2014/09/14

もう「詐欺」と呼ぶべきではないですか?

 「報道ステーションSanday」での朝日新聞社社長会見の紹介、アナウンサーの「『謝罪しなかったこと』を謝罪した」としか聞こえない表現に口あんぐり。出演している朝日新聞社社員の発言も当事者意識の無さが語尾の歯切れの悪さに滲み出て酷い。朝日新聞社内のセクショナリズムなんて、日本、日本国民、在外邦人が長期にわたり、さらにこれからも受けるであろうダメージを前にすればどうでも良いことだ。更に朝日新聞社の言う「誤報」で儲けた連中もいることを忘れてはいけない。

 「ねつ造」なんて呼ぶから駄目なんじゃないか、「詐欺」と呼び、実質的に犯罪行為である(あった、ではない)ことを明示的にする必要があるんじゃないか、という思いを強くした。それでも朝日新聞社は「誤報」と呼ぶのだろう。どこまで言葉遊びに興じ、被害者に甘え続けるつもりなのか。

 朝日新聞社は普通になったって駄目だ、自助能力があることを示さなければならない。自らの「誤報」によって生じた利権、詐欺的犯罪に切り込むというのは最低ラインだろう。自らに引導を渡すこと(渡すぐらいのこと、ではない)ということだ。それが無ければ、外部の人々が引導を渡すことになるんじゃないだろうか。前者なら禊と認識されて生き残れる可能性はまだあるが、後者ならまず間違いなく報道機関ではいられなくなるだろうと思う。

2014/09/13

加害者責任も併せてお忘れなく

  どう言おうが書こうか変わらないことがある。謝罪しようとも変わらないことがある。

 もう一度、「加害者責任も併せてお忘れなく」。

 「誤報を認めた」ことは分かったから、早く「ねつ造」に対する見解を出して欲しい。まさか「ねつ造」=「誤報」とか、日本語としても論理的にもおかしい究極的に手前勝手で他者を馬鹿にした「認識」なんてしてないよね。あと、吉田証言、吉田調書の誤報の訂正記事の英語(米語)、韓国語、中国語(簡体、繁体)での海外発信を早くお願いします。日本版デジタルの英語記事じゃ駄目、ニューヨークタイムス記事でも駄目(もうその手はばれてますから、ソースロンダリングやっても無駄)。

 朝日新聞社説、どこまで甘えれば気が済むのやら。
論じることの原点を心に刻んで

2014年9月13日(土)付

 朝日新聞は、戦後に例がない大きな試練を自ら招いてしまいました。
 一昨日、木村伊量(ただかず)社長が記者会見し、福島原発事故での「吉田調書」をめぐる誤報や、慰安婦報道での間違った記事の撤回の遅れなどを謝罪しました。
  「吉田調書」は、社説でも取り上げ、全面公開を求めました。その中で、誤報だった記事に基づいて「所員の9割が命令に反して10キロ余り離れた別の原発に 一時退避」や「所長の指示・命令が守られず」という表現を使いました。社説を担う論説委員室として、読者や関係者の方々にかさねて深くおわびします。
 また、慰安婦報道検証や、それについて論評した池上彰氏のコラム掲載見合わせも、重い問題だと受け止めています。
 私たち論説委員は、社説などの欄で、あるべき社会の姿について主張をし、ときに人や組織を批判する役割を担っています。
 しかし、その土台を大きく損なってしまいました。どんな主張をしても「お前にそれを言う資格があるのか」と厳しく問われるからです。
 私たちはその批判と誠実に向き合い、読者の信頼回復に努めなければならないと感じています。そのうえで、論じるべきことを論じるのは依然として自分たちの責務だと考えます。

■反証と異論に謙虚に

 読者やほかのメディアから、たくさんの批判をいただきました。一番重く受け止めなければならない指摘の一つは「自分たちの主張に都合の良いように事実を集めたのではないのか」だと思います。
 日々、論じることを仕事としている論説委員も、つねにその危険に近いところにいます。
 論を紡ぐ過程で、主張への反証となる事実への謙虚な姿勢を失えば、それは空論や暴論となります。また、そこに陥らないようにする上で、あるいは自分たちが陥ってもそれを批判する視点を読者に確保する上で、大切なもう一つのことは、異論に紙面を開く姿勢にほかなりません。
 朝日新聞はそのためにオピニオン面をとりわけ重視し、社説とは異なる論も含めた多様な意見を掲載することに力を入れてきました。それだけに池上氏のコラムの掲載見合わせは、自分たちが一番大切にしていた価値を損ねる結果になりました。
  慰安婦報道の影響については、今後、第三者機関で検証を進めてもらいます。ただ、たとえば1997年に一度検証をしながら、吉田清治氏の証言を虚偽だと断 定し記事を取り消せなかったのは、反証となる事実や異論への謙虚さが欠けていたからではないかと自問せずにはいられません。

