個人的にはレッテル貼りが大嫌いなので、所謂「ネトウヨ」なんてのは自分の中には明確に存在しない。レッテル貼りは、動的な変化し続ける世界の一瞬でしかせいぜい意味がなく(それも幸運なケース)、単なる思考停止の受け入れと考えるからである。常に虚心坦懐であろうとすれば、レッテル貼りは害毒でしかない。対して、「ネトウヨを非難する人」の言説は割と画一的、静的で、所謂「ネトウヨ」よりも分類、区別されることに向いている。
半年前ぐらいにネットに読んだ記事で、所謂「ネトウヨ」の構成層をプロファイリングしたものがあった。そのプロファイリングによると、「コア層(?)」は情報収集力に長け、かつ、論理的であるという。私個人の最近の感触も割とこの分析に近い。
私は2chもTwitterもやらないが、理由はメッセージ内容が文脈から独立して解釈(悪意の有無に関係なく誤読)されることを嫌うからである。
「コア層(?)」よりもむしろ周辺層から発せられているだろう「所謂ネトウヨ的定型句」は、「ネトウヨ」という枠組みに則る限り誤解釈が入りくいものが多い。それが「コア層(?)」発なのか、周辺層発なのかはともかく、単なる勢いだけでは生まれないと思わせる表現が多い。内容もイデオロギーや感情からは程遠く、全く旧来の「右翼思想」とはなじまない。政治的にも思想的にも自由過ぎるくらいである。さらに言えば、自分の間違いを指摘に基づいて素直に認める傾向が強い。個人感情よりも世論に寄りそうことを指向し、加えてその世論の形成過程や形成理由にも最低限の教養として立ち入っとかないと駄目という、既存の如何なる枠組みとも馴染まない不思議な存在だ。
対して「画一的なネトウヨを非難する人の言説」は論理性が乏しく、感情的で、他者に対して自己投射しているんじゃないかと思わせるものが多い。「自分と違うものの捉え方や考え方をする人が居るなんて信じられない!!」という類の気持ち悪さが行間から否応なく滲み出る。言説内容には枠組み感、思考の不自由感がぬぐえない。この点は所謂「ネトウヨ」の自由過ぎるぐらいの言説とは対照的である。
おそらく、所謂「ネトウヨ」は自称しにくく、個々人に対するレッテル貼りも難しい。良い意味で「アイデンティティに乏しい」からだ。これは「共通因子が乏しい」とも言い換えられ、個々人の政治的或いは思想的背景が違っても問題ないという「議論などをする上では『高い』とされるレベル」寄りのものを感じる。さらに言い換えると、「アレはアレ、コレはコレ」が徹底しているということで、技術分野での議論では当たり前の論理的態度と言える。
「所謂ネトウヨ」たるには「所謂ネトウヨらしさ」を持つことが必須条件ではないということだ。「共通の認識」ではなく「共通の知識」に基づく存在なのである。故に画一化しにくくも、「共通の知識に基づくゆる~い共通の結論っぽいもの」をまず中央に据え、何気に情報交換と議論を介して共通の知識をゆっくりと拡大し続けているのである。「他人が自分と同じ考え方をしないのは当たり前」という至極まともな前提を受け入れつつ、枠組みが機能しているのである。だから、「典型的」や「正体」という概念とは馴染まず、他者を拒絶する理由が実質的に無い…「論理的、事実ベース」である限りは。
ならば「画一的なネトウヨを非難する人」が拒絶される理由は、繰り返しになるが、明確だ。イデオロギーちっくで「アレはアレ、コレはコレ」ができておらず、「**様にヘイコラして」とか「自己投射してるんじゃないかと思わせる」ような「卑屈な表現」を「脈絡無く」綴り、全体として「論理的でも事実ベースでも無い言説」を「繰り返す」からである。そんな言説からは「自己愛が強い癖にドMで卑屈、自分と他者との区別が実は十分にできていない」姿が透けて見える。色んな意味で自由ではない人である可能性が高いのだ。「繰り返す」ということは、その人にとっての世界は静的で変化しないものなのだ。
つまり「『所謂ネトウヨ』と相性の悪い人」というレッテル貼りはし易いということだね。
2014/05/25
2014/05/24
ステルス無人機X-47Bって大きい!
