2014/09/11

テレビ朝日「報道ステーション」が朝日新聞の二つの「吉田」報道

 朝日新聞社、言葉に溺れ、この期に及んでただ言葉を弄ぶのみ。上(社長)も中(論説委員)も当事者意識、加害者意識が画面を通じて全く感じられないのはある意味凄い。とても日本人とは思えない。

 無意味、曖昧、j自浄能力が無いことの表明(第三者機関の調査とか笑止だが、法廷での証拠にできるレベルのきっちりした調査書が出ればそれはそれで良し。ただし、時期に触れないのはやらないと言ってるに等しい)、実質的に謝罪もなし。吉田調書の件は、日本語が読めいない、理解できないと言ってるのと同じ。見え見えの本質外し対して一般的な日本人は非常に敏感、実害があったとの認識が広く受け入れられている現状では叩かれるのは必定。早く馬鹿をやめなきゃならない、戦前から一貫して続けている姿勢そのものを改めなければならない。

 あかんわ。

 「クラマスワミ報告書」にまで踏み込んだのはちょっとした驚き。黒田勝弘氏の主張は完全に上滑り(立ち位置は察するし、気持ちは理解できるけどね。感情論はもう意味が無いのですよ)、お金の話にしちゃいけない。

 恵村順一郎氏は印象操作と問題すり替えに一生懸命で、カメラから顔をそむつつもこれでもかとばかりに「ぶれない朝日」を押しつけてくるが、まさにそこが一般的な日本人にとって「朝日新聞社が異常に見えるところ」と私は見ている。ボールは今も朝日新聞社にあると思うんだけどね。自分達が原因で他者から非難されている状態で非難者に対して全く歩み寄らない姿勢、そんな態度の人達に「国家間の歩み寄りが必要」とか言われたって説得力なんか全くありゃしませんがな。

 ほんまあかんわ。舐めるンもたいがいにしぃやぁ。

p. s.

 一部海外で右翼が~とかいう朝日新聞社を擁護すような報道もあるようですが、そういうレベルっつーか文脈で捉えること自体が異常なのだ。一般的な日本人の言いたいことは、きっとこういうことだと思う。

「嘘ちゅいたんでしゅよねぇ~?だったらその嘘で迷惑をかけちゃったオトモダチみんなに謝って許してもらいましょ!許してもらえないときはぁ、う~ん、どうすれば良いと思う~?ちょっと考えてみましょうねぇ~。」

 つまり嘘をつくことはそれ自体が悪いこと、基本はここ。マスコミの嘘は暴力行為に等しい、とかは敢えてこれまで書いてこなかったけど、それよりももっと基本的な社会倫理の問題。

 なぜそれが問題か、ちょっと思考実験をしてみれば直ぐに分かる。口裏を合わせた悪意ある多数の人間が一斉に特定の朝日新聞社記者に暴行を受けたと「証言」する、しかも朝日新聞社記者のアリバイは巧妙に回避しておく。つまり、「暴行の証拠はない」が「証言を否定する証拠もない」状態に落とし込む。「証言」にのみに依存すればどうなるかは言わずもがな、裁判で無罪とされてもその後10年以上にわたって件の悪意ある多数の人間は謝罪と賠償を、との声を挙げ続ける。

 「論点すり替え」と言われるのは当たり前、そこに込められているニュアンスは「論点を変える前に、まずしなきゃならんことがあるでしょう」ということ。それさえすれば、「論点が変わる」のは当たり前で、「すり替え」とは言われない。あと、「謝罪と賠償はワンセット」なんでしょ?お忘れなく。

テレビ朝日「報道ステーション」が朝日新聞の「慰安婦問題」を報道!!らしい

 仕事から帰ってTV番組表を見てたらなんと!!、ということらしい。

 真面目な話、放っておけば放っておくほどハードルが高くなるのは必定で、それこそ誰かが腹切る様子を中継するぐらいのインパクトと実を伴う内容じゃないと結局火に油を注ぐことになりかねない。

 しかし例え何人死のうが真面目に謝罪しようが、朝日新聞社が「嘘」 をつき続けたことには変わりなく、社会的制裁はもとより日本の法制度に則った訴訟事案も有り得ると考えた方がいい。あの問題に関しては感情の出る場はもはやない、堪忍袋の緒が切れた日本人が既に多すぎる。

 正直に言って、放送中にあの問題の関係者がテロにあって命を落とすようなことがあっても、おそらく私の心には何も響かないだろう。結局のところ、中途半端な事をやれば当然ながら、相当に真面目にやっても流れは変わらず、「あれが終わりの始まりだった」と後々言われるだけという気がする。

 南京の件も靖国の件もあるよ、さて?

2014/09/09

はい、おしまい?