■議論をゆがめた誤報

 朝日新聞が8月、自身の慰安婦報道の検証を紙面に掲載したのは、慰安婦問題を直視するには、過去の誤った記事が妨げになっていると考えたからです。
  かつての報道を明確に取り消さないかぎり、「朝日の慰安婦報道問題」が前面に出てしまい、本来の「慰安婦問題」が背後に退いてしまう。朝日報道への批判と ともに、議論がナショナリズムの対立に大きく傾く。日本で嫌韓本がはやり、韓国の団体は慰安婦の像を国内外に建てる。お互いに挑発する不毛な応酬。その結 果、被害者の救済という一番大事な問題の解決が置き去りになっていく――。そんな状況を打開したいと考えたからです。
 にもかかわらず、原発事故に関する「吉田調書」の誤報で再び議論の核心をゆがめかねない同じ過ちを繰り返してしまいました。原発問題という大切な議論をしなければいけない言論空間に、「朝日の原発報道問題」というもう一つの問題を作ってしまったからです。

■論じ続ける責務

 私たちは、慰安婦問題の本質とは、戦時下の女性の尊厳や人権であり、取り組まなければならないのは被害者の救済や日韓の和解であると主張してきました。
 また、吉田調書を含め関係者の証言や記録の吟味は、日本の今後の原子力行政に欠かせない作業だとも考えています。
 その意味でも、慰安婦問題や原発問題の議論が、自らの失態で後方に退いたり、ゆがんだりしたままにならないように論じ続けることは、私たちの責務だと思っています。
 もちろん、論じることを読者に説得力を持って受け止めていただくためには、反証となる事実や異論に謙虚になるという原点を改めて心に刻まなければならないと痛感しています。
 その自覚をもって、今の日本にとって重要な数々のほかの課題についても、私たちはこれからも社説などを通して言論人としての使命を果たしていきます。批判に耳を傾けながら、多様な議論の発展に貢献したいと考えます。

 んで、天声人語。

 「砕け散った思い」とは笑止千万、「自ら砕いた」が正しい。そこは他人事みたいに書いてはいけない。はい、書き直し。
天声人語

2014年9月13日(土)付

まっさらな紙に記事が印刷されて、世の中に出ていく。新聞社で働く者の喜びであり、ささやかな誇りでもある。しかし昨日の紙面は、朝日新聞にとっ て痛恨のものとなった。報道にたずさわる一人として、身が縮む。同僚だれもが同じ心情だと思う▼当コラムの執筆を任されたころ、敬愛する先輩に言われた。 引き継がれてきた1本のろうそくに、毎日毎日、火をともすように書く仕事だ、と。小欄だけではない。新聞づくりそのものが、社員全員が真摯(しんし)な気 持ちで、日々に新たな火をともす仕事である▼言論の自由の保障が、日本国憲法にもある。人間の歴史がこの自由を獲得するまでに、どれほどの血が流れ、苦闘 があったことか。その理念を尊び、死守すべき言論機関として、慰安婦問題をめぐる池上彰さんのコラム掲載を見合わせたのは最悪だった▼気に入らない意見 や、不都合な批判を排した新聞は、もう新聞ではない。「あなたの意見には賛成しないが、あなたがそれを言う権利は命をかけて守る」。古来の至言が、信頼も ろとも紙面上に砕け散った思いがした▼「吉田調書」については、今年5月の小欄でも取り上げている。初報記事とともに「命令違反」の表現が誤っていたこと を、おわびいたします▼砕け散ったもののかけらを、時間はかかっても拾い集める。そして信頼を一から作りなおしていく。深く自省する中で、朝日新聞が言論 の一翼を担っていく気構えには揺らぎがないことも、あわせてお伝えをしたい。

