かつて職場の喫煙所で同僚と
「中共がでっかい北朝鮮になったらたいへんだねぇ。」
なんて笑ってましたが……
何と!中共が「でっかい韓国」になってしまいましたよ!?
中国裁判所、戦前契約巡り商船三井船差し押さえ
ふはっ!中共どうしちゃったんでしょう。どうやれば指導層の代変わりだけでこんな酷い政治的劣化が可能なのでしょうか?
確かに日本の首相は、ほん~っとに久しぶりに親中派ではない。久し振りの状況に完全について行けてないのでしょうか。中共の「反日」は、かつては中共政権内の反主流派が主流派を突き上げるためにしか使えないどうでも良いイシューだった筈。しかも朝○○○とかの全面協力の下で。
ん?今回も実は反主流派の突き上げ?
もしそうなら主流派が党内を制御できていない証拠。党内のハネっ返りの愚行でも同様。人民解放軍の特定の軍管区だと、まぁ、ほぼ最悪。
片や主流派がやっているのなら、中共政権が完全にリアリティを失っている証拠。反主流派と人民解放軍の特定の軍管区が結びつくと、かなり最悪。
両者とも関係ないならば、党が国内を制御できていない証拠。人民解放軍が誰につくかで、どうしようもなく最悪の状況もあり。党の崩壊は党員への死刑宣告ですからねぇ、状況をほっとくと殺されると分かっていたら、先に相手を殺すとか何だってしちゃうでしょうよ。
どれにしても中共ヤバいねぇ。この機会を生かせないと駄目ですよ…もちろん「誰が」は秘密です。
あと、中央日報のコラム「平壌はなぜ誤った選択を繰り返すのか」は何の驚きもない、悪い意味で期待を裏切らない所謂平壌運転状態。
「京城はなぜマトモな選択が不可能なのか」についての私見は先のエントリでどうぞ。
追記:
某ニュース番組の報道によると、中共の主張は「民事は別」。うむ、筋が悪すぎる。
「戦争賠償の放棄」の範囲は「現在の中共の範囲における民事も含む」筈だ。何故なら、中華人民共和国が建国されたのは大東亜戦争終結後であり、国家として見た場合は中華人民共和国に「放棄できる賠償事項がない」からだ。日本が「中華人民共和国が放棄できる賠償事項がある」と見做したのは、「中華人民共和国が当時の中華人民共和国の領内における『正統な』後継政府である」と認めたからに他ならない。
つまり、「民事は別」という中共の発言は、「我々は正統な後継政府ではない」と言っているに等しい。そういう辺りが見えていないところが、私が政治的劣化と呼ぶところなのである。この狡猾さのかけらも感じさせない馬鹿丸出し感は、韓国政府のそれに比することができよう。
中華人民共和国が自らの「正統性」にこだわらなければいけないのは、それを喪失すると「今日的中華思想」に基づく他の主張が、ただでさえ単なる身勝手に過ぎないところにきて、説得力を全く失うからである。「民事は別」ならば「チベットもウイグルも満洲も別」「国連常任理事国の資格なし」でなければならないのが論理的帰結だ。この辺りに関する私見は、アジアワッチ特別編(その2)で触れる予定の内容そのものだよ。<
2014/04/22
2014/04/21
アジアワッチ特別編:「反日」の正体が一瞬見えたような…(その1)
昨夜ふとんに入ってからいつものにように頭をいったん空っぽにし、「無意識に考えている(んじゃないかと私が解釈している)」ことが頭の中を駆け巡るにまかせた。で、ポンっと出てきたのがエントリタイトルの件だ。脱線はするけど本エントリの内容は大まじめだ。
別段新しい話ではない。けれど、自分も同じ結論に至ったのだな、という点は「主体性は如何なる場面でも重要」、「他人の受け売りは恥(出典を明らかにしての引用はむしろ勉強している証拠)」などの自分の価値観の照らせば重要だ。
結論から言えば、「反日」には正体なんてない。韓国国内問題である「今日的な反日」と、正統な民族運動に基づく「反日」とは、成立理由や経緯、品位にあっては天と地との差ぐらい違う。「反日」の種は、大和朝廷による日本と言う国の成立直後にまで遡る、ということだ。
じゃぁ、迷走を始めるよ。
他者を正当に評価し、自らを精神的に成長させ続けつつ実利としてのアウトプットを出し続けるには、実のところ「自信」が不可欠だ。
「自信」は自らの精神的成長によっても得るものだが、最初の種としての「自信」は低いレベルで良い。もっとかみ砕くと、「自分で自分を認める(=私も以外に捨てたもんじゃないかも?!)」ことができれば良い。逆説的だが、「自分で自分を認める」ことの繰り返し、認めた内容のレベルアップこそが精神的な成長ってやつだ。ここまでは「他者の視線や評価」は必須ではない、いやむしろあまり望ましくない。
幼少期の挫折はトラウマとしては最悪なもののひとつで、自力での克服は容易ではない。私が30歳ぐらいまでかなりメタメタだったのは幼少期に耳にした母親の不用意な一言、「あんたなんか産まなきゃ良かった」に起因する。これの解消には、母親の別の一言、「今になってあんたを生んだことが良かったと思えるようになった」が必要だった。全般的にメタメタだったものの、自分のそれまでの生き方が基本的に間違っていなかったことの私にとっての証左だからだ。
それはさておき、
従って「自信の種」は、自意識過剰気味な多感なお年頃に至る前に持ってしまった方が良い。「ポケモンの名前全部言える」で十分で、両親や祖父母に褒められるだけぐらいがちょうど良い。ただし、並行して「次の自信のための種」も持っておかないといけない。他者の視線や評価の対象となり得る「より一般的なもの」に対して興味を持ち、のめり込んでみることだ。このとき、親などの近親者の果たす役割は大きい。
私の場合の興味の対象は、星とSci-Fi、つまり天文学と小説だ。私の両親の偉いところは、「本気か?」と私に確認した上で天体望遠鏡購入に資金的援助をしてくれたり、所謂小遣いと書籍代を別会計にしたことだ。
のめり込んだ結果、多感なお年頃になる辺りでその分野については他者からも一目置かれるようになる。これは「自信」として良い、なぜならばそれは「自らの行動によって手に入れたもの」だからだ。お勉強は優劣が容易に明確化されるので、個人的にはお勉強「のみ」に絶対の自信を持つのは挫折予備群化する危険性が高いのでお勧めしない。だからって、お勉強をしなくたって良いと言っている訳じゃぁない。お勉強は「さらに次なる自信の種」でもあるからだ。
さて多感なお年頃末期に、就職するなり高等教育を受けるなりの選択に迫られる。
技能職、突き詰めていけば「職人」の世界は「腕が命」、つまり一流、せめて二流になるにも「他者の評価に裏打ちされた自信」の獲得が必須だ。ここにきて、「自分で自分を認める」ことができるかどうかは「自信」獲得における必要条件でしかなくなる(「他者による評価」が十分条件を満たす上で必須となる)。サラリーマンになるにしても、セールス業なんて最初っから「ノルマ」とかあれば大変だが、「自らの流儀、強み」を見出せるかもしれないチャンスでもある。
一方、大学等に進む場合、理想的には「やりたいこと、興味あること」が進学先選択で重要な役割を果たすことになるだろう(この辺りは個人的には紆余曲折があったから内容には触れないけど、ここ4~5年の趣味なんてのは言わば「50%程度不本意だった進学」の代償行為みたいなものだ)。幸いにも「心ある師」を得ることができれば、卒業できたことだけでも「十分な自信」になる。専門性が強くなればなるほど、「どうでも良い1万人」の評価よりも、「認められたいと願う一人」から評価の方が嬉しくなる。「認められたいと願う一人」から何らかの反応があっただけでも十分だ。