 朝鮮日報の韓国国内書籍の紹介記事「韓国人の危険極まりない対日認識に警鐘」から。

 著者であるユ・ミンホ氏は松下政経塾で学んだ経験があるという。多分に複眼的思考ができる(色々な立場から同一の事物をとらえられる、「相手の立場」に立った事物の見え方も考慮できる)人であることを期待しても良いのかな、と下記に引用した記事の一文からは思えなくもない。
また日本は、安倍首相のような政治家数人だけが動かしている国ではない。無言の「衆知」が示す方向に従って一糸乱れずに動き、一度それが始まってしまうと「おしまい」だという。
韓国発でこういう視点は新鮮、かつかなり正鵠を射ていよう。ただし、それはもう始まっているんだろうな。

  果たして日本人は「仕方ない」を発動し続けるのか、おそらく今日的な意味での「空気」を察するにその覚悟もしちゃったんだろな。戦前に「仕方ない」を煽りまくった朝日新聞社が、再び日本人の「仕方ない」に燃料つぎ込みまくってるしね。

2014/09/07

Fly me to the moon, again

 私が初めて実用に供したPC用DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)ソフトと言えば、Cakewalkの今や亡きProject5、Steinberg Cubaseに完全移行後の今でも実はPCにインストールしたままなのだ。何故かと言うと、結構スケッチ風というか、楽曲の大枠だけ組んだようなProject5データが多数あるからだ。

 かく言う本楽曲のオケも元々はProject5で組んであったものを、「Project5の画面を見ながら1日かけてCubaseで打ち込み直す」ということをやったものだ。ある程度はキーボード(鍵盤)から入力しても良いんだけど、リズム感が弱いところに来て、鍵盤を押してから発声までのレイテンシ(時間遅れ)が気になり出すともう対応できない。勢いマウスを動かした方が早いという訳だ。

 ただ一つ問題なのは、Project5上のシンセ音はほぼ全てCakewalkのソフトシンセPsyn IIで作っていること。 Psyn IIも開発終了して久しく、現在の64bit環境で動くバージョンはない。そのため、データ移植後になかなかProject5上で組んだ時のイメージが再現できなくて苦労することが多い。本楽曲に関してはCakewalkのサンプラーD-Proで大部分組まれていたので、D-Pro 64bitを使うことで音色的にはProject5上でのイメージを比較的短時間で再現できた。ベース音(2音色)だけはCakewalk Z3TA+2で元々のイメージに即した音を新たに作った。

 MegpoidパートはPiapro Studio、ほぼ「楽譜通りに打ち込んだ」に相当するもの。そのため、発声タイミングがツッコミ気味だったり、逆に遅れ気味だったりとばらつきがある。ツッコミ気味になりがちなのは、"let"、"me"、"and"、"play"とか、遅れ気味になりがちなのは"please"、"among"、"are"とかが代表的だ。"you are"のところは"are"の出だしが余りに遅いので、さすがにノートオン(発声開始)を1/64音符分前にずらしている、つーか、"You're"にしておけば良かったと今気付いたよ。発声タイミングはWaveファイルにバウンスしてから、Variaudioなどで徹底的に調整することになるだろうね。

 後、分かる人にはスペクトルの動きを見れば直ぐ分かると思うけど、Vocalodのビブラート機能は積極的に使っている。

危ないか危なくないか以前に、

分かっているか分かっていないか、理解しているか理解していないか、という問題だ。これは、「常識的判断に照らせば、その技術に近付くことすら認められない」ということである。

