Rev.0→Rev.1にリビジョンアップです。ミックスの方向性は私の中では2つあったのですが、先に選んだ方向性が失敗だったと言うことで。
ベースにリングモジュレーションをかけて、後はそれに合わせて音量バランスを調整しました。ずばり「ずんちゃちゃ感」を前に出す方向性。
2014/04/12
2014/04/11
STAP細胞騒動について思うこと
STAP細胞騒動の本質は、「他者が結果を再現できない」に尽きる。論文の記載に従って「結果の再現性が確認」されていれば、ねつ造なんて話には至らなかったろうし、ねつ造の有無にすら意味が無い。
実のところ、真偽が確認できない時点で「論文」としての資格はない。アインシュタインの一般相対性理論の論文は発表時には検証に使えるデータが存在しなかった。つまり、理論の真偽は実験的に確認できなかった。しかし、論文を読み、内容を理解すれば誰でも同じ結論を導きだせ、かつその過程で仮定や前提から結論に至るまでのプロセスは厳密にチェックされる。それ故、アインシュタインの一般相対性理論の論文は論文たり得るのだ。
ねつ造は、「悪意」があろうが無かろうがねつ造だ。「ミス」はとっととエラッタ(訂正)を出せばよいだけだ。ことさら「悪意」を前に出すのは科学的姿勢ではない。「ミス」を認めた以上、エラッタをすかさず出すのが科学的姿勢というものだ。
研究の世界はある意味陰湿だが、厳しさは公正でファクトベースだ。「コピぺ」は冷笑の対象でしかなく、著者にはそう簡単に消せない研究者失格の烙印が押される。それでおしまいだ。
以上。
実のところ、真偽が確認できない時点で「論文」としての資格はない。アインシュタインの一般相対性理論の論文は発表時には検証に使えるデータが存在しなかった。つまり、理論の真偽は実験的に確認できなかった。しかし、論文を読み、内容を理解すれば誰でも同じ結論を導きだせ、かつその過程で仮定や前提から結論に至るまでのプロセスは厳密にチェックされる。それ故、アインシュタインの一般相対性理論の論文は論文たり得るのだ。
ねつ造は、「悪意」があろうが無かろうがねつ造だ。「ミス」はとっととエラッタ(訂正)を出せばよいだけだ。ことさら「悪意」を前に出すのは科学的姿勢ではない。「ミス」を認めた以上、エラッタをすかさず出すのが科学的姿勢というものだ。
研究の世界はある意味陰湿だが、厳しさは公正でファクトベースだ。「コピぺ」は冷笑の対象でしかなく、著者にはそう簡単に消せない研究者失格の烙印が押される。それでおしまいだ。
以上。
内容がない、論理もない文章の例
エントリタイトル通りです。この中央日報のコラムは凄い。
ナチスドイツの恐ろしさは「合法的手続き」を積み重ねてどこかで一線を越えたところ。ヒトラーも政権掌握までは完全に合法的なプロセスを踏んでいる。このプロセスは特に「Machtergreifung(マハトエアグライフング」と呼ばれる。例えば、クノップ著, ヒトラー権力掌握の二〇ヵ月(中央公論新社 2010/04)を読めば良く分かる。だから、ヴィシー政権が傀儡政権だったいうのはまず間違いないとしても、コラム内に明確に書いてあるように「合法政府」であったのも事実であるから「ヴィシー傀儡政権」とさらっと「傀儡」を付けてしまうのは印象操作でしかない。
ナチスドイツの恐ろしさは「合法的手続き」を積み重ねてどこかで一線を越えたところ。ヒトラーも政権掌握までは完全に合法的なプロセスを踏んでいる。このプロセスは特に「Machtergreifung(マハトエアグライフング」と呼ばれる。例えば、クノップ著, ヒトラー権力掌握の二〇ヵ月(中央公論新社 2010/04)を読めば良く分かる。だから、ヴィシー政権が傀儡政権だったいうのはまず間違いないとしても、コラム内に明確に書いてあるように「合法政府」であったのも事実であるから「ヴィシー傀儡政権」とさらっと「傀儡」を付けてしまうのは印象操作でしかない。
ド・ゴール氏のパリ入場までの経緯に関する記載内容も印象操作がある。ノルマンディ上陸作戦には直接の参加はしていないにしても、自由フランス軍は上陸作戦成功後に連合軍とともにフランスで戦い、煩がられながらもド・ゴール氏は「解放者(の演出)としてのパリ入城一番のり」の意向を連合軍にほぼ認めさせている。つまり、ノルマンディ上陸作戦成功後~パリ入城までのファクトを無視することで、フランスの有様を中傷しているようにしか思えない。それとも歴史を知らないのだろうか。
ドイツは「悪いことは全てナチスの手によるものです」と悪役を仕立て、連合国側もそれを「受け入れた」というのが常識的な歴史認識だ。日本では「軍部」が悪役とされたが、そもそも「軍部」の指す先が不明確だ。「陸軍の一部」を指すとの説明もあるが、これは海軍や官僚に都合が良すぎる時点で怪しい。ま、これまで学んだ歴史からは実際に「悪役たる軍部」なんてなかったとしか判断できないが。
