Farcry 3
主人公は誘拐された友人達(遊び友達、恋人、兄弟)を助けたい。最初はめっちゃ弱い。助けてくれる人達もいるが、それぞれが異なる意図を持っていて善意からという筈もない。だがそこに欲望は有っても嘘は無い。敵ボスの御託は御託には違いないが、内容はちょっと面白い。
良いじゃないの、主人公の最初のヘタレ具合はプレイヤーのそれと同じじゃないか。主人公に感情移入しよう。以降で起こることは冒険じゃない、人殺しだ、イカれた連中同士のガチの殺し合いだ。
Farcry 4
主人公は何も知らない。何しにそこに来たのか、いきなり目の前に現れた敵大ボスとの関係性も知らない・・・それもほぼラストまで。主人公は成長しない、殺す相手は軍人だが悪人ですらない普通の人達だ。主人公はサラリーマン軍人相手のシリアルキラー、共感しがいなんて端から無い。善意を、御託を声高に叫ぶ反乱者達の具体的な「善意の発露」を見よ。
良いじゃないの、敵大ボスに感情移入しよう。支配する小国なんてどうでも良い。かつて惚れた異性の子供が成長した姿で主人公としてやってきたのだ、自分の力を見せつけよう、自分の所行を全て見せつけよう。御託は「自分自身の生死をコントロールする目的のためだけ」に「主人公に向かってのみ」発しよう。その結果として主人公が自分をどうしようとしてくるか、ガチで試そうじゃないか。
惚れた異性の息子の手で殺されるかもだって?それこそ「それをその地で守ってきた」甲斐があったってもんだ。
惚れた異性の息子の手で殺されるかもだって?それこそ「それをその地で守ってきた」甲斐があったってもんだ。
Farcry 5
保安官って何?何で逃げない。
主人公たる保安官は何を考えているのか理解できない、当然ながら感情移入なんかできない。宗教集団の連中の御託は純粋に御託であり、ピュアに下らない。意図的にここまで酷い中身としたのならそれも才能だし見識だが、それら能力の使いどころが間違っている。故にこちら側にも感情移入できる存在はいない。
洗脳ネタでの楽曲の使い方や、とあるエンディングクレジットで使用した楽曲の選択などのセンスの無さは、元ネタを愛する人々(例えば映画ファン)への侮辱かとすら感じてしまう。元ネタへの愛は無い、ただの引用、スタイルだけを気取ったただのパクリだ。だからそういう部分を省いていこう。
朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争などなどに対する米国の反応の「ステレオタイプ」も合わせてはぎ取っていくんだ。もしサングラスのレンズに"TURBO"ってロゴが書かれていたら消してしまおう。ただ「パラノイア」まではぎ取るのはちょっと待つべきだ。本当に、本当に、本当に、本当に、本当に、本当に、本当に何も残らなくなる可能性がある。作品と呼ぶべきものの基盤に気分を置いてはいけない。米国は実在する国家であり、住人がいて、様々な文化もあるんだ。「ステレオタイプ」を理由に、「気分」の名の下に、無意識であっても作り手が自分達の無知や不勉強ぶりを誤魔化そうとしてはいけないんだ。作り手が誤魔化せば誤魔化すほど、ゲーム中のキャラクターの「御託」は「パラノイア」の色彩を帯びていく、説得力は無くなっていく、ゲーム内においてすら意味が無いものになっていく。
朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争などなどに対する米国の反応の「ステレオタイプ」も合わせてはぎ取っていくんだ。もしサングラスのレンズに"TURBO"ってロゴが書かれていたら消してしまおう。ただ「パラノイア」まではぎ取るのはちょっと待つべきだ。本当に、本当に、本当に、本当に、本当に、本当に、本当に何も残らなくなる可能性がある。作品と呼ぶべきものの基盤に気分を置いてはいけない。米国は実在する国家であり、住人がいて、様々な文化もあるんだ。「ステレオタイプ」を理由に、「気分」の名の下に、無意識であっても作り手が自分達の無知や不勉強ぶりを誤魔化そうとしてはいけないんだ。作り手が誤魔化せば誤魔化すほど、ゲーム中のキャラクターの「御託」は「パラノイア」の色彩を帯びていく、説得力は無くなっていく、ゲーム内においてすら意味が無いものになっていく。