米海軍がテスト中のステルス無人機X-47Bが意外に機体が大きくてびっくり。
これまでは地上テストの写真や映像しか観たことがなかったのだが、如何せんテストに使われる基地には比較対象物が無く、イマイチ機体の大きさが把握できていなかった。が、空母離発着テストの映像を観れば機体の大きさは歴然、横幅はF/A-18よりもちょっと大きいぐらいではないですか!機体サイズはもう完全に実用機と同じだった訳だ。うむぅ。
現時点で、米空軍は主力はあくまで有人機という立ち位置だけど、米海軍はどうなんだろう。ネイヴァル・アヴィエイター(海軍パイロット)はX-47Bをどういう目で見てるのか気になるところ。海兵隊もどこまで航空機の無人化を進めるつもりなのだろうか、戦略やより上位のドクトリンにも関わる重大な選択だ。
ま、無人機にも2種類あって、「性能が高く、落とされないことが前提の機体」と、「特定の性能に限定してコストを削減、落とされても良いが目標の破壊は必ず達成する機体」だ。おそらく両者の中間解はない。撃墜されても良い機体に最新技術を盛り込むのは利敵行為だからね。ジェネラル・アトミクス社は、有人機に先行して敵地に侵入する機体(ワイルド・ヴィーゼル、つまり敵対空地上兵器の破壊を主務とする機体)として後者の米空軍への売り込みをかけているようだ。
米国B-2爆撃機が実用で先鞭を付けた全翼型ステルス機は今後増殖予定。ダッソー社やサーブ社もステルス無人戦闘攻撃機の開発を進めているけれど、どちらも全翼型だ。有人機は今後も格闘戦性能も求められそうだからそうでもないだろうけど、未来の戦場の空の最前線は無人全翼機だらけになりそうだね。
これまでは地上テストの写真や映像しか観たことがなかったのだが、如何せんテストに使われる基地には比較対象物が無く、イマイチ機体の大きさが把握できていなかった。が、空母離発着テストの映像を観れば機体の大きさは歴然、横幅はF/A-18よりもちょっと大きいぐらいではないですか!機体サイズはもう完全に実用機と同じだった訳だ。うむぅ。
現時点で、米空軍は主力はあくまで有人機という立ち位置だけど、米海軍はどうなんだろう。ネイヴァル・アヴィエイター(海軍パイロット)はX-47Bをどういう目で見てるのか気になるところ。海兵隊もどこまで航空機の無人化を進めるつもりなのだろうか、戦略やより上位のドクトリンにも関わる重大な選択だ。
ま、無人機にも2種類あって、「性能が高く、落とされないことが前提の機体」と、「特定の性能に限定してコストを削減、落とされても良いが目標の破壊は必ず達成する機体」だ。おそらく両者の中間解はない。撃墜されても良い機体に最新技術を盛り込むのは利敵行為だからね。ジェネラル・アトミクス社は、有人機に先行して敵地に侵入する機体(ワイルド・ヴィーゼル、つまり敵対空地上兵器の破壊を主務とする機体)として後者の米空軍への売り込みをかけているようだ。
米国B-2爆撃機が実用で先鞭を付けた全翼型ステルス機は今後増殖予定。ダッソー社やサーブ社もステルス無人戦闘攻撃機の開発を進めているけれど、どちらも全翼型だ。有人機は今後も格闘戦性能も求められそうだからそうでもないだろうけど、未来の戦場の空の最前線は無人全翼機だらけになりそうだね。
TAVORだっ!!!
"TAVOR"とはイスラエル製のアサルトライフルだ。
タイのクーデター報道をTVで見ていると、タイ国軍兵士が明らかにブルパップタイプのライフルを装備している。一目でTAVORと判断したのだが、調べてみたところ確かにタイ国軍は購入している。M16A1を順次置き換えているようで、報道を追うとまだM16を装備している兵士も見られる。
とにかくTAVORの短さが目立つね。
タイのクーデター報道をTVで見ていると、タイ国軍兵士が明らかにブルパップタイプのライフルを装備している。一目でTAVORと判断したのだが、調べてみたところ確かにタイ国軍は購入している。M16A1を順次置き換えているようで、報道を追うとまだM16を装備している兵士も見られる。
とにかくTAVORの短さが目立つね。
REAKTOR5、期間限定70%ディスカウント!
