2014/04/17

愛車危機一髪!

 帰宅ドライブ中、緩い右カーブの入口で対向車線を同じくカーブに入ろうとしている車を見た瞬間に「虫の知らせ」があり、思わずブレーキを踏んだ。

 あにはからんや、件の対向車が一瞬蛇行、こっちの車線内に車体を半分ほど突っ込んできた。ブレーキを踏んでなければ、間違いなく横腹に突っ込まれていたところだった。それでも、ドアミラーの高さが同等なら間違いなく当たっていた近距離を通り過ぎていった。光景をモノクロ、スローモションで見たから間違いない。掛け値なしに危機一髪だった。

 ブレーキの判断の理由が分からないので、全くもって「虫の知らせ」としか表現のしようがない。

 ちなみに「虫の知らせ」の内容は

 「ぶつかるよ!」

ではなく、

 「相手ドライバーは大馬鹿だ。関わるな!」

でした。本当だよ。

2014/04/15

アジアワッチ、三度。

 中央日報の記事、「『日本人観光客が来なくて…完全に終わったようだ』…韓国南大門商人の声」は、「やはりという結果」ながら内容は痛々しい。が、まずはいったん完全に終わらせることを個人的には支持しよう。今回ばかりは「お人よしと言われようが平気な日本人」であってもぐっとこらえよう、「情けは人のためならず」も今回ばかりはちょっとうっちゃておこう。もちろん、現状の韓国限定だ。

 私もこらえるからさ。


 韓国前大統領の「土下座発言」など、やはり一般的な日本人にとっても一線を越えたということなのだろう。実際、私の母親はほとんど激怒していたと言って良い。朝○○○(朝鮮日報ではありません)も止めているかもしれない。


 原因は言わずもがな。この原因についても「日本が~!」なんて言い出したら民間レベルの日韓交流も間違いなくいったん終わりだ。「用日」という言葉もかなりの人が知っている。


 朝鮮日報記者だって、本当の原因がどこにあるかは分かっている筈だ。


 日本では、このようなブログを書いたぐらいでは逮捕されたり刑事罰を科されたりすることはない。翻って韓国はどうか。


 この記事は意図的な「声なき声の代弁」のつもりなのだろうか………こんなんじゃヌル過ぎてほとんど実効的な意味はないだろう。問題のレベルはそんなもんじゃないでしょ?


 え?日本向け?……へぇ、大変なんですねぇ。

2014/04/14

Merzbow、懐かし~

 今朝の「題名のない音楽会」はノイズ?特集だった。ゲストにはとんと興味がなくて、気にしていたのは、いつ「Merzbow」が紹介されるかだった。あくまで主観だが、ノイズ(ミュージック?)の流れを語る上で、彼抜きはあり得ない。結局、紹介は一番最後、しかもアルバムは「抜刀隊」である。個人的には完璧な展開だったと言えよう。

 ただし観ていて違和感が常に付きまとった。ゲストは曲?をCDで紹介していたのだが、嗚呼、私のノイズ歴は実質的にレコードの終焉と期を一にしていたのである。私にとってのノイズは、レコードで入手するものだったのだ。まさに「隔世の感あり」と言えよう。

 現在でもDAWをいじりながら、ドラムやベースに過剰にモジュレーションなどをかける方向性は、ノイズ好き、金属系音好き故の結果だろう。「三つ子の魂、百まで」みたいなものだ。

 で、iTunesでMerzbowを検索してみたら、懐かしいものも含めて結構出てきた。が、

 「抜刀隊」がない!なぬぅぅっ!!

 この辺りのセンスはやはり80年代中期のものかも。林海象監督の映画「夢見るように眠りたい」とかとも一脈通ずるものを感じるよ。

2014/04/13

「大研究!中国共産党」読了

 沈才淋氏の「大研究!中国共産党」(角川SSC新書, 2013/3)読了。一気に読める語り口はお勧め。ただ、二点ほど気になったところがあったので触れておこう。

 一点目は「バナナ族」のくだりと中共の現状とのギャップだ。

 「バナナ族」とは、欧米からの帰国子女や欧米で高等教育を受けたエリート集団を指す。見かけは中国人だが思考方法は欧米人という事を、外見は黄色(アジア系)だが中身は白い(欧米系)バナナに例えているとのことだ。

