もう1年以上病気でまともに動けない状態もあって今日になって知った、大童澄瞳さんのマンガ「映像研には手を出すな!」のTVアニメ化。「半年ぐらい前が最初のアニメ化に良い頃合いだったよなぁ」と突如閃いて元旦にググってみたら・・・。
原作は飛ばし飛ばしで数としても10話も読んでないという体たらくだが、第1話を一読した時点から映像化されたときの「俺イメージ」と言うか、「演出プランもどき」と言うか、が明確にあった。そういうものを喚起させられる、どうすれば良いだろうかと一度は考えてしまう、私にとって稀有なマンガなのだ。健康上の問題が無ければ、少なくとも単行本はリアルタイムで追いかけていただろうと思う。
で、最新のPVを観る。
ん~彩度が高めの色彩設計だなぁ、というのが一見しての印象、例えば制服の上着の青さとかね(黒のラインとのコントラストが出なくて、見にくい気もする)。これは批評とか好みとか言う話とは無関係で、要はマンガから喚起された「アニメ化時の俺イメージ」との差分以外の何物でもない。もうちょっと正確に書いておくと、「日常世界」シーンは敢えてもっと色をくすませていてもいいんじゃないかなぁ・・・と言うこと。「日常世界」シーンと所謂「最強の世界」シーンとの演出上の区別のために彩度差も使えるようにしておこう、という意図が裏にあるよーな気もする、我ながら。
じゃぁ「俺イメージ」の源流はどこにあったんだろうと考えてみると、日常側は16コマ/秒の8mmフィルム(Fuji)のライブ映像、「アニメ内アニメ」たる「最強の世界」側は16mmフィルムで撮影されたかつての普通のTVアニメの映像なんじゃないかなぁと。原作マンガを読んでいた時、8mmフィルムで映画を撮っていた若いころのことを思い出していたのかもね。とは言えあくまで「フィルムの持つ色味の風合い」の記憶を喚起されたのではないかと言うだけであって、実際のカメラやレンズの限界や絵作りは別問題。もちろん日常側で粒子の粗い画を使うという意味じゃない、色だけの話。
第1話をベースに考えても「映像研には手を出すな!」は、ざっくりと言って「日常世界」と所謂「最強の世界」と両世界の「遷移過程(トランジション)」を連続的に描く必要があり、このあたりをTVアニメがどう取り扱うかには興味を持たざるを得ない。アニメ版における所謂「最強の世界」シーンは言わば「アニメ内アニメ」、「アニメでアニメの画を表現するシーン」であるため、特定の画が「日常世界」のものなのか所謂「最強の世界」のものなのかの正しい判断を、作り手側からのサインなど無くして、視聴者に期待することは必ずしもできない。
本質的にはレベルが違う話だが、アニメ劇中のTV画面上の映像がアニメなのか実写なのか明確に区別できるか、と言う問題を考えてみて欲しい。TV画面上のキャラクターと劇中のキャラクターのデザインが異なる場合は、作り手側から区別のための何らかのサインが送られている可能性がある(或いは、原画家が好きなアイドルを自分の手癖丸出しで描いただけかも知れない)。対してデザインに差が無い場合はどうだろうか?
