっては日本国憲法とは全くの別物である。

 「『正しい』解釈があり、(読解の結果はすっ飛ばして)それにしか点は与えない」と言う小中学校教育の一犠牲者である私や近い世代の知り合いの多くは、「二度と騙されないぞ」との思いなどもあり、「読解」と「解釈」の区別に敏感である。小説家・野坂昭如氏は自著の文章がとある試験に使われた際、試験問題の正解、すなわち問題作成者の「解釈」、に異を唱えたことがある。この件をニュース報道で知った瞬間こそ、私が「教えられた『正しい』解釈」なんて当てにならないことを理解した瞬間だった。

 片や体感として、職場でも「それはあなたの解釈でしょ?(本当はそうじゃない)」と口にせざるを得ない機会がこの10年ほどで明らかに急増した。やはり「読解力」の低下は起きているのだろうか?

 今日の教育は、「読解」と「解釈」が別物であることをきっちり教えているのだろうか?「読解力は読解力」として、「解釈力は解釈力」としてそれぞれ評価しているのだろうか?上述のNHKのニュースの映像からは全然期待できない気がする。

2019/11/26

SONY WH-1000XM3、結構ウマくない

2019/12/21:デスクトップPCとの接続状況の確認結果を追記しました。また最終的な使用感には影響しませんでしたが、iPod touchもペアリング相手として使ってみた旨も追記しました。

2020/1/8 : 関連エントリ「続・SONY WH-1000XM3、結構ウマくない - Sonarworks Reference 4を使ってみる」


 SONY WH-1000XM3はBluetooth接続のワイヤレスノイズキャンセリングヘッドホン/ヘッドセット、結構いい値段する。色々めぐり合わせがあって購入し、1ヵ月程使っている。連続使用可能時間やノイズキャンセリング機能には全く不満はない。

 主なペアリング相手はデスクトップPC(Windows10)で、Bluetooth通信チップやドライバ用ライブラリはQualcomm社製、通信コーデックはaptXだ。体感の遅延は50~75msとBluetoothとしては悪くないが、リアルタイム性が要求されるゲームや大部分のDAW作業には辛い。

 ただDAW作業であっても、「イコライザーやフェーダーを操作しては聴く」を繰り返すような最終マスタリング作業を「時折部屋中を踊りながら」行うには問題ない、と言うか、購入時の主な使用目的こそそれだった。が、音質と言うか音の味付けと言うか、音そのものがマスタリング作業向けとは言えなかった・・・と言うのが本エントリで書きたいことの一つだ。

 あとApple iPod touch(第6世代)もペアリング相手として使ってみた。なおSONYの専用アプリは使用しなかったほか、iPod touchがデフォルトで持つ音質を変え得る機能も一切使用しなかった。

 ちなみに普段使いのヘッドホンはPanasonic PR-HD5(密閉型)とSENNHEISER HD599(開放型)及びPioneer SE-CH9T(インナーイヤー型)、スピーカーはBauXar Marty 101(タイムドメインスピーカー)だ。当然これらのヘッドホン、スピーカー間でも音質に違いはあるが、結論に先立って書いてしまうと、WH-1000XM3はとびぬけて音質が違う。

 なおタイムドメインスピーカーにはネガティブな人も多いようだが、個人的に本品はスピーカーとして良くできていると思う。楽曲のジャンルも選ばず、音楽以外にも十分対応し、良く音が通るため低音量で使える。高さ30cm程度と大きくはなく、配置もルーズで良いので置き場所には困らない。なお「タイムドメイン万歳!」などとは微塵も考えていない事は断っておく。昔々Maxellが出していたタイムドメインスピーカーの音は本体を叩き壊したくなるほど酷いものだったし、「タイムドメイン」は理論(セオリー)ではなく手法(メソッドまたはテクニック)というのが数式も追っかけた上での私の結論である。蛇足ながら一実験屋、計測屋としての立場から言わせてもらうと、ゼロ信号をきっちり出せるハードウェアの設計という視点からはタイムドメインの考え方は面白く、テクニックとして一つの解答になっていると思う。

