2014/08/30

フィアット、直観、覚悟、幸運、ただし後悔は無し

 かつて「フランスはシトロエンを持っているが、フィアットはイタリアを持っている」とまで言われたそうである。シトロエンは国有自動車会社、対してフィアットは国をも支配する勢いを持つ大企業グループだったということだろう。現在のインドにおけるタタ・グループのスタンスが近いかもしれない。なんせタタは鉄鋼製品から自動車、トイレットペーパーまで供給する存在だ。

 フィアットは自動車製造から始まり、「陸に、海に、空に」を合言葉にあらゆるものを設計、製造、販売する一大企業グループに成長した。原子力を含む発電所用の機器製造などにも携わっており、「FIAT」のロゴの描かれた古い図面を仕事で目にすることが今だにある。が、驕れる者は久しからず、2000年ごろには倒産の可能性が当たり前に語られようになっていた。しかし、新経営陣の抜本改革が功を奏し、純粋な自動車製造・販売会社として完全に復活した。今は自動車部門を除いて全ての分野を分離、売却し、さらに米国クライスラーを合併して米国への足掛かりも得ている。ちなみに現在のアルファロメオ、ランチア、アバルトはフィアット傘下のブランドである。

 FIAT 500に乗っているとたまに「ルパン(三世)の車だね」と言われる。ディーラーの方と話をしたときも、「ルパンの車(の現代版)」を理由に購入した人が多いのだそうだ。ナンバープレートも某映画中の旧FIAT 500にちなむものを希望する人が少なくないらしい。だが以前のエントリでも書いた通り、私の中では新旧含めてFIAT 500とルパン三世とには一切の接点がない。

 現在のFIAT 500の原型はコンセプトカー「2+1(トレピウノ)」にある。「2+1」というのは基本2シート、シート配置をいじることで3シートにもできるという小型車コンセプトで、実際のところはコンセプトそのものよりも旧500のデザイン意匠が大胆に導入されたことが注目されたと記憶している。時期的にはフォルクスワーゲンの新型ビートルが好評を持って迎えられた時期と前後する。当時の私は自動車運転免許を取得すらしていなかったが、「2+1(トレピウノ)」の写真を見た瞬間に「10年後には私はこれを運転している」と「直感した」ことを明言しよう。この直観がなければ、未だに運転免許を持っていなかったかも知れないし、現在FIAT 500を愛車にしていることなんて尚更あり得ない。

 私の人生の大部分は「直観」による判断とその後の「幸運」からできていると言って良い。大学の選択しかり、研究室の選択しかり、就職先の選択しかりである。全ていきなり一点勝負であった。ポイントは「直観」による判断、選択を信じ、その一点は決して譲らないことであろうと思う。それは時に厳しいが、自分に言い訳するなんてことは願い下げだ。例え望むように事が進まなくなかったとしても、後悔として将来に禍根を残す可能性は個人的にはないと言って良い。逆説的だが、後で後悔するようなことをやること自体が一種の愚行という認識なのである。

 さて、結局FIAT 500の製品化までには「2+1」からほぼ5年を要した。そのため、先代かつ私の最初の愛車はFIAT Nuova Pandaとなった。運転免許取得の約1ヶ月前にアルファロメオ・フィアットディーラーが近所にオープンするという幸運な巡り合わせ付きであった。

 私が運転免許を取得したころのフィアット車の評判はと言えば、これは目も当られぬものだった。曰く、「高速道路走行中にエンジンが落下した」、「駐車していたらエンジンから出火した」といった具合で、サムスン電子のスマホもびっくりの酷さだった。イタリア在住の自動車関連ライターのコラムでも、フィアットディーラーの営業スタッフが「どうせもうすぐ倒産するんだから」と口にする様を紹介していたほどである。

 しかし既に触れたように、自動車製造・販売会社としてのフィアットは復活する。「我々の(品質管理における)ベンチマークはトヨタである」と明言した当時のCEOにちょっとシビれたが、その言葉に嘘はなかったということだろう。Nuova Pandaは「新生フィアット」を体現した良い車だったと思う。いわゆる「サンダル」、街乗りユースには全く文句のない車だった。これも一種の「幸運」だろう。