「軍部のせいにする」ことは実のところ日本生まれの歴史観だ。が、それ故か、某国はドイツの説明は受け入れて、日本の説明は受け入れない。真面目な話、「軍部のせい+所謂自虐史観」を日本が公式に受け入れると、「日帝がどうのこうの」とは某国は言えなくなる。「軍部のせい」だからだ。まぁこの期に及んでは、どうせ都合のいい点だけを都合良く語るという姿勢は変わらないだろう。もちろん、自国についても同じ姿勢しかとらないだろう。
被害者、加害者の下りはさっぱり意味不明だ。文化的差異を踏まえてもさっぱり分からない。また他国を責めるならば、「自国はどうか」という点にも触れるのが公平というものだ。つまり、公正性を欠いている。
要は「結論ありき」で書き始めたものの、その「結論には実態が伴わない」が故に論理構築ができなかったということだろう。論理がおかしいのではない、論理がないのだ。
ただし、確信犯的に「自国民に向けて自国の有様について苦言を述べている、それも凄く婉曲的に」という可能性も否定はしない。だって書いたのは「大学教授」なんだぜ。
2014/04/09
米国の「失望」、キャンペーンが始まってるかも:破をとばして急
大分前のエントリで、こう書いた。
本来はまだ米国世論形成キャンペーンのフェーズのタイミングなのだが、韓国があんまりにも酷いことが分かったのだろうか。「古い歴史的経緯は水に流し」という米国の警告を、「古い歴史的経緯をいったん脇において」(韓国一部報道機関)とか「古い歴史的経緯を克服して」(日本一部報道機関)とそれぞれの国民に伝えるに及んで、もはやなり振りかまってられない状況に米国も追いつめられたやにも見ゆる。
朝鮮日報の記事、「在韓米軍司令官『韓半島有事でも増援が困難に』」の内容は身も蓋もない。こりゃ警告だ。記事の一部を引用しよう。
首相の靖国神社参拝に対して米国が「失望」と表明した。以前のエントリで、「米国は怖い」、「キャンペーンが始まったら終わり」と書いたけど、どうもキャンペーンは始まっているみたいな雰囲気が濃厚。年が明けて米国は韓国への戦車部隊派遣も決めたようだが、それも何時までかは不透明ですな。来ましたよ、が、もはやキャンペーンではありません。
本来はまだ米国世論形成キャンペーンのフェーズのタイミングなのだが、韓国があんまりにも酷いことが分かったのだろうか。「古い歴史的経緯は水に流し」という米国の警告を、「古い歴史的経緯をいったん脇において」(韓国一部報道機関)とか「古い歴史的経緯を克服して」(日本一部報道機関)とそれぞれの国民に伝えるに及んで、もはやなり振りかまってられない状況に米国も追いつめられたやにも見ゆる。
朝鮮日報の記事、「在韓米軍司令官『韓半島有事でも増援が困難に』」の内容は身も蓋もない。こりゃ警告だ。記事の一部を引用しよう。
スカパロッティ司令官はこの日、米国連邦議会下院国防委員会の聴聞会で「韓半島で軍事衝突の危機が高まったら、兵力を速やかに移動・配置して備えなければならない。しかし予算削減が計画通り進められると、在韓米軍や将来の兵力増派に問題が生じかねない」と語った。韓米両国は、韓半島有事をめぐって「米軍の増援戦力配置、北朝鮮内の戦略目標攻撃、北朝鮮への侵入および上陸作戦、占領地の軍事統制、韓半島統一」という5段階からなる「作戦計画(OPLAN)5027」を策定しているが、この第1段階から問題が生じる恐れがあるというわけだ。まぁ、この展開は読めていたが、現時点でこのような話が出たのは予想外に早かった。他にも考えられる理由はある。
- 韓国の米軍への所謂「思いやり予算」の額がなかなか折り合わず(韓国は1年単位で額を二国間の協議で決定する)、さらに国会での承認が遅れている。(もう承認されたのかな?)要は、米軍は「早く金出せ、額を増やせ」と圧力をかけているとも解釈できる。
- 来年に予定されている戦時統制権の米軍から韓国軍への委譲について、韓国から時期の「再」後ろ倒しの要望が出ている。そもそも戦時統制権の委譲は韓国側から申し入れたものだ。米軍からすれば「返せ!返せ!と煩いから返すことにしたら、今度は返してくれるなとは!」という展開で、「もう、どうでもいいや」とあきれ果てているんじゃなかろうか。同じ文脈で「北朝鮮の無人機は実は韓国の自作自演」と読む向きもあり、この時期にことさら韓国が北の脅威をあげつらうのも煩わしいと思ってるんじゃなかろうか。
- 韓国は米国のミサイル防衛システムに参加せず、独自のシステムを構築すると決定した。だが、肝心の迎撃ミサイルは米国に売って欲しいと言う。また、韓国は次期戦闘機としてF-35Aの随意契約による導入を決定したが、なんか色々と韓国側が一方的に有利な購入条件を付けようとする動きを見せている。どうも韓国は「随意契約」の意味が分かっていないようだし、購入代金だって米国から借りる予定というからあきれる。韓国に貸す金があれば、米軍としては「それをそのままこっちに回せよ」と言いたいんじゃないか。