 現在の習近平総書記体制においても、バナナ族は要所要所に配置されている。が、この一年程の中共の対外政策には、ほとんど「欧米的」な思想が感じられないというのが実感だ。沈氏は経済、技術開発分野へのバナナ族の登用について特に触れているが、軍事も含む外交分野ではどうなのだろうか。この期に及んで韓国の「反日」に肩入れしたり、日米の軍艦船に挑発的な行動をとったりする様は合理的、戦略的思考が感じられない。中共は良くも悪くももっとえげつなくはなかったか、大局的視点から政策を進めてこなかったか。

 二点目は、第8章「中国の尖閣諸島問題に対する本音」の冒頭において、日中の衝突を「2種類のナショナリズムのぶつかり合い」と断じていること。

 「ナショナリズム」という言葉はマスコミなどで余りに安易に使われるため、実態として意味が曖昧となっている。故に(古いエントリで触れているように)、本ブログでは「ナショナリズム」という言葉は基本的に使わないとにしている。個人的に引っかかった点は、ぶつかる日本側のナショナリズムを「国粋的な、日本という国家と不可分なナショナリズム」ではなく、「長引く不景気により衰退期のナショナリズム」としている点である。そもそも「ナショナリズム」という言葉が曖昧なところにきて、たたみかけるように国家観とは全くリンクしない曖昧な「何か」を取ってつけたように持ってきた、という感がぬぐえない。

 もちろん、尖閣諸島の領有権問題が日中関係正常化時に「棚上げ事項」となった歴史的事実は把握している。「将来の知恵で解決」≒「中国が十分に軍事力を獲得したら軍事的に解決」とか一般的な日本人なら考えもしない、という点は話を単純化するために意図的に無視している点は察して欲しい。

 私見を述べさせて頂くなら、沈氏の呼ぶ「何か」は日本人の気質に根付くものに過ぎず、仰々しく「ナショナリズム」と呼ぶべきものでも、不景気とも関係ない。単に「嘘が嫌い、嘘つきが嫌い」、「曲がったことが大嫌い、筋が通らないことが大嫌い」、加えて「力を背景に嘘や曲がったことを通そうとする主体を軽蔑する」という文化的価値観である。文化的価値観に基づく国民感情のベクトルの一致とうねりの形成は「ナショナリズム」と呼べなくもないが、そうであっても不景気とは関係ない。ましてや、「国内の不景気」は現在のグローバル化した経済環境においては、自国民にとっても単なるローカルな話に過ぎない。確かに自営業の方々は大変だが。

 狂乱地価、バブルの崩壊は確かに日本に経済的にダメージを与えたが、同時に「ポストバブル時代」においては日本経済の「等身大の力の認識」の獲得に一役かったと思っている。従って「長引く不景気」は織り込み済み、明確な前提であり、それ故に「衰退期」などという状況なぞ受け入れない。

 一般的な日本人の気質として、「座して死を待つのみ」なんてまっぴらご免なのである。「無駄なあがき」と言われようが、あがくのである。それでも前を向いて、上を目指すのである。あらゆる「道(どう)」と同様に、極めれば極めるほどさらに先があることを明確に知るのである。ゴールは無いし、「衰退期」が避けられないと悟ればそれを前提として新たな道を求めるのである。

 それも皆で、力を合わせて。日本の「平等感」には欧米的なそれに較べると多少歪んだところがあるが、「読み書きそろばん」は皆が一緒に先に進む上での基盤なのだ。

 故に、「うで蛙状態」を受け入れているように見える他国の有様を「皆が」訝しく思う。

 繰り返しになるけれど、本書は一読をお勧めする。日本外部からの視点、それを自らに新たに視座として「追加」できれば、それだけ自分が強くなる筈だ。

2014/04/12

対ドル韓国ウォン高進行!

 ここ数日、ウォン高が進行している。つい先ほど調べたところ、1ドル=1035.4ウォンとなっている。昨日には韓国為替当局のものと思われる為替介入があり、1ドル=1040ウォン程度までいったんは戻したものの、ウォン高は以降も進行している。

 ウォン高は輸出依存体質の韓国経済には辛いが、別に私はウォン高を喜んでいる訳では無い。まぁ、色々と理由が知りたい訳だ。

 学問としての経済学はさておき、実態経済には私はからっきし弱い。故に「何故為替介入は功を奏さなかったのか?」という疑問が生じたのでちょっと調べてみたら、「何故IMF(国際通貨基金)が韓国の為替介入に警告を発したのか?」というかつての疑問の答えもうっすら見えてきて、ちょっと目から鱗な気分なのだ。