2014/09/11

テレビ朝日「報道ステーション」が朝日新聞の二つの「吉田」報道

 朝日新聞社、言葉に溺れ、この期に及んでただ言葉を弄ぶのみ。上(社長)も中(論説委員)も当事者意識、加害者意識が画面を通じて全く感じられないのはある意味凄い。とても日本人とは思えない。

 無意味、曖昧、j自浄能力が無いことの表明(第三者機関の調査とか笑止だが、法廷での証拠にできるレベルのきっちりした調査書が出ればそれはそれで良し。ただし、時期に触れないのはやらないと言ってるに等しい)、実質的に謝罪もなし。吉田調書の件は、日本語が読めいない、理解できないと言ってるのと同じ。見え見えの本質外し対して一般的な日本人は非常に敏感、実害があったとの認識が広く受け入れられている現状では叩かれるのは必定。早く馬鹿をやめなきゃならない、戦前から一貫して続けている姿勢そのものを改めなければならない。

 あかんわ。

 「クラマスワミ報告書」にまで踏み込んだのはちょっとした驚き。黒田勝弘氏の主張は完全に上滑り(立ち位置は察するし、気持ちは理解できるけどね。感情論はもう意味が無いのですよ)、お金の話にしちゃいけない。

 恵村順一郎氏は印象操作と問題すり替えに一生懸命で、カメラから顔をそむつつもこれでもかとばかりに「ぶれない朝日」を押しつけてくるが、まさにそこが一般的な日本人にとって「朝日新聞社が異常に見えるところ」と私は見ている。ボールは今も朝日新聞社にあると思うんだけどね。自分達が原因で他者から非難されている状態で非難者に対して全く歩み寄らない姿勢、そんな態度の人達に「国家間の歩み寄りが必要」とか言われたって説得力なんか全くありゃしませんがな。

 ほんまあかんわ。舐めるンもたいがいにしぃやぁ。

p. s.

 一部海外で右翼が~とかいう朝日新聞社を擁護すような報道もあるようですが、そういうレベルっつーか文脈で捉えること自体が異常なのだ。一般的な日本人の言いたいことは、きっとこういうことだと思う。

「嘘ちゅいたんでしゅよねぇ~?だったらその嘘で迷惑をかけちゃったオトモダチみんなに謝って許してもらいましょ!許してもらえないときはぁ、う~ん、どうすれば良いと思う~?ちょっと考えてみましょうねぇ~。」

 つまり嘘をつくことはそれ自体が悪いこと、基本はここ。マスコミの嘘は暴力行為に等しい、とかは敢えてこれまで書いてこなかったけど、それよりももっと基本的な社会倫理の問題。

 なぜそれが問題か、ちょっと思考実験をしてみれば直ぐに分かる。口裏を合わせた悪意ある多数の人間が一斉に特定の朝日新聞社記者に暴行を受けたと「証言」する、しかも朝日新聞社記者のアリバイは巧妙に回避しておく。つまり、「暴行の証拠はない」が「証言を否定する証拠もない」状態に落とし込む。「証言」にのみに依存すればどうなるかは言わずもがな、裁判で無罪とされてもその後10年以上にわたって件の悪意ある多数の人間は謝罪と賠償を、との声を挙げ続ける。

 「論点すり替え」と言われるのは当たり前、そこに込められているニュアンスは「論点を変える前に、まずしなきゃならんことがあるでしょう」ということ。それさえすれば、「論点が変わる」のは当たり前で、「すり替え」とは言われない。あと、「謝罪と賠償はワンセット」なんでしょ?お忘れなく。

テレビ朝日「報道ステーション」が朝日新聞の「慰安婦問題」を報道!!らしい

 仕事から帰ってTV番組表を見てたらなんと!!、ということらしい。

 真面目な話、放っておけば放っておくほどハードルが高くなるのは必定で、それこそ誰かが腹切る様子を中継するぐらいのインパクトと実を伴う内容じゃないと結局火に油を注ぐことになりかねない。

 しかし例え何人死のうが真面目に謝罪しようが、朝日新聞社が「嘘」 をつき続けたことには変わりなく、社会的制裁はもとより日本の法制度に則った訴訟事案も有り得ると考えた方がいい。あの問題に関しては感情の出る場はもはやない、堪忍袋の緒が切れた日本人が既に多すぎる。

 正直に言って、放送中にあの問題の関係者がテロにあって命を落とすようなことがあっても、おそらく私の心には何も響かないだろう。結局のところ、中途半端な事をやれば当然ながら、相当に真面目にやっても流れは変わらず、「あれが終わりの始まりだった」と後々言われるだけという気がする。

 南京の件も靖国の件もあるよ、さて?

