韓国語はまったく知らないのだが(ちょっと嘘、他人を罵倒する時の表現は知っている。言われたことがあるからね)、ハングル文字は全ての音を発音できないにしても読むことはできる。これは何の自慢にもならなくて、ひらがなで言うところの五十音表に当たるものを単に覚えているだけだ。覚える、という観点からはハングル文字は実に機能的だ。地名や人名といった固有名詞はすぐに判別できるようになる。
が、ウェブ上でのとある指摘 にちょっと目からウロコ、頭で分かっていても実感がなかったというのがポイントだ。
具体的には、ハングル文字と言うのは単なる表音文字で、かつ音と文字は一対一の対応しかないから、同音異義語の区別は文脈に頼らざるを得ない。これは書き文字としては機能不足の感が否めない。
つまり、
グタイテキ ニワ ハングル モジ トイウノワ タンナル ヒョウオンモジ デ、 カツ オン ト モジ ワ イッタイイチ ノ タイオウ シカ ナイ カラ、 ハングル モジ ノ ブンショウ デワ ドウオン イギゴ ノ クベツ ワ ブンミャク ニ タヨラザル ヲ エナイ。 コレハ カキモジ ト シテワ キノウ フソク ノ カン ガ イナメ ナイ。
という感じで、更に書きなぐると、
グタイテキニワハングルモジトイウノワタンナルヒョウオンモジデ、カツオントモジワイッタイイチノタイオウシカナイカラ、ハングルモジノブンショウデワドウオンイギゴノクベツワブンミャクニタヨラザルヲエナイ。コレハカキモジトシテワキノ
ウフソクノカンガイナメナイ。
となってもはや読む気も失せる。更に畳みかければ
gu ta -i te ki ni wa ha -n gu ru mo ji to -i -u no wa....
といった表現が実際により近いだろう。これを読むのは半端無くツラい。
考案者が福沢諭吉であるかどうかの真偽は置くとしても、戦前、戦後期に使われていた「漢字ハングル混じり文」表記の機能性の高さ、合理性は否定しようがない。が、漢字はもはや韓国では使われなくなってしまっている。これを一種の退化と見做す人が居ることは十分に頷ける。
古代エジプトのヒエログリフ(聖文字)、古代マヤ文字も基本的に「母音+子音」の組み合わせで一文字を構成しており、構造はハングル文字と実質的に同じだ。
ヒエログリフにはカルトゥーシュと呼ばれる「丸囲み」表記方があり、主にファラオの名前などに使われる。またカルトゥーシュと組み合わせた場合、ヒエログリフは「表意文字的に使われる場合もある」らしい。古代マヤ文字では、少なくとも碑文での使用においては、何をどこにどういう順番で書くかという「構造」がある。加えて古代マヤ文字で顕著なのだが、同音に対して複数の「母音を表す文字」と「子音を表す文字」がある。
同一の音に対して複数の文字がある理由についてはまだ定説はないようだが、碑文の文字として「見栄え」を優先できるように選択肢を増やした可能性が高いとされている。が、上記に示した様なハングル文字の現状を思うと、同音異義語の区別にも使われたのではないかとも思わずにいられない。もしそのような機能が付与されていたとすれば、古代マヤ文字はハングル文字よりも書き文字としての機能は高いといって良い。例えば「ジャガー」由来と「石」由来の同音の部分文字に、漢字で言うところのケモノ偏とイシ偏のように「表意文字」的機能を持たせることだって可能だ。まぁ、それは無さそうではあるんだけど。
英語にだって同音異義語はあるが、大抵は綴りが違う。品詞が異なる場合もある。北京語では漢字で同音異義語は厳密に区別され、話し言葉には声調まである。
日本語の話し言葉は同音異義語の区別機能は北京語に劣るが、イントネーションの地域差をきっちりおさえておけば実用上の問題は少ない。書き文字に至っては、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、漢数字、アラビア数字が混交して当たり前だ。しかも、ひらがなであっても音は必ずしもひとつじゃない。「は」と「わ」もそうだし、歴史を紐解けば「てふてふ」は「ちょうちょ(う)」と読むのがかつては普通だった。 「けふ」とか「ひらつか らいてふ」とかもそうだよね。
文字は言語を、言語は文化を反映している筈だ。故にそれまで使っていた文字を捨て去ることは、関連する文化的側面を失うことになりかねない。話し言葉においては「異音の同音化」(「を」と「お」、「ゑ」と「え」とか)は話し言葉の発展上は避けられないようだけど、それは区別する必要性が低いことを理由とする合理化であって文字を捨てる事とはレベルが全く違う。
文字とは関係ないけど、日本語にも複数形や過去完了形が欲しいと心から思うんだよなぁ…。