2014/08/31

物語の共有の否定、或いは「情けは人のためにならず?」


 素人目には主張に色々と引っかかる。「日本軍が関与したことを示す資料」 とかいう曖昧な表現はいい加減やめて欲しい。これは自分の主張の優位性を意図した印象操作であって、普通は「卑怯」とされるやり口である。

 問題を遡及的に取り扱うのは近代法治国家では禁じ手だ。これでは開戦時には国際的に無かった罪を戦後に問うた「東京裁判」と同じである。
人身売買禁止が国際法で規定されていないと主張するのは日本しかない。日本政府が今年7月、国連市民・政治権利委員会で日本軍慰安婦は性奴隷ではないと話 したことは問題だ。性奴隷ではないというのは‘慰安婦=売春婦’ということだ。これは慰安婦被害者を二度侮辱することで、新しい加害だ。
  「日本しかない」ことは重要ではない。これは明確な印象操作であって、まず明確にすべきは「人身売買禁止が国際法で規定されたのが何時か」であるべきだ。それを主張しない事は、主張者にとって都合が悪い「事実、真実」がある可能性を想起させる。

  「性奴隷ではないというのは‘慰安婦=売春婦’ということだ。これは慰安婦被害者を二度侮辱することで・・・」の部分は日本人の感性を意図的に無視し、逆手に利用している可能性がある。公娼制度の運用実態については十分な知識を有しないので踏み込まないが、「慰安婦」という表現が「公的に職業として認められているにも関わらず、それを『売春婦』と呼ぶことが差別的であるが故に使われた可能性」は全く無いのだろうか。日本特殊論を唱えるつもりは毛頭ないが、特定の文化圏と時代性のコンテクスト(文脈)を意図的に排して、事後的乃至遡及的(つまり、現在の価値観でのみ捉え)、さらに「国際法」という錦の御旗の下で糾弾する姿勢には大いに疑問を感じる。はっきり言ってしまえば「庶民感覚」として「卑怯者の所業」にしか見えない。

 これを国際問題として捉える視点は「遡及」によってしか現れない。当時の朝鮮半島は大日本帝国憲法の施政下にあり、国土の一部であって植民地ですらない。当時の枠組みでは「国内問題」を越えることはないとしか論理的には解釈できない。

 遡及法は近代法治国家では許されない。加えて「国際法」の名の下に文化差を考慮しない取り扱いは恣意的な運用、或いは「国際法」の悪用である。ただでさえ民族主義、宗教原理主義の先鋭化で 「より広い文化圏で共有可能な国際法」の成立性、実効性は揺らいでいる(本来の国際法は、文化圏の価値観差にまで踏む込まない範囲でのコモンセンスであるべきである、というのが個人的な心証だ)。

 ただ「強制性」が前に出てこなくなってきたことは、実は重要な前進である。朝日新聞社もそうだが、結局証拠がないと何を主張しようと駄目、ということだ。問題点のすり替えは戦線に例えれば撤退を転戦と呼ぶに等しい。明確な誤魔化しであり、「嘘」は特定の人間の懐を肥やしつつ、「被害者とされた人々を加害者にするとともに、最終的には本当に被害車にしてしまう」危険を孕む。幸か不幸か、日本人の感性は「最終的には本当に被害車にしてしまう危険」を察知した時点で、その一線を越えないように知恵を絞ると言うものだ。

 「察しと思いやり」、である。

 だが、今や日本人?ですら、その日本人の感性を悪用してきたことが白日の下にさらされてきている。が、私の信じる日本文化のしなやかさは、一線を越えないという感性と、一線を越えた場合の冷徹さを両立させられるだろう。

 「従軍慰安婦問題」の「真の加害者は誰か」、「真の被害者は誰か」。いったん問題化した以上、或いは問題化させた勢力、人間がいる以上、それを「幸いに変える」、或いは「災い転じて福と為す」には「言葉遊びにのみ興じる勢力」を排すると同時に、然るべき制裁を受けさせる必要がある。冷静に、論理的に、慌てず急いでしなやかに進めなければならない。通常、「共同体の掟」を破ってしまった者は、その共同体からの保護は受けられない。長年にわたって適用が猶予されてきた共同体で共有される掟というものは曖昧とならざるを得ない。が、過去より存在するが故に明示化された時点で「遡及的」であるとは必ずしも言えない。単に知らなかっただけ、では逃れられない。更に踏み込めば、「それを知らないことは違う文化圏に属する」ことの証左とも言えるのである。「自らの利益のためにその文化圏に属しているふり」をしていたのであれば、「その文化圏の掟で裁かれること」も受け入れなければならない。それが世の習いというものだ。

 全文を読んで、真実が何処にあるのか、捻じれががどこにあるかを一緒に考え、興味のおもむくまま色々と調べてみて欲しい。




【慰安婦問題】 国連に「慰安婦=性奴隷」と訴えた戸塚悦朗弁
護士インタビュー「慰安婦問題は解決していない」
日本の国際人権法権威者、戸塚悦朗弁護士は1992年2月、国連人権委員会で‘日本軍慰安は性奴隷’と初めて慰安婦問題を国連に提起した人物として有名だ。彼は今月20日、世界日報と のインタビューでも「日本軍慰安婦は強制でなければなされず、意志に反したもの」とし、「性奴隷が明らかだ」と再確認した。また、慰安婦問題は日本国内でも犯罪行為として糾弾され、1965年の韓日請求権協定で解決されていないという点も明らかにした。

-どうして慰安婦問題を国連に初めて提起することになったのか。
「初めから慰安婦問題のために国連で活動したのではなかった。精神障害者の人権問題解決のために裁判で敗れた場合、国連規約人権委員会に通知できる‘個人通知権’制度を導入するよう日本政府に要求したが拒否された。個人通知権が導入されなければ被害者代理の弁護士が国際社会に訴えるほかなく、かえって負担が大きくなるといったが、政府はそれでもダメといった。やむを得ず、毎年、国連に行って日本の人権問題を提起せざる得なかった。そうするうちに在日 朝鮮人と韓国女性たちが助けてくれと言うので、慰安婦問題に介入することになった。」

-初めはためらったと聞いたが。
「1992年、国連に訴える2年前、社会党の本岡昭次参議院議員の依頼で慰安婦問題を検討したことがある。しかし弁護人としてその問題の解決に同意できなかった。まず被害者がおらず、事件として検討できなかった。また、国家を相手にした訴訟になる他ないが、当時の日本国内法では勝つのが難しいと考えたためだ。ところが1991年8月14日、キム・ハクスン氏が慰安婦だったことを証言し、1992年1月、中央大、吉見義明教授が防衛庁資料館で日本軍が関与したことを示す資料を発掘して公開した。弁護人として問題にする義務があった。ちょうどその年、国連人権委が予定されており慰安婦問題を扱うことに決めた。」

1992年2月、彼は国連人権委員会で日本軍慰安婦は国際法上人身売買違反とし‘慰安婦は性奴隷’と主張した。彼の問題提起をきっかけとして国連で慰安婦議論が公論化し始めた。

-なぜ慰安婦は性奴隷なのか。
「日本軍関与資料と被害者証言集を見て判断した。国連では国際法違反問題を提起しなければ発言や呼び掛けにならない。国際人権条約がなかった第二次世界大戦以前の国際法で最も重視された人身売買禁止を適用した。また‘私が女性なら日本が戦争に勝てばと思って(慰安婦を)絶対しはしないだろう’と考えた。それは強制にならざるを得ず意思に反するものと考えた。そうなると誰でも奴隷と考えるわけで、性問題なので‘性奴隷(sex slavery)’と命名した。‘自分の意志で兵士を慰安する’慰安婦という言葉はお笑いだ。」

-今、国際社会で日本軍慰安婦は性奴隷という認識が確立されたか。
「確立されている。人身売買禁止が国際法で規定されていないと主張するのは日本しかない。日本政府が今年7月、国連市民・政治権利委員会で日本軍慰安婦は性奴隷ではないと話したことは問題だ。性奴隷ではないというのは‘慰安婦=売春婦’ということだ。これは慰安婦被害者を二度侮辱することで、新しい加害だ。被害者を見ると心が痛む。」

-日本は問題がみな解決されたという立場ではないのか。
「慰安婦補償問題が1965年韓日請求権協定で解決されたと言うのは話にならない説だ。いつかキム・ヨンシク元外相は当時の交渉過程で不法行為問題の議論がなかったとして‘もし不法行為が発見されれば後で交渉する’という日本代表、久保田貫一郎が話した議事録を公開した。日本は関連資料を公開しないでいる。実際の交渉では経済協力やお金の問題だけ話した。併わせてお金の問題は解決したが犯罪問題は解決されなかった。慰安婦問題は第二次世界大戦前の日本裁判所も認めた犯罪問題だ。1965年の交渉過程で犯罪問題は扱われなかった。」
(後略:弁護士の経歴など)

埼玉=キム・ユンチョル特派員

ソース:世界日報(韓国語) [インタビュー]「国際法上人身売買禁止違反…‘慰安婦=性奴隷’明らかに」
http://www.segye.com/content/html/2014/08/29/20140829003367.html
引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1409407649

2014/08/30

「コード分析」という手法

 おそらく変わっていないとは思うが、私が学んでいたころの四年制大学は「教養課程」と「専門課程」に分かれていた。専門課程とは文字通り専門教育を受ける課程であり、例えば工学部機械科ならば他の学科と共通の講義や機械科独自の講義を受けることになる。他方、教養課程は学生の所属学科に依らずにどの講義でも受講できる。教養課程を終えるためにはまず総取得単位数が一定の値を越えていなければならいが、所属学科が指定した「必修科目」の単位も取得(つまり合格)しなければならない。私の出身大学は当時「教養課程専門のキャンパス」があったため、教養課程は1年半で終えなければならなかった。パスできなければ、いわゆる留年となる。

 大抵の留年生はの留年理由は総取得単位数である。サークル活動にどっぷりだとか、ただ学校に行かないだとか、理由は色々あろうが意外にそれらのバリエーションは少ない。かく言う私も留年しかけたのだが、学生課の職員に指摘されたように理由は特殊だった。総取得単位数はほぼ2倍でクリアなのだが、「必修科目」の取得単位数が教養課程修了規定数ぎりぎりだったのだ。私は工学部に合格したが、教養課程ではほとんどを文系科目の受講で過した。東洋近代史とかが大好物だったのである。

 と、ここまでが長い前書き。

 そんな文系科目の中で私が受講した「倫理学」の講義がとても面白かった、と言うか、「あぁ、そんなものが世の中にあるのか!」と目からウロコだったと言った方がおそらく正確だ。

 題して「昔話のコード分析」である。

 ここで言う「コード」とは、私が良く使う「規範」の意味である。倫理学におけるコード分析であるから、分析結果として得られるコードとは「倫理規範」或いは「道徳」と言い換えても良い。「道徳」と考えてもらって実のところ全く問題ない。それは「やっていいこと」や「やってはいけないこと」の境界が何処にあるか、境界を越えるとどういうことが起り得るか、ということを考えるという意味では同じである。続きを読むと分かるが、いわゆる「教訓話」は分析対象とはならない。それは概して「教訓自体」が具体的に物語中で明示されるからである。

 さて、分析対象たる昔話とは如何なるものか、文字通りの解釈で良い。例えば「さるかに合戦」、「泣いた赤鬼」、「一寸法師」、「はなさかじいさん」、「つるの恩返し」などなどだ。先にぶっちゃけておくと、「昔話のコード分析」が果たして学問的なアプローチと言えるかは心もとない。一種の文芸批評手法とも被るのだが、そのいい加減さというか恣意性というか、本質的に客観性を担保できない特性というかは、筒井康隆氏の「文学部唯野教授」を読破するまでもなく理解できる。つまり、分析で得られた結果を「一個人の解釈」から「客観的な、一般的な解釈」にするための道筋を分析手法自体が内在していなからである。

 「昔話のコード分析」とは、昔話の中に「埋め込まれた」日本人が時を経て引き継いできたコード(倫理規範、道徳規範)を抽出しようという試みである。ここで「埋め込まれた」をわざわざ括弧付きとしたのは、コード分析を適用する時点でそれが仮定、或いは暗黙の事実として取り扱われるからである(絶対埋め込まれている、というスタンスを採る)。別の言い方をすれば、「コード分析」自体が適用時に既に破綻している可能性は暗黙のうちに排除されているのである。で、なぜその可能性を排除できると見做すかというと、「昔話がさしたるバリエーションの分岐も経ずにほぼそのまま語り継がれるのは、物語自体がその物語構造を維持させるべく何らかの機能を有しているためである」と解釈できるからである。そして更に踏み込んで、その機能が「日本人としての倫理規範や道徳規範を伝えること」にあるからであるという解釈をする。真面目に考えたところで「卵が先か、鶏が先か」になるだけなので、ここは「ふ~ん」と流してもらってかまわない。

