2015/02/01

ISIS(ISIL)は正当なカリフ国家なのか、是非そこから始めないか。

お前たち愚かな有志連合は、われわれがアラーのご加護により、権威と力のあるイスラム教カリフ国家であり、お前たちの血を欲しがっている軍であることを理解できていない。
 安倍、勝ち目のない戦争に参加するというお前の無謀な決断のために、このナイフは後藤を殺すだけでなくお前の国民がどこにいようとも虐殺をもたらすだろう。日本の悪夢を今始めよう。
ISIS(ISIL)の日本へのメッセージとされる声明の時事通信社による翻訳文だ。個人的には突っ込みどころ満載で、客観性の乏しい主張を前提に後段の内容を正当化している様にしか読めない。突っ込むべきところを突っ込んでおかないと今後に禍根を残すし、ISIS(ISIL)側の仕掛けているプロパガンダ戦で守勢一方となる。

 本声明に代表されるISIS(ISIL)のプロパガンダの対象は、むしろISIS(ISIL)内部及び将来の構成員にある。「(ISISが)アラーのご加護により、権威と力のあるイスラム教カリフ国家」であるかどうか、この点についてはイスラム法学者も含めた議論を早急に進め、国際的なコンセンサスを確立、共有を進める必要がある。すくなくともISIS(ISIL)が「イスラム法に照らしてイスラム教カリフ国家と言えるか」、「イスラム法に照らしてISIS(ISIL)のカリフとされる人物が正統と言えるか」という点については、特に早急にコンセンサスを確立する必要がある。概して異端は異教よりも憎いものであり、異端とされることによる前提の破綻はISIS(ISIL)にとっては致命的と言える。

 TVに出演する「イスラム専門家」すら概してこの前提に触れない理由は理解する(イスラム教が主流の国家、地方をうっかりすると敵/味方の二分法で捉えることになるリスクがある)が、既存の一神教とは概して無縁な日本が「本件を契機に、ISIS(ISIL)の声明の最も基本的な点についてあらためて真面目に考えてみた」は可能であり、これは日本社会が持つアドバンテージ、一種のフリーハンドである筈である。声高に叫ぶのでなく、実を取るべく一貫性を持って狡猾に振る舞うべきである。本当の怒りと言うものは、不容易に他者には見せなくて良い。

2015/01/31

三谷幸喜氏の脚本は・・・

基本的に上手いし、目の付けどころとかは出色な物が多い。が、それがTVや映画向きかって言うと別の話、というのが従来までの結論だし、これからも良くも悪くも変わらないんじゃないかと思う。

 小ネタがその見つけ方から見せ方までは基本的に上手いのだが、小ネタを小ネタとして単独で提示することができない性分のように見える。所詮小ネタは小ネタに過ぎないので、うっかりオーラスへの伏線として取り込んでしまうと、オーラスが一気にこじんまりとしてしまう。

 三谷脚本作品にはこの種の「一見尻すぼみ」なものが多い、というか90%ぐらいがそう。残り10%は何かというと、視聴者、酷い場合は映像作品の監督すらおいてけぼりで、せっかくの面白い脚本が理解されないままで終る場合だ。後者は、近日公開予定の三谷脚本、或いは監督映画の宣伝TV特番でやってしまう事が多かったが、さすがにその辺りは本人ももう気づいていると思う。

 一般的な日本人は欧米のコメディ(或いはスケッチ)TV番組のフォーマットなんて知らないから、そのフォーマット有りきで書かれた脚本や映像作品は本質的に理解される道理が無い。十代前半でそこらへんが分かってしまった場合には「三谷すげー!!!(って分かる俺すげー!!!)」ってことになるのかもしれないが、歳をとってから分かる場合には「分かってない人間の評価が的外れ」となる事を予測してうんざりし、やっぱり的外れな評価が出てきて二度うんざりという目に合う事となる。本人が止めたのか、周りが止めているのかは分からないが、幸いにして最近はそれが無い。

