なんやかんやあったようで、知り合いの知り合いの仕事仲間ぐらいの距離から英語論文の査読依頼が来た。タイトルだけでネガティブな意味で大笑いさせてもらったが、抄録や本文はもっと凄い、というか文章ですらない。
概して英語になじみの無い日本人が頑張って英語で論文を書くと、文法的には多々問題があっても論理はむしろ露わになることが多い。解釈に文脈依存性が強い日本語より英語の方が純粋な論理記述に向いている上、書き手が凝った英語表現を使えない点がむしろ文章をシンプルに読みやすくする良い方向に作用する。が、それは書き手がきっちりとした論理を持っていることが前提だ。タイトルや抄録の第1センテンスで駄目な論文はそれと分かることが多い。タイトルをどうするかは大抵悩ましいものだが、タイトルの変更は論文の結論の変更とリンクしても良いぐらい論文中の論展開と密接に結びついているべきであり、実はタイトルに関する選択肢は本文の内容が決まっていれば限られて当然なのだ。
タイトルで大笑いした理由は、使われている一つの単語の不適切な選択からタイトル自体が「嘘」としか解釈できなかったからにほかならない。1940年代なら世紀の大ニュース、1950年代でも大した偉業、2012年では嘘かここ60年間の科学技術の発展を知らない人の言い草だ。
論文発行も電子化が進み、査読にもスピード感が要求されるようになった。査読といっても昨今は技術的に云々は言わず、まぁ名も実もある学会なり協会なりが発行しても恥ずかしくないかどうか位しかチェックしないのが遺憾ながら実体に近い。それでもなお、自信を持って拒絶できるレベルのものを目にしなければならないというのは正直キツい。
かつて経験した厳しいながら実に本質的な査読結果は、自分の論文の質向上に確実に結びついた。どうやら著者にとっては初の論文投稿のようだが、この著者もそのうち自分と同じような経験をする機会があるのだろうか、などとふと思う。
主観ながら、読む価値のある論文はたいてい短いか、長くても読み込むべき個所が論展開上から明確に分かる。私の専門分野では、2ページとは言え1945~1960年のソ連研究者の論文は後述する「再発見」に関わり要注意だ。また実際ある研究グループの論文は、絶対読むけれども第3章以外は読み飛ばす。ただし、その研究グループの論文をせめて10本は事前に読んでいることが前提だ。第2章まではこれまでの研究内容のあらすじみたいなもので、その研究グループの論文を初めて読む人にとっては実に有難い内容がぎっしり詰まっているので念の為。
論文は基本的に研究のログなのだが、電子化などでより一層コミュニケーション色を強めつつあるように見える。悪い側面として玉石混交具合が酷くなってきたとも言えるが、現時点では検索技術の整備による論文入手にかかる時間的、金銭的コスト低減効果の方が勝っている。
インターネットにさえ繋がっていれば、従来は一部の専門家しか入手しようとしなかった論文に誰でも簡単にアクセスできる時代に気がつけばなっていた。ただし、駆け出し研究者のころの私が感動すら覚えながら読んだ1950~1960年代の素晴らしい論文達の大部分は未だ電子化されておらず、間違った文脈で論文で引用されたり、ちょっと頭の回転の早い人に同じ結論を「再発見」されたりしているのを極稀に見ることがある。どんなに査読が形骸化しようとも、査読者たる者たまたま著者が「知らなかった」ことぐらいは指摘しておかなければね。
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