Vol.4とは関係ない話で申し訳ないですが、実はVol.3は一回見たきり。Vol.2がBGVにも使えたのでプレーヤーに入れっぱなしだったのとは雲泥の差です。要するに、2199オリジナルの語り口が肌に合わないのでしょう。Vol.3が面白かったのか面白くなかったのかと聞かれれば、「今は『ザ・ペンギンズ from マダガスカル』の方が見たいです!」って話をはぐらかしそうです。
Vol.4はとっちらか感がVol.3よりも露わ。結果、細かいことが気になるばかりという有様。2199の総監督が出淵氏と知った時点で、①Me262かMe163あたりのWWIIドイツ機のモチーフを絶対持ち込む、②耳がとんがった女性キャラが絶対出てくる、という直観があったのだが、実は既にその通りになっていということにやっと気付く、というのが一例。いい加減①②を外してくれば、プロっぽい雰囲気も出てくるだろうにね、と正直思います。
とっちらか感のひとつの原因は、Vol.1から思わせぶりなセリフがとにかく多い所にきて、更に思わせぶりなセリフを重ねていくところ。その話の中でだけならカッコ良かったり、雰囲気が良かったりしても、こんな使い方ではそれだけで終わってしまいます。確信犯的に視聴者をミスリードしても良いから、思わせぶりなセリフの謎をちゃんと順次回収していくのが送り手側としての良識ではないかと思いますけどね。
オリジナルは「アニメでSFをやろう」感がありました。「アニメ」は手段に過ぎない感がありました。私にとってのオリジナルの凄さは、「アニメ」という手段を選んでやりたいことをやった結果として、出来た作品が既存の「アニメ≒テレビ漫画」感を打ち壊し、表現手法や手段としての「アニメ」の可能性を実際に示してしまったことにつきます。つまり、「ヤマト」=「アニメ」である必然性はないのです。加えて、個人的には2199のSF感の欠如具合が本当に残念。私は「SFファン」ではあっても「アニメファン」であったことは一度もないので、私が2199に魅力を感じるか否かにとってSF感の欠如は致命的なのです。
また、ハンドルしなければならないキャラクターの数を増やしておきながら、エピソード構成はとても群像劇向きとは思えないのも奇妙。森雪、ユリーシャの扱いも思わせぶりなシーンを重ねただけで、視聴者のミスリードを狙っている雰囲気すらVol.4では失われてしまいました。
宇宙戦艦ヤマトという素材を「アニメ」で表現することは、「アニメを作ることを職業とする人たち」だけでは手に余るということなのでしょうか。
追記:「トランキ…ライザ?」なんてありましたね。有ったらヤダな、2199。
- 佐渡先生の「…こう、もっとリキのあるヤツで引っ叩かないと…(驚愕、絶句)」その他諸々。
- ・デスラー総統暗殺・クーデター計画「ワルキューレ」……ではベタ過ぎるので「ローレライ」……では終戦っぽいので「セイレーン」とか「オーロラ」、「トール」、「トゥーレ」、「ヴリル」。クーデター仲間同士の合言葉が「境界線(デマケーション)」。
- ガミラス帝国の秘密兵器「ディー・グロッケ(釣鐘)」、かと思わせておいて実はヤマト搭載の自動航行装置の名前が「ディー・グロッケ」…ちょっと形が違うか。何れにしても究極の量子状態観測装置であってはいけませぬ。
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