 さて、これまでの流れからだけならFIAT 500が発売されたとなれば直ぐにでも飛び付いていた筈なのだが、その直前に業務多忙を原因に「軽度のうつ」を発症して高価な買い物なぞできない状態となってしまっていた。実のところFIAT 500とNuova Pandaはプラットフォームを共有している。つまり極論すると、エンジンが同じであれば両者には外観とエンジンや足回りのチューニングレベルの差しかない事になる。初期のFIAT 500のエンジンはNuova Pandaと同じFIRE1.2ℓを搭載したモデルもあったから、極論とは言えあながち間違いとも言えないだろう。

 病気が原因で購入時期が当初の予定より4年ほど遅れた結果、Twin Airエンジン搭載車という選択肢を得ることができた。ターボ付き空冷2気筒エンジンとか、現在の日本車ではあり得ない方向性だ。優等生エンジンであるFIREに較べてれば癖は強いし、街乗りでは燃費もイマイチだ(実力でたった17km/ℓ!)。が、そのFIREエンジン搭載車ですら運転が楽しいのがフィアット車である、Twin Airエンジン搭載車となればどうなるだろうかと期待も不安も膨らんだものだ。Twin Airエンジンの搭載は私の中では「新型500らしさの獲得」以外の何物でもなく、「ついに乗り換え時期が来た」と確信したものである。例え不安が的中したとしても「好きでする苦労」は楽しいものなのである。一見すると私の行動はギャンブルだが、私の中ではどう転がろうが「勝ち」しかないのである。これは一種の「覚悟」とも言えると思う。

 FIAT 500というプロダクトの存在感が気になったという身にとっては、このような状況すらも幸運と呼ぶべきなのだろう。「覚悟ができるなんて、なんと幸せな!」

 私にとってのFIAT 500 Twin Airの購入は、約10年前の「直観」とその後の様々な「幸運」にやっぱり彩られている。

2014/08/29

グダっているのかどうか、だけどね。

 後でじっくり読みましょう、論理レベルが分かる筈。朝日新聞DEGITALの記事から。まぁ、第一段落で既に「日本語からの超訳?」みたいな「変な英語」感がハンパない、coolはねぇなぁ、せめてcoldだろうね。
Look squarely at essence of 'comfort women' issue

2014年8月22日10時00分

By NOBUYUKI SUGIURA

Executive Editor

Japan-South Korea relations have cooled in a manner unseen in the past. One reason for the increasingly troubled relations is the large gap that exists between the two nations over the "comfort women" issue.
The issue first came under the spotlight in the early 1990s. After a former comfort woman came forward to tell her story, debate and research on the topic progressed.

What was gradually brought to light were the conditions that led to women having their dignity and honor severely compromised during a time of war at comfort stations created in various parts of Asia, through the involvement of the military.

Now, after about 20 years, a move to review the Kono statement, which acknowledged Japanese military involvement and offered an apology, has provoked opposition from within South Korea.

South Korea has also maintained a rigid position, refusing to accept the feelings of apology and remorse expressed by the Japanese government.

With the comfort women issue becoming a political problem, the Abe administration conducted a study into the process behind the compilation of the Kono statement and released a report about that study in June.

Groundless criticism has arisen among some commentators as well as on certain Internet sites saying, "The comfort women issue is a fabrication of The Asahi Shimbun."

Moreover, a former Asahi reporter who wrote articles about former comfort women has been maligned by name. That has led to inquiries from our readers asking, "Are those allegations true?" and "Why don't you respond?"

We have put together special pages reflecting on our coverage of the comfort women issue because we believe that fulfilling our responsibility to our readers to explain ourselves will provide the first step toward the start of new discussions that are oriented to the future.

Although we ran special coverage on the comfort women issue in March 1997, we have once again gone over the points of contention while also relying on subsequent research.

In the early 1990s when the comfort women issue first came under the spotlight, research on the issue was not at an advanced stage. We continued to write articles based on the testimony given by former comfort women as well as the few documents that were available.

We have now learned that there were factual errors in some of those articles. While those errors occurred at a stage when the overall picture of the issue was not yet clear, we do reflect on the fact that there was insufficient information gathering to support those articles.

Similar errors also emerged at that time in articles carried by other Japanese media outlets as well as in articles by the South Korean media.

It has been pointed out that some of that inaccurate reporting has led to confusion in the understanding about the comfort women issue.

However, we absolutely cannot agree with the use of that as a reason for espousing "the comfort women issue was a fabrication" and arguing "there is no need to apologize to the former comfort women."