 キーワードは「外国為替平衡基金債券」だ。不勉強でその存在を今日まで知らなかったのだが、こいつを知っておかないと確かに見通しが悪い。

 「外国為替平衡基金債券」は、例えば対ドルではドルを入手するために発行する債券だ。ポイントは、米国債よりも利率が必ず高いこと。プラスアルファのプレミアム利率を加えることで購入者のインセンティブを高めるという仕組みだ。

 問題は、「外国為替平衡基金債券」で入手したドルがそのままウォン購入という為替操作に使われている可能性が高いこと。為替操作によってウォン安誘導、維持に成功すれば、プレミアム利率分は一部なりとも取り返すことはできるかも知れない。が、対ドルレートが変化しない場合は利率分の負債は出る訳で、為替操作が功を奏さずさらにウォン高が進行すると負債は増えるばかりだ。う~ん。

 韓国の外貨準備額はGDP比で見ると必ずしも高いレベルではないそうだ。外貨準備額が十分であれば、為替介入の資金源として新たな債券を発行する必要はない。もし為替操作を実施していて、かつその資金源が実質的に「外国為替平衡基金債券」によるものだけだったとしたら…ちょっとでも想像力があれば結果は歴然だ、「自転車操業」はまだ良い状態、ブレーキの効かない車でチキンゲームに挑むようなものだ。

 では、韓国にとって最悪のシナリオは…
  • 「資金が潤沢な投資家」がウォン買、ウォン高を誘導
  • 韓国、為替操作資金確保のため「外国為替平衡基金債券」を発行
  • 「外国為替平衡基金債券」の購入者は実は「資金が潤沢な投資家」
  • 最初に戻るを複数回繰り返す
  • 「資金が潤沢な投資家」がウォン買を停止、ウォン安或いはウォン安定を誘導
  • 「外国為替平衡基金債券」の償還開始、「資金が潤沢な投資家」は利率、為替変動益で大儲け
  • 債券デフォルトで「資金が潤沢な投資家」以外は大損、韓国経済破綻!?
上記のシナリオが進行しているなら、「資金が潤沢な投資家」は利益が確保されるまでは韓国経済を破綻させる訳にはいかない。生かさず殺さず、ただしそれも利益確保が確定されるまでだ。

 つまり、
  • 為替操作をしなくとも為替相場が安定するだけの実態経済力(日本では内需の大きさがこれをかなり担保している)を韓国が持つ
  • 借金することなく為替操作できる外貨準備額を韓国が確保する
  • 韓国は為替操作を諦める
というような状態とならない限り、韓国の負債は雪だるま式に増えるだけなのである。極論ではあるかもしれないけれど、これは恐ろしい。

 で、以上のシナリオに一部なりとも真実が含まれているなら、IMFの警告の意味は明確だ。IMFは「為替操作自体」に警告を発しているのではない、「為替操作に必要な資金確保過程で雪だるま式に増える負債」に警告を発しているのだ。

 では、韓国の負債のヘッジ先はどこか。多くの企業は中共にそれを求めているようだ。

  え~っ!?

モデル/KRAFTWERK & ヒカシューのカバー:リビジョンアップ

 Rev.0→Rev.1にリビジョンアップです。ミックスの方向性は私の中では2つあったのですが、先に選んだ方向性が失敗だったと言うことで。

 ベースにリングモジュレーションをかけて、後はそれに合わせて音量バランスを調整しました。ずばり「ずんちゃちゃ感」を前に出す方向性。

2014/04/11

STAP細胞騒動について思うこと

 STAP細胞騒動の本質は、「他者が結果を再現できない」に尽きる。論文の記載に従って「結果の再現性が確認」されていれば、ねつ造なんて話には至らなかったろうし、ねつ造の有無にすら意味が無い。

 実のところ、真偽が確認できない時点で「論文」としての資格はない。アインシュタインの一般相対性理論の論文は発表時には検証に使えるデータが存在しなかった。つまり、理論の真偽は実験的に確認できなかった。しかし、論文を読み、内容を理解すれば誰でも同じ結論を導きだせ、かつその過程で仮定や前提から結論に至るまでのプロセスは厳密にチェックされる。それ故、アインシュタインの一般相対性理論の論文は論文たり得るのだ。