その結果、Farcry 5の特徴が露わになる。Farcry 5には何も残らない。これまでのFarcryにあった「構築された世界観」は存在しない。「このゲーム内世界、有り得ないように見えるんだけど・・・もしかしたら・・・」とプレイヤーにぎりぎり思わせるマジックが存在しない。と言うか、そのようなマジックがゲームを魅力的にするために必要であること、故にその部分に力を入れなければならないことをFarcry5の作り手は理解していないのか、結果としてそれにかかわる最低限必要な要素すらゲームに与えていない。作り手は必要な知を得ることに怠惰に過ぎ(或いは知っていると勘違いし)、結果として無知と不勉強の結果を金銭を払った人間に押し付けている。
さぁ、「気分には溢れたものの(その気分を是とするかと言うと、私にとっては無意味だ)、明らかに米国ではない(存在する米国とゲーム内の米国の一部との境界の存在をプレイヤーに感じさせることが必要とされるマジックなのだ。『ホープカウンティが米国の一部であることを必須としたラストに向かうストーリー』を語ろうとする以上、『ホープカウンティが米国の一部であること』がゲーム内で具体的に語られ、強調され続ける必要があるんだ)」空虚な世界内でどう振る舞うかはプレイヤー次第だが、それははたして魅力的だろうか?個人的には実につまらない。
Farcry3で顕著に見られたUIなどのゲーム内2Dグラフィック、アニメーションへのアーティスティックなまでとも言えるこだわりは、Farcry5では全く感じられなかった。Farcry3における上述のマジックの正体は、実際のところは「一貫性を感じさせる異国情緒」であり、それは「実在しない国や島」を舞台としたFarcry3に必要な「世界観」の大部分と等価と言って良い。では「世界観」の残りが何かと言うと、殺人のための機械、すなわち武器の存在と、それらがゲーム内世界に与えている影響力である。そのため、例えば「蝶の一部とも自動小銃の一部とも見えるようデザインされた2Dイメージ」がゲーム中で使われている意味は明らかである。おそらくFarcry3ではUIのデザイン要素は、「異国情緒に溢れつつも武器と暴力が支配するゲーム内世界」という世界観の強化を担うべく意図をもってデザインされた「マジック」の一部なのだ。
まぁ、Farcry5内にもこの種の「マジック」を与えるべくデザインされたのであろうと思わせられる要素もある。が、それらがロシア構成主義チックだったりと、個人的にはむしろナチズムやファシズム下や共産主義下のプロパガンダ美術に近く感じてしまう。それは実際の米国の一般的なパブリックイメージから余りに遠い・・・かと言え(自粛)であることや(自粛)であることを揶揄していたりとかなら余りに下品で色々な方面に失礼だし、「高い城の男」ばりの「存在していない米国」の暗喩としては意味論的にも機能的にも全く寄与していない。
一方、Farcry4では音楽に「マジック」の機能の多くが委ねられた。Farcry5にもそのような意図を感じさせられところもあるが、意図自体は全く分からなかった。映画「博士の異常な愛情」のラストの核攻撃シーン(実際には核爆発試験の映像を編集したもの)では、"We'll meet again"という楽曲が流れる。人類滅亡か!?と言う状況下に「再び会いましょう」という楽曲が流れる、という一点において皮肉の類を感じても十分だと思う。が、この曲が第二次世界大戦開戦年の作であり、歌詞がそのような世界状況を反映したものであること、イギリスの楽曲であることなど、色々と知っていれば観客が受ける印象も変わり得るだろう。引用したYoutube動画で使われた画像は、まさに"We'll meet again"という楽曲が生まれ、求められ、歌われた時代のものだ。