かくて、「自信」は強化の段階に入る。大抵の「良い意味で自分に厳しい人」はおそらくこのフェーズに自覚的に居続けている人だろう。私は辞めちゃったけどさ。
さて、大風呂敷を広げるよ。これまでの個人の「自信」に関する考察を国家に敷衍してみる。ここから先は異論があっても全く無問題、所謂IMO(In my opinion、私の思うところ…)だからね。
「国家たらん」とすれば、自主、独立が必須となる。「現在」の日本は両者共に心もとないところもあるのだが、このエントリでの論展開ではいったんうっちゃておく。あくまで「現代」の日本の話だからだね。
例えばASEAN諸国が比較的「親日」であることは良く知られた事実だが、この中韓との温度差の原因にはやはり「自信」の有無があると私は見る。連合軍だって大東亜戦争の敗者という言説がある。大東亜戦争は、結果として、連合国がアジアに持つ植民地を短期間で失うことになるトリガーを引いたことに間違いはないからだ。
「絶対勝てないと信じていた支配者である白人種を、黄色人種である日本人があっという間に打倒した。」
これこそが「自信の種」である。重要なのは「日本がアジアの欧米植民地を解放した」という点よりも、「私達黄色人種って実はたいしたもんじゃないのか?!という意識」の明確な萌芽、共通認識化である。
で、現在のASEAN諸国の人々が別に「日本人になりたがった訳ではなかった」こともとても重要だ。彼らは彼らの民族的なアイデンティティを維持しつつ、支配国に対して独立運動の刃を向けた。結果として得られた独立は文字通り血も流して「自ら獲得したもの」であり、「黄色人種の自信」を「自らの民族や民族集団の自信」へと昇華、強化するに十分な理由となる。
だからこそ、それら血であがなった「自信」に裏打ちされた「国家」は「正当性」を持ち、それら国家やその国民は現在の日本人から見れば十分にリスペクトの対象だ。それ故、それら国家に住む人々から日本が好意的に捉えられいることは喜んで良い事だと思う。同時に、これらの国々から「今の日本は…」と言われると本当に頭が痛い思いをすることになる。
所謂「自虐史観」のまずさは「自虐的であることにあるのではなく」、「現在の日本と周辺国との関係を正しく認識するために必要な文脈を備えていない歴史観」である点と、それが「歴史」と等価に意図的に誤って使われる点に尽きる。現在が過去の延長であり、連続性を持っている以上、件の文脈を備えていない歴史観は「真っ当な『歴史』なら備えるべきものを備えていない」と断言して良い。「歴史観」と「歴史」は別物、両立し得る。ここを分けられないのであれば間抜けにも程があると言えよう。
さて、「歴史」を紐解くに、朝鮮半島が「植民地化」された事実は無いようだ。少なくとも近代的な植民地にはされたことがない。「朝鮮」という言葉の起源については色々とあるが、韓国ではおそらく教えていない説の例を敢えて挙げると、
実際に日本がやったのは「合邦」であり、朝鮮半島においても大日本帝国憲法が適用されたのである。どう考えたって「近代的植民地」とは状況は程遠い。とは言え、心ある民族主義者もいた訳で、そちらの視点に立てば「日本が朝鮮半島を侵略した」という言説にもうなづけるものはあるが、それでも「日帝による朝鮮半島の植民地化」はきっぱり無い。朝鮮半島の住人の多くは「日本人になりたがった」のである。だって、「朝鮮半島の人々から見た場合」、当時の日本人は朝鮮人より「格上」だったからね。
が、それも大東亜戦争が終結するまでだ。戦後は「朝鮮進駐軍」なんて戦勝国気取りの連中まで国内に現れるに至る。これに対しダグラス・マッカーサーは「第三国人なり(連合国側でも枢軸国側でもない)」と発言したが、そこは「お前らは日本人だったじゃないか!お前らは負けた側だ!」と言うのが本当だろうなんだけどね。
戦後、朝鮮半島南部は米国の軍政、北部はソ連の傀儡政権統治下となる。この時点でおそらく最も「自信」を持っていたのは、南部では金九氏らのガチの抗日活動家や日本で教育を受けた軍人、北部では中国系、ソ連系などの抗日活動家なのだが、結局彼らは現在の韓国、北朝鮮の成立にほぼ関わっていない。金九氏は米軍軍政下で臨時政府主席を務めるが暗殺され、日本で教育を受けた軍人達は優秀故にクーデターを恐れた李承晩氏の下で冷遇されることになる。李承晩氏は金九氏とも協調した時代もあるが、どうも民族主義とは相容れない行動、言行が目立ち、民族活動家としては「なんちゃって感」がぬぐえない。北は北で抗日勢力同士が内部抗争を繰り返して自滅、結局ソ連が連れてきたたどたどしい朝鮮語をしゃべる若い男(伝説的な抗日パルチザン、金日正氏とされる男)が実権を握る。
つまり、南北朝鮮の国家の成立は「自らが手にした独立」という「自信」も「正当性」も欠いているのだ。そいう意味では韓国のパパ朴大統領は数少ない「自信」ある大統領ということになるし、やはり「自信」ある軍人によってクーデターが起きるという李承晩氏の判断はたまたまとは言え妥当だったということにはなるのだろう。
パパ朴大統領は「克日」を唱え、韓国に「自信」を与えようとしたし、北朝鮮は「主体思想」により「独立の正当性」の後付けを試みた。彼らは彼らなりに自国の弱みを理解し、克服を試みたと言って良いだろう。が、パパ朴大統領も暗殺され、「克日」は忘れられ、韓国は「自信」も「正当性」も欠いたまま現在に至る。もちろん、「正統性」なんかありゃしない。北は北で「正統性」をねつ造するだけでなく、政権の「世襲」まで行い、これまた国家としての「正当性」をうやむやにしたまま現在に至っている。ちなみに「正統性」は、中共が過敏に成らざるを得ない概念だ。
以上、ざっくり纏めると朝鮮半島国家の正当性に関わる事項は以下のようになる。
が、何の「自信」も「覚悟」も無しでそんな「厳しすぎる戦い」、「修養」に挑める筈もない。結果、それがもうどうしようもなく捻じれてしまうことになる。「殺した相手の事は気にしなくても、殺した相手の主張は益があるからそのまま使いましょう」と蝙蝠的態度を繰り返すうち、「殺した相手の功績、覚悟、資格、自信も自分達のもの」と勘違いするに至る。或いは意図的にそう信じることにする。「光復」なんて言葉、喜んで日本人になった人が使う筈無いでしょうよ。
つまり「反日」とは、「かつて日本人となることを受け入れた自分達へ向けるべき刃であったのだが」、「『資格が無い』にも関わらず自分達を『反日』の主体に置き換えた結果、刃を向ける先を失い」、「日本に刃を向けることにした」ということだ。
「自分達は悪くない、自分達には非が無い」という、「歴史的にはほぼ誤っている願望とでも呼ぶべき嘘」を「集団的につくこと」から「国が始まっている」のである。
嘘をつく必要がないガチな抗日活動家は当然邪魔となるので粛清、排除済みだから、国内に異を唱える人間はもはやいない。その時点で、「反日」を唱える人間はすべからく「親日」を根として持つ者だけなのだ。国内においては、皆が親日罪人故に難癖付けて他人を親日罪人として強烈に吊るしあげずにはおられない。
「ガチな抗日活動家」、すなわち他の多くのアジアの国々では「建国の父」や「独立運動の英雄」となるべき資格を持つ人々は、「自分達は親日ではなかった」ことにした人々によって構成された国家の「欺瞞と嘘を白日の下に晒す」だけの力、資格を有するが故に「国家の敵」となるのである。李氏朝鮮もそうだったが、「真に愛国者たる者」は国や国民に裏切られ、殺され、忘れさられるのである。