- 中韓接近を米国は嫌がるだろう、っつーかもう警告済みなのにね。米軍としては「勝手にすればぁ」と腹決めしたのかも知れない。
- アイゼンハワー公園内の「退役軍人記念園」に「平和の像」なる変なものが建てられたので、何気に米軍や退役軍人達が怒り心頭状態なのかも知れない。「平和の像」から回り回って「米軍も加害者(客)」という歴史的事実に行きつくと、いよいよ「米軍も韓国の被害者」になってしまうしね。
- 韓国は陸軍兵力11万人削減を予定している。米軍にすれば「本気か?」だろう。
- 予算削減は避けられないにしても、米軍としては削減幅を圧縮したい。韓国が騒げば米国議会への圧力とできるが、何せ韓国の騒ぐ内容が低レベルなので痛し痒しなのだろう。ただし、米軍は「韓国への軍事的コミットメントを米国として出すのか出さないのか」を明確にするよう議会に圧力をかけていることにはなる。議会が「金は出さない」と決定すれば、後は言わずもがな。韓国が金を出さない限りは、米軍は韓国に対して何らの軍事的コミットメントを出す理由もない。
さらに今の日本は「韓国のために」米軍に金は出すまい、いや出せまい。
今後の展開如何で、米国の大統領と軍の意思疎通のレベルも推し量れる可能性もあるし、本件に関わる国内マスコミの報道内容から色々と見えてくるものがあるだろう。 - …以下略
2014/04/07
一回は観とけ!四度!
好食!(広東(カントン)語の挨拶です。やあ元気!みたいな感じ)
かつて「香港映画」というジャンルがあった。広東語、或いは広東語と英語のちゃんぽんで撮られる映画群は、その言語の響きの異質さも手伝って、独特のトーンを持っていた。今回は、香港の中共返還を控えて撮られた2作をご紹介。
まずはフルーツ・チャン監督の「メイド・イン・ホンコン 香港製造」(1997)だ。主人公を演じたサム・リーは後に邦画「ピンポン」(2002)で「チャイナ」を演じている。
ストーリーはやや安っぽいのだが、登場人物達の設定が「背伸びしている子供達」であるが故のアンバランスさと微笑ましさを内在する。が、ストーリーを急展開させるのは自殺、殺傷などの他者や自己に向けての容赦ない暴力である。チャン監督の暴力に対する描写はドライだが、その辺りが実際の大陸人気質を反映したものなのか、監督の資質かどうかは分からない。
盗作防止のため、脚本を書かずに出来上がりは監督の頭の中にしかなかった香港映画では、ストーリー展開は時としてグダグダとなる。本作のストーリー展開は一般的な日本人の感覚におけるリアリティをギリギリはみ出しているため、ついて行けないかもしれない。が、なんとか破綻を免れている。これは、「主人公達とは何の面識もない自殺した少女の遺書」を小道具とし、劇終間際の一種の力技で成し遂げられる。
後味は悪いが、どしっとした重い物が心に残る作品だ。十代で観てはいけないかもね。
二つめは「アンナ・マデリーナ(安娜瑪徳蓮娜/Anna Magdalena)」(1997)だ。公開当時、なんの予備知識も無く劇場に足を運んだところ、劇場が若い女性客ばかりでびっくりした記憶がある。主演(の一人)は当時人気が高かった金城武、ヒロインはドラえもん主題歌の香港版も歌っていた香港明星、ケリー・チャンだ。いやはや、ケリー・チャン系の顔には実はとっても弱い私です。監督はハイ・チョンマン、個人的にはちょっと影が薄い感じが残念な癖の無い作風だ。
本作では、ざっくり三つのストーリーが語られる。ストーリーのひとつは劇中劇、別の登場人物達による二つのストーリーを無理やり繋げる小道具となる「小説本」のストーリーそのものだ。先に監督の作風には癖がないと書いたが、それはあくまで「香港映画」でのお話。ハリウッド的な分かり易さは最初からない。本作のストーリー展開、構成について行けるかはちょっとした試金石であり、追いて行けないならば「香港映画」はジャッキー・チェン映画までで止めておいた方が良い。「香港映画」のマナー、語り口は一見とても複雑だ。
「アンナ・マデリーナ」にしたところで、下の予告編から映画の内容が推測できるかな?音楽はまんまテリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」だしね(本編でもそのまま使われている)。夢みたいな夢、現実と見まごうばかりの現実が描かれた映画、そんな身も蓋もない映画と言えばその通りだ。そのくせ、劇中の夢と現実の境界は登場の必然性が読みとれない雑多な要素のせいで曖昧だ(実は、押井守監督の初期実写作品群には同じ匂いを感じている。「紅い眼鏡」、「トーキング・ヘッド」や「ケルベロス」でその印象が強い。ただし、押井監督の場合は絵作りとして様式化をやり過ぎ、一般的な「映画っぽさ」から逸脱してしまっているやに見ゆる。香港映画に慣れた感性では、十分に映画の枠組みに収まっているようにしか見えないのだが)。