 ざっくりと例を挙げよう。昔話「つるの恩返し」では、妻が猟師である夫に「私が機を織っている間は部屋を決して覗かないでください」 と念を押す。しかし好奇心に負けた猟師は部屋を覗いてしまい、美しい妻の正体が鶴であることを知ってしまう。正体が知られたことを悟った妻は鶴に姿を変えて猟師のもとを去る。まぁ、ストーリーの一部をこういうつまみ方をした段階で既に恣意的ではあるのだが、これらのストーリーの流れから抽出できる「道徳」とは如何なるものか、と考えるのがこのコード分析である。

 「親しき仲にも礼儀あり?」、ちょっとくくりが大きすぎるかもしれない。「夫婦の間に隠し事があったとしても、それが悪意に基づくものとは限らない」?、「例え夫婦の間でも約束は守らなければならない」?、そんなところだろうか。そう、ただそれだけの話なのである。とても学問とは思えない。かくの如く、「昔話のコード分析」自体に意味があるのかないのかさっぱり見えてこない。が、その枠組みと言うか考え方自体は繰り返しになるが面白い。

 トールキンは「英国における神話の不在」を嘆いて「指輪物語」を執筆したという。ここで神話とは「創生神話」といったものではなく、特定の文化圏で「共有される」物語である。物語の共有は所属する文化圏の境界を明確にするとともに、内容によっては「道徳規範」の共有という機能も果たすだろう。もしあなたが「つるの恩返し」と類似した約束を他者としたとしよう。あなたはどう振る舞うだろうか?さらにあなたが「つるの恩返し」という昔話を知っている場合と知らない場合に振る舞いが変わる可能性はあるだろうか?もしあなたの振る舞いに「つるの恩返し」のストーリーを知っていることが影響がするなら、「つるの恩返し」という昔話は何らかの機能を持っていることになる。また影響があるならば、物語の共有は振る舞いや価値判断の共有手段ともなり得るということまでは言っても良いと思う。

 「昔話のコード分析」の洗礼を受けた後、様々な文化圏の神話や伝承譚の比較が格段に面白くなった。 また高校生のころに徹底的に読み込んだケルト神話の再解釈、さらにはクトゥルー神話群の作家による題材の選び方の違いにも合点がいくようになった。一つのキーは、どのような死に方をしたくないと作家自身が考えているかという点だ。化けて出る方法や理由は、調べてみるとと文化圏によってかなり違うことが分かる。共有機能を果たしているものは、民間伝承であったり、神話であったり、宗教の教えであったり様々だ。これにシンボル分析を加えれば更に面白くなる。例えば「ひとつ目、赤い肌の怪物」のシンボル的解釈は、欧州と日本で共通する部分が多い。ヒントは製鉄技術だ。

 大風呂敷を広げると、テロ組織ISIS(イラク、シリアのイスラム国)が米国ジャーナリストの処刑になぜあのような方法を「選んだ」のか、そして米国やそのほかの国々がどのように反応し「得る」かが多少なりとも推定できるようになる。 スンニ派ムスリムの少なくとも一部は殺されるにしても「首を刈られる」ことを望まないだろう、彼らの世界観に従えば天国に行けなくなるからだ。相手の文化を理解し、背後に存在する価値観を踏まえなければ、ただでさえ強烈なメッセージに込められた言外の、文化依存のメッセージは見逃してしまう。それは逆のパターン、真に友好を求めようとする場合も同様だ。自衛隊の海外活動時の相手側文化へのリスペクトを見るにつけその思いは強くなるし、日本人の持つ文化はそういう研究と実践を尊ぶ側面をも持っていると思う。共有の仕組みができればこれはとてつもない強みだ。相手側文化に則った振る舞いは言葉が通じなくても直ぐにそれと分かるものだ。

 最後に再び物語の持つ機能に話を戻そう。

 「正義と悪という概念は相対的である」

アニメ「ザンボット3」の物語を共有する日本人なら納得できるでしょ?

p.s.

 厳密に昔話の分析をしようとするなら、その物語の別バージョンとの相違点や類似点、時間的な変遷も追っておく必要があることが今だからこそ分かる。全てのバージョンに共通し、時間を経ても変わらない部分は、何か別の変わらなかったものを反映している筈だ。それが「道徳規範」かどうかはまた別の話だけどね。 

p.s.2

 「かまってチャン」をあしらうのは「無視」に限る、という 分析結果は今まさに・・・

フィアット、直観、覚悟、幸運、ただし後悔は無し

 かつて「フランスはシトロエンを持っているが、フィアットはイタリアを持っている」とまで言われたそうである。シトロエンは国有自動車会社、対してフィアットは国をも支配する勢いを持つ大企業グループだったということだろう。現在のインドにおけるタタ・グループのスタンスが近いかもしれない。なんせタタは鉄鋼製品から自動車、トイレットペーパーまで供給する存在だ。

 フィアットは自動車製造から始まり、「陸に、海に、空に」を合言葉にあらゆるものを設計、製造、販売する一大企業グループに成長した。原子力を含む発電所用の機器製造などにも携わっており、「FIAT」のロゴの描かれた古い図面を仕事で目にすることが今だにある。が、驕れる者は久しからず、2000年ごろには倒産の可能性が当たり前に語られようになっていた。しかし、新経営陣の抜本改革が功を奏し、純粋な自動車製造・販売会社として完全に復活した。今は自動車部門を除いて全ての分野を分離、売却し、さらに米国クライスラーを合併して米国への足掛かりも得ている。ちなみに現在のアルファロメオ、ランチア、アバルトはフィアット傘下のブランドである。

 FIAT 500に乗っているとたまに「ルパン(三世)の車だね」と言われる。ディーラーの方と話をしたときも、「ルパンの車(の現代版)」を理由に購入した人が多いのだそうだ。ナンバープレートも某映画中の旧FIAT 500にちなむものを希望する人が少なくないらしい。だが以前のエントリでも書いた通り、私の中では新旧含めてFIAT 500とルパン三世とには一切の接点がない。

 現在のFIAT 500の原型はコンセプトカー「2+1(トレピウノ)」にある。「2+1」というのは基本2シート、シート配置をいじることで3シートにもできるという小型車コンセプトで、実際のところはコンセプトそのものよりも旧500のデザイン意匠が大胆に導入されたことが注目されたと記憶している。時期的にはフォルクスワーゲンの新型ビートルが好評を持って迎えられた時期と前後する。当時の私は自動車運転免許を取得すらしていなかったが、「2+1(トレピウノ)」の写真を見た瞬間に「10年後には私はこれを運転している」と「直感した」ことを明言しよう。この直観がなければ、未だに運転免許を持っていなかったかも知れないし、現在FIAT 500を愛車にしていることなんて尚更あり得ない。

 私の人生の大部分は「直観」による判断とその後の「幸運」からできていると言って良い。大学の選択しかり、研究室の選択しかり、就職先の選択しかりである。全ていきなり一点勝負であった。ポイントは「直観」による判断、選択を信じ、その一点は決して譲らないことであろうと思う。それは時に厳しいが、自分に言い訳するなんてことは願い下げだ。例え望むように事が進まなくなかったとしても、後悔として将来に禍根を残す可能性は個人的にはないと言って良い。逆説的だが、後で後悔するようなことをやること自体が一種の愚行という認識なのである。

 さて、結局FIAT 500の製品化までには「2+1」からほぼ5年を要した。そのため、先代かつ私の最初の愛車はFIAT Nuova Pandaとなった。運転免許取得の約1ヶ月前にアルファロメオ・フィアットディーラーが近所にオープンするという幸運な巡り合わせ付きであった。

 私が運転免許を取得したころのフィアット車の評判はと言えば、これは目も当られぬものだった。曰く、「高速道路走行中にエンジンが落下した」、「駐車していたらエンジンから出火した」といった具合で、サムスン電子のスマホもびっくりの酷さだった。イタリア在住の自動車関連ライターのコラムでも、フィアットディーラーの営業スタッフが「どうせもうすぐ倒産するんだから」と口にする様を紹介していたほどである。

 しかし既に触れたように、自動車製造・販売会社としてのフィアットは復活する。「我々の(品質管理における)ベンチマークはトヨタである」と明言した当時のCEOにちょっとシビれたが、その言葉に嘘はなかったということだろう。Nuova Pandaは「新生フィアット」を体現した良い車だったと思う。いわゆる「サンダル」、街乗りユースには全く文句のない車だった。これも一種の「幸運」だろう。

 さて、これまでの流れからだけならFIAT 500が発売されたとなれば直ぐにでも飛び付いていた筈なのだが、その直前に業務多忙を原因に「軽度のうつ」を発症して高価な買い物なぞできない状態となってしまっていた。実のところFIAT 500とNuova Pandaはプラットフォームを共有している。つまり極論すると、エンジンが同じであれば両者には外観とエンジンや足回りのチューニングレベルの差しかない事になる。初期のFIAT 500のエンジンはNuova Pandaと同じFIRE1.2ℓを搭載したモデルもあったから、極論とは言えあながち間違いとも言えないだろう。

 病気が原因で購入時期が当初の予定より4年ほど遅れた結果、Twin Airエンジン搭載車という選択肢を得ることができた。ターボ付き空冷2気筒エンジンとか、現在の日本車ではあり得ない方向性だ。優等生エンジンであるFIREに較べてれば癖は強いし、街乗りでは燃費もイマイチだ(実力でたった17km/ℓ!)。が、そのFIREエンジン搭載車ですら運転が楽しいのがフィアット車である、Twin Airエンジン搭載車となればどうなるだろうかと期待も不安も膨らんだものだ。Twin Airエンジンの搭載は私の中では「新型500らしさの獲得」以外の何物でもなく、「ついに乗り換え時期が来た」と確信したものである。例え不安が的中したとしても「好きでする苦労」は楽しいものなのである。一見すると私の行動はギャンブルだが、私の中ではどう転がろうが「勝ち」しかないのである。これは一種の「覚悟」とも言えると思う。

 FIAT 500というプロダクトの存在感が気になったという身にとっては、このような状況すらも幸運と呼ぶべきなのだろう。「覚悟ができるなんて、なんと幸せな!」

 私にとってのFIAT 500 Twin Airの購入は、約10年前の「直観」とその後の様々な「幸運」にやっぱり彩られている。

2014/08/29

グダっているのかどうか、だけどね。

 後でじっくり読みましょう、論理レベルが分かる筈。朝日新聞DEGITALの記事から。まぁ、第一段落で既に「日本語からの超訳?」みたいな「変な英語」感がハンパない、coolはねぇなぁ、せめてcoldだろうね。
Look squarely at essence of 'comfort women' issue

2014年8月22日10時00分

By NOBUYUKI SUGIURA

Executive Editor

Japan-South Korea relations have cooled in a manner unseen in the past. One reason for the increasingly troubled relations is the large gap that exists between the two nations over the "comfort women" issue.
The issue first came under the spotlight in the early 1990s. After a former comfort woman came forward to tell her story, debate and research on the topic progressed.

What was gradually brought to light were the conditions that led to women having their dignity and honor severely compromised during a time of war at comfort stations created in various parts of Asia, through the involvement of the military.

Now, after about 20 years, a move to review the Kono statement, which acknowledged Japanese military involvement and offered an apology, has provoked opposition from within South Korea.

South Korea has also maintained a rigid position, refusing to accept the feelings of apology and remorse expressed by the Japanese government.

With the comfort women issue becoming a political problem, the Abe administration conducted a study into the process behind the compilation of the Kono statement and released a report about that study in June.

Groundless criticism has arisen among some commentators as well as on certain Internet sites saying, "The comfort women issue is a fabrication of The Asahi Shimbun."

Moreover, a former Asahi reporter who wrote articles about former comfort women has been maligned by name. That has led to inquiries from our readers asking, "Are those allegations true?" and "Why don't you respond?"

We have put together special pages reflecting on our coverage of the comfort women issue because we believe that fulfilling our responsibility to our readers to explain ourselves will provide the first step toward the start of new discussions that are oriented to the future.

Although we ran special coverage on the comfort women issue in March 1997, we have once again gone over the points of contention while also relying on subsequent research.

In the early 1990s when the comfort women issue first came under the spotlight, research on the issue was not at an advanced stage. We continued to write articles based on the testimony given by former comfort women as well as the few documents that were available.

We have now learned that there were factual errors in some of those articles. While those errors occurred at a stage when the overall picture of the issue was not yet clear, we do reflect on the fact that there was insufficient information gathering to support those articles.

Similar errors also emerged at that time in articles carried by other Japanese media outlets as well as in articles by the South Korean media.

It has been pointed out that some of that inaccurate reporting has led to confusion in the understanding about the comfort women issue.