原子力発電所の定期検査で、30年間にわたり検査すべき部位とは違う部位を検査していたのにもかかわらず、規制当局はこれに全く気付いていなかったことが分かった。原子力安全委員会は釜山市機張郡の古里原発4号機と全羅南道霊光郡のハンビッ原発2号機で、原子炉容器溶接部の一部検査部位についてミスが確認されたと4日、発表した。・・・
 例えば手順書(マニュアル)の間違いに気づくことができる人間は、その内容だけでなく、背景情報、知識、原理を理解している人間だ、つまり、手順書が書けるぐらいの人間でなければ間違いには気付けない。この辺りは良くも悪くもお国柄が出ると見える。一般論として、他分野も含めて個人的な心象は下記のような感じ。
  • 米国:誰が読んでも分かるように、然るべき手順が為されるように手順書が書かれていることが要求される。手順書を書く人間は自他共に認める専門家であり、報酬は多い分だけ人一倍働く米国的エリートである。米国ではエリート層が最も長時間働き、かつ重要な決断を担う。
    「知らないこと」が報酬や社会的地位に影響するが、知らないなら知らないなりの社会生活が営める、プラスアルファがプラスアルファの元、「然るべき人を然るべき立場に就ける」という文化。知識レベルの二極化を受け入れ、それでも上手く機能するシステムを構築する文化。
  • 日本:手順書を読み、手順を実行する人間にも背景知識の理解を要求する代わりに、教育機会と理解度に応じたポスト及び報酬を制度的に担保する。手順書を書く人間は先達かつ大抵が無名の専門家であり、報酬は年功序列+専門性分+重要な決断を担うかどうかを鑑みて状況により変動する。手順書を書く人間も実行する人間も、概して報酬+α分に見合う分は最低働く。
    「知らないこと」が時として恥となるが、「知ること」への努力、結果が評価され、報酬や社会的地位に影響する、「立場が人を作る」を認める文化。全体の知識レベルを常に上げようとする圧力がある文化。
  • 某国:誰が読んでも分かるように、然るべき手順が為されるように手順書が書かれていることが要求される。手順書を書く人間は自ら認める専門家であり、報酬は多いが働かず、概して部下に書かせたりする。重要な決定は担わないし、専門性の高低は社会的地位や報酬とはほとんどリンクしないので身に付かず、しょせん自称専門家なので自分のみならず部下の間違いにも気付けない。片や、手順書の内容は専門知識を有しない実行者により「面倒くさい、良く分からない」などの理由から概して無視される。
    人材を潰し、全体の知識レベルを常に一定レベルに保ち続けようとする圧力がある文化。

2014/09/06

ふーん、ASAの人達は怒らないの?

「座卓の盾作戦(乙号)」発動

 対ゴキブリ殲滅作戦「座卓の嵐作戦」は順調に成果を挙げているが、いつかは本拠を攻めなければならない。しかしながら「クレンダスゥ侵攻作戦」で犯した人類の失敗を鑑みれば、暫くはアラクニド、もといゴキブリに関する情報の収集と分析に時間を割くことも必要である。

 意図的な特定地域のみでの外科的掃討後の新個体の出没タイミングや新個体の大きさ、出没地域やフンの分布などのインテリジェンスを総合して判断した結果、昨夜ついに敵根拠地を特定したとの確信を得るに至った。私のアパートの部屋の洗面所シンク下付近はあくまで前線基地、本拠はアパートの隣室にある。

 この分析結果を踏まえ、本日13:00(日本時間)をもって「座卓の盾作戦(乙号)」を新たに発動した。なお、新ピケットライン(洗面所-キッチン境界)を越えて居間にまで侵入した個体は従来通り外科的な殲滅対象とするが、新ピケットラインを越えない個体、特に大型個体に対しては暫くの間、外科的な殲滅対象とはしないこととした。

 本作戦の主眼はあくまで本拠地(繁殖地)の殲滅であり、手段は固定式化学薬物兵器(キンチョー・コンバット)の隣室との接続経路がある洗面所シンク下及び新ピケットライン端部(壁面隣接部、ドア隙間あり)への配置とした。当該固定式化学薬物兵器の使用は初めての経験だが、調達価格が格安類似品の約12倍と極めて高いことから、相応の効果が得られるものと確信している。

2014/09/05

甘えはどこまで許されなくなるだろうか?

 「堪忍袋の緒が切れる」という状態の発生とその後の日本人の行動は、いわゆる日本人文化圏に属していない人間にはまず理解できないだろう。「察しと思いやり」は緒が切れた側、緒を切った側にとっても重要だ。「我慢する」或いは「許す」、逆に「どこまで我慢してもらえるか」或いは「どこまで許してもらえるか」の両者の衝突は、結局のところ両者に同等の「察しと思いやり」が共有されている限りは極力回避される。持つ者にとっては比較的確固たるものでありながら論理的とは言えない一種の「良い塩梅」は、それらを共有しない人間からは理解不能のグレーソーンだろう。

 日本人において美徳とされる行動規範は、「許してもらえなさそうだ」という状況の到来をまず「察し」、原因となった自分の言行に思いを馳せ、自らの言行を変えるとともに必要に応じて謝罪も行うことである。これを上手くやり遂げれば、「あいつ分かってんじゃん」とばかりに「思いやり」によって許され、むしろ評判が上がることもあり得るだろう。かくして「察しと思いやり」のサイクルは一回転し、許し許されの関係はより高次のものとなる。

 さて、「察しと思いやり」が共有されている事を前提にすると、「察しと思いやり」を共有していない人間の言行は曰く理解し難い。だが、それは「理解不能」というより「甘え」に見える。つまり、他人の「察しと思いやり」に頼りながら、他者を許さずに件のサイクルを回さないからである。