 ところが監督作品となると小ネタを小ネタとして使うということをやってしまう。しかし、小ネタを小ネタとして使う事に慣れたいないためだろう、小ネタという事は観ていて分かるが「ほぼ」面白くない。じゃあ面白い場合は?と聞かれれば、映画的或いはTV的でない小ネタ、カメラアングルやカット割に頼らずとも成立する小ネタの場合はなかなか侮れない。小演劇場だと割れんばかりの大爆笑となる可能性が高い。

 そう、基本はやっぱり演劇の人なのだ。

 演劇場というのは特殊な空間だ。TVや映画では当たり前の「空間を切り取るフレーム」、カット割は存在しない。演者のみによる時間の制御は不可能であり、回想シーンに相当するような演出を成立させるためには実は観客の共犯関係が求められる。そして、観客は演劇が始まる前に劇場に入り、劇が終ってから劇場を後にするのが基本だ。これは、たまたま、途中から観始めた人も極力視聴者として取り込みたいTVプログラムとは本質的に異なる。またTVプログラムは「ながら観」も許容しないといけないので、伏線は伏線、小ネタは小ネタできっちり割り切った方が良い。結局、TVドラマシリーズでは「キャラクターの決め台詞などの特定のセリフの反復」ぐらいしか小ネタとしては使えない状況になって久しい。これは吉本新喜劇の芸人のお約束芸と同じようなものだ。

 三谷脚本にはフォーマット(見た目を含む形式、或いはコンセプト)へのこだわりを強く感じるが、使われるフォーマットは現行の日本のTVプログラムが獲得、マンネリ化させたものとは異なる。この点は実はとっても評価しているのだが、如何せん映像化の段階でそれがスポイルされることが多い。氏の脚本を嬉々として使う割には、NHKにその辺りが分かっている製作者が居る様にも思えない。一見「人形劇TVプログラム」との相性は良さそうにも思えるが、これまた如何せん、現在の人形劇TVプログラムのフォーマット(フレーム構成やカット割)はライブアクションのそれとほぼ同じになってしまっている。つまり、現行の人形劇のフォーマットは三谷脚本向きではない。

 だから三谷脚本は三谷氏が望むようなフォーマットで映像化すべきではない、と断言してしまおう。三谷氏が脚本の形で提示したフォーマットを「理解した」上で、マンネリ化した業界のフォーマットとも異なる別のフォーマットで映像化、提示すべきである。それをしない限り、面白い脚本は面白い脚本で終ってしまう。基本的に三谷脚本はフォーマット、或いはコンセプトが明確で、コンパクトに出来上がっていると思う。だから同じフォーマットの枠組み内であれこれ考えても、オリジナルの脚本よりも面白い脚本にできる人間はそうはいない(フォーマットと独立した小ネタは例外)。でなければ三谷氏には才能がないことになってしまうが、決してそんなことはないと思う。

 プランBは、三谷氏が既存のフォーマットを放棄し、自ら新しいフォーマットを提示することである。最適なフォーマットの選定と先鋭化に関する氏の才能にはほぼ疑問の余地はない。ただ裏返しとして、必要ないので新しいフォーマットは使わない、という姿勢をとっている様にも見える。「あ、アレね(あ、刑事コロンボね、とか、あ、サタデ―ナイトライブね、とか)」と誰からも言われない三谷脚本はまだ存在していないのではないかと疑う。

 プランCは、三谷氏が明確に既存フォーマットにこだわりつつ、脚本のコンパクトさを追求し、かつ脚本自体をきっちりと後世に残すことである。「隠し砦の三悪人」が「スターウォーズ」になるには、元ネタのコンパクトさ(無駄の無さ)とコンパクトさを追求した映像化、加えてそのコンパクトさを理解してより強靭な(弾力性に富む、本質的な)別フォーマット内に落とし込むことが出来た人間の存在が欠かせない。つまり、想定外の発生に備えておくべきかも、と言う事だ。

ロシア+恋のバカンス

 知ってる人は知っている、ザ・ピーナッツの楽曲「恋のバカンス」はロシアでは結構ポピュラー。ロシア版のタイトルは「海で、青い海で」ぐらいでしょうか。ま、ステージ演出は色々と微妙ですが…編曲はほぼオリジナルのままだったり、宮川泰氏の仕事偉大なり。ロシア語歌詞にもバリエーションがあるようです(空耳?)。

2015/01/30

"Porkchop 'n Flatscreen! "、面白いんだか面白くないんだか

 おそらくFlashを使ったアニメ、Emezie Okorafor氏の"Porkchop 'n Flatscreen! "が面白いんだか面白くないんだかさっぱり分からない。が、現時点で公開されている8エピソードを全部見てしまった、不覚。
Ninja Girl Mai is a girl that looks like a boy.
Ayane Shiun is chubby.
Bobby Sykes is an angel.
Mina Kim is a fujoshi.
And, Mouse is mouse.