However, we absolutely cannot agree with the use of that as a reason for espousing "the comfort women issue was a fabrication" and arguing "there is no need to apologize to the former comfort women."

The reason we cannot agree is because some of the arguments being made to protect the honor of one's own nation by degrading the victims as "prostitutes" only incite nationalism in both Japan and South Korea and create factors to complicate the issue.

We are concerned about the spread of inward-looking discourse that avoids looking at the unpleasant past and incites emotional confrontation.

There is no way to erase the fact that during the war there were women who were forced to serve as sexual partners for Japanese military personnel.

The essence of the issue is that comfort women had their freedom taken away and their dignity as women trampled upon.

In the 1990s, during the fighting in Bosnia, the attention of the international community was concentrated on rapes by militia members. How a nation views sexual violence toward women during times of war is now viewed internationally as a human rights issue concerning women. The comfort women issue is also connected to such contemporary themes.

When the Asian Women's Fund, created through a combined effort of the public and private sectors, gave atonement money to the former comfort women, it also included a letter from the prime minister of the time that had the following wording:

"(Japan) should face up squarely to its past history and accurately convey it to future generations. Furthermore, Japan also should take an active part in dealing with violence and other forms of injustice to the honor and dignity of women."

The letter contains the resolve of political leaders to proceed along a path of reconciliation by overcoming confrontations revolving around historical recognition.

Next year will mark 70 years after the end of World War II and 50 years after the normalization of relations between Japan and South Korea. However, the national security environment in East Asia is increasingly unstable.

The comfort women issue is one topic that cannot be avoided in the building of a future-oriented and stable relationship with our neighbor.

We will continue to report on this issue without changing our basic stance.

***

In this special coverage, we will analyze what the comfort women issue is all about and respond to the questions that our readers have about our reporting in the 1990s. We will also take a look back at the wavering Japan-South Korea relationship over the past 25 years because of this issue and also have experts present their views on the comfort women issue.

2014/08/28

かっちぇー!!

宣言 国民と共に立たん(昭和20年11月7日)

 支那事変勃発以来、大東亜戦争終結にいたるまで、朝日新聞の果したる重要なる役割にかんがみ、我等ここに責任を国民の前に明らかにするとともに、新たなる機構と陣容とをもって新日本建設に全力を傾倒せんことを期するものである。今回村山社長、上野取締役会長以下全重役、および編集総長、同局長、論説両主幹が総辞職するに至ったのは、開戦より戦時中を通じ、幾多の制約があったとはいえ、真実の報道、厳正なる批判の重責を十分に果し得ず、またこの制約打破に微力、ついに敗戦にいたり、国民をして事態の進展に無知なるまま今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せんがためである。今後の朝日新聞は、全従業員の総意を基調として運営さるべく、常に国民とともに立ちその声を声とするであろう。いまや狂瀾怒濤の秋、日本民主主義の確立途上来るべき諸々の困難に対し朝日新聞はあくまで国民の機関たることをここに宣言するものである。

朝日新聞社




2014/08/26

つ ねつ造乙

 今流行りの「アイスバケツ」、サムスン電子のスマホGalaxy S5でもやったとか。で、今や世界の笑い者になっているようです。
 「アイスバケツ」前後で画面表示が違う、合成だな、という指摘ですね。壊れたんなら出さなきゃ良いのに、っつーか完全に意味不明。

2014/08/25

FIAT500≠ルパン三世

 昨日の昼間、映画「ルパン三世」の特番をTVでやっていた。で、たまたま観たのがFIAT500を使ったカーチェイスシーンがらみの部分。監督が出てきて「FIAT500でのカーチェイスは皆観たかったでしょ」みたいな事をドヤ顔でしゃべっていたが、実は凄い違和感。個人的には全く観たくもないし、ルパンらしくもない。

 「FIAT500は某映画の監督や作画監督の趣味であって、ルパンの趣味じゃないでしょーよ」、と言うのが正直なところ。

 ルパンが拳銃連射するシーンにも凄い違和感。私にとってのルパンは一発必中、しかも「狙いはそこか!」ってならないとつまらないし、カッコ良くもないよね。

 それはさておき、今度の映画では富士山は噴火しない・・・よね?

2014/08/23

朝日新聞シリーズ記事「慰安婦問題を考える」英語版、読んだ記事の冒頭からいきなり日本語版と内容が違うんですが!

 朝日新聞(朝日新聞デジタル含む)は8/5、6にシリーズ記事「慰安婦問題を考える」を掲載した。しかし、通常であればほぼ当日中に行われる英語版の掲載が当該シリーズ記事に限って為されていないことが報道他社含め多方面から指摘され、一部では非難の声も挙がっていた。当ブログ主も英語版記事を掲載しない朝日新聞社の姿勢を「まさにゲスの所業」と見ていた。

 当ブログでは、このシリーズ記事のうち2件の記事を挙げて私なりの注釈を加えてみたりしている。記事の内容は置くとしても、論理的には酷い文章であること、偏向乃至は印象操作が疑われる記述が散見されるのは動かし難いだろうと感じている。

 関連エントリ: 朝日新聞「慰安婦問題を考える」の不完全な解説 #1 #2

 そんな中、昨日になって英語版記事が掲載され始めた。正直、記事自体を見つけるのにかなり手間を喰ったことを告白しよう。本来一番目にそれらの記事が出てきてもおかしくない「検索ワード」を使って記事検索しても、なかなか目当ての記事がヒットしなかったことが理由のひとつである。もちろん、使用した検索ワードは英単語だ。英語版記事掲載の可能性については、過去エントリで次のように書いた。
でも真面目な話、あのシリーズ記事の英語版は書けても英訳は不可能だと思う。姑息なレトリック満載の記事の文章は論理破綻の塊で、日本語ですら成り立って いない。そんな文章、或いはそもそも論理構造も論旨すら備えていない唯の単語の羅列なんか、論理構造がより明確であり、あやふやな記述を苦手とする英語に 訳せるとは思わない。翻訳を頼まれた人が居たとしても、できる人間ほど頭を抱えてしまうだろう。概して英語で曖昧な文章を書くことは難しい。
当時の私の思いはともかく、やはり英語版記事は日本語版とはかなり論理的に異なる内容のものになっている。今回は英語版記事"Testimony about 'forcible taking away of women on Jeju Island': Judged to be fabrication because supporting evidence not found"の最初の1段落だけを日本語版記事と比較するだけでそれは良く分かる。

 「1段落だけ抜きだすのは恣意的では?」と思う人もあるだろう。しかし記事は「疑問→回答」の形式を採っているので、第1段落は「疑問」の部分そのものであり、単独で論理性などを吟味することには恣意性も任意性も入らない。「正しい回答、解答」を得るには「適切な疑問、質問」を発することが必要だ。その観点からは「回答」部分よりも「疑問」部分の方がむしろ論理的にきっちりと閉じている必要があると言って良い。

 では、始めよう。

英語版記事
Question: There was a man who testified in books and meetings that he had used violence to forcibly take away women on the Korean Peninsula, which was Japan's colony, to make them serve as comfort women during the war. The Asahi Shimbun ran articles about the man from the 1980s until the early 1990s. However, some people have pointed out that his testimony was a fabrication.
対応する日本版記事
〈疑問〉政府は、軍隊や警察などに人さらいのように連れていかれて無理やり慰安婦にさせられた、いわゆる「強制連行」を直接裏付ける資料はないと説明しています。強制連行はなかったのですか。
 testifyは「証言する」、testimonyは「証言」、a fabricationは「つくり話、つくり事」、comfort womenは「慰安婦達」。

 さて、この時点で英語版と日本語版とで既に論理的観点から見て大きな違いがある。日本語版では「政府は、軍隊や警察など」という強制連行の主体の記載があるが、英語版には「政府」も「軍」も「警察」も出てこない。 

 日本語版では以前からの朝日新聞の主張、すなわち「日本政府、軍、警察は慰安強制連行の主体であり、日本政府に謝罪と賠償の責任がある」を反映した文章となっている。しかし英語版では、「日本の植民地であった朝鮮半島で、証言者(吉田氏)は暴力を用いて強制的に女性を連れ去った」と書かれており、「一人の男」(a man)である証言者(吉田氏)しか慰安婦強制連行の主体として挙げられていない。つまり、記事の最初の段落から日本語版と英語版の記事の内容は本質的に異なっている、「まさにゲスの所業」である。

 他方、あくまで「日本の植民地」(Japan's colony) という表現は譲らない。私の知っている歴史的経緯からは「日本統治下」(under the Japanese rule)あたりが妥当だと思うのだが。また、太平洋戦争をthe war(~これぞ全世界万民にとっての戦争の中の戦争!The war of wars!戦争の中の戦争!)と書いてしまうセンスは英語的にはかなり疑問、というかかなり書き手が頭悪そうに感じられる英文。ネイティブの書いた英語ではないか、ネイティブが書いた英文を英語を良く知らない人間がいじったとか、可能性は色々考えられますがね。

 on?which?articles about the man!?とか細かいところを挙げたら実のところキリが無い。これらは文法上の話ではなくて記述されている内容の論理構造に関わる話、行間や文脈を敢えて読まずに「英文で記述されている論理」をそのままを受け入れようとしても意味が全く理解できない、ということだ。

 日本語版と英語版の「疑問の内容の違い」の原因が、「もともとの日本語版記事の段階で回答が疑問に対する回答になっていなかった(論理破綻していた)」ので「単純に翻訳してもまともな英文にならない」、ならば「いっそ疑問の方を回答に合わせて変えちゃいましょう」、とかだったりするんじゃないかと本気で怖い。もしそうなら脳だけでなく性根も腐りきってる。

 あと、Questionと言いながら、英語版は全く疑問の要素を含んでない。会合などの質疑応答で「質問をせずにただ自分の主張を述べ続ける人」みたいなDQNな感じは否めませんね

 最初の段落だけでこの有様。

2014/08/21

侵入者を殲滅せよ!

 今住んでいるアパートには新築で入った。新築の良さは何と言っても「ゴキブリが居ない」ことである(訳有り物件の可能性が低い事ももちろん重要、学生時代にエライ目にあったからね)。実際、7年以上ゴキブリを見ることはなかった。が、約1ヶ月前についに現れた。おそらく隣室への入居者の荷物とともに侵入したものと思われる。

 基本、虫とは言え殺生はしない主義なのだが、如何せん相手の挙動が自由過ぎる、勝手に俺(座卓生活者)の身体に登るな。そしてついに繁殖の揺るぎない証拠が確認された。

 という訳で既に発動していた封鎖作戦「座卓の盾」を破棄、昨晩から化学兵器「ハンドソープ」を主兵装とする非接触大規模殲滅作戦「座卓の嵐」の発動を決定した。守りから攻めへの方針転換である。「砂漠」→「座卓」と、作戦名が地口としてイマイチなのがつくづく残念ではあるのだが。

 昨晩は封鎖作戦「座卓の盾」で追い込みに成功した大物を浴室(ユニットバスなので入口、排気口、排水口以外に開口部なし)で殲滅、今晩は小物達の挙動を10分ほど観察して洗濯機脇の本拠(空の卵のある場所)を急襲、十匹以上の小物を一気に殲滅した。残念ながら一、二匹逃したが、明後日にはブービートラップ(ゴキブリホイホイの類ね)を設置する予定である。

ふぁっ、「夜のヒットスタジオDeluxe」!!