The reason we cannot agree is because some of the arguments being made to protect the honor of one's own nation by degrading the victims as "prostitutes" only incite nationalism in both Japan and South Korea and create factors to complicate the issue.

We are concerned about the spread of inward-looking discourse that avoids looking at the unpleasant past and incites emotional confrontation.

There is no way to erase the fact that during the war there were women who were forced to serve as sexual partners for Japanese military personnel.

The essence of the issue is that comfort women had their freedom taken away and their dignity as women trampled upon.

In the 1990s, during the fighting in Bosnia, the attention of the international community was concentrated on rapes by militia members. How a nation views sexual violence toward women during times of war is now viewed internationally as a human rights issue concerning women. The comfort women issue is also connected to such contemporary themes.

When the Asian Women's Fund, created through a combined effort of the public and private sectors, gave atonement money to the former comfort women, it also included a letter from the prime minister of the time that had the following wording:

"(Japan) should face up squarely to its past history and accurately convey it to future generations. Furthermore, Japan also should take an active part in dealing with violence and other forms of injustice to the honor and dignity of women."

The letter contains the resolve of political leaders to proceed along a path of reconciliation by overcoming confrontations revolving around historical recognition.

Next year will mark 70 years after the end of World War II and 50 years after the normalization of relations between Japan and South Korea. However, the national security environment in East Asia is increasingly unstable.

The comfort women issue is one topic that cannot be avoided in the building of a future-oriented and stable relationship with our neighbor.

We will continue to report on this issue without changing our basic stance.

***

In this special coverage, we will analyze what the comfort women issue is all about and respond to the questions that our readers have about our reporting in the 1990s. We will also take a look back at the wavering Japan-South Korea relationship over the past 25 years because of this issue and also have experts present their views on the comfort women issue.

2014/08/28

かっちぇー!!

宣言 国民と共に立たん(昭和20年11月7日)

 支那事変勃発以来、大東亜戦争終結にいたるまで、朝日新聞の果したる重要なる役割にかんがみ、我等ここに責任を国民の前に明らかにするとともに、新たなる機構と陣容とをもって新日本建設に全力を傾倒せんことを期するものである。今回村山社長、上野取締役会長以下全重役、および編集総長、同局長、論説両主幹が総辞職するに至ったのは、開戦より戦時中を通じ、幾多の制約があったとはいえ、真実の報道、厳正なる批判の重責を十分に果し得ず、またこの制約打破に微力、ついに敗戦にいたり、国民をして事態の進展に無知なるまま今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せんがためである。今後の朝日新聞は、全従業員の総意を基調として運営さるべく、常に国民とともに立ちその声を声とするであろう。いまや狂瀾怒濤の秋、日本民主主義の確立途上来るべき諸々の困難に対し朝日新聞はあくまで国民の機関たることをここに宣言するものである。

朝日新聞社




2014/08/26

つ ねつ造乙

 今流行りの「アイスバケツ」、サムスン電子のスマホGalaxy S5でもやったとか。で、今や世界の笑い者になっているようです。
 「アイスバケツ」前後で画面表示が違う、合成だな、という指摘ですね。壊れたんなら出さなきゃ良いのに、っつーか完全に意味不明。

2014/08/25

FIAT500≠ルパン三世

 昨日の昼間、映画「ルパン三世」の特番をTVでやっていた。で、たまたま観たのがFIAT500を使ったカーチェイスシーンがらみの部分。監督が出てきて「FIAT500でのカーチェイスは皆観たかったでしょ」みたいな事をドヤ顔でしゃべっていたが、実は凄い違和感。個人的には全く観たくもないし、ルパンらしくもない。

 「FIAT500は某映画の監督や作画監督の趣味であって、ルパンの趣味じゃないでしょーよ」、と言うのが正直なところ。

 ルパンが拳銃連射するシーンにも凄い違和感。私にとってのルパンは一発必中、しかも「狙いはそこか!」ってならないとつまらないし、カッコ良くもないよね。

 それはさておき、今度の映画では富士山は噴火しない・・・よね?

2014/08/23

朝日新聞シリーズ記事「慰安婦問題を考える」英語版、読んだ記事の冒頭からいきなり日本語版と内容が違うんですが!