 と、大風呂敷を広げたところで言いたいことの一つめは単純だ。

 おそらく多くの日本人は「当たり前すぎる」故に直観的に気付いているだろうこと、「韓国や朝日新聞社は甘えているとしか見えない」ということである。彼らは「今まで許してもらえたのに、何故突然に許してもらえなくなったのか(厳密には、実害がない限りは『思いやり』により見て見ぬふりをしてもらえていた、ということだろう。だが、見て見ぬふりをしてもらえていたことを『察して』いることが暗黙の前提だった訳である)」という状況の発生に未だ戸惑っており、かつ「許してもらうためにはどうあるべきか」という思考にすら至ることができないのではないか、ということだ。「察し」の前提を著しく欠いていたとしか見えない朝日新聞社の行動が異常と捉えられる原因はそんなところにあるように思える。「日本人じゃなかった、そして日本人じゃない」とでも考えないと、彼らの言行は「心情的」にも「論理的」にも全く理解できないのだ。以前のエントリにでも触れている通り、韓国に行ったきりで日本に戻ってこなくなった人の方が「日本人的な察し」を有している可能性が高い、という点は実に皮肉な話だ。

 で、言いたいことの二つめは「察しと思いやり」の範囲の見直しの「可能性」だ。

 現在の日本の政権は「韓国や『察しと思いやり』を共有していない人間の『甘えに見える』言行をこれ以上許さない」という立場を明確に選択したと考えて良いだろう。またその選択は多くの日本人からも支持されているようだ、少なくとも現在までは。かく言う私も大枠において支持している(内政、特に経済政策には多くの疑問がある。が、それらはむしろ担当大臣と一部官僚に原因があるように見える。いくら優秀な総理大臣であっても、内外の敵対勢力を同時に相手にすることは困難だ)。

 ただし、この方向性の延長線上には、「察しと思いやり」を共有している人間の「これまで許されてきた甘え」に対する不寛容(イントレランス)の発生の可能性がある。ここでのキーワードは「性善説」だ。グレーゾーンが広い「察しと思いやり」や「弾力的な法制度運用」が法治国家の枠組みの中で成り立ったり、大多数の日本人に許容されてきたりした重要な理由が「性善説」にあると考える故だ。

 ネット時代の恐ろしさは、「性善説」故に許されてきたと誤って広く「察されていた」事案が、実は「制度の悪用」或いは一部勢力が「暴力乃至半暴力により強制的に獲得した利権」、であることを示す情報があふれていることである。事案個別に対策を打てるなら問題ないが、ある程度の類似の事案を一気に是正しようとすると、おそらく「性善説」をいったん停止しなければならない。「察しと思いやり」と「性善説」とが微妙に絡んでいる以上、その時には「察しと思いやり」もダメージが避けられない。

 「性善説」に立てば、是正の結果は「弱者を救うべきシステム」は「本当の弱者しか救わない」ものに生まれ変わるだろう。手垢の付いた表現が許されるなら、本来あるべき「社会正義」が実現できることになる。だが例えそうなったとしても、一度ダメージを受けた「察しと思いやり」は幾ばくかは変質せざるを得ない、良し悪しは別として。

  「察しと思いやり」の棄損を極力避けるひとつの方法は、「日本人文化圏に属するかどうか」よりも緩い条件、例えば「日本国民かどうか」で境界線を引くことであり、実際に引かれ始めた境界線だ。これは法的解釈の範囲で対応できるし、グレーゾーンが無く境界が明確故に合理的でもある。が、何気に「性善説」に基づく「察しと思いやり」を守るために「察しと思いやり」が発動している、という気がしてならない。

2014/09/04

サンダーバードのテーマ!

 いわゆる期末到来、仕事も含めて色々と煮詰まっているので、昔(20年以上前)に打ち込んだMIDIデータをサルベージしてCubase7.5上で組んでみた。昔はサウンドブラスター(PCの拡張音源ボード)で鳴らして喜んでいたものでした。

 あ、オーケストラ編成での楽器配置をすっかり忘れたので楽器の定位は大雑把。

2014/09/03

マンガ「富士山さんは思春期」

 久振りの私信。 

 ひょんなことからマンガ「冨士山さんは思春期」の第1巻を読む。なんちゃない展開が逆にタマランですよ、すっげー良い歳なんだけどさ、私。

  ちなみに私はちっちゃいころからちっちゃくて、未だにちっちゃい、既に縮みつつあるぐらい。「自分がちっちゃい」という認識だったから、相手の身長が気になったことはない。

  ちっちゃい男子とおっきい女子との組み合わせと言えば、マンガ、アニメの「ラブコン」も結構タマランかったです。何がタマランって「関西弁」。 私は思春期を関西語圏で過したから、当然初恋もそのあとのグダグダの記憶も関西弁と共にある訳です。「博多弁」もマズい、がここから先は秘密です。

  あと「ちっちゃい男子とおっきい女子」のマンガと言えば、「月とすっぽん」、「The かぼちゃワイン」とか、実は鉄板ネタなのかもね。