 いわゆる「夜ヒット」、知ってる人の年齢は推して知るべし。で、たまたまYoutubeで見つけたのがMichael Fortunatiの出演シーン。へぇ、来日したことがあるんだぁ、しかも楽曲は"Give me up!"じゃん、とか何気に見ていると、同曲を日本語でカバーしたBaBeのお二人も登場。他の出演者も懐かしいやら若いやら。

 ちなみに「BabeのGive me up!」で斉藤由貴さん主演のTVドラマ「あまえないでヨ!」とか思い出しちゃったあなた、そうあなた!お互い歳をとりましたなぁ。

 タイトルは「ライブ」になってるけど、これは口パクだよねぇ。「生出演」ってニュアンスかな。
 それはそうと、シュルダーキーボードっていうのは一応格好良かったんでしょうかねぇ。チック・コリアみたいにガリゴリ弾いたり、打楽器みたいに扱う分には多少ありかとも思ってましたが、未だ謎。

2014/08/16

う~ん、

 朝日新聞社説、なんとも調子が良いことで。
日本と韓国―国交半世紀に向かって

2014年8月16日(土)付

 8月15日の終戦の日、日本は戦没者の追悼に包まれた。
 隣の韓国は、植民地支配から解放された「光復節」だった。
 きのうの式典で朴槿恵(パククネ)大統領は、日韓が来年、国交正常化50年を迎えることにふれ、「未来志向的な友好協力関係に進まねばならない」と訴えた。
 中でも慰安婦問題が解決されれば関係が進むとし、「日本の政治指導者たちの知恵と決断を期待する」と呼びかけた。
 両国が未来を見すえて行動を起こすときであることは間違いない。日本の誠実な対応とともに、朴氏自身も「知恵と決断」に踏み込むべきである。
 どちらか一方が百点満点と評価できる解決はありえない。どんな方策を選ぼうとも、両国の間には、評価と反発とが入り組む複雑な反応が生まれることは免れない。
 だが、そのむずかしい着地点を探しだし、大局的な視座に立った解決を図ることこそが、外交をつかさどる政治の使命である。冷え切った隣国関係がこのままでいいはずがない。
 朝日新聞は今月、慰安婦問題について特集を組んだ。過去の報道の誤りをただすとともに、慰安婦問題の本質は普遍的な人権の問題であることを示した。
 日本軍が関与して作られた慰安所で、多くの女性が兵士の性の相手を強いられた。女性の尊厳が著しく傷つけられた。その史実は否定できない。
 負の歴史に対する責任の認識は、日本の歴代政権もしっかり共有してきた。90年代の「アジア女性基金」の設立など一定の努力をしたが、韓国側が受け入れを拒んだ。
 こじれた問題とはいえ、両政府は2年前、打開する合意案に近づいていた。日本の大使が被害者らにおわびし、国家予算による支援などをする案だった。
 その合意は日本の政局の流動化で霧散してしまった。だが、政治が真剣に取り組めば、道は開けることを示している。
 両国の識者や政治家が集まった「日韓フォーラム」が先週、福岡で開かれた。政治の膠着(こうちゃく)が経済や観光にも暗い影を落とし始めている問題も論じられた。
 安全保障面では、北朝鮮への対応や、アジア全体の安定化のためにも、西太平洋を代表する民主主義経済大国である日韓の連携は不可欠だ。
 首脳同士会うこともできず、健全な隣国関係を築けない両国の指導者が、アジア地域全体の未来を描けるはずもない。
 安倍首相と朴大統領は、節目の年を前にした今こそ、真のリーダーシップを見せてほしい。
言いたいことは分かる、分かるが、「それはそれとして」旗色はっきりさせないといけないことが有るでしょうという事なんですが。「ねつ造報道」とそれらを発端として隣国との無用な軋轢を発生させた件に対してはどういう立ち位置なんですか。

 「南京大虐殺」「靖国参拝問題化」と、まだ先が控えているのですよ。今は中共内では権力闘争が展開中の様なので目立っちゃいないけど、いずれこれらにも答えなきゃならないよ?歴史もちゃんと理解できない馬鹿、或いはしないファンタジー脳なのは重々承知ですが、仮にも報道機関なんだろ。総括しろ、それとも総括されたいの?左翼用語ならば分かってもらえるかな?

2014/08/15

クリスティアン・アングラオ著「ナチスの知識人部隊」読了。

 博士論文に筆を入れたものとのことで、読み物としては重い。

 テーマはナチス政権下でのドイツの東方進出の正当化に重要な役割を果たし、さらに東方進出後には行動部隊(虐殺も行うことになる)の指揮にも関わった博士を含む大学出身者の行動、言動である。内容についてはちょっとやそっとでは纏め切れないので具体的には触れないが、まずナチズム有りきではないこと、第一次世界大戦の敗北~戦後の混乱期が当時のドイツの学生の目にどう捉えられていたか、どう彼らの思考に影響したかという視点が特徴の書と言える。第一次大戦で一部ドイツ人が感じた「民族絶滅の危機」が如何にその後の行動の正当化と繋がっていくか、そしてそれが実は姿、主体を変えて繰り返され、現在もなお繰り返されつつある、という視座を読んだ者に残すだろう。つまり本書は意外にもナチズムを扱ったものではない。が、ナチズムと総称されるものの一部、かつナチズム無しでも存在できたひとつの思想、の正体を明らかにしている。それ故に恐ろしくもあり、示唆に富む内容となっていると思う。

 もし太平洋戦争敗戦時に「国体」が外科的に解体されていれば、日本でも一周遅れで起きたかもしれない、と覆わせる部分も多々あるやに思う。

 少し脱力してしまったのは翻訳者のあとがき。無用な修辞を不用意に使ったせいで、まるで本書を読まなくても書けるような奥行きの無い内容となっている。うっかりあとがきだけ読んで「つまらん」などとは思わぬように、翻訳はきっちりとしたものです。

本日の天声人語は

豪快なブーメランであろう。

 山田風太郎氏の「戦中派不戦日記」を引用し、「どんぐりとなるな、個を持て」とまとめていた。ここで「どんぐり」が指す意味合いは「皆が同じ考えに染まった状態」を指す。戦前、戦中に日本国民の「どんぐり」化、しかも戦争に向かう「どんぐり」化を進めた主体のひとつは明らかに新聞である。朝日新聞自体も例外ではなく、戦前~戦中の紙面に一通り目を通した経験からは、むしろ強力に加担したと言って良いとの感触を持つ。今もどんぐり化を進めたい意向のようだが、紙面を見るにもう報道である事も放棄しつつある現状では無理であろう、ドグマ剥きだしで読むに耐えない。なお、山田風太郎氏の作品を愛する身としては、

 山田風太郎氏を愚弄するな。

とはっきり言いたい。どの面下げてそんなことが書けるのか、毎度のことながら自らを省みることができないセンスを心底疑う。

 夕刊は輪をかけて剥きだしで酷い。昨日の「素粒子」欄も酷かった。国内で朝鮮半島で見られるピラミッド型古墳が発見されたことと、現在の日韓関係の悪化状況を引っかけた一文があった。が、当時の高麗(高句麗)は「現在の朝鮮半島の住人」とは異なる民族による国である。

 良くて不勉強、それとも「韓国国定教科書の歴史記述を信じている」とか。

 別民族であることを前提に書いていたとすれば、それはそれで愉快。違う民族による違う歴史を経ていれば、現在の状況は無かったかもしれない。そういう意図でのあの一文であれば評価もできよう、いや、上手いと言おう。脱亜論も、日中戦争も、日露戦争も、日華事変も、太平洋戦争も、ねつ造慰安婦問題も無かったかもしれないのだ。

おまけ・・・いや、四大文明より大韓民国の方が新しいですから。

2014/08/11

イントレランス

 イントレランス【intolerance】とは、
  1. 許せないこと、耐えられないこと
  2. (宗教上の)不寛容
という意味である。

 冷戦時代は少なくとも表面的にはイデオロギーの対立の時代だったと言えよう。

 この時代のイデオロギー対立は完全な対立関係、つまり両立しないものとして良くも悪くも極めて単純化された形で取り扱われた。だから勝敗が争われた、互いに自分がラストマン・スタンディング(最後の生き残り)たらんと科学技術、経済、軍事などあらゆる手段で覇を競い合った。今から見れば、極めて理解し易い世界情勢が形作られていたと言える。

 イデオロギー対立の下では、それ以外の事案は大抵許容された。どちらかの陣営に属するか旗色をはっきりさせれば、独裁だろうがなんだろうが大国はそれを許容し、支援すらした。敢えて誤解を恐れず言えば、冷戦時代は意外にも「寛容(トレランス)」が至るところで見られた時代だったのかもしれない。もちろん、ここで「寛容である事」自体の良し悪しは問わない。「寛容」が極めて恣意的、選択的であったことは紛れもない事実である。

 対して、現在は「不寛容(イントレランス)」の時代という思いが最近強くなってきた。例えば、宗教対立や民族対立には相手に対する「不寛容」の存在が透けて見えることが多い。先鋭化した原理主義も他の価値観に対する「不寛容」さを伴う。隣国と日本との関係もそう、互いの「不寛容」さの衝突のように見える。

 時代のキーワードは「寛容(トレランス)」から「不寛容(イントレランス)」へ。 情報化の発達は相互理解の促進だけでなく、互いに相譲れない価値観の相違もあぶり出した。国家や民族集団などの内への顔、外への顔が同じ重みで不特定多数に伝わるようになった。これはまぎれもなく大きな変化である。

iTunes11.3.1.2、あ、もうきっと直す気無いのね

 定期報告です。
 Windows7における右端問題、未だ健在。アップデート後の初回起動で安定のこの状況。



「Dear Radio」Megpoidカバー、テストミックス #2

 "Z3TA+ FM Mix"と"MF Mix"のテスト版です。

  "Z3TA+ FM Mix"はカバーでは無くてコピー寄り、と言うか音色含めて何処までオリジナルに近づけるかというミックス。音は全てソフトシンセ"Z3TA+"によるもので、「サイン波オシレータ2個(Yamaha流には2オペレータ)のFM変調縛り」でスクラッチから作成。けっこうFM変調での音作りのノウハウが貯まりましたよ。MS-Exelで生成波形をシミュレートしながらの音作りはちょっと面白かったです。

 "MF Mix"は80年代風の作りを目指したところ、良い感じに"Michael Fortunati"(つまりMF)っぽくなってきたことから命名。"Michael Fortunati"のオリジナルの"Give me up!"と"BaBe"によるカバーバージョンのどちらに寄せようか思案中。

  "Michael Fortunati"のオリジナルの"Give me up!"、いや~80年代だなぁ。

 "BaBe"のカバーバージョンの"Give me up!"。このころはTVドラマ「スクール・ウォーズ」の影響でラグビーがちょっと人気だったんだよね。私は一度も観たことがないのだが。

 で、テストミックスです。

2014/08/10

朝日新聞「慰安婦問題を考える」の不完全な解説 #0

  夕刊フジZakuZakuの記事、タイトルだけでもううんざり。

 朝日新聞、慰安婦誤報 英文サイトに検証記事なし「お答えは、さし控えます」

 前段は良いとして後段はどういうことかと言うと、
・・・しかし、朝日が運営するウェブサイトの英字版では9日午前9時現在、誤報を認めた記事の英文版は確認できない。朝日の主要記事は当日中に英訳され、同サイトに掲載されている。
これだけ日本にダメージを与えた証言を取り消す検証記事は、少しでも早く掲載する必要があるはずだ。万が一、掲載しないとなれば、「姑息」といわれても仕方ないのではないか。
夕刊フジが、朝日にこの件について問い合わせたところ、同社広報部は書面による質問を求めてきた。このため、7項目の質問をFAXすると、5時間以上かかって回答書がきた。
注目の回答書は、「いただいたご質問にまとめて回答します」で始まり、改行後、黒く太いゴシック文字で「お答えは、さし控えます」と続き、再び改行後、「以上です。どうぞよろしくお願いいたします」と書いてあるだけだった。
電話で、回答ができない理由を担当者にたずねても、「さし控えますということです」という答えしか返ってこなかった。
ということらしい。

 でも真面目な話、あのシリーズ記事の英語版は書けても英訳は不可能だと思う。姑息なレトリック満載の記事の文章は論理破綻の塊で、日本語ですら成り立っていない。そんな文章、或いはそもそも論理構造も論旨すら備えていない唯の単語の羅列なんか、論理構造がより明確であり、あやふやな記述を苦手とする英語に訳せるとは思わない。翻訳を頼まれた人が居たとしても、できる人間ほど頭を抱えてしまうだろう。概して英語で曖昧な文章を書くことは難しい。

 論理的に無意味な英文が使われていると言えば「不思議の国のアリス」を代表とするチャールズ・ドジソン(ルイス・キャロル)の作品群が挙げられるが、彼が数学者であったことは重要だ。英文として成立させつつ、論理性が曖昧な、或いは論理破綻した英文を書くには、人並み外れた論理性が必要ということだ。

 技術畑の人なら分かると思うけど、英語で論文を書く場合と日本語で論文を書く場合とでは論展開自体が変わる。日本語のしっかりした論文でも、単純に英訳したものは回りくどくて凄く理解にしくい代物となる。実際、先に社内用の日本語報告書を書いた後に社外向けの英文論文を書こうとするともの凄く苦労する。ここは個人差があると思うが、私は論理的思考に数学を除く特定の言語は使わない。が、いったん頭の中の論理を日本語で言語化すると、頭の中の論理構造が一気に曖昧になってしまうのだ。

 朝日新聞の件のシリーズ記事では主語、或いは行為の主体を曖昧にしたり、不要な修飾を付すことで、結局論理的には何も言っていない文章が多い。これは日本語が主語を重視した言語構造を持つ故であって、裏を返せばここを曖昧にすれば文章全体を曖昧とできるということだ。対して英語は主語よりも動詞に重点を置く。例えば、英文では文頭を主語を代理する"it"で始め、論理的な主語が動詞の後で記述される事が多い。これは単に構文といった形式的なものではなくて、論理構造を明確に示すにはまず動詞、次いで主語ということを英語という言語が要求するからと解釈すべきだと思う。動詞と主語の現れる順番を幾つかの文で確認すれば、執筆者がどれだけ英語慣れしているか、或いは日本語といったウラル・アルタイ系言語をネイティブとしているかが何となく分かることすらある。

 職場で論理破綻した主張をする人には「英語で説明し直して」とお願いする。まず、主語も動詞も選べなくて説明できない。良くても論旨が変わってしまう。TOEIC900点以上を自慢する人でも、論理が破綻している内容は英語では説明できない。 ちなみの私の英語力は、英文を読むことに抵抗が無いだけで、高いとはお世辞にも言えない。会話、文章作成能力は職場では平均未満であろう。

 さて、朝日新聞社の「お答えは、さし控えます」、どう解釈しますか?察してやるなんて義理もないですからね。

フロッピー座の怪物?