 ねつ造は、「悪意」があろうが無かろうがねつ造だ。「ミス」はとっととエラッタ(訂正)を出せばよいだけだ。ことさら「悪意」を前に出すのは科学的姿勢ではない。「ミス」を認めた以上、エラッタをすかさず出すのが科学的姿勢というものだ。

 研究の世界はある意味陰湿だが、厳しさは公正でファクトベースだ。「コピぺ」は冷笑の対象でしかなく、著者にはそう簡単に消せない研究者失格の烙印が押される。それでおしまいだ。

 以上。

内容がない、論理もない文章の例

 エントリタイトル通りです。この中央日報のコラムは凄い。

 ナチスドイツの恐ろしさは「合法的手続き」を積み重ねてどこかで一線を越えたところ。ヒトラーも政権掌握までは完全に合法的なプロセスを踏んでいる。このプロセスは特に「Machtergreifung(マハトエアグライフング」と呼ばれる。例えば、クノップ著, ヒトラー権力掌握の二〇ヵ月(中央公論新社  2010/04)を読めば良く分かる。だから、ヴィシー政権が傀儡政権だったいうのはまず間違いないとしても、コラム内に明確に書いてあるように「合法政府」であったのも事実であるから「ヴィシー傀儡政権」とさらっと「傀儡」を付けてしまうのは印象操作でしかない。

 ド・ゴール氏のパリ入場までの経緯に関する記載内容も印象操作がある。ノルマンディ上陸作戦には直接の参加はしていないにしても、自由フランス軍は上陸作戦成功後に連合軍とともにフランスで戦い、煩がられながらもド・ゴール氏は「解放者(の演出)としてのパリ入城一番のり」の意向を連合軍にほぼ認めさせている。つまり、ノルマンディ上陸作戦成功後~パリ入城までのファクトを無視することで、フランスの有様を中傷しているようにしか思えない。それとも歴史を知らないのだろうか。

 ドイツは「悪いことは全てナチスの手によるものです」と悪役を仕立て、連合国側もそれを「受け入れた」というのが常識的な歴史認識だ。日本では「軍部」が悪役とされたが、そもそも「軍部」の指す先が不明確だ。「陸軍の一部」を指すとの説明もあるが、これは海軍や官僚に都合が良すぎる時点で怪しい。ま、これまで学んだ歴史からは実際に「悪役たる軍部」なんてなかったとしか判断できないが。

 「軍部のせいにする」ことは実のところ日本生まれの歴史観だ。が、それ故か、某国はドイツの説明は受け入れて、日本の説明は受け入れない。真面目な話、「軍部のせい+所謂自虐史観」を日本が公式に受け入れると、「日帝がどうのこうの」とは某国は言えなくなる。「軍部のせい」だからだ。まぁこの期に及んでは、どうせ都合のいい点だけを都合良く語るという姿勢は変わらないだろう。もちろん、自国についても同じ姿勢しかとらないだろう。

 被害者、加害者の下りはさっぱり意味不明だ。文化的差異を踏まえてもさっぱり分からない。また他国を責めるならば、「自国はどうか」という点にも触れるのが公平というものだ。つまり、公正性を欠いている。

 要は「結論ありき」で書き始めたものの、その「結論には実態が伴わない」が故に論理構築ができなかったということだろう。論理がおかしいのではない、論理がないのだ。

 ただし、確信犯的に「自国民に向けて自国の有様について苦言を述べている、それも凄く婉曲的に」という可能性も否定はしない。だって書いたのは「大学教授」なんだぜ。

2014/04/09

米国の「失望」、キャンペーンが始まってるかも:破をとばして急

 大分前のエントリで、こう書いた。
首相の靖国神社参拝に対して米国が「失望」と表明した。以前のエントリで、「米国は怖い」、「キャンペーンが始まったら終わり」と書いたけど、どうもキャンペーンは始まっているみたいな雰囲気が濃厚。年が明けて米国は韓国への戦車部隊派遣も決めたようだが、それも何時までかは不透明ですな。
来ましたよ、が、もはやキャンペーンではありません。

 本来はまだ米国世論形成キャンペーンのフェーズのタイミングなのだが、韓国があんまりにも酷いことが分かったのだろうか。「古い歴史的経緯は水に流し」という米国の警告を、「古い歴史的経緯をいったん脇において」(韓国一部報道機関)とか「古い歴史的経緯を克服して」(日本一部報道機関)とそれぞれの国民に伝えるに及んで、もはやなり振りかまってられない状況に米国も追いつめられたやにも見ゆる。