忍者ガールの舞は男の子に見える女の子。
彩音・紫雲はぽっちゃり。
ボビー・サイクスは天使。
ミナ・キムは腐女子。
そして、マウスはマウス。
だそーです。舞は男の子っぷり、彩音はぽっちゃりっぷり、マウス(アフリカ系女性キャラ)は不思議チャンっぷりがそれぞれ容赦なく、「萌え」とかとは完全にベクトルの向きも長さも太さ(!)も違います。そういう観点からは日本人にはなかなか作れない方向性という気も。

 英語が分からなくても基本的にストーリー(?)は追えます。

 往年の米国TVコメディ番組「可愛い魔女ジニー」のオープニングアニメのダンスをまんまマウスがエンディングでパクってるところで個人的にはバカ受け。"Photoshop"のセリフは実生活でも使えるかも(嘘)。

 絵が上手いかと言うと決してそうは言えないんだけど、たいがい古い「可愛い魔女ジニー」とか「ごめん、ね:)」とか"Fujyoshi"とか"Yaoi"とか製作者は色々と詳しいご様子、小ネタ満載、ややゆっくり目のタイミング系、すかし系ギャグが基本です。

 エピソード1です。下ネタ系ギャグも含むので念の為。

空間線量率の日韓比較

 福島第一原子力発電所の事故を矮小化するつもりは毛頭ないけれど、被曝量に繋がる空間線量率は事故が起きた発電所付近を除くと常識的な値の範囲にある。ちなみに私は一応原子力工学に相当する学科で卒論を書いているので、放射線に関する最低限の教育は受けている。

 ネット上で「東京での被ばく量はソウルよりも高い」などといった記述を多々目にすることがある。しかし、私の古い記憶に基づけば決してそんなことは無い筈だ。所謂「自然放射線量」は地質の影響が大きく(要は足の下の岩盤が放射性物質を含んでいるかどうかということ)、一般的には日本列島よりも大陸の方が地質的には高くなり易い。とは言え件の事故もある、ということでちょいと放射線量のリアルタイムモニタリングでググッてみた。

 このページ、タイトルは「福島事故の影響」となっているが、住民の被ばく量という観点からは総じて韓国の方が日本より高い(同等~3倍)。茨城県では短時間、ピンポイントで空間線量が上昇することがあるが、大抵は雨中、雨後である。これは煙突などから大気に放出された気体状の短半減期放射性物質の一部が雨水と共に落下するためで、原子力研究施設の多い茨城県東海村などでたまに見られる傾向だ。気体状の放射性物質だから基本的に地表面には残ったり溜まったりはしない。従って、件の事故後に見られるようになった所謂「ホットスポット(高空間線量領域)」は形成されないので念の為。

 「東京での被ばく量はソウルよりも高い」、は少なくとも現時点ではダウト。

2015/01/28

中国アニメの「巴啦啦小魔仙」、変身シーン

 パクリだ何だと国内で話題になってるそうです。個人的には北京語(マンダリン)の響きが好きなのもあって、まぁ有りかなぁと。日本よりはキャラの両目の距離が微妙に広め?+眼鏡のせいか、一人目の変身前がけっこう中国人っぽく見えます。男性も含まれるって点は何気に日本と違います。

 もうどうせだったらプリキュアシリーズ映画の一環として日中合作映画でも作っちゃえば、とか。 「人民解放軍製作の妄想爆発トップガンもどき似非愛国映画」なんか作ってるよりもよっぽど生産的かと思うし、かなり遠回りだけど日本の安全保障にも寄与しそうです。