 "Phantom of the Floppera"、"Phantom of the Opera(オペラ座の怪人)"のもじりですね。 

 昔、むか~し、9セクタフォーマットのフロッピーディスクを8セクタフォーマットフロッピー用ドライブで読み込むために特殊なドライバーソフトウェアを使ったりしました。Windows以前のお話です。確かにドライブ動作音が変わったんだよなぁ・・・ちょっとそんな事も思い出したビデオ。おそらくドライブヘッドの動作(ステッピングモーターだったっけ?)を直接制御してんじゃないかと思います。

バカ・卑怯者発見機、豪快に作動中!

 「このブログ主、何をはしゃいでるの?」と思う人もいるだろう。だが90年代の朝日新聞社への投書などによる質問、問い合わせを複数回無視された身としては、やっと「始まりの始まりに」に辿り着いたという思いを持たざるを得ない。私の朝日新聞社への態度は単に「嘘つきは大嫌い、卑怯者としか呼ばない」でしかなくて、自ら任じる「中道左派」という政治的信条とは無関係だ。

 朝日新聞の記事シリーズ「慰安婦問題を考える」は、案の定○○発見機として機能している。

 2chまとめ「【特定秘密は批判したクセに自身はw】 東京新聞記者のxxxxx、「朝日新聞は謝罪した」とTwitterで主張するも批判と反論が殺到→非公開設定にして逃走(ノ∀`)」を見てうんざり。本質スルー、リアリティ欠如者のドミノの典型例。リアリティ欠如から自ら極めて低いハードルを設定しながら、それすら越えられずに自爆、ハードルは一気に上がってしまうという自業自得。個人攻撃は本意ではないが、典型的な例なので一部伏字で引用しよう。なお、今沈黙している人はある意味賢いが、自爆者のおかげで自らの身の振り方とは無関係にハードルは自動的に上がっているので覚悟しておいた方が良い。最初のドミノが自ら許容した理不尽なのだから、拡大していくのも理不尽だ。因果応報とは良く言ったもの、論理に訴えようと、感情に訴えようとも、倫理に訴えようとも、泣き叫ぼうが自殺しようがテロ仕掛けられようが自らが醸成し肥大化した理不尽はビクともしない。
xxxxx@kenkoma 2014年08月05日(火) 10:47:28
朝日はあれだけの分量を割いて間違いの検証、謝罪をした。それに引き換え、朝日を徹底的に
攻撃する某新聞は、自らの明らかな誤報で何らかの対処をしたことがあるのかな?

xxxxx@kenkoma 2014年08月05日(火) 10:47:28
朝日はあれだけの分量を割いて間違いの検証、謝罪をした。それに引き換え、朝日を徹底的に
攻撃する某新聞は、自らの明らかな誤報で何らかの対処をしたことがあるのかな?
http://twitter.com/kenkoma/status/496472522934607872
http://twilog.org/kenkoma/date-140805

yyyyy@neon_shuffle 6:52 - 2014年8月6日
32年も経過してから記事訂正するのは別に誇ることじゃないし、謝罪はしてないよな
QT @kenkoma: 朝日はあれだけの分量を割いて間違いの検証、謝罪をした。(以下略)
https://twitter.com/neon_shuffle/status/496775832853958656

xxxxx @kenkoma
yyyyyなる著名アカウントになるとを頂く栄誉に接したが、寝起きで頭が動かないから
処置させていただきます。
https://twitter.com/kenkoma/status/496791196534972418
http://favstar.fm/users/kenkoma/status/496791196534972418

xxxxx@kenkoma 2014/8/6 8:32:00
鬼の首を取ったように揚げ足を取る奴が殺到しているので、謝罪があったという部分は訂正します。
RT @kenkoma: 朝日はあれだけの分量を割いて間違いの検証、謝罪をした。それに引き換え、朝日を
徹底的に攻撃する某新聞は、自らの明らかな誤報で何らかの対処をしたことがあるのかな?
https://twitter.com/kenkoma/status/496800820587819008
http://favstar.fm/users/kenkoma/status/496800820587819008

xxxxx@kenkoma 2014/8/6 8:41:21
鍵かけていいすか?
https://twitter.com/kenkoma/status/496803174959685632
http://favstar.fm/users/kenkoma/status/496803174959685632

@kenkomaは非公開設定です。
https://twitter.com/kenkoma?protected_redirect=true
 繰り返しになるけど、まぁ、以下のような内容が普通の日本人(ノンポリ)の反応ではないか?朝日新聞の件の記事はレベルが低すぎて非難や評価の対象にもなり得ないでしょう。他者を言行を挙げて自己の言行を肯定しようとする幼稚園児手法もあっさり使用。普通の日本人はこういう態度は卑怯者のものだからやっちゃいけないと教えられてくるものだが。
  • あれだけの分量を割いても、検証の証拠の提示、論理的で誤読を許さない明確な論展開ができていない。不要なレトリックばかり目立ち、それが原因で論理破綻していたり、書くべき内容が書かれていなかったり(<疑問>に対してちゃんと回答を示していない)、とにかく酷い文章としか言いようがない。
  • 個人的には分量が圧倒的に不足している、ひとつの<疑問>に対して10面フルに使っても説明するに足りないだけの事をしてきたんじゃないの?書籍が何冊も書かれているような事案なんだけど。
  • 文章を何回読んでも、謝罪しているとは解釈できない。百歩譲って謝罪してるとしても、謝罪対象も明確にしてないんじゃ意味がないよね。謝罪の対象たる被害者が特定できないということは、すなわちには謝罪する内容も特定できていないということだよね。そんなんじゃ実効ある謝罪にもならないし、誠意が無い(感じられない、ではない)よねぇ。
 報道ステーションSundayではフリップにリストアップしておきながら見事にスルー、テレビ朝日も天晴れ、卑怯者。

2014/08/09

加害者ということの意味、分かってる?

 8月5、6日の朝日新聞のシリーズ記事「慰安婦問題を考える」に対するネット、一般の反応ともに予想以上に冷静、理性的な点は、「やっぱり日本人ってまだまだ行ける」感じがして実に心強い限り。とは言え、私の職場に限って言えば20代の反応は薄い。興味が無いのかもしれないが、結局知らない、全体像が見えないから反応もできないのだろう。知らないことは恥という空気が醸成されればまずは文句は無いのだが。

 結局、恥の上塗りしかできなかった朝日新聞の件の記事は、ズルい人間、状況を適切に理解していない人間をあぶり出した形となっていると言って良いと思う。ズルい人間とは特に名を挙げずとも分かるだろう「口を閉ざした人間達、報道機関」と「触れずに逃げている人間達、報道機関」 、状況を適切に理解していない人間の代表は件の記事について実に間抜けなコメントを出したことが報じられた某都知事だろう。本質スルーってのは笑いのキモのひとつだが、都知事にそんなもの要らないだろう。

 朝日新聞が5、6日付の紙面で「慰安婦問題を考える」との特集を組み、「強制連行があった」とした過去の一部報道を取り消したことに、政界では自民 党の石破茂幹事長や民主党の松原仁国対委員長、日本維新の会の橋下徹大阪市長などが批判した。ネット上でも批判のオンパレードとなっているが、朝日新聞社 内では若手記者を中心に「いい加減にしてくれ!」と悲鳴に近い怒りの声が渦巻き、険悪な雰囲気になっているという。

 ある20代の記者は本紙にこう激白した。「32年前のことをわざわざ『誤報だった』と報じて、直接批判にさらされるのは現場に出ている我々、若い記者。取材先で『あれは何?』と聞かれても、僕らは答えようがないですよ」とため息交じり。

 また30代の記者は「もし今、自分が書いた記事で『誤報でした』なんてことになったら大問題で、すぐ処分される。内容次第では上司も飛ば されるでしょう。でも、32年前のこの記事では書いた記者も社会部長もおとがめなしどころか、結構出世してる。退職金もきっちりもらってる。『こんな不公平はない』と社内は不満の声ばかりですよ」と明かした。

 社内でも「なぜこの時期に検証記事を掲載したのか」との声もあるとか。一因として「慰安婦問題の火付け役」の元記者U氏が今年3月、早期 退職したのと関係があるともささやかれている。「Uさんがまだ社内にいたとしたら、さすがに検証記事はやりづらいでしょう。もっとも紙面ではUさんの記事 について『意図的な事実のねじ曲げはありません』と擁護してましたけど…」(同)

 6日の紙面では「日韓関係なぜこじれたか」との見出しが付けられたことも、朝日社内で話題になっている。「こんな見出し付けたら『こじれたのは朝日のせいだろう』と皮肉られる。現場の記者はあきれていますよ」(同)。検証記事は朝日社内外の怒りを買ってしまったようだ。
 不満を漏らすとか、答えようがないとか、現場の記者は呆れてるとか、甘えるのもいい加減にしろとはっきり言いたい。 そういうのを単に醜態と言うのだ。不公平当然、不満なんか挙げてる暇があったら自分達の立ち位置について早く適切な状況認識を持つか、さもなくばとっとと朝日新聞社と縁を切るべきだ。

 ねつ造記事を載せ、それを放置するのみならず更に嘘を重ね、他者を加害者に仕立て上げた新聞なんぞ機能的には十分に「暴力装置」だ。加害者に仕立て上げられた人間に非は無い、それは若い記者もいっしょだろう。新聞のねつ造内容を口実に加害者にされた人間も理不尽、ならば若い記者だろうが朝日新聞社の人間が叩かれるのも理不尽、筋が通っていないか?公平ではないか?

 前述の通り、日本人、日本の反応は総じて冷静で理性的だ。そうではなかった場合をちょっと想像してみると良い、自分達が如何に恵まれているか分かる筈だ。分からない人もいるかも知れないからはっきり書いてしまうが、「暴力装置」を効率良く排除する方法は別の「暴力装置」にその機能を発揮させるだけで良い。最近ではクリミア半島やウクライナで起きてるって報道があったじゃないですか、ね?

朝日新聞「慰安婦問題を考える」の不完全な解説 #2

 さて#2です。#1はこちら

 朝日新聞及び朝日新聞デジタルは 「慰安婦問題を考える」というシリーズ記事を最近掲載した。はてさて、今度はどう出てくるかと思ったが、悪い意味で予測が的中、時宜もわきまえず、自らの 非も認めずといった内容であった。私なら(自己検閲)。本エントリから始まるシリーズは、「慰安婦問題を考える」の記事に解説と言うか、「読者への考える きっかけ」を加える試みである。「不完全な」に込めた意味は主に下記の3点である。
  • 記憶に頼るところが多く、ソースが示せない内容を含む。
  • どう頑張っても一個人の力だけでは客観性を完全に担保することはできない。
  • 事実ベースのアカデミック寄りの姿勢は譲れない。
記憶、と言うのは大学生時代に足しげく大学や自治体の図書館に 通って目にした戦前~戦後の新聞紙面、歴史研究書、手記、個人的な聞き取りの内容である。これらはネットだけでは引用元を担保できない。また、先の震災経 験後に蔵書を泣く泣く処分した。従って引用元が手元に無い場合も多い。

 さて、具体的なやり方だが、
  • 定本は朝日新聞デジタルの記事とする。より厳密には、 まず2015年8月6日午前7時42~44分の間にダウンロードした記事のウェブページの内容とする。
  • 不完全とは言え解説を目指すので、記事全文の引用を基本とする。
  • 解説を加える部分に下線を引き、下線部の末尾に"*数字"を付す。つまり、こんな感じだ。*3
  • 記事引用の後に、番号毎に解説を付す。
って感じかな。 

 なお、必要に応じて刺激の強い表現、単語も使用している場合がある。ご注意のほど。


記事開始

強制連行 自由を奪われた強制性あった

2014年8月5日05時00分

〈疑問〉政府は、軍隊や警察などに人さらいのように連れていかれて無理やり慰安婦にさせられた、いわゆる「強制連行」を直接裏付ける資料はないと説明しています。強制連行はなかったのですか。*1