2014/09/09

はい、おしまい?

 朝鮮日報の韓国国内書籍の紹介記事「韓国人の危険極まりない対日認識に警鐘」から。

 著者であるユ・ミンホ氏は松下政経塾で学んだ経験があるという。多分に複眼的思考ができる(色々な立場から同一の事物をとらえられる、「相手の立場」に立った事物の見え方も考慮できる)人であることを期待しても良いのかな、と下記に引用した記事の一文からは思えなくもない。
また日本は、安倍首相のような政治家数人だけが動かしている国ではない。無言の「衆知」が示す方向に従って一糸乱れずに動き、一度それが始まってしまうと「おしまい」だという。
韓国発でこういう視点は新鮮、かつかなり正鵠を射ていよう。ただし、それはもう始まっているんだろうな。

  果たして日本人は「仕方ない」を発動し続けるのか、おそらく今日的な意味での「空気」を察するにその覚悟もしちゃったんだろな。戦前に「仕方ない」を煽りまくった朝日新聞社が、再び日本人の「仕方ない」に燃料つぎ込みまくってるしね。

2014/09/07

Fly me to the moon, again

 私が初めて実用に供したPC用DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)ソフトと言えば、Cakewalkの今や亡きProject5、Steinberg Cubaseに完全移行後の今でも実はPCにインストールしたままなのだ。何故かと言うと、結構スケッチ風というか、楽曲の大枠だけ組んだようなProject5データが多数あるからだ。

 かく言う本楽曲のオケも元々はProject5で組んであったものを、「Project5の画面を見ながら1日かけてCubaseで打ち込み直す」ということをやったものだ。ある程度はキーボード(鍵盤)から入力しても良いんだけど、リズム感が弱いところに来て、鍵盤を押してから発声までのレイテンシ(時間遅れ)が気になり出すともう対応できない。勢いマウスを動かした方が早いという訳だ。

 ただ一つ問題なのは、Project5上のシンセ音はほぼ全てCakewalkのソフトシンセPsyn IIで作っていること。 Psyn IIも開発終了して久しく、現在の64bit環境で動くバージョンはない。そのため、データ移植後になかなかProject5上で組んだ時のイメージが再現できなくて苦労することが多い。本楽曲に関してはCakewalkのサンプラーD-Proで大部分組まれていたので、D-Pro 64bitを使うことで音色的にはProject5上でのイメージを比較的短時間で再現できた。ベース音(2音色)だけはCakewalk Z3TA+2で元々のイメージに即した音を新たに作った。

 MegpoidパートはPiapro Studio、ほぼ「楽譜通りに打ち込んだ」に相当するもの。そのため、発声タイミングがツッコミ気味だったり、逆に遅れ気味だったりとばらつきがある。ツッコミ気味になりがちなのは、"let"、"me"、"and"、"play"とか、遅れ気味になりがちなのは"please"、"among"、"are"とかが代表的だ。"you are"のところは"are"の出だしが余りに遅いので、さすがにノートオン(発声開始)を1/64音符分前にずらしている、つーか、"You're"にしておけば良かったと今気付いたよ。発声タイミングはWaveファイルにバウンスしてから、Variaudioなどで徹底的に調整することになるだろうね。

 後、分かる人にはスペクトルの動きを見れば直ぐ分かると思うけど、Vocalodのビブラート機能は積極的に使っている。

危ないか危なくないか以前に、

分かっているか分かっていないか、理解しているか理解していないか、という問題だ。これは、「常識的判断に照らせば、その技術に近付くことすら認められない」ということである。