 朝鮮日報の記事、「在韓米軍司令官『韓半島有事でも増援が困難に』」の内容は身も蓋もない。こりゃ警告だ。記事の一部を引用しよう。
スカパロッティ司令官はこの日、米国連邦議会下院国防委員会の聴聞会で「韓半島で軍事衝突の危機が高まったら、兵力を速やかに移動・配置して備えなければならない。しかし予算削減が計画通り進められると、在韓米軍や将来の兵力増派に問題が生じかねない」と語った。韓米両国は、韓半島有事をめぐって「米軍の増援戦力配置、北朝鮮内の戦略目標攻撃、北朝鮮への侵入および上陸作戦、占領地の軍事統制、韓半島統一」という5段階からなる「作戦計画(OPLAN)5027」を策定しているが、この第1段階から問題が生じる恐れがあるというわけだ。
まぁ、この展開は読めていたが、現時点でこのような話が出たのは予想外に早かった。他にも考えられる理由はある。
  • 韓国の米軍への所謂「思いやり予算」の額がなかなか折り合わず(韓国は1年単位で額を二国間の協議で決定する)、さらに国会での承認が遅れている。(もう承認されたのかな?)要は、米軍は「早く金出せ、額を増やせ」と圧力をかけているとも解釈できる。

  • 来年に予定されている戦時統制権の米軍から韓国軍への委譲について、韓国から時期の「再」後ろ倒しの要望が出ている。そもそも戦時統制権の委譲は韓国側から申し入れたものだ。米軍からすれば「返せ!返せ!と煩いから返すことにしたら、今度は返してくれるなとは!」という展開で、「もう、どうでもいいや」とあきれ果てているんじゃなかろうか。同じ文脈で「北朝鮮の無人機は実は韓国の自作自演」と読む向きもあり、この時期にことさら韓国が北の脅威をあげつらうのも煩わしいと思ってるんじゃなかろうか。

  • 韓国は米国のミサイル防衛システムに参加せず、独自のシステムを構築すると決定した。だが、肝心の迎撃ミサイルは米国に売って欲しいと言う。また、韓国は次期戦闘機としてF-35Aの随意契約による導入を決定したが、なんか色々と韓国側が一方的に有利な購入条件を付けようとする動きを見せている。どうも韓国は「随意契約」の意味が分かっていないようだし、購入代金だって米国から借りる予定というからあきれる。韓国に貸す金があれば、米軍としては「それをそのままこっちに回せよ」と言いたいんじゃないか。

  • 中韓接近を米国は嫌がるだろう、っつーかもう警告済みなのにね。米軍としては「勝手にすればぁ」と腹決めしたのかも知れない。

  • アイゼンハワー公園内の「退役軍人記念園」に「平和の像」なる変なものが建てられたので、何気に米軍や退役軍人達が怒り心頭状態なのかも知れない。「平和の像」から回り回って「米軍も加害者(客)」という歴史的事実に行きつくと、いよいよ「米軍も韓国の被害者」になってしまうしね。

  • 韓国は陸軍兵力11万人削減を予定している。米軍にすれば「本気か?」だろう。

  • 予算削減は避けられないにしても、米軍としては削減幅を圧縮したい。韓国が騒げば米国議会への圧力とできるが、何せ韓国の騒ぐ内容が低レベルなので痛し痒しなのだろう。ただし、米軍は「韓国への軍事的コミットメントを米国として出すのか出さないのか」を明確にするよう議会に圧力をかけていることにはなる。議会が「金は出さない」と決定すれば、後は言わずもがな。韓国が金を出さない限りは、米軍は韓国に対して何らの軍事的コミットメントを出す理由もない。
    さらに今の日本は「韓国のために」米軍に金は出すまい、いや出せまい。
    今後の展開如何で、米国の大統領と軍の意思疎通のレベルも推し量れる可能性もあるし、本件に関わる国内マスコミの報道内容から色々と見えてくるものがあるだろう。

  • …以下略
いやぁ、韓国ってすげーなぁ。

2014/04/07

一回は観とけ!四度!