---------------------------------------------------------------------------

 慰安婦問題に注目が集まった1991~92年、朝日新聞は朝鮮人慰安婦について、「強制連行された」と報じた。吉田清治氏の済州島での「慰安婦狩り」証言(「『済州島で連行』証言」で説明)を強制連行の事例として紹介したほか、宮沢喜一首相の訪韓直前の92年1月12日の社説「歴史から目をそむけまい」で「(慰安婦は)『挺身(ていしん)隊』の名で勧誘または強制連行され」たと表現した。

 当時は慰安婦関係の資料発掘が進んでおらず、専門家らも裏付けを欠いたままこの語を使っていた。秦郁彦氏も80年代半ば、朝鮮人慰安婦について「強制連行に近い形で徴集された」と記した=注①。

 もともと「朝鮮人強制連行」は、一般的に、日本の植民地だった*1朝鮮の人々を戦時中、その意思とは関係なく、政府計画に基づき、日本内地や軍占領地 の炭鉱や鉱山などに労働者として動員したことを指していた=注②。60年代に実態を調べた在日朝鮮人の研究者が強制連行と呼び=注③=、メディアにも広 がった経緯もあり、強制連行は使う人によって定義に幅がある。

 こうした中、慰安婦の強制連行の定義も、「官憲の職権を発動した『慰安婦狩り』ないし『ひとさらい』的連行」に限定する見解=注④=と、「軍また は総督府が選定した業者が、略取、誘拐や人身売買により連行」した場合も含むという考え方=注⑤=が研究者の間で今も対立する状況が続いている。

 朝鮮半島でどのように慰安婦が集められたかという過程は、元慰安婦が名乗り出た91年以降、その証言を通して次第に明らかになっていく。

 93年2月、「韓国挺身隊問題対策協議会」は、元慰安婦約40人のうち「信憑性(しんぴょうせい)に自信が持てる」(鄭鎮星〈チョンジンソ ン〉)・挺身隊研究会会長)19人の聞き取りを編んだ証言集を刊行。「軍人や軍属らによる暴力」があったと語ったのは4人で、多くは民間業者が甘い言葉で 誘ったり、だまして連れて行ったりする誘拐との内容だった。

 慰安婦たちは、徴集の形にかかわらず、戦場で軍隊のために自由を奪われて性行為を強いられ、暴力や爆撃におびえ性病や不妊などの後遺症に苦しんだ経験を語っていた。*3

 93年8月に発表された宮沢政権の河野洋平官房長官談話(河野談話)は、「慰安所の生活は強制的な状況で痛ましいものだった」「募集、移送、管理 等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と認めた。関係省庁や米国立公文書館などで日本政府が行った調査では、朝鮮半島では軍 の意思で組織的に有形力の行使が行われるといった「狭い意味の強制連行」は確認されなかったといい、談話は「強制連行」ではなく、戦場の慰安所で自由意思 を奪われた「強制」性を問題とした。

 談話発表に先立つ7月には、ソウルの太平洋戦争犠牲者遺族会事務所で、日本政府が元慰安婦たちに聞き取りをした。今年6月に発表された河野談話作 成過程の検証チーム報告は、聞き取りの目的について「元慰安婦に寄り添い、気持ちを深く理解する」とし、裏付け調査などを行わなかったことを指摘した。

 河野談話の発表を受け、朝日新聞は翌日の朝刊1面で「慰安婦『強制』認め謝罪 『総じて意に反した』」の見出しで記事を報じた。読売、毎日、産経の各紙は、河野談話は「強制連行」を認めたと報じたが、朝日新聞は「強制連行」を使わなかった。

 官房長官への取材を担当していた政治部記者(51)は、専門家の間でも解釈が分かれていることなどから「強制連行」とせず単に「強制」という言葉 を使ったのだと思う、と振り返る。「談話や会見、それまでの取材から読み取れたのは、本人の意思に反する広い意味での強制連行を認めたということだった。 しかし、強制連行という語を使うと読者の誤解を招くと考え、慎重な表現ぶりになった」

 93年以降、朝日新聞は強制連行という言葉をなるべく使わないようにしてきた。

 97年春に中学教科書に慰安婦の記述が登場するのを機に、朝日新聞は同年3月31日朝刊でこの問題を特集した。

 日本の植民地下*2で、人々が大日本帝国の「臣民」とされた朝鮮や台湾では、軍による強制連行を直接示す公的文書は見つかっていない。貧困や家父長制 を背景に売春業者が横行し、軍が直接介入しなくても、就労詐欺や人身売買などの方法で多くの女性を集められたという。一方、インドネシアや中国など日本軍 の占領下にあった地域では、兵士が現地の女性を無理やり連行し、慰安婦にしたことを示す供述が、連合軍の戦犯裁判などの資料に記されている。インドネシア では現地のオランダ人も慰安婦にされた。*4

 97年の特集では「本人の意思に反して慰安所にとどまることを物理的に強いられたりした場合は強制があったといえる」と結論づけた*5

 河野談話が発表されて以降、現在の安倍内閣も含めて歴代の政権は談話を引き継いでいる。一方、日本軍などが慰安婦を直接連行したことを示す日本政府の公文書が見つかっていないことを根拠に、「強制連行はなかった」として、国の責任が全くなかったかのような主張を一部の政治家や識者が繰り返してき た。*6

 朝鮮など各地で慰安婦がどのように集められたかについては、今後も研究を続ける必要がある。だが、問題の本質は、軍の関与がなければ成立しなかった慰安所で女性が自由を奪われ、尊厳が傷つけられたことにある。*7

 これまで慰安婦問題を報じてきた朝日新聞の問題意識は、今も変わっていない。*7

■読者のみなさまへ

 日本の植民地だった朝鮮や台湾では、軍の意向を受けた業者が「良い仕事がある」などとだまして多くの女性を集めることができ、軍などが組織的に人 さらいのように連行した資料は見つかっていません。一方、インドネシアなど日本軍の占領下にあった地域では、軍が現地の女性を無理やり連行したことを示す 資料が確認されています。*4共通するのは、女性たちが本人の意に反して慰安婦にされる強制性があったことです。*7
     ◇
 注① 「従軍慰安婦(正続)」陸軍史研究会編「日本陸軍の本 総解説」(自由国民社、1985年)
 注② 外村大「朝鮮人強制連行」(岩波新書、2012年)
 注③ 朴慶植「朝鮮人強制連行の記録」(未来社、1965年)
 注④ 秦郁彦「『慰安婦狩り』証言 検証・第三弾 ドイツの従軍慰安婦問題」「諸君!」1992年9月号
 注⑤ 吉見義明「『河野談話』をどう考えるか――その意義と問題点」「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター編「『慰安婦』バッシングを越えて」(大月書店、2013年)

記事終了

  1. <疑問>の時点で既におかしい。「政府の説明の真偽」と「強制連行はあったのか」は独立して検証可能な事項である。これら二点を分離していない書きっぷりは論理性の欠如の証左と言えよう。
  2. (百歩譲って)議論の分かれる「当時、朝鮮半島が植民地であったか」について当然のようにこう書く姿勢を疑う。朝日新聞社は「植民地の定義」を明確にしなければならない。
    歴史上の事実は「合邦」であり、大日本帝国憲法が朝鮮半島にも適用された。この形態は例えばドイツ帝国のパラオや、英国のインドの取り扱いとは一線を画しており、同様に「植民地」と呼ぶには論理的に無理があるとともに、当時の実態に対しての印象操作が疑われても仕方ない。
  3. 証言資料にのみ依拠しているということ。
  4. 証拠の存在する事実である。
    が、大部分の事案において関係者が法に基づいて処罰されているという事実、つまり軍、政府は「慰安婦強制的連行」を禁止しており処罰者も出ている事実に触れないのは印象操作のそしりを免れ得ない。軍や政府の通達を破った人間が逮捕、処罰されたが故に、当時の司法関連書類などが「慰安婦強制的連行が行われた」という証拠資料として残っているのである。本来はこれら証拠資料の全文を記載、乃至は参照可能としておくことが必要であろう。
  5. 結論自体は否定しない(厳密には議論のしようがない、理由は続いて記載の通り)が、なぜそう結論したのかの経緯、根拠に一切触れられていない。他者の認識に触れるのは構わないが、自らの結論に対してそこに至る経緯、判断根拠を示さないのは詐欺師のよく使う手段である。また他者の言行に基づいて自己の言行を肯定するという手段は、真っ当な日本人ならば小学校入学時にはもはや使わなくなっているものである。
  6. 根拠も示さずこの言説は意味不明。印象操作のそしりを免れ得ない。
  7. 「共通するのは」がかかる範囲が不明、文章自体も意味不明。そのまま読めば、「資料がない」ことと「資料がある」こととに「共通するのは」「強制性があったことです」となる。これは主観だが、まずはちゃんとした日本語の文章が書けるようになってから記事を書くべきである。
    「問題意識」の内容も文章中に明確に述べられていない。執筆者はもっとまらしい事を書いているつもりなのだろうが、論理的には何も言っていない。つまり、この一文は無くても良い、と言うか何も変えないつもりならば無い方が良かろう。これからも卑怯でいきまっせ、という宣言と解釈させて頂く。
    (注:文字通り「何も言っていない」ということ、「何も言っていないも同然」ということではない。)
全体・感想

 <疑問>に対する回答は、
  • 日本政府の主張を覆すような資料は現時点でも見つかっていない。
  • 当時の日本施政下及び軍事的占領地下において慰安婦として現地の軍隊が女性を連行した事実はある。
の2文で朝日新聞的にも十分であろう、残りの文章は全く不要。それら事項が書きたければ<疑問>を変えるべきであったろう。 執筆者の論理構成能力の欠如があからさまな酷い記事としか言いようがない。論文であればイントロダクションだけでいきなり結論が書いてある様なもの。大事なのはその間に書かれていることなのにね。
 *4で触れているように、現地軍による強制連行事案があったのは証拠資料が残る事実であるが、これら事実を強調するならば、少なくとも証拠資料の残る事案において関係者が処罰を受けている事実も記載するのが真っ当な姿勢であろう。こういう底の浅い印象操作を平気で未だにやるあたりに朝日新聞社の卑怯さ具合が良く出ている、
 もしこのような印象操作が不要な差別や被害者を生み出す口実にされれば、もはやねつ造、偏向、犯罪のそしりは免れまい。日本人の「察しと思いやり」の中には、「他者を犯罪に導きかねない自らの安易な行動、言動を厳に慎む」というものがある。列車で財布を席に置いたままトイレに行ったりしない、みたいな話である。朝日新聞社にはそういう日本人的な感性も無いのか、分かってはいても酷いものは酷いとしか言いようがない。

2014/08/09 初版

2014/08/08

バック・トゥ・ザ・フューチャー、やっぱり上手いね

 TVで久しぶりに「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を試聴。脚本始め本当に幸せな映画。小ネタの効き具合がハンパじゃない。デロリアンが未来に帰る瞬間のカットとターミネーターが未来からやってきた瞬間のカットはともにチリチリ、85年ごろの米国映画を代表する実にアイコニックなカット。

 主題歌がヒューイ・ルイス&ザ・ニュースってのも実に80年代的。分かる人はここで笑って頂戴。

 で、オマケ

NHK、朝日新聞、都知事は似たり寄ったり

 どうやらこいつは本物だ。なんだかんだ言っても某国の大統領の言行には同情に足る理由があるが、こいつにはそういうものが感じられないい.。本気の困ったさんだ認定で良いだろう。東スポWebの記事から。 
 また、都庁には6000件以上ものメールが届き、ほぼすべてが批判的な意見。ネット上には、「抗議署名」や「リコールデモ」を呼びかける声も出ているが、このひどい状況をどう受け止めているのか。

「ネッ トや都庁に批判が来ているが、メールを調べると1人のネット右翼が1000人分やって大きくなっているだけ。ネット上もひどいよ。私が在日だとか、かみさ んが中国人だと書かれた。朴大統領には『一部のネット右翼がいるせいで東京五輪をつぶすことは絶対に許せない』と伝えた」
レッテル貼り、特殊例を挙げての一般化への誘導、典型的な卑怯者の手口だ。良くても彼自身が非難している相手と同類だ。見たくないものは見えない、聞きたくないことは聞こえない、は良くて怠惰、おそらく無能、無神経、理性なし、論理性なし、コンテクストを理解できる能力なし。つまり一般に伝わっているところの、第三帝国崩壊直前の某地下壕の状態みたいなものだ。志のある人間こそが関わることを避ける類の存在だ。リアリティの無さにかけては朝日新聞すら形無しだ。

 自分におもねない存在を貶め、その知性、人格をも否定し、その癖自らの発言には嘘、或いは真偽が確認できないことをわざわざ根拠と位置付けて、ところが根拠として挙げたものとは論理的に繋がらない結論を述べる。オベンキョができるというレベルでの頭の良さはあるもんだから、本質に触れる愚は犯さない。技術の世界では多々見られる「勘違い秀才」、本質的なこと以外は大丈夫っていうあれだ。