これらの苛烈な反応は、「抗日が民族的運動ではなかった」という歴史的事実認識を、少なくとも当時の人々は共通認識として持っていたことに起因しよう。
「なんちゃって反日活動家(なんちゃって抗日活動家、似非民族主義者、権力亡者)」が「なんちゃって」故におびえて「真の反日家(抗日活動経験者達)」を粛清し、「根拠ある『自信』を持つ日本で正式な訓練を受けた軍人達」を「親日罪人」を理由に冷遇し、「なんちゃって反日活動家」から世代交代の後は「親日罪人やその子孫」が「親日罪人」を吊るしあげる。
本来「論理的には国民総懺悔(総修養)」の筈が、何故かこうなっている(日本語文法にも「過去開始・現在進行形」が欲しいね)。これはとっても恐ろしい構造だ。
「和解ではなく、他者を全て潜在的な敵とする」、それが韓国の選んだ道だ。「自分達は悪くなかった」という嘘を守るにはそうするしかなかったのだ。まぁ極論だけど、そんな国家的アイデンティティを継承する国に「過去の歴史を直視せよ」なんて言われても全く説得力が無い。
日本も自虐的に「一億総懺悔」なんて言ってたけど、これはこれで国家としての禊、結構深い知恵に基づく反応と言えなくもない。「水に流す」には「かつての自分達には非があった」ことを嘘すれすれであっても認める必要がある。和解のために「非があった」ことを認める余地を与える文化的仕組み、それが「水に流す」だろう。
故に、「あの国はどんだけコンプレックス(劣等感)が強いんだw」という言説は、上記の点を理解している人間に対してだけ正しい。大抵の場合は悪い意味でコンプレックスすら持っていないと言って良い。「コンプレックスを持つ資格すら無い」がより正確だ。だから韓国は「嘘なんかついていない」。韓国は「本当の事を言える能力を持たない」ことを暗黙の国是として成立し、それを維持することで「国家の体」を維持し続けているだけなのである。
本来、「反日」の対義語が「親日」であってはいけない、「愛国」でなければならない。「親日」があるということは「愛国」不在の証左なのである。
それは仕方がない、といえばその通りなのだ。だって彼らはかつて「日本人」であった時代があり、その時の「愛国」行為は、現在の尺度での「親日」行為に他ならない。だからと言って、それは「親日」の一応の説明にはなるけど、今日的な「反日」には何らの意味付けも存在理由も与えない。ここで存在が許されるのは「反親日」でなければならない。論理的ではないのである。
既に別エントリで触れた通り「恨という他者から見れば理不尽な自虐史”観”」に飲み込まれるまかせ、甘え切ることで、それまでの自らの振る舞いの総括(左翼用語?)もしないまま、現在に至っているということだ。大東亜戦争の終結は、かろうじて中華思想のくびきから逃れた状態で自分達の有様を総括し得る千歳一隅の機会だった筈だ。だが、米国を新たな宗主国に奉ることに汲々とし、韓国はその機会を無為のままに失う。一方、北朝鮮では「伝説の抗日パルチザン、金日正とされる若い男」が狡猾にもその機会を逃さなかった。
今日的は韓国の「反日」は、「抗日」、「民族主義(活動)」の正統な後継概念ではない。故に、その起源に歴史的な正統性を求めることはできない。今日的な「反日」と「光復節」や「三・一運動」を結び付けることの一種の奇異さ、ちぐはぐさは、割と普通の日本人でもなんとなく感じてるんじゃないだろうか。今日的な「反日」、それは「光復」よりも後に生まれたものだ、の状況を「光復」に命をかけた人々はどう見るだろうか。情けなくて、死んでも死にきれないんじゃないだろうか。
対して、北朝鮮の「反日」には、その真偽の程は別として、日韓併合以降の「抗日」や「民族主義(活動)」の正統な後継概念としての資格がちゃんと与えられている。だから、「反日」といっても現在の韓国のそれとは全く異なる。少なくとも「反日」に関しては、北朝鮮の方が筋が良く見えることがある、或いは「北朝鮮の方がマトモに見えてきた」などと表現される事態の発生にはちゃんとした理由があるのだ。北朝鮮が韓国を「馬鹿にする資格」がそこにはちゃんとある。
韓国の「反日」に正体がないという理由は、「日本が存在しなければ、自国すら存在しないことになる」という帰結を当然のように招くことになる、極めてねじくれたひたすら非現実的なロジックの上に成り立つ、かつ大東亜戦争終結後に生まれた概念だからだ。そこには「独立」も「自尊」もない。だから「他者を認める、愛する」こともない。米国は「反日」ではないから、残念、宗主国失格なのだ。
おそらく「克日」とは、「日本に依存することを克服する」ではなかったのではなかろうか。自らの有様を「日本」との比較や相対的な位置付けで捉えるという甘え体質の克服、つまり「独立」と「自尊」の獲得、ただ無用に自意識過剰で多感な少年、少女から大人への成長だ。だから「火病」の原因は子供の反抗期の原因といっしょ、とってもとっても面倒で迷惑だけどさ。
では中共の「反日」はどうか?こちらは逆に「大人の事情」の様相が強いんじゃないか、というのが私の見立てだ。
続く!
別段新しい話ではない。けれど、自分も同じ結論に至ったのだな、という点は「主体性は如何なる場面でも重要」、「他人の受け売りは恥(出典を明らかにしての引用はむしろ勉強している証拠)」などの自分の価値観の照らせば重要だ。
結論から言えば、「反日」には正体なんてない。韓国国内問題である「今日的な反日」と、正統な民族運動に基づく「反日」とは、成立理由や経緯、品位にあっては天と地との差ぐらい違う。「反日」の種は、大和朝廷による日本と言う国の成立直後にまで遡る、ということだ。
じゃぁ、迷走を始めるよ。
他者を正当に評価し、自らを精神的に成長させ続けつつ実利としてのアウトプットを出し続けるには、実のところ「自信」が不可欠だ。
「自信」は自らの精神的成長によっても得るものだが、最初の種としての「自信」は低いレベルで良い。もっとかみ砕くと、「自分で自分を認める(=私も以外に捨てたもんじゃないかも?!)」ことができれば良い。逆説的だが、「自分で自分を認める」ことの繰り返し、認めた内容のレベルアップこそが精神的な成長ってやつだ。ここまでは「他者の視線や評価」は必須ではない、いやむしろあまり望ましくない。
幼少期の挫折はトラウマとしては最悪なもののひとつで、自力での克服は容易ではない。私が30歳ぐらいまでかなりメタメタだったのは幼少期に耳にした母親の不用意な一言、「あんたなんか産まなきゃ良かった」に起因する。これの解消には、母親の別の一言、「今になってあんたを生んだことが良かったと思えるようになった」が必要だった。全般的にメタメタだったものの、自分のそれまでの生き方が基本的に間違っていなかったことの私にとっての証左だからだ。
それはさておき、
従って「自信の種」は、自意識過剰気味な多感なお年頃に至る前に持ってしまった方が良い。「ポケモンの名前全部言える」で十分で、両親や祖父母に褒められるだけぐらいがちょうど良い。ただし、並行して「次の自信のための種」も持っておかないといけない。他者の視線や評価の対象となり得る「より一般的なもの」に対して興味を持ち、のめり込んでみることだ。このとき、親などの近親者の果たす役割は大きい。
私の場合の興味の対象は、星とSci-Fi、つまり天文学と小説だ。私の両親の偉いところは、「本気か?」と私に確認した上で天体望遠鏡購入に資金的援助をしてくれたり、所謂小遣いと書籍代を別会計にしたことだ。