 閑話休題。

 まずはデスクトップPCとの接続状態のチェックである。WH-1000XM3のWindows10での接続形態はヘッドセットとヘッドホンがある。Windows10の仕様なのかWH-1000XM3の仕様なのかは知らないが、ペアリング直後はヘッドセットとして接続される(下図の下から2番目)。この状態での音質はノイズ交じりで低域も出ておらず、音楽視聴にはとても耐えられない。が、その後10秒も経つとヘッドホンに自動的に切り替わり(下図の一番下)、音質は向上する。ヘッドホンとして接続されているかどうかは、下図に示すようにサウンドのプロパティから確認できる。
 次いで 、後で触れるDAW(ざっくり言えば音楽制作アプリのこと、ここでは具体的にSteinberg CubasePro10)とWH-1000XM3との接続を確認する。大抵のDAWは、ヘッドホンなどの入出力デバイスとの入出力信号(音声信号)のやり取りをASIOと呼ばれる規格に基づき行う。ASIOはWindows10などのOSの音声処理機能をバイパスするので、DAW上でWH-1000XM3を出力先(アウト)先と明示的に指定する必要がある。下図はWH-1000XM3チェック時のASIOの接続状態で、「ヘッドホン(WH-1000XM3)」の状況がアクティブ(=接続中)となっており、ちゃんと出力先として指定されていていることが分かる。
と言う訳で、デスクトップPCとの接続は問題なさそうだ。

 音楽などの再生アプリ、環境は以下の通りだ。

  • Apple iTunes 12.10.3.1 (AAC、AIFF、MP3形式ほか)
  • SoundEngine Free  5.21 (Wave形式)
  • Steinberg CubasePro10.0.30
  • SoundCloud/Firefox 71.0
  • YouTube/Firefox 71.0
 既存の楽曲に加え、本件用のリファレンス音源を1曲用意した。リファレンス音源はDAW上でマスタリング段階にあるボーカル無しカバー曲で、iZotope社のTonal Balance Controlというツールで「周波数分布(バランス)が楽曲としてかなり良好」と確認できたものだ(下図参照、詳細は省きます・・・)。
 リファレンス音源はWave形式でDAWから書き出した後、AAC、AIFF、mp3などの形式に変換して再生アプリ、環境毎に適するものを用いた。

 古くは「ドンシャリ」に代表されるように、本格的な業務用であってもヘッドホンの音質には大なり小なり意図的な調整がされていることが多い。まぁ、そのため本当かどうか分かったもんじゃない「原音忠実」の代わりにリファレンス(参照)やスタンダート(標準)とされる製品があるんだろうし、逆に低音を盛ったような特定の音の味付けを売りとする製品も実現できる訳だ。当然、WH-1000XM3も音質に意図的な調整がされている筈だ。何しろ密閉型ヘッドホンとしては特段重くもなく、大きくもない。「原音忠実」を目指そうにも重量、形状や寸法に余裕がないし、そもそもそれがユーザニーズに合致しているかも分からない。

 WH-1000XM3は「高音質」を謳うが、あらためて考えてみると「いやそれ実際具体的にはどういう事だ」となる。少なくとも「原音忠実」ではないし、そうも言っていない。高サンプリングレート、高ビットレートなら高音質だということにはならない。が、値段もそこそこ、最適化機能付きノイズキャンセリングということで、多少なりとも「原音忠実」寄りの調整を期待してしまったのがそもそもの問題、間違いだったのである。実のところ、音質に関しては「専用アプリやOSの機能で調整してね」とばかりにユーザに丸投げしているだけだった・・・ように見える。もしそうなら「音楽を聴くための機器」としての性能は担保されていないように思える。技術的には素晴らしいハード、でしかない誰得製品と言うことである。

 「これは音質にかなり癖がある」ということには使い始めて直ぐに気が付いた。この辺はDAWをいじってきた経験やそもそも周波数分布や音の定位(左右の位置)などに癖のある楽曲を聴くことが多い事も影響しているのだろう。サイン波だけで作った現代音楽作品(例えばRichard MaxfieldのSine Music [A Swarm of Butterfiles Encountered Over the Ocean])の聴こえ方は周波数特性をダイレクトに反映してしまう。Satoru Wonoのアルバム「Sonata for Sine Wave and White Noise」なんかもそう。また自分でマスタリングした楽曲となれば、聴こえ方の変化には敏感とならざるを得ない。と言うか、「誰だこれマスタリングしたのは!」級に(部分的に)聴こえ方が別物になった楽曲もあった。