「遷移過程」の描写は、少なくとも時系列的に画を追っている視聴者にとっては、「日常世界」と所謂「最強の世界」の切り替えの明確な判断基準となる。故に、「遷移過程」は「双方向ともに、かつ遷移過程であると明示的に」描かれることが例えば必要だろう。もちろんもっと良い手法が使われればその限りではない。
対して「日常世界」と所謂「最強の世界」との区別を視聴者に丸投げしたり、「遷移過程」の描写がスタイルのみを志向して「日常世界」と所謂「最強の世界」の切り替えを明示する機能を実効的に果たさせなかったりすれば、「アニメ化」には失敗したと見做さざるを得ないだろう。実際、「映像研には手を出すな!」の「アニメ化」、より厳密には「アニメならではの再現乃至は表現上の拡張を伴うコピー」、は本質的に難しいものと思わずにはいられないのだ。ここで「コピー」とは、「オリジナルとの関係性を維持している」、「結果としてオリジナル(原作マンガ)の持つ良さや面白さも語ってしまう」という意味を込めたポジティブな表現であるので念の為。
ポストモダン化したとか言われて久しい今日のアニメ作品の在り方からは、それに慣れた作り手の手癖に従って、「日常世界」と所謂「最強の世界」との画面上での区別を視聴者へ丸投げする可能性も危惧される。このような事態が出来してしまった場合、この原作の構造・内容(マンガ内アニメをマンガで描く)をしてその態度は作り手側の怠惰や甘えでしかないと敢えて書いてしまっておこう。「アニメ内アニメを、それも作中人物が物語内で実体化した又は具体的かつ理想的に思い描いたアニメを、メタ的にアニメで描く」ための「アニメの文法、お約束」は無いから、それに対応するプランやアイディア、それに向かい合う覚悟は多少なりともアニメの作り手に期待する。
ただしこれは昨今のTVアニメに多々見られる流儀に慣れた、擦れた視聴者にとって面白いものになるとかならないとか、商用的にどうのこうのとは別問題なのは言わずもがな。要は、擦れていないアニメ視聴者や原作マンガ未読者が「アニメ観て良く分からんところがあったけど、原作マンガ読んだらあっさり分かった」となったらツマらんよね、と言うだけの話。それじゃぁただの「シミュラクル(≠コピー)」じゃんか、原作マンガの表層・見た目をなぞっただけやん、ってね。つまり、アニメ版は作品として独立して成立していないってことだ。
PVではマンガ第1話の分も含めて「遷移過程」の具体的処理を垣間見ることはできる。なるほどそういうやり方か、分かりやすい、と思う。上から目線を許してもらえれば、「ひとつの正解」だと思う。が、所謂「最強の世界」の処理はちょい見せと言うか寸止め状態で、作中人物の描画方法は「遷移過程」と同じだがメカは手描き調からCGに変えるのかな、ぐらいのことしか分からない。個人的な好みから言えば、所謂「最強の世界」の描写こそ、CGで作った部分もうまく処理して「必要なら手描き感てんこ盛りで、作中人物が実際に作ったアニメ作品っぽく見える」ものであって欲しい。でもCG丸出しの方が実際のプロダクト(制作物)っぽく見えるのが今時なのかなぁ。
本質的にはレベルが違う話だが、アニメ劇中のTV画面上の映像がアニメなのか実写なのか明確に区別できるか、と言う問題を考えてみて欲しい。TV画面上のキャラクターと劇中のキャラクターのデザインが異なる場合は、作り手側から区別のための何らかのサインが送られている可能性がある(或いは、原画家が好きなアイドルを自分の手癖丸出しで描いただけかも知れない)。対してデザインに差が無い場合はどうだろうか?
「遷移過程」の描写は、少なくとも時系列的に画を追っている視聴者にとっては、「日常世界」と所謂「最強の世界」の切り替えの明確な判断基準となる。故に、「遷移過程」は「双方向ともに、かつ遷移過程であると明示的に」描かれることが例えば必要だろう。もちろんもっと良い手法が使われればその限りではない。