根幹を成すストーリーは当たり障りのないもので、男女の出会いと別れ、直接語られない思い、といったもの描かれるだけだ、以上。しかし、本作はほぼ最後の「香港映画らしい香港映画」と言え、劇終間際のもの寂しさと「香港映画の終焉」のもの寂しさが私の中では完全に一体化してしまっている。なんと言っても香港の中共への委譲は1997年なのだ。
香港の委譲後、フルーツ・チャン監督の作風もやや変わり、癖の強さや雑多さはどぎついままに主人公をじっくり追うような作品を撮っていく。だが、「香港映画」、或いは「香港電影」の持っていた特殊なトーンは徐々に失われた。
「アンナ・マデリーナ」で顕著なように、一見雑多な要素を多数含む「香港映画」の佳作群の持つマジックは、「雑多であってもこれは一本の映画である」ことを意識せざるを得ない「映画館での2時間」でこそ発揮される。だから、DVDなんかで観てもなかなかそのマジックに触れることは難しい。
愛しき「香港映画」或いは「香港電影」特有の映画体験はもはや失われたと言って良い。が、それでも作られた作品は新たな観客に観られることを今でも欲している筈だ。
かつて「香港映画」というジャンルがあった。広東語、或いは広東語と英語のちゃんぽんで撮られる映画群は、その言語の響きの異質さも手伝って、独特のトーンを持っていた。今回は、香港の中共返還を控えて撮られた2作をご紹介。
まずはフルーツ・チャン監督の「メイド・イン・ホンコン 香港製造」(1997)だ。主人公を演じたサム・リーは後に邦画「ピンポン」(2002)で「チャイナ」を演じている。
ストーリーはやや安っぽいのだが、登場人物達の設定が「背伸びしている子供達」であるが故のアンバランスさと微笑ましさを内在する。が、ストーリーを急展開させるのは自殺、殺傷などの他者や自己に向けての容赦ない暴力である。チャン監督の暴力に対する描写はドライだが、その辺りが実際の大陸人気質を反映したものなのか、監督の資質かどうかは分からない。
盗作防止のため、脚本を書かずに出来上がりは監督の頭の中にしかなかった香港映画では、ストーリー展開は時としてグダグダとなる。本作のストーリー展開は一般的な日本人の感覚におけるリアリティをギリギリはみ出しているため、ついて行けないかもしれない。が、なんとか破綻を免れている。これは、「主人公達とは何の面識もない自殺した少女の遺書」を小道具とし、劇終間際の一種の力技で成し遂げられる。
後味は悪いが、どしっとした重い物が心に残る作品だ。十代で観てはいけないかもね。
二つめは「アンナ・マデリーナ(安娜瑪徳蓮娜/Anna Magdalena)」(1997)だ。公開当時、なんの予備知識も無く劇場に足を運んだところ、劇場が若い女性客ばかりでびっくりした記憶がある。主演(の一人)は当時人気が高かった金城武、ヒロインはドラえもん主題歌の香港版も歌っていた香港明星、ケリー・チャンだ。いやはや、ケリー・チャン系の顔には実はとっても弱い私です。監督はハイ・チョンマン、個人的にはちょっと影が薄い感じが残念な癖の無い作風だ。
本作では、ざっくり三つのストーリーが語られる。ストーリーのひとつは劇中劇、別の登場人物達による二つのストーリーを無理やり繋げる小道具となる「小説本」のストーリーそのものだ。先に監督の作風には癖がないと書いたが、それはあくまで「香港映画」でのお話。ハリウッド的な分かり易さは最初からない。本作のストーリー展開、構成について行けるかはちょっとした試金石であり、追いて行けないならば「香港映画」はジャッキー・チェン映画までで止めておいた方が良い。「香港映画」のマナー、語り口は一見とても複雑だ。
「アンナ・マデリーナ」にしたところで、下の予告編から映画の内容が推測できるかな?音楽はまんまテリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」だしね(本編でもそのまま使われている)。夢みたいな夢、現実と見まごうばかりの現実が描かれた映画、そんな身も蓋もない映画と言えばその通りだ。そのくせ、劇中の夢と現実の境界は登場の必然性が読みとれない雑多な要素のせいで曖昧だ(実は、押井守監督の初期実写作品群には同じ匂いを感じている。「紅い眼鏡」、「トーキング・ヘッド」や「ケルベロス」でその印象が強い。ただし、押井監督の場合は絵作りとして様式化をやり過ぎ、一般的な「映画っぽさ」から逸脱してしまっているやに見ゆる。香港映画に慣れた感性では、十分に映画の枠組みに収まっているようにしか見えないのだが)。