このような要素間の意味ある関係性を時にコンテクスト(文脈)と呼ぶ。コンテクストは文学のみに用いる概念ではない。例えば地形や植生、地層の構成、岩石の種類などはその土地の歴史を反映しており、地学者にとっては読み取るべきコンテクストである。アポロ計画の後半の宇宙飛行士は地学的コンテクストの読み方を地球上で習得した上で月面に向かった。アポロ計画後半のミッションは学問的色合いが強いが、それは宇宙飛行士達の地学的コンテクストの読み取り能力に明らかに支えられている。ここで私が言うコンテクストの有無とは、知性や見識の有無とほぼ同意なのである。
更に言えばこの楽曲、冷戦期のイギリスで準備されていた「核攻撃を受けた後の国民向けラジオ放送プログラム」内で使われる予定であったという話が存在する。もしそうならば、映画「博士の異常な愛情」のラストで"We'll meet again"という楽曲が流れている状況は、「(少なくともある期間ではイギリスで)起こり得た現実」であって何らの皮肉も含んでいないとも、「起こるかも知れないことが分かっていながら何故避けられなかったんだ!」といった無数の叫び声が飛び交う悲壮なシーンの背景のラジオ音とも解釈可能だろう。映画「博士の異常な愛情」のラストは、私が把握している範囲の知識だけでも上記の様に多層的に解釈でき得るものなのだ。映画「博士の異常な愛情」は、笑いのネタのセンスは当時ですらやや古典的に見えるぐらい古めだが、監督、脚本、音楽、俳優、タイトルバックアーチスト諸々・・・曲者ぞろいに過ぎる。彼らが作中に導入した要素のコンテクストをすべて互いに把握している可能性はほぼ間違いなくゼロだろう。
対してFarcry5における同楽曲の取り扱いはどうだろうか?上述したように、私には「映画『博士の異常な愛情』のラスト」の表層的な引用に過ぎず、パクリとすらも呼びたくない条件反射レベルの知性の感じられない行為にしか見えないのだ。コンテクストが無いからである。
私(ブログ主)のお勧めは、Farcry 5なんかには一切関わらないことだ。代わりにヒッチコック映画を観る、なんてのはどうだろう。ヒッチコック映画ではないけど、まぁ、映画「陰謀のセオリー」は音楽を使った洗脳ネタの使用例として無視はできませんなぁ・・・こんなに参考になる先例があるのにね、酷いものです。
さぁ、「気分には溢れたものの(その気分を是とするかと言うと、私にとっては無意味だ)、明らかに米国ではない(存在する米国とゲーム内の米国の一部との境界の存在をプレイヤーに感じさせることが必要とされるマジックなのだ。『ホープカウンティが米国の一部であることを必須としたラストに向かうストーリー』を語ろうとする以上、『ホープカウンティが米国の一部であること』がゲーム内で具体的に語られ、強調され続ける必要があるんだ)」空虚な世界内でどう振る舞うかはプレイヤー次第だが、それははたして魅力的だろうか?個人的には実につまらない。
Farcry3で顕著に見られたUIなどのゲーム内2Dグラフィック、アニメーションへのアーティスティックなまでとも言えるこだわりは、Farcry5では全く感じられなかった。Farcry3における上述のマジックの正体は、実際のところは「一貫性を感じさせる異国情緒」であり、それは「実在しない国や島」を舞台としたFarcry3に必要な「世界観」の大部分と等価と言って良い。では「世界観」の残りが何かと言うと、殺人のための機械、すなわち武器の存在と、それらがゲーム内世界に与えている影響力である。そのため、例えば「蝶の一部とも自動小銃の一部とも見えるようデザインされた2Dイメージ」がゲーム中で使われている意味は明らかである。おそらくFarcry3ではUIのデザイン要素は、「異国情緒に溢れつつも武器と暴力が支配するゲーム内世界」という世界観の強化を担うべく意図をもってデザインされた「マジック」の一部なのだ。