 朝日新聞(朝日新聞デジタル含む)は8/5、6にシリーズ記事「慰安婦問題を考える」を掲載した。しかし、通常であればほぼ当日中に行われる英語版の掲載が当該シリーズ記事に限って為されていないことが報道他社含め多方面から指摘され、一部では非難の声も挙がっていた。当ブログ主も英語版記事を掲載しない朝日新聞社の姿勢を「まさにゲスの所業」と見ていた。

 当ブログでは、このシリーズ記事のうち2件の記事を挙げて私なりの注釈を加えてみたりしている。記事の内容は置くとしても、論理的には酷い文章であること、偏向乃至は印象操作が疑われる記述が散見されるのは動かし難いだろうと感じている。

 関連エントリ: 朝日新聞「慰安婦問題を考える」の不完全な解説 #1 #2

 そんな中、昨日になって英語版記事が掲載され始めた。正直、記事自体を見つけるのにかなり手間を喰ったことを告白しよう。本来一番目にそれらの記事が出てきてもおかしくない「検索ワード」を使って記事検索しても、なかなか目当ての記事がヒットしなかったことが理由のひとつである。もちろん、使用した検索ワードは英単語だ。英語版記事掲載の可能性については、過去エントリで次のように書いた。
でも真面目な話、あのシリーズ記事の英語版は書けても英訳は不可能だと思う。姑息なレトリック満載の記事の文章は論理破綻の塊で、日本語ですら成り立って いない。そんな文章、或いはそもそも論理構造も論旨すら備えていない唯の単語の羅列なんか、論理構造がより明確であり、あやふやな記述を苦手とする英語に 訳せるとは思わない。翻訳を頼まれた人が居たとしても、できる人間ほど頭を抱えてしまうだろう。概して英語で曖昧な文章を書くことは難しい。
当時の私の思いはともかく、やはり英語版記事は日本語版とはかなり論理的に異なる内容のものになっている。今回は英語版記事"Testimony about 'forcible taking away of women on Jeju Island': Judged to be fabrication because supporting evidence not found"の最初の1段落だけを日本語版記事と比較するだけでそれは良く分かる。

 「1段落だけ抜きだすのは恣意的では?」と思う人もあるだろう。しかし記事は「疑問→回答」の形式を採っているので、第1段落は「疑問」の部分そのものであり、単独で論理性などを吟味することには恣意性も任意性も入らない。「正しい回答、解答」を得るには「適切な疑問、質問」を発することが必要だ。その観点からは「回答」部分よりも「疑問」部分の方がむしろ論理的にきっちりと閉じている必要があると言って良い。

 では、始めよう。

英語版記事
Question: There was a man who testified in books and meetings that he had used violence to forcibly take away women on the Korean Peninsula, which was Japan's colony, to make them serve as comfort women during the war. The Asahi Shimbun ran articles about the man from the 1980s until the early 1990s. However, some people have pointed out that his testimony was a fabrication.
対応する日本版記事
〈疑問〉政府は、軍隊や警察などに人さらいのように連れていかれて無理やり慰安婦にさせられた、いわゆる「強制連行」を直接裏付ける資料はないと説明しています。強制連行はなかったのですか。
 testifyは「証言する」、testimonyは「証言」、a fabricationは「つくり話、つくり事」、comfort womenは「慰安婦達」。

 さて、この時点で英語版と日本語版とで既に論理的観点から見て大きな違いがある。日本語版では「政府は、軍隊や警察など」という強制連行の主体の記載があるが、英語版には「政府」も「軍」も「警察」も出てこない。 

 日本語版では以前からの朝日新聞の主張、すなわち「日本政府、軍、警察は慰安強制連行の主体であり、日本政府に謝罪と賠償の責任がある」を反映した文章となっている。しかし英語版では、「日本の植民地であった朝鮮半島で、証言者(吉田氏)は暴力を用いて強制的に女性を連れ去った」と書かれており、「一人の男」(a man)である証言者(吉田氏)しか慰安婦強制連行の主体として挙げられていない。つまり、記事の最初の段落から日本語版と英語版の記事の内容は本質的に異なっている、「まさにゲスの所業」である。