根幹を成すストーリーは当たり障りのないもので、男女の出会いと別れ、直接語られない思い、といったもの描かれるだけだ、以上。しかし、本作はほぼ最後の「香港映画らしい香港映画」と言え、劇終間際のもの寂しさと「香港映画の終焉」のもの寂しさが私の中では完全に一体化してしまっている。なんと言っても香港の中共への委譲は1997年なのだ。
香港の委譲後、フルーツ・チャン監督の作風もやや変わり、癖の強さや雑多さはどぎついままに主人公をじっくり追うような作品を撮っていく。だが、「香港映画」、或いは「香港電影」の持っていた特殊なトーンは徐々に失われた。
「アンナ・マデリーナ」で顕著なように、一見雑多な要素を多数含む「香港映画」の佳作群の持つマジックは、「雑多であってもこれは一本の映画である」ことを意識せざるを得ない「映画館での2時間」でこそ発揮される。だから、DVDなんかで観てもなかなかそのマジックに触れることは難しい。
愛しき「香港映画」或いは「香港電影」特有の映画体験はもはや失われたと言って良い。が、それでも作られた作品は新たな観客に観られることを今でも欲している筈だ。
毎日新聞デジタル”宇宙戦艦ヤマト2199 : 出渕監督に聞く”を読む
久しぶりに2199ネタ。毎日新聞デジタルの記事、「宇宙戦艦ヤマト2199 : 出渕監督に聞く オファーは『天命』」(2014年04月05日)を一読。
新作劇場版とやらもやっぱり駄目っぽい、監督も監督自身も変わんねぇのな、な雰囲気濃厚。
故に、劇場版で全体として纏め切れれば拍手も讃辞も惜しまない。ただ、やろうと思っても難しいこのようなことにどれだけ自覚的に取り組もうとしているのかは甚だ疑問だ。
え、覚悟なんて無い?
空耳だと思うけど、それじゃぁこいつに手をつけちゃいけねぇし、自ら「天命じゃない」って言ってるようなもんだねぇ。「天命」は「覚悟」のある人間にしか下されないよ、普通。
新作劇場版とやらもやっぱり駄目っぽい、監督も監督自身も変わんねぇのな、な雰囲気濃厚。
「ヤマトができるのはとにかく楽しかった。自分が楽しいと思っていると、作品にもそれが出てくるんだなと思った」としみじみと語る。そこ、駄目だったところその1。あなたが何処を楽しんでいるかはおそらく半分ぐらいは分かっているつもりだ。しかし、全体として見たとき、あなたが楽しんでいるだろう辺りは全く物語の成立性に寄与していなかった。ただの食い散らかしになっていなかったか。
「(13年の)テレビ版から今作に入った方には特に見ていただきたい。本当に違いますから。意図したわけではないんですが、劇場上映版は全7章がいい形でそこ、駄目だったところその2。章毎にトーンが違うのは言われなくたって分かる。問題は、先のシリーズでは、全体として見たときに「章毎にトーンが違う」ことが全く物語の成立性に寄与していなかったじゃないか、ということ。ただ違うだけだったじゃないか、というより、本来ガチガチかつ針に糸を通すような繊細な構成が求められる部分に限って、はぐらかしたり、抒情的な描写で誤魔化したりしてたよね。
まとまった。章ごとにアプローチ、切り口が違っていて、章ごとに味わいも違う。まとめて見るには非常に見やすくなっている。もちろん計算はしたんですが、
ここまでカチッとはまるとは思っていなかった」と自信をのぞかせる。
故に、劇場版で全体として纏め切れれば拍手も讃辞も惜しまない。ただ、やろうと思っても難しいこのようなことにどれだけ自覚的に取り組もうとしているのかは甚だ疑問だ。
「劇場版は自分たちがこうしたかったというものがピュアな形で出ているので、そういう部分も含めて見てもらいたいですね」と語る。ここは驚きポイント。「ピュアな形ではない」先のシリーズはどう位置付ければ良いのよ。「ピュアな形」ってあんた、より食い散らかしを先鋭化するつもりなのか。せめて「よりピュアな形」と言って欲しかった。
「実はヤマト自体をモデリングし直しています。劇場用にもう少し緻密にやろうということで、細かい部分で直しを入れたり、ディテールを足していたりするので、そういうところも見どころではあると思いますね」と明かした。だからぁ、そこじゃぁないんだってば。「できるのが分かっていること」だけやってちゃ見てる側は尚更面白くもなんともないし、それじゃぁ作品は何時まで経っても終わらせられない。プロフェッショナルってのは「終わらせられる」力量のある人のことだ。何時までアマチュア意識が抜けないのか。
「『天命かな。これはやらないといけない』と。あえて“火中のクリ”を拾う心境だった」と当時を振り返る。さすがにこれには同意と言うか、感情移入はできる。が、「天命」とは不可分な「覚悟」ってぇのはただやりゃぁ示せるってもんじゃぁない。
え、覚悟なんて無い?