対して「日常世界」と所謂「最強の世界」との区別を視聴者に丸投げしたり、「遷移過程」の描写がスタイルのみを志向して「日常世界」と所謂「最強の世界」の切り替えを明示する機能を実効的に果たさせなかったりすれば、「アニメ化」には失敗したと見做さざるを得ないだろう。実際、「映像研には手を出すな!」の「アニメ化」、より厳密には「アニメならではの再現乃至は表現上の拡張を伴うコピー」、は本質的に難しいものと思わずにはいられないのだ。ここで「コピー」とは、「オリジナルとの関係性を維持している」、「結果としてオリジナル(原作マンガ)の持つ良さや面白さも語ってしまう」という意味を込めたポジティブな表現であるので念の為。
ポストモダン化したとか言われて久しい今日のアニメ作品の在り方からは、それに慣れた作り手の手癖に従って、「日常世界」と所謂「最強の世界」との画面上での区別を視聴者へ丸投げする可能性も危惧される。このような事態が出来してしまった場合、この原作の構造・内容(マンガ内アニメをマンガで描く)をしてその態度は作り手側の怠惰や甘えでしかないと敢えて書いてしまっておこう。「アニメ内アニメを、それも作中人物が物語内で実体化した又は具体的かつ理想的に思い描いたアニメを、メタ的にアニメで描く」ための「アニメの文法、お約束」は無いから、それに対応するプランやアイディア、それに向かい合う覚悟は多少なりともアニメの作り手に期待する。
ただしこれは昨今のTVアニメに多々見られる流儀に慣れた、擦れた視聴者にとって面白いものになるとかならないとか、商用的にどうのこうのとは別問題なのは言わずもがな。要は、擦れていないアニメ視聴者や原作マンガ未読者が「アニメ観て良く分からんところがあったけど、原作マンガ読んだらあっさり分かった」となったらツマらんよね、と言うだけの話。それじゃぁただの「シミュラクル(≠コピー)」じゃんか、原作マンガの表層・見た目をなぞっただけやん、ってね。つまり、アニメ版は作品として独立して成立していないってことだ。
PVではマンガ第1話の分も含めて「遷移過程」の具体的処理を垣間見ることはできる。なるほどそういうやり方か、分かりやすい、と思う。上から目線を許してもらえれば、「ひとつの正解」だと思う。が、所謂「最強の世界」の処理はちょい見せと言うか寸止め状態で、作中人物の描画方法は「遷移過程」と同じだがメカは手描き調からCGに変えるのかな、ぐらいのことしか分からない。個人的な好みから言えば、所謂「最強の世界」の描写こそ、CGで作った部分もうまく処理して「必要なら手描き感てんこ盛りで、作中人物が実際に作ったアニメ作品っぽく見える」ものであって欲しい。でもCG丸出しの方が実際のプロダクト(制作物)っぽく見えるのが今時なのかなぁ。
ちなみに「俺イメージ」にはアニメ化版だけでなく当然のように実写化版もある。むしろ「映像研には手を出すな!」は実写の方が演出的なハードルは低い。これはライブアクションによる「日常世界」とアニメによる所謂「最強の世界」とが、その見た目から否応なく別物となる点にある。「遷移過程」はアイディア勝負で、作り手のセンスが問われそうだ。
出来としては、特撮カットが全てアニメカットに置き換えられた特撮映画をイメージしてもらえば大枠間違いない。ここで所謂「最強の世界」の描写では、手描きアニメーション内にライブアクションの作中人物が合成され、時に合成された実写俳優と手描きアニメキャラが相互がモーフする・・・そういう絵作りに作品上の必然性はあるし、技術的には可能だし、作り手にセンスがあれば絶対面白い画が作れる筈。音楽と音響効果にも画に負けないためのアイデアは必要で、まぁ、製作費10億円は最低限だよね。
出来としては、特撮カットが全てアニメカットに置き換えられた特撮映画をイメージしてもらえば大枠間違いない。ここで所謂「最強の世界」の描写では、手描きアニメーション内にライブアクションの作中人物が合成され、時に合成された実写俳優と手描きアニメキャラが相互がモーフする・・・そういう絵作りに作品上の必然性はあるし、技術的には可能だし、作り手にセンスがあれば絶対面白い画が作れる筈。音楽と音響効果にも画に負けないためのアイデアは必要で、まぁ、製作費10億円は最低限だよね。
・・・あ、実写版も製作中?えー・・・「遷移過程」は例えば手描き絵と切り抜いたスチール写真での低フレームレートのアニメとかでもいいけどさ、製作費はいくらなんだろう?