 そこで購入前には検索すらしなかったネット上のWH-1000XM3の製品レビューをチェックした。音質に関する指摘に限定すれば、「低域盛り過ぎ」とのレビューが多い。が、私の結論は似て非なるもの、「高域が痩せている」だ。これはデスクトップPC、iPod touchともに共通だ。そしてこの特性が、「低域をやや盛っていることが多い」他のヘッドホンやスピーカーと「明らかに違うと感じる」一つの原因となっていると考える。

 バスドラムやベースといった低域の音(例えば1kHz未満)はちゃんと出ていて、それらの残響音(エフェクトで言えばリバーブ)の広がり具合も良く分かる。一方、高域(例えば4~6kHz以上)は残響音の有無すら良く分からなくなり、原音自体も低域に埋もれて普段使いのヘッドホンやPC接続のスピーカーより聴こえにくい。低域はいい具合にウェット(残響がある)だが高域ではデッド(残響がない)な変なスタジオに入ったような気分だ。この聴こえ方は、「低域を盛った」製品での聴こえ方とも明らかに違う。高域のキレが悪い癖に低域の残響はちゃんと出るので、全体としてモコモコした音質になり易い。救いかつ問題なのは定位(音の左右位置)の左右の分離が良いので、低域の音が配置され易い中央付近以外の高域の音はそこそこ聴こえる。

 あくまでイメージだけど、グラフィックイコライザーで言えばこんな感じ。まず「低域が盛られている」
次いで「高域が痩せている」
まぁ実際のところは
ではないかと疑っている。最後の場合だと一応「低域を盛っている」ことにもなる。繰り返すけど、あくまでイメージね。

 結果としてどのようなことが起こっちゃたのか、或いはどうして「高域が痩せている」という結論に至ったかについて触れていこう。

・DAW上でドラムの音が決められない

 さてベースやドラムといった所謂リズム隊は曲の骨組みであり、DAWを用いた楽曲制作では初期でいったん詰めることが多い。この際、時折スピーカーや他のヘッドホンでも聴くことを繰り返す。このルーチンにWH-1000XM3を組み込んだとたん、スネアドラムの音が決められなくなった。言うまでもなくスネアドラムの音は高域の音を含み、自分の持つイメージの実現には音の選択のみならず、イコライジングやコンプレッサ、リバーブなどのエフェクト、定位までもいじる必要がある。簡単に言ってしまえば、WH-1000XM3だけスネアドラムの聴こえ方が極端に違うことが決められない原因だ。WH-1000XM3で良い感じにスネアドラムの音を調整すると、他のヘッドホンではやたらとシャリシャリした音になり、残響も強過ぎる。

・かつて自分でマスタリングした楽曲の聴こえ方が変わる

 YouTubeにMegpoidなどのVocaloidを使った楽曲をアップロードしているが、根が捻くれている所為なのか、意図的に聴きにくく(流し聴きにくく)している楽曲もある。ある楽曲では、フレーズの高音部でのみぶーんといった耳障りな自励振動音が乗るようなシンセサイザー音をわざわざ作って使ってたりしている。年寄りの自分が聴いても未だに「ひいいいいっ」となってしまうレベルだから、若い人の良い耳には数秒とは言えキツイのではないかと思う。ところがWH-1000XM3ではその耳障りな音が全く聴こえない、本当に全くだ。わざわざ入れたフック(引っかかり)が消えてしまうとなると、曲として別物と言える。

・ ピアノ、ストリングスがおいしくない

 ピアノ、ストリングスの音は高周波成分を多く含む。高周波成分が多いのは所謂アタック時、音の鳴り始めだが、残響音や共振音を介してアタック時以降の音の響きを複雑なものとしてくれる。音がリッチで「おいしい」状態だ。が、WH-1000XM3ではピアノ、ストリングスが多々おいしくなくなる。ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲作品43~第18変奏」なんて酷い有様となる。有名な曲なので、タイトルは知らなくても聴いたことはある人は多い筈。ちなみに下に引用した動画は著作権的に無難そうだっただけで、好きだとか良いとか思うバージョンではありませんので念の為。あと、Megpoidのおいしい周波数域はピアノのそれに結構近いんですよ、つまり・・・(嘆息)


