アニメ「ひそねとまそたん」11話を観ていない方にとってはネタバレを含みます。
うん、少なくとも11話終了までの描写では、「マツリゴト」が 「ゴジラ」でも引用された「禍神の鎮めの儀式の変遷過程」ともまた違った、なんか訳の分からないものと神道儀礼っぽいものとの混交物であることが分かった。「ガメラ3」が近いのかもしれないが、あれもさる筋との牽連性は思わせぶりなだけだったし、矛盾だらけだったし。何れにしても「華夷思想に合わせた日本の歴史、皇室解釈」みたいな居心地の悪さ、適当さは辛い(あれだ、欧米研究者の歴史学関係書籍で頻出する「・・・と中国の研究者は主張しているが、全ての研究者が賛同している訳ではない」ってやつに近い)。
「ゴジラ」の場合、最初の舞台となる孤島・大戸島では、映画でも描かれているように禍神を鎮めるために雅楽の奉納が行われる。この儀式形態はかなり神道的である。一方、土俗的な鎮めの手順として、若い娘を筏に乗せて海に放つ、という風習が以前は為されたとされる。これはまごうことなく生贄の儀式であり、神道とも関連しない。
一般的に両者がどちらも行われることは無い。理由は簡単、目的を同一としつつも、上述した通りに儀式と風習の起源が全く違うためである。生贄を伴う土俗的風習が(後からやってきた)神道的儀式に置き換えられたというのが、ありがちな歴史的流れだろう。ゴジラを作った世代の人、特に原案を担当した作家・香山滋さんなどはこの辺りがちゃんと分かっていた筈だ。もっと言えば観客の多くも分かっていた筈だ。「大魔神」シリーズでも神(大魔神)はそれが生贄は求めない(生贄の代替である兵士型の埴輪の形をした御神体が生贄を求めるとか、なんという有り得ないシチュエーションか)。
そもそも、生贄を伴う土俗的風習にも発生起源がある筈だ。時代の推移とともに数を減らしつつも、大戸島の周辺には以前から後にゴジラとなる生物群が生息していた。生物群の食料は回遊魚だが、回遊量が少ない年には漁師の船が襲われたり、大戸島へ上陸して家畜や住民すら襲うこともあったかもしれない。そんな状況下で漁獲量が少ない年に筏で生贄を海へ送り出すことを繰り返したところ、生物群による被害の低減や根絶といった実効がみられたため、生贄は土俗風習化した。その後も風習は続くが、おそらく件の生物数の更なる減少を原因として、風習の実行性は実は失われていた(不要になっていた)。この段階まで至れば、生贄を伴う風習を「生物群を禍神と見做し(宗教普及のためにそういうことにして)、それらを鎮めるための雅楽の奉納」に置き換えてもなんら実害は生じない・・・実益は土俗宗教の神道化、神道の勢力拡大くらいである。そして生贄の風習が失われて幾星霜、「ゴジラ」登場直前までの日常が形成された訳だ。生物群はひっそりと絶滅していた、或いは絶滅する筈だった。が、核兵器開発競争が全てを変える。それが「ゴジラ」という物語のスタートラインだ。
劇中、ジョアおばさんは「生贄」という表現を使う、「人柱ですらなかったのか」と正直驚かされた。「柱」は神の数を数える時の単位でもあることから分るように、神扱いとして祀る対象ともなる。個人的理解では神道的には人柱もアウト、生贄は論外。まぁ、「楔女が人柱である必然性すら否定した」先行するエントリの妄想内容は壊滅的に大外ししたということになる。
いやはや、「マツリゴト」にこれほど神道色が無いとは思わなかった。「龍が出てくるんだからしょうがない」と言ってもね、宮内庁の名前を引っ張り出してまでこれはどうなのかな。宮内庁の登場は「生贄」や「人柱」の封印宣言と解釈していたのでどう持っていくのか楽しみでね(生贄は安易すぎるでしょ?)、どちらも神道とはなじまないので・・・と12話で大逆転ですか!?(まだ諦めていない)