のめり込んだ結果、多感なお年頃になる辺りでその分野については他者からも一目置かれるようになる。これは「自信」として良い、なぜならばそれは「自らの行動によって手に入れたもの」だからだ。お勉強は優劣が容易に明確化されるので、個人的にはお勉強「のみ」に絶対の自信を持つのは挫折予備群化する危険性が高いのでお勧めしない。だからって、お勉強をしなくたって良いと言っている訳じゃぁない。お勉強は「さらに次なる自信の種」でもあるからだ。
さて多感なお年頃末期に、就職するなり高等教育を受けるなりの選択に迫られる。
技能職、突き詰めていけば「職人」の世界は「腕が命」、つまり一流、せめて二流になるにも「他者の評価に裏打ちされた自信」の獲得が必須だ。ここにきて、「自分で自分を認める」ことができるかどうかは「自信」獲得における必要条件でしかなくなる(「他者による評価」が十分条件を満たす上で必須となる)。サラリーマンになるにしても、セールス業なんて最初っから「ノルマ」とかあれば大変だが、「自らの流儀、強み」を見出せるかもしれないチャンスでもある。
一方、大学等に進む場合、理想的には「やりたいこと、興味あること」が進学先選択で重要な役割を果たすことになるだろう(この辺りは個人的には紆余曲折があったから内容には触れないけど、ここ4~5年の趣味なんてのは言わば「50%程度不本意だった進学」の代償行為みたいなものだ)。幸いにも「心ある師」を得ることができれば、卒業できたことだけでも「十分な自信」になる。専門性が強くなればなるほど、「どうでも良い1万人」の評価よりも、「認められたいと願う一人」から評価の方が嬉しくなる。「認められたいと願う一人」から何らかの反応があっただけでも十分だ。
かくて、「自信」は強化の段階に入る。大抵の「良い意味で自分に厳しい人」はおそらくこのフェーズに自覚的に居続けている人だろう。私は辞めちゃったけどさ。
さて、大風呂敷を広げるよ。これまでの個人の「自信」に関する考察を国家に敷衍してみる。ここから先は異論があっても全く無問題、所謂IMO(In my opinion、私の思うところ…)だからね。
「国家たらん」とすれば、自主、独立が必須となる。「現在」の日本は両者共に心もとないところもあるのだが、このエントリでの論展開ではいったんうっちゃておく。あくまで「現代」の日本の話だからだね。
例えばASEAN諸国が比較的「親日」であることは良く知られた事実だが、この中韓との温度差の原因にはやはり「自信」の有無があると私は見る。連合軍だって大東亜戦争の敗者という言説がある。大東亜戦争は、結果として、連合国がアジアに持つ植民地を短期間で失うことになるトリガーを引いたことに間違いはないからだ。
「絶対勝てないと信じていた支配者である白人種を、黄色人種である日本人があっという間に打倒した。」
これこそが「自信の種」である。重要なのは「日本がアジアの欧米植民地を解放した」という点よりも、「私達黄色人種って実はたいしたもんじゃないのか?!という意識」の明確な萌芽、共通認識化である。
で、現在のASEAN諸国の人々が別に「日本人になりたがった訳ではなかった」こともとても重要だ。彼らは彼らの民族的なアイデンティティを維持しつつ、支配国に対して独立運動の刃を向けた。結果として得られた独立は文字通り血も流して「自ら獲得したもの」であり、「黄色人種の自信」を「自らの民族や民族集団の自信」へと昇華、強化するに十分な理由となる。
だからこそ、それら血であがなった「自信」に裏打ちされた「国家」は「正当性」を持ち、それら国家やその国民は現在の日本人から見れば十分にリスペクトの対象だ。それ故、それら国家に住む人々から日本が好意的に捉えられいることは喜んで良い事だと思う。同時に、これらの国々から「今の日本は…」と言われると本当に頭が痛い思いをすることになる。
所謂「自虐史観」のまずさは「自虐的であることにあるのではなく」、「現在の日本と周辺国との関係を正しく認識するために必要な文脈を備えていない歴史観」である点と、それが「歴史」と等価に意図的に誤って使われる点に尽きる。現在が過去の延長であり、連続性を持っている以上、件の文脈を備えていない歴史観は「真っ当な『歴史』なら備えるべきものを備えていない」と断言して良い。「歴史観」と「歴史」は別物、両立し得る。ここを分けられないのであれば間抜けにも程があると言えよう。
さて、「歴史」を紐解くに、朝鮮半島が「植民地化」された事実は無いようだ。少なくとも近代的な植民地にはされたことがない。「朝鮮」という言葉の起源については色々とあるが、韓国ではおそらく教えていない説の例を敢えて挙げると、
- 真新しく何も無い様を表す言葉。つまり、見るべきものや欲しいものが何もないよ、ということ。
- 「朝貢是少」(中国への貢物が少ない)を縮めた表記。つまり、見るべきものや欲しいものが何もないよ、ということ。
実際に日本がやったのは「合邦」であり、朝鮮半島においても大日本帝国憲法が適用されたのである。どう考えたって「近代的植民地」とは状況は程遠い。とは言え、心ある民族主義者もいた訳で、そちらの視点に立てば「日本が朝鮮半島を侵略した」という言説にもうなづけるものはあるが、それでも「日帝による朝鮮半島の植民地化」はきっぱり無い。朝鮮半島の住人の多くは「日本人になりたがった」のである。だって、「朝鮮半島の人々から見た場合」、当時の日本人は朝鮮人より「格上」だったからね。
が、それも大東亜戦争が終結するまでだ。戦後は「朝鮮進駐軍」なんて戦勝国気取りの連中まで国内に現れるに至る。これに対しダグラス・マッカーサーは「第三国人なり(連合国側でも枢軸国側でもない)」と発言したが、そこは「お前らは日本人だったじゃないか!お前らは負けた側だ!」と言うのが本当だろうなんだけどね。
戦後、朝鮮半島南部は米国の軍政、北部はソ連の傀儡政権統治下となる。この時点でおそらく最も「自信」を持っていたのは、南部では金九氏らのガチの抗日活動家や日本で教育を受けた軍人、北部では中国系、ソ連系などの抗日活動家なのだが、結局彼らは現在の韓国、北朝鮮の成立にほぼ関わっていない。金九氏は米軍軍政下で臨時政府主席を務めるが暗殺され、日本で教育を受けた軍人達は優秀故にクーデターを恐れた李承晩氏の下で冷遇されることになる。李承晩氏は金九氏とも協調した時代もあるが、どうも民族主義とは相容れない行動、言行が目立ち、民族活動家としては「なんちゃって感」がぬぐえない。北は北で抗日勢力同士が内部抗争を繰り返して自滅、結局ソ連が連れてきたたどたどしい朝鮮語をしゃべる若い男(伝説的な抗日パルチザン、金日正氏とされる男)が実権を握る。
つまり、南北朝鮮の国家の成立は「自らが手にした独立」という「自信」も「正当性」も欠いているのだ。そいう意味では韓国のパパ朴大統領は数少ない「自信」ある大統領ということになるし、やはり「自信」ある軍人によってクーデターが起きるという李承晩氏の判断はたまたまとは言え妥当だったということにはなるのだろう。
パパ朴大統領は「克日」を唱え、韓国に「自信」を与えようとしたし、北朝鮮は「主体思想」により「独立の正当性」の後付けを試みた。彼らは彼らなりに自国の弱みを理解し、克服を試みたと言って良いだろう。が、パパ朴大統領も暗殺され、「克日」は忘れられ、韓国は「自信」も「正当性」も欠いたまま現在に至る。もちろん、「正統性」なんかありゃしない。北は北で「正統性」をねつ造するだけでなく、政権の「世襲」まで行い、これまた国家としての「正当性」をうやむやにしたまま現在に至っている。ちなみに「正統性」は、中共が過敏に成らざるを得ない概念だ。