空耳だと思うけど、それじゃぁこいつに手をつけちゃいけねぇし、自ら「天命じゃない」って言ってるようなもんだねぇ。「天命」は「覚悟」のある人間にしか下されないよ、普通。
2014/04/06
サッカーは共通言語
サッカー/フットボールは良いよね、これは一種の共通言語でしょう。
ただし、日本人を「放射能猿」なんて揶揄する某国の一部は別格、絶対ピッチには入ってきて欲しくない。あれはサッカー/フットボールじゃない。
国際試合では「地域紛争などを背景とした因縁の対決」もあるけど、あくまでピッチ上で繰り広げられるのはサッカー/フットボールです。「ボールは友達」とまでは言わないとしても、「共通の価値観に基づいて敵であっても尊敬・尊重の念を持って真摯にピッチ上でプレーする」、そいうことが当たり前に繰り広げられる様は本当に見ていて気持ち良いものです。
野球/ベースボールはサッカー/フットボールと較べれば方言でしかないのが実態。
さて、サッカー/フットボールがらみの話題2つです。
まずは、うれしい話題「[U-17女子W杯]リトルなでしこが快挙、スペイン下し大会初制覇!!」。日本代表チームを率いる初の女性監督、高倉麻子氏の指揮の下、全勝優勝と言う文句なしの大会制覇と言えるでしょう。
宗教差すらも超えつつある「共通の価値観」は、性別(生物学的な、社会的な、ともに)も超えて共有されていく、ということの本当に良い例だと思います。女性のスポーツ参加全般に対しては、まだ宗教的、社会制度的制約が世界各国でみられます。その制約の是非は別として、サッカー/フットボール側は何時でも受け入れる準備ができていることは間違いないでしょうね。そんな枠組みの中で代表が力においても「共通の価値観」の体現においても先頭グループに入ってきたというのは、同じ日本人としてうれしい限り。
もうひとつは、「ストリート・チャイルド・ワールド・カップ開催」。ひょんなことから知った大会ですが、まさに「ボール一つあれば始められるスポーツ」、サッカー/フットボールの面目躍如って感じです。
「ストリート・チルドレン」を「本質的に」無くせる社会の実現が一種の理想、将来の目標ではあるのでしょうが、「現状をどう取り扱っていくか」も重要でしょう。「ストリート・チルドレンでもサッカー/フットボールができる」という状況作りですらまだ全世界で見れば不十分かもしれませんが、ステップバイステップでも広がっていって欲しい運動です。
「銃ではなくボール」、それすらもまだまだ難しいのが残念ながら今の世界。
サッカー/フットボールへ「差別」を持ち込む行為は既に嘲笑、非難の対象です。それは例えばFIFAも汚職体質と必ずしも無縁ではない、というような事とは全く無関係の話。
ただし、日本人を「放射能猿」なんて揶揄する某国の一部は別格、絶対ピッチには入ってきて欲しくない。あれはサッカー/フットボールじゃない。
国際試合では「地域紛争などを背景とした因縁の対決」もあるけど、あくまでピッチ上で繰り広げられるのはサッカー/フットボールです。「ボールは友達」とまでは言わないとしても、「共通の価値観に基づいて敵であっても尊敬・尊重の念を持って真摯にピッチ上でプレーする」、そいうことが当たり前に繰り広げられる様は本当に見ていて気持ち良いものです。
野球/ベースボールはサッカー/フットボールと較べれば方言でしかないのが実態。
さて、サッカー/フットボールがらみの話題2つです。
まずは、うれしい話題「[U-17女子W杯]リトルなでしこが快挙、スペイン下し大会初制覇!!」。日本代表チームを率いる初の女性監督、高倉麻子氏の指揮の下、全勝優勝と言う文句なしの大会制覇と言えるでしょう。
宗教差すらも超えつつある「共通の価値観」は、性別(生物学的な、社会的な、ともに)も超えて共有されていく、ということの本当に良い例だと思います。女性のスポーツ参加全般に対しては、まだ宗教的、社会制度的制約が世界各国でみられます。その制約の是非は別として、サッカー/フットボール側は何時でも受け入れる準備ができていることは間違いないでしょうね。そんな枠組みの中で代表が力においても「共通の価値観」の体現においても先頭グループに入ってきたというのは、同じ日本人としてうれしい限り。
もうひとつは、「ストリート・チャイルド・ワールド・カップ開催」。ひょんなことから知った大会ですが、まさに「ボール一つあれば始められるスポーツ」、サッカー/フットボールの面目躍如って感じです。
「ストリート・チルドレン」を「本質的に」無くせる社会の実現が一種の理想、将来の目標ではあるのでしょうが、「現状をどう取り扱っていくか」も重要でしょう。「ストリート・チルドレンでもサッカー/フットボールができる」という状況作りですらまだ全世界で見れば不十分かもしれませんが、ステップバイステップでも広がっていって欲しい運動です。
「銃ではなくボール」、それすらもまだまだ難しいのが残念ながら今の世界。
サッカー/フットボールへ「差別」を持ち込む行為は既に嘲笑、非難の対象です。それは例えばFIFAも汚職体質と必ずしも無縁ではない、というような事とは全く無関係の話。
モデル/KRAFTWERK & ヒカシューのカバー
「今どんなボーカロイドが欲しいですか?」と問われれば、ずばり民謡歌手!