 何故安全保障かは長いので省略、っつーか中国人の知り合いが何人かいないと日本人には余り縁のない「個人主義に根ざす行動原理の機微とイデオロギーやドグマからの自由」は分からないと思います。要は個々人は完全に追い詰めず、相互に利益のある退路のみを明示的に残す事が重要という事です。ダブルスタンダードに見える中共人民の行動の裏には、程度の差は有れどもしたたかな計算があると見ておいた方が良いと思います。何せ言行の結果には、自らの生命と財産がかかってますから。「国を喰う」個人が現れ得るのが大陸、個人におけるダブルスタンダードの解消の行きつく先の一つの姿ではないでしょうか。

 あくまで経験に基づく主観ですけど、一方・・・の言行にはそのような計算は無い様にしか解せません。そこは本質的にレベルが違う、大陸人の言行の劣化コピー未満の何かに過ぎいないのでしょう。

2015/01/25

Megpoid English、YMOの「The Madmen」カバー

 「おらといっしょにぱらいそさいくだ!」 ぼりぼり

 楽曲の元ネタというかインスパイア元は諸星大二郎氏のマンガ「マッドメン」とか。ちなみに冒頭のセリフ(うろ覚え)は同氏の別の作品(「生命の木」)からで、私の世代の伝奇マンガ好きなら必ず知っていなきゃならなかったセリフですね、あとヒルコの鳴き声とか。

「自分の解放の為に日本政府に圧力を掛け、安倍総理に働きかけて欲しい」???

「自分の解放の為に日本政府に圧力を掛け、安倍総理に働きかけて欲しい」 - 某報道

ここにはすごい違和感。脊髄反射に近い、まるで「警戒しろ、と私のゴーストが囁いたのよ」かのような。これは何????「安倍総理」って辺りが引っかかるのか????警戒しろとな????

OK, ISIS. I have two questions:
When did you kill Yukawa-san?
When did Goto-san know the death of Yukawa-san? Today, Yesterday or just before/after Goto-san moved to ISIS's territory at that time?

 身代金からヨルダンが拘束しているテロリストとの交換とか、むしろ敷居が上がっちゃってるじゃないですか。湯川氏の実際の殺害時期、それを後藤氏が知っているかどうかとか、様々なシナリオを考えてみてますが、どれも後藤氏解放には無理筋なものばかり。意外に闇深い感じがぬぐえない。う~ん・・・

2015/01/24

ISIS日本人拉致問題とか。

 ISISによる日本人拉致、身代金要求事案に対する総体的な日本人の反応は、ある意味私の想定通りで良い意味で驚いたというのが正直なところだ。想定外は拉致被害者の「母親?が記者会見」だが、会見内容についての私の反応は×○%$#$で、おおむねネット上での日本人の一般的な反応と大差ない。

 Twitterなどを介したいわゆる「コラ」の登場はリスキーだとは思ったが、現時点では一線を越えたものは現れていないようで何よりだ。具体的には「嘲笑或いは攻撃の対象が明確にISIS及びISISメンバーに特定されている」という事で、「イスラム教、イスラム教徒、預言者ムハンマド、クルアーン(コーラン)などを嘲笑、侮蔑或いは攻撃の対象としていない」と言う点で「一線を越えていない」と言える。この一線を越えると色々と面倒くさくなることが大抵の日本人にも分かっているという事なのだろう。

 国際関係における日本及び現行の日本国内環境の特殊性の一つは、例えば「キリスト教vsイスラム教」と言った「正義vs正義」の争いに自動的に組み込まれる要素が欧米諸国と較べて極めて少ないことが挙げられる。例えばドイツ、NATOにおける対外活動を見ていれば分かる通り活動対象地域の住人の宗教に自国内の主要宗教が含まれるか否かで対応、特に積極性が全く違う。カソリック国が同じくカソリック国を積極的に空爆しようとするだろうか、他のカソリック国を「不当に攻撃している非カソリック国」ならばどうか、と言う話だ。