 とにかく、彼の感性が一般的な日本人のそれとは本質的に違うのは確か。霊的に生まれ変わった方が良い。

 せめて「ヘイトスピーチの定義」を明らかにする必要が彼にはある。かれのそれは我々のそれとは違うようだ。 私の感性からは、彼が繰り返すヘイトスピーチは下劣で知性が感じられず、極めて不快だ。マスコミに論理性が乏しい昨今、我々に出来ることはなにか、真面目に考える必要がある。本来はマスコミに期待すべきなんだけどね、少なくとも朝日新聞はだめだな。

 別の記事から。
朝日新聞が慰安婦報道に一部誤りを認めたことについて、東京都の舛添要一知事は2014年8月7日、記者団に対し、「反省したのは当然だ」と朝日を批判した。
  報道によると、舛添知事は、朝日の慰安婦報道について、「日韓関係をここまでゆがめた一つの理由だ」とも指摘した。
朝日新聞のあれは非難とかの対象とできるレベルの言説 じゃぁない。ホントに本質には興味ないんだな。

2014/08/07

朝日新聞社、本当に嘘つきの卑怯者

朝日関係者によれば、政権発足後は朝日バッシングが加速し、苦情や抗議活動、不買運動が連日展開され、部数を大幅に落とした。明々白々なうそと分かってい る慰安婦問題の過去報道を隠し切れなくなったというのが実情で、同紙は「一部の論壇やネット上に朝日の捏造といういわれなき批判が起きている。読者への説 明責任を果たしたい」と言及している。
とな。お気楽なものだ。リアリティ(適切な現状認識)の欠如具合は現在の中共指導部や隣国に勝るとも劣らない。この期に及んでも嘘をつき続ける有様。私が物心ついて以降で、「普通の日本人」を怒らせることができたのは某韓国大統領と朝日新聞社くらいだろう。

 ネット上での批判というが、批判者の大部分が同社新聞の購読者ではあり得ないだろう。朝日新聞不買の主体がネット上の批判とは接点がない場合がまだ多い、という可能性に思い至らない辺りに朝日新聞社のリアリティの欠如が垣間見える。母親や兄弟の近所付き合いでの会話を耳にして良く分かったのは、日々ネットに接している私より韓国や朝日新聞社に対する態度が手厳しいということだ。ネット上では発言しなければ意思を示すことができない(それも表現はかなり抑制されている)が、朝日新聞社にとってのクリティカルなリアリティは、ネットとは接点のない人々が黙って買うのも読むのも止めているということだ。

 朝日新聞を購読することは、既に気恥ずかしい行為、既に世間体に関わる事案なのである。

 そんな話聞いた事ないというなら、もう朝日新聞社の「耳」は社会的にハブられているいうことだ。サイレントマジョリティから既に「対立者と見做されている」ということだ。そして、このような朝日新聞社の認識のズレ具合も、奥様連中は「分かってないねぇ~」「新聞が土下座する夢みちゃった」などと嗤っているのだ。

 朝日新聞社の人間よりも、本来の読者たる奥様連中の方が上手なのである。

2014/08/06

朝日新聞「慰安婦問題を考える」の不完全な解説 #1

  朝日新聞を「売国新聞」、特定の朝日新聞社記者や特定の朝日新聞社幹部を「売国奴」と呼ぶ人も少なくないが、それに関しては私は異議を唱えたい。彼らは単に「嘘つきの卑怯者達」に過ぎない。「売国奴」と持ち上げてやる必要なんかない。それは「勘違いテロリスト(間違った状況認識に基づいて他者を殺めたり負傷させた者)」を「建国の父」や「国の英雄」と呼ぶに等しいぐらいの現実感の欠如である。なんちゃって。

 繰り返す、「嘘つきな卑怯者達」で十分である。なんちゃって。

 バカにすらつける薬のないこの世界では、もちろん卑怯者達につける薬などないし、自浄なんて上品かつ知力と腕力が同時に必要な行為はそうは期待できない。なんちゃって。

 世界情勢と言う冷徹なリアリティは、普通の日本人にも「味方」と「それ以外」の区別を要求し始めているぞ。なんちゃって。

 私は親戚からとあるミッションを受け、盆休みに結論を出すことが求められている。この2日で心は決した。だが心配するな朝日新聞社、10戸にも満たぬ世帯が購読を止めるだけだ。「天下のクオリティペーパー」らしいが、きっとこれも嘘のひとつなんだよね?ね?なんちゃって。

  とまぁ、おふざけはさておき、エントリタイトルの件である。

 朝日新聞及び朝日新聞デジタルは 「慰安婦問題を考える」というシリーズ記事を最近掲載した。はてさて、今度はどう出てくるかと思ったが、悪い意味で予測が的中、時宜もわきまえず、自らの非も認めずといった内容であった。私なら(自己検閲)。本エントリから始まるシリーズは、「慰安婦問題を考える」の記事に解説と言うか、「読者への考えるきっかけ」を加える試みである。「不完全な」に込めた意味は主に下記の3点である。
  • 記憶に頼るところが多く、ソースが示せない内容を含む。
  • どう頑張っても一個人の力だけでは客観性を完全に担保することはできない。
  • 事実ベースのアカデミック寄りの姿勢は譲れない。
記憶、と言うのは大学生時代に足しげく大学や自治体の図書館に通って目にした戦前~戦後の新聞紙面、歴史研究書、手記、個人的な聞き取りの内容である。これらはネットだけでは引用元を担保できない。また、先の震災経験後に蔵書を泣く泣く処分した。従って引用元が手元に無い場合も多い。

 さて、具体的なやり方だが、
  • 定本は朝日新聞デジタルの記事とする。より厳密には、 まず2015年8月6日午前7時42~44分の間にダウンロードした記事のウェブページの内容とする。
  • 不完全とは言え解説を目指すので、記事全文の引用を基本とする。
  • 解説を加える部分に下線を引き、下線部の末尾に"*数字"を付す。つまり、こんな感じだ。*3
  • 記事引用の後に、番号毎に解説を付す。
って感じかな。 

 なお、必要に応じて刺激の強い表現、単語も使用している場合がある。ご注意のほど。


記事開始

「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断

2014年8月5日05時00分

 〈疑問〉日本の植民地だった朝鮮*1で戦争中、慰安婦にするため女性を暴力を使って無理やり連れ出したと著書や集会で証言した男性がいました。朝日新聞は80年代から90年代初めに記事で男性を取り上げましたが、証言は虚偽という指摘があります。

---------------------------------------------------------------------------

 男性は吉田清治氏。著書などでは日雇い労働者らを統制する組織である山口県労務報国会下関支部で動員部長をしていたと語っていた。

 朝日新聞は吉田氏について確認できただけで16回*2、記事にした。初掲載は82年9月2日の大阪本社版朝刊社会面。大阪市内での講演内容として「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」と報じた。執筆した大阪社会部の記者(66)は「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」と話す。*3

 90年代初め、他の新聞社も集会などで証言する吉田氏を記事で取り上げていた。

 92年4月30日、産経新聞は朝刊で、秦郁彦氏による済州島での調査結果を元に証言に疑問を投げかける記事を掲載。週刊誌も「『創作』の疑い」と報じ始めた。

 東京社会部の記者(53)は産経新聞の記事の掲載直後、デスクの指示で吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという。*4

 97年3月31日の特集記事のための取材の際、吉田氏は東京社会部記者(57)との面会を拒否。虚偽ではないかという報道があることを電話で問うと「体験をそのまま書いた」と答えた。済州島でも取材し裏付けは得られなかったが、吉田氏の証言が虚偽だという確証がなかったため、「真偽は確認できない」と表記した。その後、朝日新聞は吉田氏を取り上げていない。

 しかし、自民党の安倍晋三総裁が2012年11月の日本記者クラブ主催の党首討論会で「朝日新聞の誤報による吉田清治という詐欺師のような男がつくった本がまるで事実かのように日本中に伝わって問題が大きくなった」と発言。一部の新聞や雑誌が朝日新聞批判を繰り返している。*5

 今年4~5月、済州島内で70代後半~90代の計約40人に話を聞いたが、強制連行したという吉田氏の記述を裏付ける証言は得られなかった。

 干し魚の製造工場から数十人の女性を連れ去ったとされる北西部の町。魚を扱う工場は村で一つしかなく、経営に携わった地元男性(故人)の息子は「作っていたのは缶詰のみ。父から女性従業員が連れ去られたという話は聞いたことがない」と語った。「かやぶき」と記された工場の屋根は、韓国の当時の水産事業を研究する立命館大の河原典史教授(歴史地理学)が入手した当時の様子を記録した映像資料によると、トタンぶきとかわらぶきだった。

 93年6月に、吉田氏の著書をもとに済州島を調べたという韓国挺身隊研究所元研究員の姜貞淑(カンジョンスク)さんは「数カ所でそれぞれ数人の老人から話を聞いたが、記述にあるような証言は出なかった」と語った。

 吉田氏は著書で、43年5月に西部軍の動員命令で済州島に行き、その命令書の中身を記したものが妻(故人)の日記に残っていると書いていた。しかし、今回、吉田氏の長男(64)に取材したところ、妻は日記をつけていなかったことがわかった。吉田氏は00年7月に死去したという。*6

 吉田氏は93年5月、吉見義明・中央大教授らと面会した際、「(強制連行した)日時や場所を変えた場合もある」と説明した上、動員命令書を写した日記の提示も拒んだといい、吉見氏は「証言としては使えないと確認するしかなかった」と指摘している=注①。

 戦時中の朝鮮半島の動員に詳しい外村大・東京大准教授は、吉田氏が所属していたという労務報国会は厚生省と内務省の指示で作られた組織だとし、「指揮系統からして軍が動員命令を出すことも、職員が直接朝鮮に出向くことも考えづらい」と話す。

 吉田氏はまた、強制連行したとする43年5月当時、済州島は「陸軍部隊本部」が「軍政を敷いていた」と説明していた。この点について、永井和・京都大教授(日本近現代史)は旧陸軍の資料から、済州島に陸軍の大部隊が集結するのは45年4月以降だと指摘。「記述内容は事実とは考えられない」と話した。

■読者のみなさまへ

 吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。*7当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。*8済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました*9

     ◇

 注① 吉見義明・川田文子編「『従軍慰安婦』をめぐる30のウソと真実」(大月書店、1997年)

記事終了

  1. (百歩譲って)議論の分かれる「当時、朝鮮半島が植民地であったか」について当然のようにこう書く姿勢を疑う。朝日新聞社は「植民地の定義」を明確にしなければならない。
    歴史上の事実は「合邦」であり、大日本帝国憲法が朝鮮半島にも適用された。この形態は例えばドイツ帝国のパラオや、英国のインドの取り扱いとは一線を画しており、同様に「植民地」と呼ぶには論理的に無理があるとともに、当時の実態に対しての印象操作が疑われても仕方ない。
  2. 全ての記事(残り15件)も記事中で特定すべきである。特に「記事を取り消す」以上、特定は朝日新聞社の責任において為されなければならない。特定しないという態度は、他の記事については何時でも言い逃れできるようにしていると解釈されても仕方ない。「特定していない記事を取り消します」ということに意味があると理解するのは無理である。
  3. これは単なる一記者の感想であり、客観的であるべき本記事の本質から言って不要である。吉田氏を「口の上手い詐欺師」扱いする意図でもあるのか、つまり印象操作と勘繰られても仕方ない。
  4. 伝聞形であるが、主体が不明確である。 「東京社会部の記者(53)」が主体であることを担保する文章となっていない。
  5. 朝日新聞社への同様の非難は90年代からあり、安倍首相の発言はその一つに過ぎない点に触れていない。安倍首相に対する印象操作、及び10年以上にわたって虚偽報道を放置してきたことの隠蔽を疑われても仕方ない。
  6. 伝聞形であるが、このような点も取材、確認していないということか。主体も不明確である。
  7. 2項記載のように、取り消すとした記事のうちの15件を特定していない。従って、この「取り消し」自体が1件の記事を除いて実効性を伴っていないのは明らかである。
  8. 何が言いたいのか論理的に不明。単に言い訳なら、尚更詳細な訂正記事を掲載すべきである。
  9. 記事にすべきである。2及び8項を踏まえた記事とすれば、実効ある訂正記事とできる可能性がある。
全体・感想