「傀儡謡」ができるかも!!周波数スペクトルを見ると多くのボーカロイドには無い(Megpoidには有ります^^)3kHz付近のフォルマント成分がばっちり、とか。
今回のバックトラック作成過程で見えてきたのは、上手く表現できないけれどもやはり「人の声っては凄い」ということ。KRAFTWERKの曲ながら、頭の隅には常に「傀儡謡」のイメージがありました。昨年末の決算大安売りセールで入手したボーカル系サンプルデータをひっくり返しちゃいましたよ。
Das Modellは初期のKRAFTWERKの持っていた湿っぽさが割と全開の曲で、歌詞の内容ともにMegpoidよりは民謡歌手の方が絶対合ってます。The Cardigans、Snakefinger、ヒカシューとかとも違う方向性でのカバーを指向はしてみました。女声コーラスのサンプル使用は既定路線でした。
あ、「レミーマルタン」っぽい歌詞はドイツ語版でしたね。英語版/国際版は5年に一度聞くか聞かないかぐらいなので……では、どうぞ。
冒頭で「音が小さいな。」と思っても無暗にボリュームを上げないように。割とボーカロイド感剥きだしのままのMegpoid Whisperの声を「意図的に大き目にしたミックス」になっております。
「傀儡謡」ができるかも!!周波数スペクトルを見ると多くのボーカロイドには無い(Megpoidには有ります^^)3kHz付近のフォルマント成分がばっちり、とか。
今回のバックトラック作成過程で見えてきたのは、上手く表現できないけれどもやはり「人の声っては凄い」ということ。KRAFTWERKの曲ながら、頭の隅には常に「傀儡謡」のイメージがありました。昨年末の決算大安売りセールで入手したボーカル系サンプルデータをひっくり返しちゃいましたよ。
Das Modellは初期のKRAFTWERKの持っていた湿っぽさが割と全開の曲で、歌詞の内容ともにMegpoidよりは民謡歌手の方が絶対合ってます。The Cardigans、Snakefinger、ヒカシューとかとも違う方向性でのカバーを指向はしてみました。女声コーラスのサンプル使用は既定路線でした。
あ、「レミーマルタン」っぽい歌詞はドイツ語版でしたね。英語版/国際版は5年に一度聞くか聞かないかぐらいなので……では、どうぞ。
冒頭で「音が小さいな。」と思っても無暗にボリュームを上げないように。割とボーカロイド感剥きだしのままのMegpoid Whisperの声を「意図的に大き目にしたミックス」になっております。
2014/04/04
クラカタウ・ポスコ高炉爆発は本当か?:補足の補足っつーか訂正込み
さて、インドネシアのクラカタウ・スチールと韓国のポスコの合弁事業である一貫製鉄所は少なくとも3回事故を起こしているらしい。先のエントリで「水蒸気爆発事故ではなくガス爆発事故」と書いたけど、発生日を確認すると1ヶ月ぐらいズレがあった。つまり、1/19に「ガス爆発事故」が発生し、2月末に「水蒸気爆発が発生した可能性がある」が正しい。1/1の最初の事故を入れれば事故は3回だ。
で、本題はこれから。
「ガス爆発事故」は1/19に発生した。が、NEWSPIMの1/20の記事によると、ポスコは「すべての生産工程は正常に動作している」と述べたという。あれれ。
記事全文のGoogle翻訳結果は以下の通りだ。
う~ん、時系列も良く分からんし、結局最初の事故以降に関する報道は何処まで本当なのかさっぱり分からない。少なくとも報道内容全てを正しいとみなすことは論理的に不可能だし、ポスコをソースとする報道内容だけでも十分矛盾だらけだ。
客観的な報道を求む!っつーか、せめて報道管制状態みたいな状況はなんとかならんものかのぉ。こんな矛盾のある発言を続けてる会社は、「株主の利益に対して重大な影響を与える事実の公表を怠るのみならず、意図的に事実と異なる虚偽の情報を公表し続けた」として普通の国なら株主訴訟に間違いなく負けるよ。
で、本題はこれから。
「ガス爆発事故」は1/19に発生した。が、NEWSPIMの1/20の記事によると、ポスコは「すべての生産工程は正常に動作している」と述べたという。あれれ。
記事全文のGoogle翻訳結果は以下の通りだ。
ポスコインニ製鉄所、年初の一時停止上の記事を信じると、10日程度は製鉄所が正常に稼働していたことになる。10日も稼働すれば製品出荷ぐらいできるような気もする。ところが、朝鮮日報の3/30の記事では、
2014-01-20 08:32
[ニュスピム=オドンファン記者]