以上、ざっくり纏めると朝鮮半島国家の正当性に関わる事項は以下のようになる。
- 日本による合邦時、朝鮮半島の住人の多くが「日本人になりたがった」。
- 南部の抗日活動経験者は韓国成立時には排斥されていた。つまり、血であがなった結果として独立への「自信」を持つに至った人間は韓国成立に主要な役割を果たしていない。
- (パパ)朴大統領時代に韓国が本当の「自信」を手に入れるチャンスはあったが、朴大統領暗殺後にはそのような意識改革のチャンスを設けた指導者は現れていない。
- 金日正氏(とされる人物)には「独立のための正当性ある指導者」としての根拠に欠けるとされる。その資格のある人間は内部抗争の過程や他国の干渉で北朝鮮成立時には排除されていた。
が、何の「自信」も「覚悟」も無しでそんな「厳しすぎる戦い」、「修養」に挑める筈もない。結果、それがもうどうしようもなく捻じれてしまうことになる。「殺した相手の事は気にしなくても、殺した相手の主張は益があるからそのまま使いましょう」と蝙蝠的態度を繰り返すうち、「殺した相手の功績、覚悟、資格、自信も自分達のもの」と勘違いするに至る。或いは意図的にそう信じることにする。「光復」なんて言葉、喜んで日本人になった人が使う筈無いでしょうよ。
つまり「反日」とは、「かつて日本人となることを受け入れた自分達へ向けるべき刃であったのだが」、「『資格が無い』にも関わらず自分達を『反日』の主体に置き換えた結果、刃を向ける先を失い」、「日本に刃を向けることにした」ということだ。
「自分達は悪くない、自分達には非が無い」という、「歴史的にはほぼ誤っている願望とでも呼ぶべき嘘」を「集団的につくこと」から「国が始まっている」のである。
嘘をつく必要がないガチな抗日活動家は当然邪魔となるので粛清、排除済みだから、国内に異を唱える人間はもはやいない。その時点で、「反日」を唱える人間はすべからく「親日」を根として持つ者だけなのだ。国内においては、皆が親日罪人故に難癖付けて他人を親日罪人として強烈に吊るしあげずにはおられない。
「ガチな抗日活動家」、すなわち他の多くのアジアの国々では「建国の父」や「独立運動の英雄」となるべき資格を持つ人々は、「自分達は親日ではなかった」ことにした人々によって構成された国家の「欺瞞と嘘を白日の下に晒す」だけの力、資格を有するが故に「国家の敵」となるのである。李氏朝鮮もそうだったが、「真に愛国者たる者」は国や国民に裏切られ、殺され、忘れさられるのである。
これらの苛烈な反応は、「抗日が民族的運動ではなかった」という歴史的事実認識を、少なくとも当時の人々は共通認識として持っていたことに起因しよう。
「なんちゃって反日活動家(なんちゃって抗日活動家、似非民族主義者、権力亡者)」が「なんちゃって」故におびえて「真の反日家(抗日活動経験者達)」を粛清し、「根拠ある『自信』を持つ日本で正式な訓練を受けた軍人達」を「親日罪人」を理由に冷遇し、「なんちゃって反日活動家」から世代交代の後は「親日罪人やその子孫」が「親日罪人」を吊るしあげる。
本来「論理的には国民総懺悔(総修養)」の筈が、何故かこうなっている(日本語文法にも「過去開始・現在進行形」が欲しいね)。これはとっても恐ろしい構造だ。
「和解ではなく、他者を全て潜在的な敵とする」、それが韓国の選んだ道だ。「自分達は悪くなかった」という嘘を守るにはそうするしかなかったのだ。まぁ極論だけど、そんな国家的アイデンティティを継承する国に「過去の歴史を直視せよ」なんて言われても全く説得力が無い。
日本も自虐的に「一億総懺悔」なんて言ってたけど、これはこれで国家としての禊、結構深い知恵に基づく反応と言えなくもない。「水に流す」には「かつての自分達には非があった」ことを嘘すれすれであっても認める必要がある。和解のために「非があった」ことを認める余地を与える文化的仕組み、それが「水に流す」だろう。
故に、「あの国はどんだけコンプレックス(劣等感)が強いんだw」という言説は、上記の点を理解している人間に対してだけ正しい。大抵の場合は悪い意味でコンプレックスすら持っていないと言って良い。「コンプレックスを持つ資格すら無い」がより正確だ。だから韓国は「嘘なんかついていない」。韓国は「本当の事を言える能力を持たない」ことを暗黙の国是として成立し、それを維持することで「国家の体」を維持し続けているだけなのである。
本来、「反日」の対義語が「親日」であってはいけない、「愛国」でなければならない。「親日」があるということは「愛国」不在の証左なのである。
それは仕方がない、といえばその通りなのだ。だって彼らはかつて「日本人」であった時代があり、その時の「愛国」行為は、現在の尺度での「親日」行為に他ならない。だからと言って、それは「親日」の一応の説明にはなるけど、今日的な「反日」には何らの意味付けも存在理由も与えない。ここで存在が許されるのは「反親日」でなければならない。論理的ではないのである。
既に別エントリで触れた通り「恨という他者から見れば理不尽な自虐史”観”」に飲み込まれるまかせ、甘え切ることで、それまでの自らの振る舞いの総括(左翼用語?)もしないまま、現在に至っているということだ。大東亜戦争の終結は、かろうじて中華思想のくびきから逃れた状態で自分達の有様を総括し得る千歳一隅の機会だった筈だ。だが、米国を新たな宗主国に奉ることに汲々とし、韓国はその機会を無為のままに失う。一方、北朝鮮では「伝説の抗日パルチザン、金日正とされる若い男」が狡猾にもその機会を逃さなかった。
今日的は韓国の「反日」は、「抗日」、「民族主義(活動)」の正統な後継概念ではない。故に、その起源に歴史的な正統性を求めることはできない。今日的な「反日」と「光復節」や「三・一運動」を結び付けることの一種の奇異さ、ちぐはぐさは、割と普通の日本人でもなんとなく感じてるんじゃないだろうか。今日的な「反日」、それは「光復」よりも後に生まれたものだ、の状況を「光復」に命をかけた人々はどう見るだろうか。情けなくて、死んでも死にきれないんじゃないだろうか。
対して、北朝鮮の「反日」には、その真偽の程は別として、日韓併合以降の「抗日」や「民族主義(活動)」の正統な後継概念としての資格がちゃんと与えられている。だから、「反日」といっても現在の韓国のそれとは全く異なる。少なくとも「反日」に関しては、北朝鮮の方が筋が良く見えることがある、或いは「北朝鮮の方がマトモに見えてきた」などと表現される事態の発生にはちゃんとした理由があるのだ。北朝鮮が韓国を「馬鹿にする資格」がそこにはちゃんとある。
韓国の「反日」に正体がないという理由は、「日本が存在しなければ、自国すら存在しないことになる」という帰結を当然のように招くことになる、極めてねじくれたひたすら非現実的なロジックの上に成り立つ、かつ大東亜戦争終結後に生まれた概念だからだ。そこには「独立」も「自尊」もない。だから「他者を認める、愛する」こともない。米国は「反日」ではないから、残念、宗主国失格なのだ。
おそらく「克日」とは、「日本に依存することを克服する」ではなかったのではなかろうか。自らの有様を「日本」との比較や相対的な位置付けで捉えるという甘え体質の克服、つまり「独立」と「自尊」の獲得、ただ無用に自意識過剰で多感な少年、少女から大人への成長だ。だから「火病」の原因は子供の反抗期の原因といっしょ、とってもとっても面倒で迷惑だけどさ。
では中共の「反日」はどうか?こちらは逆に「大人の事情」の様相が強いんじゃないか、というのが私の見立てだ。
続く!