 この観点からは、「支援金の使い方」を含む日本政府のメッセージ発信を基本的に支持している。もちろん、メッセージ通りの行動を日本は続ける必要がある。基本的と言う意味は、「状況の変化」には対応しなければならないからだ。ISISが日本のメッセージを受け取っているようとの報道が正しければ、「日本の置かれた状況を変化させる要因」はISIS側からしか作れない。つまり、発したメッセージによって結果として自由度が小さくなってしまった日本の行動可能範囲は、拉致日本人の殺害によって再びフリーとなる。冷徹に損得勘定する限りにおいて、ピンチなのは実はISIS側であり、米国などの有志聯合なのである。日本人人質が生き続けている限り、日本の取れる軍事的オプションは確かに制限を受け、有志連合軍の戦闘艦船への給油活動もおいそれとは本格化できない。だが、その代わりにメッセージ通りに社会インフラ復興活動への比重を大きくすれば良いだけとも言える。結局のところ、石油などに関わる戦後の利権に関与しない限り、文句を言う国(特アは除く)は出る筈も無い。

 想定はしているけれども良い対処法をまだ見つけられていないシナリオは、有志連合軍の空爆で日本人人質が死亡し、それをISISが宣伝した場合だ。これは次の点に繋がる。

 個人の行動が招いた事案に対する責任の所在、という点も本事案は特殊と言える。報道されている通り、被害者の一人、ジャーナリストである後藤氏はISIS支配地域に入るにあたって、「自らの意志」とその行動の結果に対する「責任の所在」について明確にしている。「ハラキリ」「死んでお詫びを!」は米国などでは定番の日本人ギャグだが、それら日本以外の文化圏の人間からは奇異にも見える行動の背景にある、「責任の所在はどこか、それが自らに帰するう場合の責任の取り方をどうするか」という点に重きを置く価値観が現在の日本においても強く生きていることを再認識させられた格好だ。「自己責任」と言う紋切形の表現の本質は、その裏返しとして上記の価値観があることを知らない人間には決して理解できないだろう。それ故、「身代金を払わないとは日本人には慈悲はないのか?」というISISからの問いかけには最初から意味が無い。

 件の動画公開とそれに引き続いた幾つかの報道を受けた段階で、「立派に死んでくれ」を最低ライン、「即時解放」を最高ラインとの認識は政府も含め、多くの日本人の共通認識となっていたと言っても良いだろう。もちろん、「立派に死んでくれ」を字句通り意味で捉えるなんて愚は日本人ならやっちゃいけない。これは一種の共犯関係の確立宣言であり、責任の所在の移動や死ぬ人間の意志の引き継ぎをも含む表現なのだ。これと同様の観点から、私はいわゆる「A級戦犯の靖国神社への合祀」を全く問題視しない。「戦犯」そのものが遡及法による罪状であることはもちろんだが、彼らに「立派に死んでくれることを望む」と言えた人間こそが戦後の日本復興を支える中心となり得た、と信じるが所以である。「あなたの死を決して無駄にしません」という表現も、本来はそんなお気楽なものではないのだ。

 有志連合軍の空爆が実効を伴う以上、ISISはいずれ自壊する。イナゴの大群、或いは大規模移動焼畑農業団みたいな事しかしていない、持続可能性のない行動しかしていないからだ。知識人の虐殺など、ポル・ポトを思わせるところすらある。そして敵は多い。有志連合だけでなく、産油国(ロシアも含む)、多くのイスラム圏の国やイスラム指導者及び信者も 潜在的な敵である。ここにきて日本にフリーハンドを与えるなんてのは悪手であろう。

 図らずも、ISISの登場は「ポスト・イスラム原理主義過激化」に思いを馳せる時期を明らかに早めた。理由は「反ISIS」と「反イスラム」が等価ではないという、日本人から見れば至極当たり前の認識が世界で受け入れられ始めているからだ。ISISはイスラム原理主義過激派を完全にはみ出ようとしている。

 TV報道などで「これはイスラム教宗派間の対立に根差した代理戦争」とか薄っぺらいテンプレ解説が氾濫しているが、ISISに関してはどう見ても「やっぱり金目でしょ?」が実態のようにしか見えない。「金を流れを追った」とき、 国、王族、経済圏間の代理戦争という枠組みが現れるのはないかと思う。

2015/01/21

音楽関係、Youtube動画2つ。

 まだ観てないんですが、こういうのを公開してくれるのはとっても有難いもの。