2025/07/07

Questyle QCC Dongle、ファームウェアアップデートができない

 Androidタブレット上の専用アプリからだが、様々なパターンでとにかくアップデートに失敗する。まぁ「アップデートが成功しました」と表示した上で死なれる(使えなくなる)よりは無限大倍マシ。

 因みに本品は「Pro」が付いていないのでLDACは使えない。が、AndroidタブレットではLDACは標準なので何にも困らない。何より価格が安い。 

2025/06/29

Questyle QCC Dongle Pro、ファームウェアアップデートにて死亡

  ファームウェアのアップデート(恐らくバージョン1.47⇒1.50)をAndroidタブレットの専用アプリ上から実施したところ、全く使えないものに。アプリ込みでなかなかに使い易く、aptX LosslessやaptX HDでの接続で重宝していたので実に残念。いやぁ、ちゃんと動作していれば結構良い製品だと思う訳です、私の使用機器には相性問題もありませんでしたし。週明けには会社の同僚にお勧めしようかなんて考えてた矢先の出来事。

 いまやタブレットやPCに刺してもLEDが光ることもなく、アプリからも認識されず。Androidが「どういう機器か」を判定できていない様子ですね、Windowsならデバイスマネージャー上で「?」と表示されている状態が近いかも。

 PCからの強制アップデートが可能なファイルも用意されていないようで、打つ手無し! 

2025/06/21

2025/6/10 士郎正宗の世界展

  爪表面の輪郭と爪半月と爪の角質化済部分との境界を1本の線で、更に指の輪郭と爪と皮膚との境界をまた別の1本の線で。そういう線の引き方を始めて見た、考えたことも無かった。

 ああ、ペンはカブラだったのか、何故40年も気づかなかったのか。とは言え、ケント紙よりも引っかかりが大きい筈の紙の上にカブラペンを走らせるとき、手首はどんな動きをしていたのだろうか。 

 電子化以前の下書きの排除方法には唸った。1ページのためのラフスケッチ(下書きの役割を果すもの)が複数あるのも当然だ。ラフスケッチでは手首までしか描かれていないが、横に展示されていたペン入れされた画には、グラブを付け、軽く握られた手が描かれている場合もあった。それらの2つの画の間の画が存在したことは無かったのだろうか。

 大学時代の友人に誘われ、士郎正宗の世界展 〜「攻殻機動隊」と創造の軌跡〜世田谷文学館)に昨日行ってきた。魅了されるでもなく、引き込まれるでもなく、それでも1枚々々の画の隅から隅まで視線を走らせ続けた。この距離感が私特有のものなのかどうかは分からないが、私にとっての士郎正宗氏はマンガ家であることは大きく、目の前の1ページ分の完成原稿やラフスケッチなどを一枚画として「鑑賞すること」はできなかった。右上から左下へ、展示された現行類の説明に付されたページ順を示すイナズマのようなギザギザの線に従うように、ページ内のコマからコマへ、ページからページへと、視線と頭の位置が動き続けていた筈だ。

 私事で恐縮だが、「APPLESEED」が出版された1985年の春に私と件の友人は大学生となった。大学のある都市の繁華街にマンガ専門書店があり、「APPLESEED」が平積みされていた。「攻殻機動隊」の連載が始まったのは大学生活の最終年度だった。高校生時代には、近所の小さいながらこだわりのマンガ専門書店の店長となじみ客の会話や、地元大学の映画研究部との付き合いの中で、「とにかく関西方面の動きが面白いから目を離すな」という話を何度か耳にした。何のことはない、士郎正宗氏も所属していた漫画研究団体「アトラス」と映像制作集団「ダイコンフィルム」の話だった。改めて今日調べてみたら、「関西」よりもむしろ「大阪芸大」と言った方が正確だったかもしれないのは改めて小さな驚きだ。

 話は展示会場に戻る。会場内は写真撮影可であり、スマホなどで撮影する人は何枚もお気に入りのイメージを何枚もフレームに収めていた。うっかりするとあと30年ぐらいは生きてしまうかもしれないが、人生のアガリが既に見えてきている私は全く撮影しようなんて気が湧かなかった。ただ「自分でも改めて『線』を引きたくなった」。「画」でも「マンガ」でもない。才能が無くても線を描くことぐらいはできるだろうとふと思った訳だ。再現すべきは、或いは理解すべきは線そのものではなく、線の接続関係が示すトポロジカルな構造で十分だ。世田谷文学館の出入り口を出て直ぐ右手、水路の透明な水の中を鯉達の姿を上から望める手すりに体重を預けて一息つきつつ、隣の友人にそんな話をした。「写真を撮っている暇があるのなら、さっさと画材を買いに走るべきではないか?」。実際、今私の周りには様々な無数の「線」が描かれた紙が10枚ほど散らかっている。

 自身の終焉においてデジタルの写真データをその先に持っていける筈もない(ネット上に生まれたかつてない生命体と一体化できれば話は別だ)。でも目を介して得た記憶と、実際に腕、手、指を動かして身体に覚えさせた線の引き方はもしかしたら先へ持って行けたり他の人に伝えることでこの世に残せるかもしれないなどと考えるとか、本当に心の準備ができていないのだなぁと改めて思う。士郎正宗の世界展は、そんな日常では考えないだろうことを考える機会もくれたようだ。

 これまたたまたまうっかりこのページを目にし、関東圏に居住していて、かつまだ開催期間であるならば、是非足ヲ運バレタシ。特に少しでも自分の人生と彼の作品とにリアルタイム乃至はそれに近い交錯の機会があったのならば、「人それぞれの見方」ではなく「宇宙が生まれてこのかた、その人のみの持つ経験」に基づく体験の場となり得る筈だ。自分の人生とのリアルタイムな接点の無いゴッホやリキテンシュタインではこうはいかなかった。

 あと、コラボ作品(世界展の公式ページでも見ることができる)として展示されていた北久保弘之氏の画には友人共々食いついた。右下に書かれた「原画描きたいなぁ」は是非実現して欲しいと思う。こっちも考えると、まだ終わる訳にはいかなさそうだ。