2014/04/19
The Model/KraftwerkのMegpoidカバー
まずはリビジョン0です。
"Back to 88 Mix"がどういう意味かと言うと、私が1988年ごろに戻ってみたということ。要は、1988年ごろに自分が多重録音でThe Modelをカバーした時に組んだMIDIシーケンスの再現を試みたということだ。ベースラインとか、オリジナルに比較的準拠した先の「モデル」とは微妙に違うことが分かるかな。
ちなみに1つ、明らかに打ち込み間違いっぽい8分音符がある。他人にとってはどうでも良いことだが、これは昔のシーケンスの打ち込みミスの再現なのだ。不協和音ではないので有っても問題ないと思い、当時結局残した音だ。
先の「モデル」に較べれば音はスカスカ、多分音数は半分以下だ。その代わり、音色の組み合わせは個人的には唯一無二のものだ。音量バランスやエフェクトの深さにはいじり代があるけど、単独の音色のみの変更はこの名を持つミックスに限っては考えられないね。
"Back to 88 Mix"がどういう意味かと言うと、私が1988年ごろに戻ってみたということ。要は、1988年ごろに自分が多重録音でThe Modelをカバーした時に組んだMIDIシーケンスの再現を試みたということだ。ベースラインとか、オリジナルに比較的準拠した先の「モデル」とは微妙に違うことが分かるかな。
ちなみに1つ、明らかに打ち込み間違いっぽい8分音符がある。他人にとってはどうでも良いことだが、これは昔のシーケンスの打ち込みミスの再現なのだ。不協和音ではないので有っても問題ないと思い、当時結局残した音だ。
先の「モデル」に較べれば音はスカスカ、多分音数は半分以下だ。その代わり、音色の組み合わせは個人的には唯一無二のものだ。音量バランスやエフェクトの深さにはいじり代があるけど、単独の音色のみの変更はこの名を持つミックスに限っては考えられないね。
アジアワッチ、五度。
中央日報の記事。「韓国金融界に『統一』ブーム…担当部所・金融商品も」を前にして、ふと考え込んでしまった。
この記事の内容にどういう反応をすべきか、である。
この記事の内容にどういう反応をすべきか、である。
- 笑う?
- 馬鹿にする?
- あきれる?
- 読まなかったことにする?
2014/04/18
アジアワッチ、四度。
韓国の旅客船転覆、沈没事故は痛ましい。横転事故発生以降の展開の酷さが痛ましさをいや増す。報道を追うと、米国や日本は救助活動への協力の用意があることを韓国に伝えたが、少なくとも日本には協力を辞退してきたという。また、正式に協力要請を受けた国はまだないそうだ。
「人命は地球より重い」なんて言わない。もちろん、とある人の言を額面通りに受け取って「人命はイルカの命よりも軽い」とも言わない。要は口先なんて当てにしてもしょうがなく、その人にとっての「命の重さ」はその人の「行動」でしか分からないということだ。
で、某ニュース番組のキャスターが「人命優先で、色んな最新技術も投入して…」という発言をした。これは正論だが一般論過ぎて他人事感、考えていない感(つまりテンプレ感)が半端ない。「他国からの救助協力の申し出を断るなんて、あの国は本当に人命を気にかけているんでしょうかね?」とか、「あの国の事故対応は信じられません!」ぐらいのことも言えないのかと驚かされる。
プロのキャスターならば、「〆に何を発言するかの選択」は立派な「プロとしての行動」だ。「良い意味であきらめの悪い、最後の最後まで頑張りがち」な多くの日本人の感性に照らすと、某キャスターの件の発言内容には異質な感性を感じざるを得ない。なんだかなぁ…
「人命は地球より重い」なんて言わない。もちろん、とある人の言を額面通りに受け取って「人命はイルカの命よりも軽い」とも言わない。要は口先なんて当てにしてもしょうがなく、その人にとっての「命の重さ」はその人の「行動」でしか分からないということだ。
で、某ニュース番組のキャスターが「人命優先で、色んな最新技術も投入して…」という発言をした。これは正論だが一般論過ぎて他人事感、考えていない感(つまりテンプレ感)が半端ない。「他国からの救助協力の申し出を断るなんて、あの国は本当に人命を気にかけているんでしょうかね?」とか、「あの国の事故対応は信じられません!」ぐらいのことも言えないのかと驚かされる。
プロのキャスターならば、「〆に何を発言するかの選択」は立派な「プロとしての行動」だ。「良い意味であきらめの悪い、最後の最後まで頑張りがち」な多くの日本人の感性に照らすと、某キャスターの件の発言内容には異質な感性を感じざるを得ない。なんだかなぁ…
2014/04/17
愛車危機一髪!
帰宅ドライブ中、緩い右カーブの入口で対向車線を同じくカーブに入ろうとしている車を見た瞬間に「虫の知らせ」があり、思わずブレーキを踏んだ。
あにはからんや、件の対向車が一瞬蛇行、こっちの車線内に車体を半分ほど突っ込んできた。ブレーキを踏んでなければ、間違いなく横腹に突っ込まれていたところだった。それでも、ドアミラーの高さが同等なら間違いなく当たっていた近距離を通り過ぎていった。光景をモノクロ、スローモションで見たから間違いない。掛け値なしに危機一髪だった。
ブレーキの判断の理由が分からないので、全くもって「虫の知らせ」としか表現のしようがない。
ちなみに「虫の知らせ」の内容は
「ぶつかるよ!」
ではなく、
「相手ドライバーは大馬鹿だ。関わるな!」
でした。本当だよ。
あにはからんや、件の対向車が一瞬蛇行、こっちの車線内に車体を半分ほど突っ込んできた。ブレーキを踏んでなければ、間違いなく横腹に突っ込まれていたところだった。それでも、ドアミラーの高さが同等なら間違いなく当たっていた近距離を通り過ぎていった。光景をモノクロ、スローモションで見たから間違いない。掛け値なしに危機一髪だった。
ブレーキの判断の理由が分からないので、全くもって「虫の知らせ」としか表現のしようがない。
ちなみに「虫の知らせ」の内容は
「ぶつかるよ!」
ではなく、
「相手ドライバーは大馬鹿だ。関わるな!」
でした。本当だよ。
2014/04/15
アジアワッチ、三度。
中央日報の記事、「『日本人観光客が来なくて…完全に終わったようだ』…韓国南大門商人の声」は、「やはりという結果」ながら内容は痛々しい。が、まずはいったん完全に終わらせることを個人的には支持しよう。今回ばかりは「お人よしと言われようが平気な日本人」であってもぐっとこらえよう、「情けは人のためならず」も今回ばかりはちょっとうっちゃておこう。もちろん、現状の韓国限定だ。
私もこらえるからさ。
韓国前大統領の「土下座発言」など、やはり一般的な日本人にとっても一線を越えたということなのだろう。実際、私の母親はほとんど激怒していたと言って良い。朝○○○(朝鮮日報ではありません)も止めているかもしれない。
原因は言わずもがな。この原因についても「日本が~!」なんて言い出したら民間レベルの日韓交流も間違いなくいったん終わりだ。「用日」という言葉もかなりの人が知っている。
朝鮮日報記者だって、本当の原因がどこにあるかは分かっている筈だ。
日本では、このようなブログを書いたぐらいでは逮捕されたり刑事罰を科されたりすることはない。翻って韓国はどうか。
この記事は意図的な「声なき声の代弁」のつもりなのだろうか………こんなんじゃヌル過ぎてほとんど実効的な意味はないだろう。問題のレベルはそんなもんじゃないでしょ?
え?日本向け?……へぇ、大変なんですねぇ。
私もこらえるからさ。
韓国前大統領の「土下座発言」など、やはり一般的な日本人にとっても一線を越えたということなのだろう。実際、私の母親はほとんど激怒していたと言って良い。朝○○○(朝鮮日報ではありません)も止めているかもしれない。
原因は言わずもがな。この原因についても「日本が~!」なんて言い出したら民間レベルの日韓交流も間違いなくいったん終わりだ。「用日」という言葉もかなりの人が知っている。
朝鮮日報記者だって、本当の原因がどこにあるかは分かっている筈だ。
日本では、このようなブログを書いたぐらいでは逮捕されたり刑事罰を科されたりすることはない。翻って韓国はどうか。
この記事は意図的な「声なき声の代弁」のつもりなのだろうか………こんなんじゃヌル過ぎてほとんど実効的な意味はないだろう。問題のレベルはそんなもんじゃないでしょ?