 他方、あくまで「日本の植民地」(Japan's colony) という表現は譲らない。私の知っている歴史的経緯からは「日本統治下」(under the Japanese rule)あたりが妥当だと思うのだが。また、太平洋戦争をthe war(~これぞ全世界万民にとっての戦争の中の戦争!The war of wars!戦争の中の戦争!)と書いてしまうセンスは英語的にはかなり疑問、というかかなり書き手が頭悪そうに感じられる英文。ネイティブの書いた英語ではないか、ネイティブが書いた英文を英語を良く知らない人間がいじったとか、可能性は色々考えられますがね。

 on?which?articles about the man!?とか細かいところを挙げたら実のところキリが無い。これらは文法上の話ではなくて記述されている内容の論理構造に関わる話、行間や文脈を敢えて読まずに「英文で記述されている論理」をそのままを受け入れようとしても意味が全く理解できない、ということだ。

 日本語版と英語版の「疑問の内容の違い」の原因が、「もともとの日本語版記事の段階で回答が疑問に対する回答になっていなかった(論理破綻していた)」ので「単純に翻訳してもまともな英文にならない」、ならば「いっそ疑問の方を回答に合わせて変えちゃいましょう」、とかだったりするんじゃないかと本気で怖い。もしそうなら脳だけでなく性根も腐りきってる。

 あと、Questionと言いながら、英語版は全く疑問の要素を含んでない。会合などの質疑応答で「質問をせずにただ自分の主張を述べ続ける人」みたいなDQNな感じは否めませんね

 最初の段落だけでこの有様。

2014/08/21

侵入者を殲滅せよ!

 今住んでいるアパートには新築で入った。新築の良さは何と言っても「ゴキブリが居ない」ことである(訳有り物件の可能性が低い事ももちろん重要、学生時代にエライ目にあったからね)。実際、7年以上ゴキブリを見ることはなかった。が、約1ヶ月前についに現れた。おそらく隣室への入居者の荷物とともに侵入したものと思われる。

 基本、虫とは言え殺生はしない主義なのだが、如何せん相手の挙動が自由過ぎる、勝手に俺(座卓生活者)の身体に登るな。そしてついに繁殖の揺るぎない証拠が確認された。

 という訳で既に発動していた封鎖作戦「座卓の盾」を破棄、昨晩から化学兵器「ハンドソープ」を主兵装とする非接触大規模殲滅作戦「座卓の嵐」の発動を決定した。守りから攻めへの方針転換である。「砂漠」→「座卓」と、作戦名が地口としてイマイチなのがつくづく残念ではあるのだが。

 昨晩は封鎖作戦「座卓の盾」で追い込みに成功した大物を浴室(ユニットバスなので入口、排気口、排水口以外に開口部なし)で殲滅、今晩は小物達の挙動を10分ほど観察して洗濯機脇の本拠(空の卵のある場所)を急襲、十匹以上の小物を一気に殲滅した。残念ながら一、二匹逃したが、明後日にはブービートラップ(ゴキブリホイホイの類ね)を設置する予定である。

ふぁっ、「夜のヒットスタジオDeluxe」!!

 いわゆる「夜ヒット」、知ってる人の年齢は推して知るべし。で、たまたまYoutubeで見つけたのがMichael Fortunatiの出演シーン。へぇ、来日したことがあるんだぁ、しかも楽曲は"Give me up!"じゃん、とか何気に見ていると、同曲を日本語でカバーしたBaBeのお二人も登場。他の出演者も懐かしいやら若いやら。

 ちなみに「BabeのGive me up!」で斉藤由貴さん主演のTVドラマ「あまえないでヨ!」とか思い出しちゃったあなた、そうあなた!お互い歳をとりましたなぁ。

 タイトルは「ライブ」になってるけど、これは口パクだよねぇ。「生出演」ってニュアンスかな。
 それはそうと、シュルダーキーボードっていうのは一応格好良かったんでしょうかねぇ。チック・コリアみたいにガリゴリ弾いたり、打楽器みたいに扱う分には多少ありかとも思ってましたが、未だ謎。