ポスコの海外初の一貫製鉄所であるインドネシアクラカタウポスコが年初設備の故障で、一部の生産工程をしばらく中断していたことが分かった。
20日、ポスコによると、クラカタウポスコは去る1日、溶鉄が出てくる出口部門に異常が発生して操作を中断して修理に入ったことが分かった。クラカタウポスコは問題が発生してから7日後に修理を完了し、現在はすべての生産工程は正常に動作していることが分かった。
ポスコ側は、修理が行われている期間にもプレートの生産は正常に行われたと言いながらも工場が稼動されたばかりという点で生産されて銑鉄はまだ100%の状態ではないと明らかにした。
これに関連し、ポスコ側は、「 30~40年稼動した国内の製鉄所と比較するとクラカタウ製鉄所は現在、よちよち歩きの段階に過ぎない」とし「稼働初期に問題が発生する可能性がある」と説明した。
クラカタウポスコは先月23日、インドネシア?ブライヤーゴンで年間300万トン規模への扉を開いた一貫製鉄所として、今後年間スラブ180万トンとプレート120万トンを生産する予定である。
ポスコ側は「今月7日(3/7)にインドネシアのクラカタウ・ポスコで最初のスラブが生産された」と明らかにした。と書かれている。
う~ん、時系列も良く分からんし、結局最初の事故以降に関する報道は何処まで本当なのかさっぱり分からない。少なくとも報道内容全てを正しいとみなすことは論理的に不可能だし、ポスコをソースとする報道内容だけでも十分矛盾だらけだ。
客観的な報道を求む!っつーか、せめて報道管制状態みたいな状況はなんとかならんものかのぉ。こんな矛盾のある発言を続けてる会社は、「株主の利益に対して重大な影響を与える事実の公表を怠るのみならず、意図的に事実と異なる虚偽の情報を公表し続けた」として普通の国なら株主訴訟に間違いなく負けるよ。
2014/04/02
クラカタウ・ポスコ高炉爆発は本当か?:補足
朝鮮日報日本語版に記事が出た(ポスコのインドネシア製鉄所で何が起きているのか)。日本語が少しおかしい(論理がおかしい)ところもあるが、タイトルの通りの内容が書かれている。まぁ、原文からしておかしかった可能性もなくはない。
さて、これまではインドネシア地元紙記事しか情報ソースが無かった爆発事故だが、件の記事によると蒸気爆発ではなくガス爆発だったということらしい。記事によると
で、記事ではさらに
この記事、書かれていることより書かれていないことの方が重要って感じです。苦笑なしには聞いてられない「実態バレバレのガキんちょ全力言い訳」みたいなものですよ。
要は、「主たる事故原因はポスコの設計ミスにある。事故発生の責任は作業員の教育がうまくできていなかったポスコにある」、そういうことで宜しゅうございますね。じゃあそう書けばいいのにね。
さて、これまではインドネシア地元紙記事しか情報ソースが無かった爆発事故だが、件の記事によると蒸気爆発ではなくガス爆発だったということらしい。記事によると
ロシア人監督者とインドネシアの現場作業員の意思疎通に問題があったことが原因だった。らしい。ふむ、現場レベルでは韓国人は関わっていないということを伝えたいのだろうか、なんかここだけわざわざ国名が書かれているような気もする。ちなみに監督者がロシア系韓国人ってことはないよね?
で、記事ではさらに
ポスコ幹部は「自動でガス流入量を調節するバルブを未熟練者が主導(手動?)で誤操作し、問題が生じた。作業員の教育がうまくできていなかった」と説明した。(カッコ書きはブログ主)とも書かれている。何気だけれども、事故の本質であろう「作業員の教育がうまくできていなかった」の主体が明確に書かれていない。やや霞が関文体も彷彿させるずるい書き方じゃないですか。まぁ、原因が誤作動じゃなくて誤操作ってあたりは「設計ミス」ということでしょう、常識的には。安全装置とか監視装置とか付いてないんですかって事ですよ、日本国内じゃあこんな理由はまず信じてはもらえない。それでもそれが理由となれば、その主体は信頼を失います。
この記事、書かれていることより書かれていないことの方が重要って感じです。苦笑なしには聞いてられない「実態バレバレのガキんちょ全力言い訳」みたいなものですよ。
要は、「主たる事故原因はポスコの設計ミスにある。事故発生の責任は作業員の教育がうまくできていなかったポスコにある」、そういうことで宜しゅうございますね。じゃあそう書けばいいのにね。
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