まぁ、Farcry5内にもこの種の「マジック」を与えるべくデザインされたのであろうと思わせられる要素もある。が、それらがロシア構成主義チックだったりと、個人的にはむしろナチズムやファシズム下や共産主義下のプロパガンダ美術に近く感じてしまう。それは実際の米国の一般的なパブリックイメージから余りに遠い・・・かと言え(自粛)であることや(自粛)であることを揶揄していたりとかなら余りに下品で色々な方面に失礼だし、「高い城の男」ばりの「存在していない米国」の暗喩としては意味論的にも機能的にも全く寄与していない。
一方、Farcry4では音楽に「マジック」の機能の多くが委ねられた。Farcry5にもそのような意図を感じさせられところもあるが、意図自体は全く分からなかった。映画「博士の異常な愛情」のラストの核攻撃シーン(実際には核爆発試験の映像を編集したもの)では、"We'll meet again"という楽曲が流れる。人類滅亡か!?と言う状況下に「再び会いましょう」という楽曲が流れる、という一点において皮肉の類を感じても十分だと思う。が、この曲が第二次世界大戦開戦年の作であり、歌詞がそのような世界状況を反映したものであること、イギリスの楽曲であることなど、色々と知っていれば観客が受ける印象も変わり得るだろう。引用したYoutube動画で使われた画像は、まさに"We'll meet again"という楽曲が生まれ、求められ、歌われた時代のものだ。
このような要素間の意味ある関係性を時にコンテクスト(文脈)と呼ぶ。コンテクストは文学のみに用いる概念ではない。例えば地形や植生、地層の構成、岩石の種類などはその土地の歴史を反映しており、地学者にとっては読み取るべきコンテクストである。アポロ計画の後半の宇宙飛行士は地学的コンテクストの読み方を地球上で習得した上で月面に向かった。アポロ計画後半のミッションは学問的色合いが強いが、それは宇宙飛行士達の地学的コンテクストの読み取り能力に明らかに支えられている。ここで私が言うコンテクストの有無とは、知性や見識の有無とほぼ同意なのである。
更に言えばこの楽曲、冷戦期のイギリスで準備されていた「核攻撃を受けた後の国民向けラジオ放送プログラム」内で使われる予定であったという話が存在する。もしそうならば、映画「博士の異常な愛情」のラストで"We'll meet again"という楽曲が流れている状況は、「(少なくともある期間ではイギリスで)起こり得た現実」であって何らの皮肉も含んでいないとも、「起こるかも知れないことが分かっていながら何故避けられなかったんだ!」といった無数の叫び声が飛び交う悲壮なシーンの背景のラジオ音とも解釈可能だろう。映画「博士の異常な愛情」のラストは、私が把握している範囲の知識だけでも上記の様に多層的に解釈でき得るものなのだ。映画「博士の異常な愛情」は、笑いのネタのセンスは当時ですらやや古典的に見えるぐらい古めだが、監督、脚本、音楽、俳優、タイトルバックアーチスト諸々・・・曲者ぞろいに過ぎる。彼らが作中に導入した要素のコンテクストをすべて互いに把握している可能性はほぼ間違いなくゼロだろう。
対してFarcry5における同楽曲の取り扱いはどうだろうか?上述したように、私には「映画『博士の異常な愛情』のラスト」の表層的な引用に過ぎず、パクリとすらも呼びたくない条件反射レベルの知性の感じられない行為にしか見えないのだ。コンテクストが無いからである。
私(ブログ主)のお勧めは、Farcry 5なんかには一切関わらないことだ。代わりにヒッチコック映画を観る、なんてのはどうだろう。ヒッチコック映画ではないけど、まぁ、映画「陰謀のセオリー」は音楽を使った洗脳ネタの使用例として無視はできませんなぁ・・・こんなに参考になる先例があるのにね、酷いものです。
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