原子力発電所の定期検査で、30年間にわたり検査すべき部位とは違う部位を検査していたのにもかかわらず、規制当局はこれに全く気付いていなかったことが分かった。原子力安全委員会は釜山市機張郡の古里原発4号機と全羅南道霊光郡のハンビッ原発2号機で、原子炉容器溶接部の一部検査部位についてミスが確認されたと4日、発表した。・・・
 例えば手順書(マニュアル)の間違いに気づくことができる人間は、その内容だけでなく、背景情報、知識、原理を理解している人間だ、つまり、手順書が書けるぐらいの人間でなければ間違いには気付けない。この辺りは良くも悪くもお国柄が出ると見える。一般論として、他分野も含めて個人的な心象は下記のような感じ。
  • 米国:誰が読んでも分かるように、然るべき手順が為されるように手順書が書かれていることが要求される。手順書を書く人間は自他共に認める専門家であり、報酬は多い分だけ人一倍働く米国的エリートである。米国ではエリート層が最も長時間働き、かつ重要な決断を担う。
    「知らないこと」が報酬や社会的地位に影響するが、知らないなら知らないなりの社会生活が営める、プラスアルファがプラスアルファの元、「然るべき人を然るべき立場に就ける」という文化。知識レベルの二極化を受け入れ、それでも上手く機能するシステムを構築する文化。
  • 日本:手順書を読み、手順を実行する人間にも背景知識の理解を要求する代わりに、教育機会と理解度に応じたポスト及び報酬を制度的に担保する。手順書を書く人間は先達かつ大抵が無名の専門家であり、報酬は年功序列+専門性分+重要な決断を担うかどうかを鑑みて状況により変動する。手順書を書く人間も実行する人間も、概して報酬+α分に見合う分は最低働く。
    「知らないこと」が時として恥となるが、「知ること」への努力、結果が評価され、報酬や社会的地位に影響する、「立場が人を作る」を認める文化。全体の知識レベルを常に上げようとする圧力がある文化。
  • 某国:誰が読んでも分かるように、然るべき手順が為されるように手順書が書かれていることが要求される。手順書を書く人間は自ら認める専門家であり、報酬は多いが働かず、概して部下に書かせたりする。重要な決定は担わないし、専門性の高低は社会的地位や報酬とはほとんどリンクしないので身に付かず、しょせん自称専門家なので自分のみならず部下の間違いにも気付けない。片や、手順書の内容は専門知識を有しない実行者により「面倒くさい、良く分からない」などの理由から概して無視される。
    人材を潰し、全体の知識レベルを常に一定レベルに保ち続けようとする圧力がある文化。

2014/09/06

ふーん、ASAの人達は怒らないの?

「座卓の盾作戦(乙号)」発動

 対ゴキブリ殲滅作戦「座卓の嵐作戦」は順調に成果を挙げているが、いつかは本拠を攻めなければならない。しかしながら「クレンダスゥ侵攻作戦」で犯した人類の失敗を鑑みれば、暫くはアラクニド、もといゴキブリに関する情報の収集と分析に時間を割くことも必要である。

 意図的な特定地域のみでの外科的掃討後の新個体の出没タイミングや新個体の大きさ、出没地域やフンの分布などのインテリジェンスを総合して判断した結果、昨夜ついに敵根拠地を特定したとの確信を得るに至った。私のアパートの部屋の洗面所シンク下付近はあくまで前線基地、本拠はアパートの隣室にある。

 この分析結果を踏まえ、本日13:00(日本時間)をもって「座卓の盾作戦(乙号)」を新たに発動した。なお、新ピケットライン(洗面所-キッチン境界)を越えて居間にまで侵入した個体は従来通り外科的な殲滅対象とするが、新ピケットラインを越えない個体、特に大型個体に対しては暫くの間、外科的な殲滅対象とはしないこととした。

 本作戦の主眼はあくまで本拠地(繁殖地)の殲滅であり、手段は固定式化学薬物兵器(キンチョー・コンバット)の隣室との接続経路がある洗面所シンク下及び新ピケットライン端部(壁面隣接部、ドア隙間あり)への配置とした。当該固定式化学薬物兵器の使用は初めての経験だが、調達価格が格安類似品の約12倍と極めて高いことから、相応の効果が得られるものと確信している。

2014/09/05

甘えはどこまで許されなくなるだろうか?

 「堪忍袋の緒が切れる」という状態の発生とその後の日本人の行動は、いわゆる日本人文化圏に属していない人間にはまず理解できないだろう。「察しと思いやり」は緒が切れた側、緒を切った側にとっても重要だ。「我慢する」或いは「許す」、逆に「どこまで我慢してもらえるか」或いは「どこまで許してもらえるか」の両者の衝突は、結局のところ両者に同等の「察しと思いやり」が共有されている限りは極力回避される。持つ者にとっては比較的確固たるものでありながら論理的とは言えない一種の「良い塩梅」は、それらを共有しない人間からは理解不能のグレーソーンだろう。