え?日本向け?……へぇ、大変なんですねぇ。
2014/04/14
Merzbow、懐かし~
今朝の「題名のない音楽会」はノイズ?特集だった。ゲストにはとんと興味がなくて、気にしていたのは、いつ「Merzbow」が紹介されるかだった。あくまで主観だが、ノイズ(ミュージック?)の流れを語る上で、彼抜きはあり得ない。結局、紹介は一番最後、しかもアルバムは「抜刀隊」である。個人的には完璧な展開だったと言えよう。
ただし観ていて違和感が常に付きまとった。ゲストは曲?をCDで紹介していたのだが、嗚呼、私のノイズ歴は実質的にレコードの終焉と期を一にしていたのである。私にとってのノイズは、レコードで入手するものだったのだ。まさに「隔世の感あり」と言えよう。
現在でもDAWをいじりながら、ドラムやベースに過剰にモジュレーションなどをかける方向性は、ノイズ好き、金属系音好き故の結果だろう。「三つ子の魂、百まで」みたいなものだ。
で、iTunesでMerzbowを検索してみたら、懐かしいものも含めて結構出てきた。が、
「抜刀隊」がない!なぬぅぅっ!!
この辺りのセンスはやはり80年代中期のものかも。林海象監督の映画「夢見るように眠りたい」とかとも一脈通ずるものを感じるよ。
ただし観ていて違和感が常に付きまとった。ゲストは曲?をCDで紹介していたのだが、嗚呼、私のノイズ歴は実質的にレコードの終焉と期を一にしていたのである。私にとってのノイズは、レコードで入手するものだったのだ。まさに「隔世の感あり」と言えよう。
現在でもDAWをいじりながら、ドラムやベースに過剰にモジュレーションなどをかける方向性は、ノイズ好き、金属系音好き故の結果だろう。「三つ子の魂、百まで」みたいなものだ。
で、iTunesでMerzbowを検索してみたら、懐かしいものも含めて結構出てきた。が、
「抜刀隊」がない!なぬぅぅっ!!
この辺りのセンスはやはり80年代中期のものかも。林海象監督の映画「夢見るように眠りたい」とかとも一脈通ずるものを感じるよ。
2014/04/13
「大研究!中国共産党」読了
沈才淋氏の「大研究!中国共産党」(角川SSC新書, 2013/3)読了。一気に読める語り口はお勧め。ただ、二点ほど気になったところがあったので触れておこう。
一点目は「バナナ族」のくだりと中共の現状とのギャップだ。
「バナナ族」とは、欧米からの帰国子女や欧米で高等教育を受けたエリート集団を指す。見かけは中国人だが思考方法は欧米人という事を、外見は黄色(アジア系)だが中身は白い(欧米系)バナナに例えているとのことだ。
現在の習近平総書記体制においても、バナナ族は要所要所に配置されている。が、この一年程の中共の対外政策には、ほとんど「欧米的」な思想が感じられないというのが実感だ。沈氏は経済、技術開発分野へのバナナ族の登用について特に触れているが、軍事も含む外交分野ではどうなのだろうか。この期に及んで韓国の「反日」に肩入れしたり、日米の軍艦船に挑発的な行動をとったりする様は合理的、戦略的思考が感じられない。中共は良くも悪くももっとえげつなくはなかったか、大局的視点から政策を進めてこなかったか。
二点目は、第8章「中国の尖閣諸島問題に対する本音」の冒頭において、日中の衝突を「2種類のナショナリズムのぶつかり合い」と断じていること。
「ナショナリズム」という言葉はマスコミなどで余りに安易に使われるため、実態として意味が曖昧となっている。故に(古いエントリで触れているように)、本ブログでは「ナショナリズム」という言葉は基本的に使わないとにしている。個人的に引っかかった点は、ぶつかる日本側のナショナリズムを「国粋的な、日本という国家と不可分なナショナリズム」ではなく、「長引く不景気により衰退期のナショナリズム」としている点である。そもそも「ナショナリズム」という言葉が曖昧なところにきて、たたみかけるように国家観とは全くリンクしない曖昧な「何か」を取ってつけたように持ってきた、という感がぬぐえない。
もちろん、尖閣諸島の領有権問題が日中関係正常化時に「棚上げ事項」となった歴史的事実は把握している。「将来の知恵で解決」≒「中国が十分に軍事力を獲得したら軍事的に解決」とか一般的な日本人なら考えもしない、という点は話を単純化するために意図的に無視している点は察して欲しい。
私見を述べさせて頂くなら、沈氏の呼ぶ「何か」は日本人の気質に根付くものに過ぎず、仰々しく「ナショナリズム」と呼ぶべきものでも、不景気とも関係ない。単に「嘘が嫌い、嘘つきが嫌い」、「曲がったことが大嫌い、筋が通らないことが大嫌い」、加えて「力を背景に嘘や曲がったことを通そうとする主体を軽蔑する」という文化的価値観である。文化的価値観に基づく国民感情のベクトルの一致とうねりの形成は「ナショナリズム」と呼べなくもないが、そうであっても不景気とは関係ない。ましてや、「国内の不景気」は現在のグローバル化した経済環境においては、自国民にとっても単なるローカルな話に過ぎない。確かに自営業の方々は大変だが。
狂乱地価、バブルの崩壊は確かに日本に経済的にダメージを与えたが、同時に「ポストバブル時代」においては日本経済の「等身大の力の認識」の獲得に一役かったと思っている。従って「長引く不景気」は織り込み済み、明確な前提であり、それ故に「衰退期」などという状況なぞ受け入れない。
一般的な日本人の気質として、「座して死を待つのみ」なんてまっぴらご免なのである。「無駄なあがき」と言われようが、あがくのである。それでも前を向いて、上を目指すのである。あらゆる「道(どう)」と同様に、極めれば極めるほどさらに先があることを明確に知るのである。ゴールは無いし、「衰退期」が避けられないと悟ればそれを前提として新たな道を求めるのである。
それも皆で、力を合わせて。日本の「平等感」には欧米的なそれに較べると多少歪んだところがあるが、「読み書きそろばん」は皆が一緒に先に進む上での基盤なのだ。
故に、「うで蛙状態」を受け入れているように見える他国の有様を「皆が」訝しく思う。
繰り返しになるけれど、本書は一読をお勧めする。日本外部からの視点、それを自らに新たに視座として「追加」できれば、それだけ自分が強くなる筈だ。
一点目は「バナナ族」のくだりと中共の現状とのギャップだ。
「バナナ族」とは、欧米からの帰国子女や欧米で高等教育を受けたエリート集団を指す。見かけは中国人だが思考方法は欧米人という事を、外見は黄色(アジア系)だが中身は白い(欧米系)バナナに例えているとのことだ。
現在の習近平総書記体制においても、バナナ族は要所要所に配置されている。が、この一年程の中共の対外政策には、ほとんど「欧米的」な思想が感じられないというのが実感だ。沈氏は経済、技術開発分野へのバナナ族の登用について特に触れているが、軍事も含む外交分野ではどうなのだろうか。この期に及んで韓国の「反日」に肩入れしたり、日米の軍艦船に挑発的な行動をとったりする様は合理的、戦略的思考が感じられない。中共は良くも悪くももっとえげつなくはなかったか、大局的視点から政策を進めてこなかったか。
二点目は、第8章「中国の尖閣諸島問題に対する本音」の冒頭において、日中の衝突を「2種類のナショナリズムのぶつかり合い」と断じていること。
「ナショナリズム」という言葉はマスコミなどで余りに安易に使われるため、実態として意味が曖昧となっている。故に(古いエントリで触れているように)、本ブログでは「ナショナリズム」という言葉は基本的に使わないとにしている。個人的に引っかかった点は、ぶつかる日本側のナショナリズムを「国粋的な、日本という国家と不可分なナショナリズム」ではなく、「長引く不景気により衰退期のナショナリズム」としている点である。そもそも「ナショナリズム」という言葉が曖昧なところにきて、たたみかけるように国家観とは全くリンクしない曖昧な「何か」を取ってつけたように持ってきた、という感がぬぐえない。
もちろん、尖閣諸島の領有権問題が日中関係正常化時に「棚上げ事項」となった歴史的事実は把握している。「将来の知恵で解決」≒「中国が十分に軍事力を獲得したら軍事的に解決」とか一般的な日本人なら考えもしない、という点は話を単純化するために意図的に無視している点は察して欲しい。
私見を述べさせて頂くなら、沈氏の呼ぶ「何か」は日本人の気質に根付くものに過ぎず、仰々しく「ナショナリズム」と呼ぶべきものでも、不景気とも関係ない。単に「嘘が嫌い、嘘つきが嫌い」、「曲がったことが大嫌い、筋が通らないことが大嫌い」、加えて「力を背景に嘘や曲がったことを通そうとする主体を軽蔑する」という文化的価値観である。文化的価値観に基づく国民感情のベクトルの一致とうねりの形成は「ナショナリズム」と呼べなくもないが、そうであっても不景気とは関係ない。ましてや、「国内の不景気」は現在のグローバル化した経済環境においては、自国民にとっても単なるローカルな話に過ぎない。確かに自営業の方々は大変だが。
狂乱地価、バブルの崩壊は確かに日本に経済的にダメージを与えたが、同時に「ポストバブル時代」においては日本経済の「等身大の力の認識」の獲得に一役かったと思っている。従って「長引く不景気」は織り込み済み、明確な前提であり、それ故に「衰退期」などという状況なぞ受け入れない。
一般的な日本人の気質として、「座して死を待つのみ」なんてまっぴらご免なのである。「無駄なあがき」と言われようが、あがくのである。それでも前を向いて、上を目指すのである。あらゆる「道(どう)」と同様に、極めれば極めるほどさらに先があることを明確に知るのである。ゴールは無いし、「衰退期」が避けられないと悟ればそれを前提として新たな道を求めるのである。
それも皆で、力を合わせて。日本の「平等感」には欧米的なそれに較べると多少歪んだところがあるが、「読み書きそろばん」は皆が一緒に先に進む上での基盤なのだ。
故に、「うで蛙状態」を受け入れているように見える他国の有様を「皆が」訝しく思う。
繰り返しになるけれど、本書は一読をお勧めする。日本外部からの視点、それを自らに新たに視座として「追加」できれば、それだけ自分が強くなる筈だ。
2014/04/12
対ドル韓国ウォン高進行!