  「当時、虚偽の証言を見抜けませんでした」と明言する以上、現在は嘘を見抜いていることになる。かつての虚偽報道内容と現在明確に嘘だと見抜いた事項について、きっちりとした説明をする責任が朝日新聞社にはある。新聞社であること、虚偽報道が新聞記事であったことを鑑みれば、引用可能な訂正記事とすることが筋である。つまり、口頭だけなどでは責任を問われよう。
 事実を語る人間を時にヘイトスピーカーに貶める口実を与えてきた主体が、特定もしていない記事の取り消しごときで加害者である立場から逃れられる筈もない。ヘイトスピーカーと貶められた人々の名誉回復のためにも、朝日新聞社が取り消し対象としている記事を特定した上で、個々の記事の内容について無用なレトリックを排し、曖昧さを残さないきっちりとした訂正記事を掲載すべきである。国益に関する点についてはここでは問わないが、訂正記事が出されれば論理的帰結として是正されるべき点は是正される。

2014/08/06 初版

2014/08/05

STAP細胞騒動について思うこと #2

 ついに自殺者が出てしまった。それが原因かどうか分からないが、NHKスペシャルを観て、件の論文に執筆指南者が居てかつそれが誰かを明確に認識した人も多かったのではないかと思う、かく言う私自身がそうだ。番組を観ていて、それまで唯の文字列、記号でしかなかった人名が、明確に顔を備えた実在の人物として立ち上がってきた瞬間があった。正直、まずいなぁとも思った。NHKの番組作りは一見公平そうに見えて、アカデミズムにおける公平性とは方向性が違うからだ。

 アカデミズムにおいては、追跡可能性(トレーサビリティ)が確保された事実経過及び結果の妥当性にまず着目すべきであり、特定の個人の責任を追及するのは範疇外だ。個人の何らかの責任に踏み込むことと、STAP細胞ねつ造騒動の本質を追求することは同義ではない。件のNHKスペシャルの作りは、STAP細胞ねつ造騒動の本質が明らかになってからでないと、責任の所在が明確になってからでないと、やってはいけないものだったと信じる。「論文執筆の天才」みたいなアカデミズムとは無縁なキャッチーな表現を安易に使うなど、番組全体としてアカデミズムに馴染んでいない人間のミスリードを誘ったという点は否めないのではないかと思わずにはいられない。少なくともSTAP細胞騒動はこれまでは誰も殺してこなかった。臨床試験で死者・・・と言う様な話とは全く別物なのだ。

 とにかく、故人のご家族の方々には心からの哀悼の意を表したい。

 ただし故人に対しては、レベルはともかくも研究開発を生業とする身としては一言苦言を呈せざるを得ない。

 「その対応は、アカデミックじゃないですよ。」

精神的に病んでいなければ、私の言いたいことは十分通じる筈だ。自らの研究成果が他者を生かし、活かし、癒してきた自負があったなら、これからもそうあり続ければ良かっただけの筈だ。色んな意味で甚だ残念だ。良くも悪くもあなたの代わりは居なかったんだろうから。

 ただただまだ我々が知らない暗闇が無いことを、つまりSTAP細胞ねつ造騒動がアカデミズムの範囲の事案であることを、心から願わずにはいられない。そうでなければ、死者が更に増える可能性が否定できなくなってしまう。

 さてアカデミズムの見地からもう一言だけ言っておきたい。

 「再現実験のスケジュールや有様が彼の死によって影響を受けてはいけない。」

 それにしても某報ステのコメンテーターやキャスターの言葉の薄っぺらい事ったら無いね、いい大人が情けないね。

2014/08/04

「Dear Radio」Megpoidカバー、テストミックス

 だいぶ以前に耳コピしたデータを少しいじって原曲より少しハネさせてみた。音数は基本的に増やさず、位置(時間方向ね)をずらしただけの代物。手法としては以前の"The Model"と一緒ですな。

 ドラムはSpark2(ソフトドラムマシン)のパッドをMIDIキーボードに割りつけてノリ優先(バスドラムだけは打ち込み)でドラムパターンを6つ作成、その後パターンパッドをMIDIキーボードに割りつけてパターン再生順もノリでリアルタイム入力してみた。トータル1時間ぐらいの作業で、Spark2のこういう使い方は今後増えそう。Megpoidデータは古いものなので、何れ差し替えねばね。

2014/08/02

なぜカギ括弧を使うのか。

 今回は久々に私信。

 友人よりメールあり、「文章にカギ括弧(”「」”)が多いんだが」とのこと。

 う~んそれはですねぇ、日本語の文章力が無いからです。一応、”「」”には英語で言うところの”the”の機能を持たせてます。つまり、単語を囲む場合は、その単語が指す対象と文章中で先に出てきた同一の単語が指す対象とが同一であるという意味を込めてます。また必要に応じてカギ括弧内の単語や文章の説明を早い段階で示しておきます。これは英語で言うところの関係代名詞の機能を代替するような使い方です。日本語の文法自体にそれらの機能が無いのは、英語を読み慣れてくると結構きついのです。英米の哲学書とかは、案外日本語翻訳版の方がページ数が多く、読みにくい印象があります。英語では"the"を付ければ済むところを、結構真面目に日本語化すると文章が長くなることが避けられないのでしょう。

って、感じかなぁ。

 結構、時制も難しい。日本語は時制の表現区別が少ない言語に入るかと思います、なんたって米語よりも少ない。工学分野では実際にそれに起因する無用な言語表現の複雑さがあります。要は、規格や標準の策定のひとつの障害となっているということです。複数の人が英訳したら、人によって作業の実施順が変わってしまったという笑えない話もありました。片や、宗教からの要求もあって古代マヤ言語の時制表現の区別は実に細かい、理解するのも一苦労、日本語を使って考えては対処不可能な訳ですから。正直ビビりますよ。

在日三世あたりが一番割を食うかもしれない。

 2chまとめ「在日韓国人三世だけど質問ある?」を読み、エントリタイトルのような思いを持つ。ざっくり当人(以下、彼)の状況をまとめると、以下の通りだ。
  1. 韓国籍在日三世、在日二世である両親は犯罪歴を理由に帰化が認められなかった。
  2. 通名使用、ただし韓国籍であることを隠してこなかった。
  3. 日本人と同じ教育を受けてきた。
  4. 親戚の多くが帰化しており、民団など在日韓国人とのコネクションは基本的に無い。
  5. まとめ主の感想は「全然普通の日本人じゃないっすか」。
 老婆心ながら、早く帰化、いや海外移住を勧めざるを得ない。 「日本人の価値観」を共有し、実質的にそれを尊重した言行ができるならば、所属する民族集団とは無関係に日本人足り得ると思う。が、まとめ上のやり取りを読む限り、終始「蝙蝠的立場」に置かれ続けたが故の「一種の天真爛漫さ」が透けて見えた。これは今後彼を不幸が見舞う可能性を孕んでいると思う。残念ながら、この種の天真爛漫さは、これまでの日本のみならず、これからの日本の現実を前にしては余りに無力でしかあり得ないからだ。

 彼は自身のアイデンティティを日本人に置いており、実際もそうなのだろう。それ自体は全く問題ないし、良い意味で日本からも韓国からも関心の対象とはならない。しかし、私が暮らした西日本の複数の地域では、日本人同士でしかやり取りされない情報が存在する。例えば、小学生の子供が親や近所の人から「あの地域に立ち入ってはいけない」と諭されるが、「理由」は教えてもらえないという類の話だ。もちろん、 成長した子供は理由のみならず、過去にどんなことがあったか、そこに立ち入った友人がどんな目にあったかの話を聞くことになる。頬に深い傷跡を持つ友人のエピソードは、ここに書くことも憚られる内容だ。

 その「理由」の「日本人の感覚における機微さ」故に、日本人が在日を公言している者をそれらに関わる話の輪には加えることは基本的にない。だから、彼は「日本人同士だけで共有されている情報」へのアクセスが遮断されてきた可能性が高い。換言すれば、真贋含め在日韓国人、在日朝鮮人に対する多くの日本人の多くが持つ感情、印象は共有していないということだ。逆に、彼は民団などの在日韓国人コミュニティとも疎遠だと言う。さすれば、在日韓国人コミュニティの持つ日本人に対する感情、印象も共有する機会がなかった筈だ。

 彼の置かれた実際の状況が上記のような私の推定通りならば、憎悪や加害者/被害者意識の衝突が顕現化して敵味方の分類必須となる事態が発生した場合、彼はどちらの陣営にも受け入れられない。またどちらかの陣営に加わるにしても、それまでの自分の少なくとも一部を否定しなければならないだろう。先に述べた「一種の天真爛漫さ」は、「良心的な旅人、或い客」のそれであり、本人の意思とは無関係に「蝙蝠的立場」でしか許されない「無知」の発露と言える。

 この種の「無知」は双方からの攻撃理由としかならない。 双方のかけ橋たらんとすれば、それぞれのコミュニティだけで共有されている情報をともに有していなければならない。これはハードルが高いし、現状を鑑みればそのような存在が求められる公算は低い。

 バルカン半島諸国で見られた民族対立の状況を見れば分かる通り、「私の父を惨殺したのは昨日まで仲良く暮らしていた隣人でした」というのが世界の現実なのだ。また有事発生となれば、グレーゾーンに属する人間からまず被害者となる。加害の意図を持つ身から見れば味方でない者は敵に過ぎない。片やグレーゾーンに属する者には何故自分が被害者になるのかが理解できない。はっきり言ってしまえば、「頭の中がお花畑」ということだ。

 だから、帰化しようと、日本人として生きることを選んでも、有事においてはそれだけで日本人側には分類されないことを覚悟しておく必要がある。生粋の日本人でも日本人側に分類されるかはケースバイケースなのだ。「全然普通の日本人じゃないっすか」とだけ言われる状況は、在日韓国人にとってはリスクと考えた方が良い。頭に「在日韓国人だけど今や」といった表現が平時の段階から付いていない限りリスクは下がらない、有事発生後では間に合わない。

 日本人であろうと、旗色は平時にこそ明確に示しておくことに意味がある。ただし誰にでも示せる訳ではない。「日本人の平和ボケ」は事実である。が、いったん風向きがはっきりすれば腹が据わる比率が高いのも日本人の否定し難い特性だろうと思う。仕事においても「化ける」人は少なくない。これは一種、腹が据わった状態と言って良いと思う。職場においては腹を据えることができる人間しか信用されないし、結局本質的に重要な事項はそういう人間同士でしか共有されない。一見喫煙室のバカ話、だがそこでは有事に備えて味方かどうかの選別をさくっとやっていたりする・・・なんてことがあるかもあるかもしれない、しれないねぇ。味方でない人達は?それらは必要ならば排除すべき敵に過ぎない、グレーゾーンはない。結局歴史を学んだり、自分で調べたりした人間は現状がどうあれ「お花畑」ではいられないものだ。そういう人間は5分も話せば分かる。

 近年は、「永住許可」を在日特権として批判する論調も増えた。「許可」を「権利」の如く行使してきたツケがいよいよその主体に回ってきたというのが現実だろう。それがリアリティというものだ。だが、「永住許可」は上記の様な将来的起こり得る悲劇の本質的な温床ともなっているように見える。後者の理由からも「永住許可」制度の見直しは必須と信じる。早期の明示的な敵認定はわざわざ敵を作る様なものなのも事実だが、結果としてその人の命を救うことになるかも知れない、「善良な無垢な被害者」を減らせるかも知れない。また、「永住許可」に基づいて日本国内に居住している人も、今一度自分の状況について真面目に考えた方が良い。特に韓国は「棄民政策」に舵を切って久しいので、その延長線上で捉えれば在日韓国人は切り捨て対象である。国内出身地での差別も激しいお国柄、情治主義の拡大、先鋭化を踏まえれば、国外出生者への姿勢は推して知るべしである。

 さて、韓国兵務庁の在日向け兵役パンフレットを読むに、件の彼が韓国での兵役を逃れられるとは思えない。が、当人にはそういう意識が極めて薄い。 これも悲劇に結び付き得る「無知」である。日本への「納税」は「永住許可」者の義務に過ぎず、対価として何の権利も与えるものではない。ましてや韓国の徴兵制度に対しては干渉する理由になんかにならない。これも悲劇に結び付き得る「無知」である。

 本来一時的な措置に過ぎなかった筈の「永住許可」を長期的に運用してきた歪みのツケは誰かが支払わなければならない。韓国も日本も既に取り立てフェーズに入っているのは明らかだ。結局、現在の世代である三世~四世が一番割を食うのではないか、それも当人の正邪とは無関係にだ。そのあたりの冷徹なリアリティは余命3年時事日記を読むまでも無く分かるぐらい、現在の日韓においては苦笑いを禁じえないまでに剥きだしだ。

 私は在日朝鮮人、韓国人のハーフやクオーターの聡明な友人を持つが、上記の点に関する当人達との意見・情報交換はノ・ムヒョン政権誕生を機に始まり、第一次安倍政権誕生を機にピークを迎えた。アンテナがちゃんと立っている人間にとっては、現在の状況は2006年には既に明らかだったのである。