 日本人において美徳とされる行動規範は、「許してもらえなさそうだ」という状況の到来をまず「察し」、原因となった自分の言行に思いを馳せ、自らの言行を変えるとともに必要に応じて謝罪も行うことである。これを上手くやり遂げれば、「あいつ分かってんじゃん」とばかりに「思いやり」によって許され、むしろ評判が上がることもあり得るだろう。かくして「察しと思いやり」のサイクルは一回転し、許し許されの関係はより高次のものとなる。

 さて、「察しと思いやり」が共有されている事を前提にすると、「察しと思いやり」を共有していない人間の言行は曰く理解し難い。だが、それは「理解不能」というより「甘え」に見える。つまり、他人の「察しと思いやり」に頼りながら、他者を許さずに件のサイクルを回さないからである。

 と、大風呂敷を広げたところで言いたいことの一つめは単純だ。

 おそらく多くの日本人は「当たり前すぎる」故に直観的に気付いているだろうこと、「韓国や朝日新聞社は甘えているとしか見えない」ということである。彼らは「今まで許してもらえたのに、何故突然に許してもらえなくなったのか(厳密には、実害がない限りは『思いやり』により見て見ぬふりをしてもらえていた、ということだろう。だが、見て見ぬふりをしてもらえていたことを『察して』いることが暗黙の前提だった訳である)」という状況の発生に未だ戸惑っており、かつ「許してもらうためにはどうあるべきか」という思考にすら至ることができないのではないか、ということだ。「察し」の前提を著しく欠いていたとしか見えない朝日新聞社の行動が異常と捉えられる原因はそんなところにあるように思える。「日本人じゃなかった、そして日本人じゃない」とでも考えないと、彼らの言行は「心情的」にも「論理的」にも全く理解できないのだ。以前のエントリにでも触れている通り、韓国に行ったきりで日本に戻ってこなくなった人の方が「日本人的な察し」を有している可能性が高い、という点は実に皮肉な話だ。

 で、言いたいことの二つめは「察しと思いやり」の範囲の見直しの「可能性」だ。

 現在の日本の政権は「韓国や『察しと思いやり』を共有していない人間の『甘えに見える』言行をこれ以上許さない」という立場を明確に選択したと考えて良いだろう。またその選択は多くの日本人からも支持されているようだ、少なくとも現在までは。かく言う私も大枠において支持している(内政、特に経済政策には多くの疑問がある。が、それらはむしろ担当大臣と一部官僚に原因があるように見える。いくら優秀な総理大臣であっても、内外の敵対勢力を同時に相手にすることは困難だ)。

 ただし、この方向性の延長線上には、「察しと思いやり」を共有している人間の「これまで許されてきた甘え」に対する不寛容(イントレランス)の発生の可能性がある。ここでのキーワードは「性善説」だ。グレーゾーンが広い「察しと思いやり」や「弾力的な法制度運用」が法治国家の枠組みの中で成り立ったり、大多数の日本人に許容されてきたりした重要な理由が「性善説」にあると考える故だ。

 ネット時代の恐ろしさは、「性善説」故に許されてきたと誤って広く「察されていた」事案が、実は「制度の悪用」或いは一部勢力が「暴力乃至半暴力により強制的に獲得した利権」、であることを示す情報があふれていることである。事案個別に対策を打てるなら問題ないが、ある程度の類似の事案を一気に是正しようとすると、おそらく「性善説」をいったん停止しなければならない。「察しと思いやり」と「性善説」とが微妙に絡んでいる以上、その時には「察しと思いやり」もダメージが避けられない。

 「性善説」に立てば、是正の結果は「弱者を救うべきシステム」は「本当の弱者しか救わない」ものに生まれ変わるだろう。手垢の付いた表現が許されるなら、本来あるべき「社会正義」が実現できることになる。だが例えそうなったとしても、一度ダメージを受けた「察しと思いやり」は幾ばくかは変質せざるを得ない、良し悪しは別として。

  「察しと思いやり」の棄損を極力避けるひとつの方法は、「日本人文化圏に属するかどうか」よりも緩い条件、例えば「日本国民かどうか」で境界線を引くことであり、実際に引かれ始めた境界線だ。これは法的解釈の範囲で対応できるし、グレーゾーンが無く境界が明確故に合理的でもある。が、何気に「性善説」に基づく「察しと思いやり」を守るために「察しと思いやり」が発動している、という気がしてならない。