某報ステを観ていて、某新聞社の解説委員らの発言内容の一貫性の無さに愕然とした。例えば「軍国主義」という表現を使ったが、軍国主義をどう定義して使っているのか大いに疑問だ。素直な解釈は「中国や韓国が日本を『軍国主義化した』と呼んだ場合は『軍国主義』」というものであろう。それぐらい恣意的かつ適当に使っているということだ。
昨夜はネット上で興味深い意見を目にした。曰く、「朝日新聞社は自らを報道機関ではなく、言論機関だと考えているのではないか」。これは卓見だと思うが、おそらくこの表現の揶揄するところは「朝日新聞社は報道と言論の区別がついていない」ということであろう。朝日新聞には「報道機関」や「言論機関」の定義もできない低レベルな連中が多い可能性が高いと言う事だ。
ファシズム国家(これも多数の定義がある)、警察国家、右傾化も同様だ。「軍国主義」を漠然と「戦前日本の国家体制」などと安易に定義してしまうと、現在は中央政府と敢えて独立させてある自治消防組織の独立を否定する発言は矛盾でしかない。戦前の「反省」も踏まて論理的に確立された体制を、理由も明確にしないまま否定するような、「戦前」の体制に戻すことを是とするような発言を平気でする。
歴史を知らない者は過去はおろか現在についてだって語ってはいけない。間違っている事がほぼデフォルトであることが避けられず、事実を伝えるべき報道機関あるなら尚更そう、ましてや間違った前提に立つ言論機関なんて存在自体が矛盾だ 。他者の行動を暴走と断言する神経を心底疑う、少なくとも論理的じゃないし、個人的にはせめて自らの暴走の落とし前をきっちり付けてからにしろと言いたい。左ならば自ら「総括」してもらっても私自身は全く構わない、言論機関たらんとすれば殲滅され得る事もちゃんと覚悟してもらわないと困る。以前のエントリでも触れたとおり、殲滅する主体が海外である可能性の方がむしろ高いというのが今の日本なのだ。
国防権を地方に移譲することは実質的な地方の独立であり、国家の定義までにきっちりと立ち入らないまま安易に何かを語ること自体がでたらめだ。「あいまいに断言しない」語り口を使っていても、「そうも解釈でき得る」自己の発言には責任を持たなければならない。TVに登場した一般人のコメントの中にも輪をかけて思考停止具合が際立っているものがあった。私ならテロのリスクよりも他国に占領されるリスクの方が怖い。戦争をしない、ということは軍事力を背景とした他国の侵略を受け入れるのと等価である点はリアリティとして受け入れなければならない。
「日本人の平和ボケ」の正体だが、それは世界的なリアリティを知らず、そのくせ他国の人間も日本人と同じように考え、行動すると根拠無信じることではないか、と強く思うようになってきた。「『戦争をしない他国』の領土を占領し、居住する他国人を殺害、自国民を居住させればその占領地は平和である」という歴史的な事実を踏まえたリアリティを前に「殺害されたくない人」はどう振る舞うべきなのだろうか。 古来からの防人の存在しかり、竹島しかり、である。
脱線するが、押井守氏の所謂ケルベロスシリーズで、自治警察組織は準軍事組織のキャラクターを備え、自治警察組織からは制御不可能な特機隊(通称、ケルベロス)を目の敵にする。ケルベロスは警察機関ではあるが、いざ出動となれば相手の殲滅が大前提である。これはほぼ軍の治安出動に担わせる状況だ。ケルベロス動乱を引き金に自衛隊が治安出動するに至り、ケルベロスは自らの存在意義を自ら絶つと共に自衛隊により必然的に殲滅、排除される。
個人的にケルベロスシリーズに感じる魅力は、この種の皮肉の効いた矛盾の解決過程が背景に横たわるところにある。前提とした世界観、つまり日本は第二次世界大戦の敗戦国ではあるが戦勝国を代表するのはドイツである、を受け入れれば、以降はほぼ機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)宜しくやがてケルベロスが消える(歴史的使命を終える)という全体的な流れは必然でしかない。このような物語構造は古典的で単純故に力強く、論理的故に弾力性に富む。そのような枠組みの中の一エピソードの遊び代は大きい。