 好食!(広東(カントン)語の挨拶です。やあ元気!みたいな感じ)

 かつて「香港映画」というジャンルがあった。広東語、或いは広東語と英語のちゃんぽんで撮られる映画群は、その言語の響きの異質さも手伝って、独特のトーンを持っていた。今回は、香港の中共返還を控えて撮られた2作をご紹介。

 まずはフルーツ・チャン監督の「メイド・イン・ホンコン 香港製造」(1997)だ。主人公を演じたサム・リーは後に邦画「ピンポン」(2002)で「チャイナ」を演じている。

 ストーリーはやや安っぽいのだが、登場人物達の設定が「背伸びしている子供達」であるが故のアンバランスさと微笑ましさを内在する。が、ストーリーを急展開させるのは自殺、殺傷などの他者や自己に向けての容赦ない暴力である。チャン監督の暴力に対する描写はドライだが、その辺りが実際の大陸人気質を反映したものなのか、監督の資質かどうかは分からない。

 盗作防止のため、脚本を書かずに出来上がりは監督の頭の中にしかなかった香港映画では、ストーリー展開は時としてグダグダとなる。本作のストーリー展開は一般的な日本人の感覚におけるリアリティをギリギリはみ出しているため、ついて行けないかもしれない。が、なんとか破綻を免れている。これは、「主人公達とは何の面識もない自殺した少女の遺書」を小道具とし、劇終間際の一種の力技で成し遂げられる。

 後味は悪いが、どしっとした重い物が心に残る作品だ。十代で観てはいけないかもね。

 二つめは「アンナ・マデリーナ(安娜瑪徳蓮娜/Anna Magdalena)」(1997)だ。公開当時、なんの予備知識も無く劇場に足を運んだところ、劇場が若い女性客ばかりでびっくりした記憶がある。主演(の一人)は当時人気が高かった金城武、ヒロインはドラえもん主題歌の香港版も歌っていた香港明星、ケリー・チャンだ。いやはや、ケリー・チャン系の顔には実はとっても弱い私です。監督はハイ・チョンマン、個人的にはちょっと影が薄い感じが残念な癖の無い作風だ。

 本作では、ざっくり三つのストーリーが語られる。ストーリーのひとつは劇中劇、別の登場人物達による二つのストーリーを無理やり繋げる小道具となる「小説本」のストーリーそのものだ。先に監督の作風には癖がないと書いたが、それはあくまで「香港映画」でのお話。ハリウッド的な分かり易さは最初からない。本作のストーリー展開、構成について行けるかはちょっとした試金石であり、追いて行けないならば「香港映画」はジャッキー・チェン映画までで止めておいた方が良い。「香港映画」のマナー、語り口は一見とても複雑だ。

 「アンナ・マデリーナ」にしたところで、下の予告編から映画の内容が推測できるかな?音楽はまんまテリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」だしね(本編でもそのまま使われている)。夢みたいな夢、現実と見まごうばかりの現実が描かれた映画、そんな身も蓋もない映画と言えばその通りだ。そのくせ、劇中の夢と現実の境界は登場の必然性が読みとれない雑多な要素のせいで曖昧だ(実は、押井守監督の初期実写作品群には同じ匂いを感じている。「紅い眼鏡」、「トーキング・ヘッド」や「ケルベロス」でその印象が強い。ただし、押井監督の場合は絵作りとして様式化をやり過ぎ、一般的な「映画っぽさ」から逸脱してしまっているやに見ゆる。香港映画に慣れた感性では、十分に映画の枠組みに収まっているようにしか見えないのだが)。

 根幹を成すストーリーは当たり障りのないもので、男女の出会いと別れ、直接語られない思い、といったもの描かれるだけだ、以上。しかし、本作はほぼ最後の「香港映画らしい香港映画」と言え、劇終間際のもの寂しさと「香港映画の終焉」のもの寂しさが私の中では完全に一体化してしまっている。なんと言っても香港の中共への委譲は1997年なのだ。

 香港の委譲後、フルーツ・チャン監督の作風もやや変わり、癖の強さや雑多さはどぎついままに主人公をじっくり追うような作品を撮っていく。だが、「香港映画」、或いは「香港電影」の持っていた特殊なトーンは徐々に失われた。

 「アンナ・マデリーナ」で顕著なように、一見雑多な要素を多数含む「香港映画」の佳作群の持つマジックは、「雑多であってもこれは一本の映画である」ことを意識せざるを得ない「映画館での2時間」でこそ発揮される。だから、DVDなんかで観てもなかなかそのマジックに触れることは難しい。

 愛しき「香港映画」或いは「香港電影」特有の映画体験はもはや失われたと言って良い。が、それでも作られた作品は新たな観客に観られることを今でも欲している筈だ。