追記(2020/1/2):
NHKのニュースを観ようとしていたら「映像研には手を出すな!」の番宣に遭遇、PVでは寸止めされて出てこない所謂「最強の世界」の(おそらく)最初の1カットを観ることができた。正直「?」。期待していたのはものすごく情報量の多い(訳が分からんぐらいに)ディテールに溢れる光景だったのだが、エラく淡白な陰影の強い画(光景)が・・・。
まぁ、続くカットで期待していたような画になる可能性もあるし、私の期待や想像力をはるかに超える画を見せてもらえることを期待したいと思う。
ちなみに「期待していた画のディテール」とは、空間内のものと言うより、時間方向の蓄積や逸脱を含めた創作過程を象徴的に表現するようなものだ。ものすごく即物的な例えでは、作中人物がその日描いたイメージボードなり設定画の内容の奥(向こう側)に昨日描いたイメージボードなり設定画の内容が見え、更に奥にはうっすらと二日前に・・・と言うようなものだ。或いは、確固たる単一のイメージではなく、無数のあり得るイメージが多層的に重なったようなもの、と言った方がより正確かもしれない。多数の光景が一斉に見えているという、シュレディンガーの猫チックな頭の中でしか存在できないような状態だ。
もちろん、実際にそんな画を具体化することは難しいし、私に具体化のアイディアがある訳ではない。が、アニメなら時間方向(=時間経過描写の向きと速度、連続性の有無)や視点(≒カメラ位置、パースペクティブ)の移動・変化過程も演出に使えるし、複数カットを使えば何かやりようはあるんじゃないかと思う。第1話の所謂「最強の世界」シーンではまだ作中人物がそれぞれ違う光景を観ていても(≒作中人物が描いたイメージ群から違うイメージを抽出していても)良い筈だし、例えば作中人物が観る光景が瞬き毎に変化するような主観描写を積み上げる見せ方ぐらいなら、これまで積み上げられてきた「アニメの文法、お約束」内で楽々描ける。
「エラく淡白な陰影の強い画(光景)」で終わったらそれこそポストモダン時代的、視聴者への丸投げですよ。「読むべきもの(=読解力を発揮すべき対象)」の提示をせずに視聴者の「解釈」を「作品を成立させるために要求」されても、私は乗れん(=解釈なんてしてやらない、作り手が成立させられていないものを成立しているかのように取り扱うような一種の悪事の共犯にはなれない)わなぁ。つまらん。
作中人物が呆然としつつ初めて観る「最強の世界」の光景、どう描かれるんでしょうかねぇ。
追記(2020/1/2):
NHKのニュースを観ようとしていたら「映像研には手を出すな!」の番宣に遭遇、PVでは寸止めされて出てこない所謂「最強の世界」の(おそらく)最初の1カットを観ることができた。正直「?」。期待していたのはものすごく情報量の多い(訳が分からんぐらいに)ディテールに溢れる光景だったのだが、エラく淡白な陰影の強い画(光景)が・・・。
まぁ、続くカットで期待していたような画になる可能性もあるし、私の期待や想像力をはるかに超える画を見せてもらえることを期待したいと思う。
ちなみに「期待していた画のディテール」とは、空間内のものと言うより、時間方向の蓄積や逸脱を含めた創作過程を象徴的に表現するようなものだ。ものすごく即物的な例えでは、作中人物がその日描いたイメージボードなり設定画の内容の奥(向こう側)に昨日描いたイメージボードなり設定画の内容が見え、更に奥にはうっすらと二日前に・・・と言うようなものだ。或いは、確固たる単一のイメージではなく、無数のあり得るイメージが多層的に重なったようなもの、と言った方がより正確かもしれない。多数の光景が一斉に見えているという、シュレディンガーの猫チックな頭の中でしか存在できないような状態だ。
もちろん、実際にそんな画を具体化することは難しいし、私に具体化のアイディアがある訳ではない。が、アニメなら時間方向(=時間経過描写の向きと速度、連続性の有無)や視点(≒カメラ位置、パースペクティブ)の移動・変化過程も演出に使えるし、複数カットを使えば何かやりようはあるんじゃないかと思う。第1話の所謂「最強の世界」シーンではまだ作中人物がそれぞれ違う光景を観ていても(≒作中人物が描いたイメージ群から違うイメージを抽出していても)良い筈だし、例えば作中人物が観る光景が瞬き毎に変化するような主観描写を積み上げる見せ方ぐらいなら、これまで積み上げられてきた「アニメの文法、お約束」内で楽々描ける。
「エラく淡白な陰影の強い画(光景)」で終わったらそれこそポストモダン時代的、視聴者への丸投げですよ。「読むべきもの(=読解力を発揮すべき対象)」の提示をせずに視聴者の「解釈」を「作品を成立させるために要求」されても、私は乗れん(=解釈なんてしてやらない、作り手が成立させられていないものを成立しているかのように取り扱うような一種の悪事の共犯にはなれない)わなぁ。つまらん。
作中人物が呆然としつつ初めて観る「最強の世界」の光景、どう描かれるんでしょうかねぇ。