・もともと極端な周波数分布の楽曲はその味が失われる

 特にゲンナリさせられることになった例がXeno & OaklanderのBlueという楽曲。この曲、結構モコモコした状態で始まり、次いで輪郭のはっきりしたチキチキした音が加わる。ざっくり言えば、冒頭は低域音だけ、次いで高域音が追加で、ボーカル登場直前までは中域音抜きという形。WH-1000XM3では終始モコモコ、チキチキした音の持つ低域音との強いコントラスト(音量が大きいと耳が痛く感じるくらい、ただ下の動画ではレコードプレーヤーの針が痛んでいるのか高域はあまり強く出ていない)が完全に潰れてしまう。台無しですね。

・実は音の定位(左右の位置)がおかしい

  TPS(三人称視点シューティング)やFPS(一人称視点シューティング)といったゲームでは音も重要だ。特に足音などが聴こえてくる向き、の重要性は馬鹿にならない。「Tom Clancy's The Division」というTPSの場合、WH-1000XM3では足音などが聴こえてくる向きと足音の主の画面上での位置とのずれが他のヘッドホンより目立って大きい。また足音の主の移動による聴こえてくる足音の向きの変化がスムースではない。イメージとしてはWH-1000XM3は足音を真横に置きたがっている感じ。音の左右分離が良く聴こえるように音場を制御した結果、音場自体を破壊しているのではと疑ってしまう。

 Edgard Varèseの「Poem Electronique」も、あらためて聴くとWH-1000XM3だけ時折音の定位が他のヘッドホンやスピーカーと違うことが確認できている。足音の話と同じく、音が右からだけまたは左からだけとか極端に振れる。ピーガリガリバキューン系の楽曲(作品)なので再生する場合は音量注意。
 という感じで、SONY WH-1000XM3は使い方を選ぶなぁという残念な結論。安かったとしても音楽好きには勧められないなぁとすら思う。オーケストラ曲、弦楽曲、ピアノ曲、女性ボーカル曲は確実に殺される。金属弦を使ったカンテレの音はスッカスカでモニョモニョした何か別の音に変えられる。

 ノイズキャンセリング機能など含めワイヤレスヘッドセットとしては結構出来は良いと思うんですがねぇ。

2019/11/25

Cubase 10.5、変

 Cubaseユーザの年末と言えばアップグレード、もちろん有料。「年貢」なんて言い方もされるDAW界の風物詩です。今年はバージョン10から10.5へのマイナーバージョンアップでした。

 さて、本日Cubase10.5(Win)を触ってみたのですが、挙動が色々と変。 ASIO設定周りのウィンドウの変な挙動(操作しなければならない新たに開いたウインドウが既に開いていたウインドウの下に表示され、実質的に操作不可になるなど)は明らかにバグでしょう。

 やっかいなのは、Cubase10で作成した同じプロジェクトファイルを読み込んだ時に、Cubase10とCubase10.5で「Outputでのトラックの音量バランスが別物レベルで違うことがある」こと。起きるプロジェクトファイルと起きないプロジェクトファイルがある訳です。ちなみに全トラックのオーディオインサートを無効にしても音量バランスは違うままなので、特定のvstエフェクトが無効化されたりクラッシュしたりが原因の可能性は極めて低く、まさに音量、フェーダーに関わる不具合のように見えますね。

 あと再現性が無いんだけど、プロジェクトファイル読み込み中にいつの間にか落ちていることが多々ある。有効にできないオーディオインサートFXがある。

 アップデートを重ねたCubase10も悩まされるレベルの細かな不具合がまだまだ残っていましたが、確認した範囲でそれらもきっちり10.5に引き継がれていましたね・・・

補足(2019/11/25):
 色々とアカンですね、不審な挙動が多すぎますよ10.5。暫くは10で行きます。