2014/08/16

う~ん、

 朝日新聞社説、なんとも調子が良いことで。
日本と韓国―国交半世紀に向かって

2014年8月16日(土)付

 8月15日の終戦の日、日本は戦没者の追悼に包まれた。
 隣の韓国は、植民地支配から解放された「光復節」だった。
 きのうの式典で朴槿恵(パククネ)大統領は、日韓が来年、国交正常化50年を迎えることにふれ、「未来志向的な友好協力関係に進まねばならない」と訴えた。
 中でも慰安婦問題が解決されれば関係が進むとし、「日本の政治指導者たちの知恵と決断を期待する」と呼びかけた。
 両国が未来を見すえて行動を起こすときであることは間違いない。日本の誠実な対応とともに、朴氏自身も「知恵と決断」に踏み込むべきである。
 どちらか一方が百点満点と評価できる解決はありえない。どんな方策を選ぼうとも、両国の間には、評価と反発とが入り組む複雑な反応が生まれることは免れない。
 だが、そのむずかしい着地点を探しだし、大局的な視座に立った解決を図ることこそが、外交をつかさどる政治の使命である。冷え切った隣国関係がこのままでいいはずがない。
 朝日新聞は今月、慰安婦問題について特集を組んだ。過去の報道の誤りをただすとともに、慰安婦問題の本質は普遍的な人権の問題であることを示した。
 日本軍が関与して作られた慰安所で、多くの女性が兵士の性の相手を強いられた。女性の尊厳が著しく傷つけられた。その史実は否定できない。
 負の歴史に対する責任の認識は、日本の歴代政権もしっかり共有してきた。90年代の「アジア女性基金」の設立など一定の努力をしたが、韓国側が受け入れを拒んだ。
 こじれた問題とはいえ、両政府は2年前、打開する合意案に近づいていた。日本の大使が被害者らにおわびし、国家予算による支援などをする案だった。
 その合意は日本の政局の流動化で霧散してしまった。だが、政治が真剣に取り組めば、道は開けることを示している。
 両国の識者や政治家が集まった「日韓フォーラム」が先週、福岡で開かれた。政治の膠着(こうちゃく)が経済や観光にも暗い影を落とし始めている問題も論じられた。
 安全保障面では、北朝鮮への対応や、アジア全体の安定化のためにも、西太平洋を代表する民主主義経済大国である日韓の連携は不可欠だ。
 首脳同士会うこともできず、健全な隣国関係を築けない両国の指導者が、アジア地域全体の未来を描けるはずもない。
 安倍首相と朴大統領は、節目の年を前にした今こそ、真のリーダーシップを見せてほしい。
言いたいことは分かる、分かるが、「それはそれとして」旗色はっきりさせないといけないことが有るでしょうという事なんですが。「ねつ造報道」とそれらを発端として隣国との無用な軋轢を発生させた件に対してはどういう立ち位置なんですか。

 「南京大虐殺」「靖国参拝問題化」と、まだ先が控えているのですよ。今は中共内では権力闘争が展開中の様なので目立っちゃいないけど、いずれこれらにも答えなきゃならないよ?歴史もちゃんと理解できない馬鹿、或いはしないファンタジー脳なのは重々承知ですが、仮にも報道機関なんだろ。総括しろ、それとも総括されたいの?左翼用語ならば分かってもらえるかな?

2014/08/15

クリスティアン・アングラオ著「ナチスの知識人部隊」読了。

 博士論文に筆を入れたものとのことで、読み物としては重い。

 テーマはナチス政権下でのドイツの東方進出の正当化に重要な役割を果たし、さらに東方進出後には行動部隊(虐殺も行うことになる)の指揮にも関わった博士を含む大学出身者の行動、言動である。内容についてはちょっとやそっとでは纏め切れないので具体的には触れないが、まずナチズム有りきではないこと、第一次世界大戦の敗北~戦後の混乱期が当時のドイツの学生の目にどう捉えられていたか、どう彼らの思考に影響したかという視点が特徴の書と言える。第一次大戦で一部ドイツ人が感じた「民族絶滅の危機」が如何にその後の行動の正当化と繋がっていくか、そしてそれが実は姿、主体を変えて繰り返され、現在もなお繰り返されつつある、という視座を読んだ者に残すだろう。つまり本書は意外にもナチズムを扱ったものではない。が、ナチズムと総称されるものの一部、かつナチズム無しでも存在できたひとつの思想、の正体を明らかにしている。それ故に恐ろしくもあり、示唆に富む内容となっていると思う。

 もし太平洋戦争敗戦時に「国体」が外科的に解体されていれば、日本でも一周遅れで起きたかもしれない、と覆わせる部分も多々あるやに思う。

 少し脱力してしまったのは翻訳者のあとがき。無用な修辞を不用意に使ったせいで、まるで本書を読まなくても書けるような奥行きの無い内容となっている。うっかりあとがきだけ読んで「つまらん」などとは思わぬように、翻訳はきっちりとしたものです。