ここ数日、ウォン高が進行している。つい先ほど調べたところ、1ドル=1035.4ウォンとなっている。昨日には韓国為替当局のものと思われる為替介入があり、1ドル=1040ウォン程度までいったんは戻したものの、ウォン高は以降も進行している。
ウォン高は輸出依存体質の韓国経済には辛いが、別に私はウォン高を喜んでいる訳では無い。まぁ、色々と理由が知りたい訳だ。
学問としての経済学はさておき、実態経済には私はからっきし弱い。故に「何故為替介入は功を奏さなかったのか?」という疑問が生じたのでちょっと調べてみたら、「何故IMF(国際通貨基金)が韓国の為替介入に警告を発したのか?」というかつての疑問の答えもうっすら見えてきて、ちょっと目から鱗な気分なのだ。
キーワードは「外国為替平衡基金債券」だ。不勉強でその存在を今日まで知らなかったのだが、こいつを知っておかないと確かに見通しが悪い。
「外国為替平衡基金債券」は、例えば対ドルではドルを入手するために発行する債券だ。ポイントは、米国債よりも利率が必ず高いこと。プラスアルファのプレミアム利率を加えることで購入者のインセンティブを高めるという仕組みだ。
問題は、「外国為替平衡基金債券」で入手したドルがそのままウォン購入という為替操作に使われている可能性が高いこと。為替操作によってウォン安誘導、維持に成功すれば、プレミアム利率分は一部なりとも取り返すことはできるかも知れない。が、対ドルレートが変化しない場合は利率分の負債は出る訳で、為替操作が功を奏さずさらにウォン高が進行すると負債は増えるばかりだ。う~ん。
韓国の外貨準備額はGDP比で見ると必ずしも高いレベルではないそうだ。外貨準備額が十分であれば、為替介入の資金源として新たな債券を発行する必要はない。もし為替操作を実施していて、かつその資金源が実質的に「外国為替平衡基金債券」によるものだけだったとしたら…ちょっとでも想像力があれば結果は歴然だ、「自転車操業」はまだ良い状態、ブレーキの効かない車でチキンゲームに挑むようなものだ。
では、韓国にとって最悪のシナリオは…
つまり、
で、以上のシナリオに一部なりとも真実が含まれているなら、IMFの警告の意味は明確だ。IMFは「為替操作自体」に警告を発しているのではない、「為替操作に必要な資金確保過程で雪だるま式に増える負債」に警告を発しているのだ。
では、韓国の負債のヘッジ先はどこか。多くの企業は中共にそれを求めているようだ。
え~っ!?
ウォン高は輸出依存体質の韓国経済には辛いが、別に私はウォン高を喜んでいる訳では無い。まぁ、色々と理由が知りたい訳だ。
学問としての経済学はさておき、実態経済には私はからっきし弱い。故に「何故為替介入は功を奏さなかったのか?」という疑問が生じたのでちょっと調べてみたら、「何故IMF(国際通貨基金)が韓国の為替介入に警告を発したのか?」というかつての疑問の答えもうっすら見えてきて、ちょっと目から鱗な気分なのだ。
キーワードは「外国為替平衡基金債券」だ。不勉強でその存在を今日まで知らなかったのだが、こいつを知っておかないと確かに見通しが悪い。
「外国為替平衡基金債券」は、例えば対ドルではドルを入手するために発行する債券だ。ポイントは、米国債よりも利率が必ず高いこと。プラスアルファのプレミアム利率を加えることで購入者のインセンティブを高めるという仕組みだ。
問題は、「外国為替平衡基金債券」で入手したドルがそのままウォン購入という為替操作に使われている可能性が高いこと。為替操作によってウォン安誘導、維持に成功すれば、プレミアム利率分は一部なりとも取り返すことはできるかも知れない。が、対ドルレートが変化しない場合は利率分の負債は出る訳で、為替操作が功を奏さずさらにウォン高が進行すると負債は増えるばかりだ。う~ん。
韓国の外貨準備額はGDP比で見ると必ずしも高いレベルではないそうだ。外貨準備額が十分であれば、為替介入の資金源として新たな債券を発行する必要はない。もし為替操作を実施していて、かつその資金源が実質的に「外国為替平衡基金債券」によるものだけだったとしたら…ちょっとでも想像力があれば結果は歴然だ、「自転車操業」はまだ良い状態、ブレーキの効かない車でチキンゲームに挑むようなものだ。
では、韓国にとって最悪のシナリオは…
- 「資金が潤沢な投資家」がウォン買、ウォン高を誘導
- 韓国、為替操作資金確保のため「外国為替平衡基金債券」を発行
- 「外国為替平衡基金債券」の購入者は実は「資金が潤沢な投資家」
- 最初に戻るを複数回繰り返す
- 「資金が潤沢な投資家」がウォン買を停止、ウォン安或いはウォン安定を誘導
- 「外国為替平衡基金債券」の償還開始、「資金が潤沢な投資家」は利率、為替変動益で大儲け
- 債券デフォルトで「資金が潤沢な投資家」以外は大損、韓国経済破綻!?
つまり、
- 為替操作をしなくとも為替相場が安定するだけの実態経済力(日本では内需の大きさがこれをかなり担保している)を韓国が持つ
- 借金することなく為替操作できる外貨準備額を韓国が確保する
- 韓国は為替操作を諦める
で、以上のシナリオに一部なりとも真実が含まれているなら、IMFの警告の意味は明確だ。IMFは「為替操作自体」に警告を発しているのではない、「為替操作に必要な資金確保過程で雪だるま式に増える負債」に警告を発しているのだ。
では、韓国の負債のヘッジ先はどこか。多くの企業は中共にそれを求めているようだ。
え~っ!?
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