まぁ私もディスカウント価格で購入したクチだが、さすがに70%引きは無い。思いは複雑ですがREACTOR5は個人的には間違いなく優れモノ、学研「電子ブロック」のソフトシンセ版みたいな感じ。「欲しい!」と思っていた方は是非Native Instrumentsのウェブページへ 。
5/28までだそうですよ。
5/28までだそうですよ。
2014/05/23
アジアワッチ、十五度:韓国社会の限界?
少なくとも技術の世界においては、見たもの、読んだものから何を得たかはその人のレベルを推し量る一つの指標だ。重要なのは理解度なんて低いレベルの話ではなくて、如何なる解釈を導き出せるかにある。実話か作り話かはともかく、「落ちる林檎」の逸話はニュートンの非凡さを後世の人々に十分に伝えて余りある。
この観点に立てば、「誤った解釈しかできない人」は無能と見做すべきではなく、単に物事の解釈において何らかの壁があるだけと見做すべきとも言える。壁の内外では景色が違う、見える世界が違う、というのは単なる例えではなくて、「分かっている人」と「分かってない人」は実際に違う景色を見ながら違う世界を生きているのだ。
で、紹介するのは中央日報の記事「大震災時に自分の子供よりも学生世話した日本の教授…訓練の力」。
こんな解釈しかできないのがおそらく韓国の限界。全く「分かってない」のである。
我々大多数の日本人とは違う、おそらくより狭い世界の中を多くの韓国人が生きているということなのだろう。韓国が安定して本質を踏み外しながらそれに気付かない原因が、こんなところからも見える気がする。
何かを生み出そうとするなら、まず主体たれ。マニュアルなんて無いのが当たり前だ。
この観点に立てば、「誤った解釈しかできない人」は無能と見做すべきではなく、単に物事の解釈において何らかの壁があるだけと見做すべきとも言える。壁の内外では景色が違う、見える世界が違う、というのは単なる例えではなくて、「分かっている人」と「分かってない人」は実際に違う景色を見ながら違う世界を生きているのだ。
で、紹介するのは中央日報の記事「大震災時に自分の子供よりも学生世話した日本の教授…訓練の力」。
こんな解釈しかできないのがおそらく韓国の限界。全く「分かってない」のである。
我々大多数の日本人とは違う、おそらくより狭い世界の中を多くの韓国人が生きているということなのだろう。韓国が安定して本質を踏み外しながらそれに気付かない原因が、こんなところからも見える気がする。
何かを生み出そうとするなら、まず主体たれ。マニュアルなんて無いのが当たり前だ。
2014/05/21
Popol Vuhってこんなんです。
ポポル・ブフ(Popol Vuh)ってこんなんです。埋め込んだのは1970年のファーストアルバム、1972年のアルバムではもう個人的にはさっぱり興味のない音になります。ま、良くあること。
あ、iTunesで買えますよ…買う人いないかぁ。
あ、iTunesで買えますよ…買う人いないかぁ。
アジアワッチ、十四度:1ドル1022.5ウォンが何かの基準?
本日も、1ドル1022.5ウォンを切った直後に一気に3ウォンほどのウォン安へ、このような動きは判で押したようにこれで3回連続だ。資金力がある誰かが1ドル1022.5ウォンのラインを死守したがっているようにしか見えない。
韓国は「不透明な為替介入」を米国に指摘されて久しいが、これだけ分かり易い為替相場挙動を見せられると米国の指摘の説得力はいや増すばかり。「もっと上手く、介入がばれにくいやり方だってあるだろう」にと思わずにはいられないが、「その種の狡猾さが韓国には全くない」んじゃないかってのが正直な個人的認識だ。申し訳ないって言うか遺憾ながら。
なんかの利率が2.25%で、それがこのラインの根拠だったら笑っちゃうなぁ。それなら分かり易い、主体も目的も実に分かり易い。
或いは、「韓国を為替介入する悪者」に仕立て上げたい何者かの策謀か?とは言っても今さら得する人間なんて思い浮かばないんだけどね。
ウォン安に向かいたければ隠していることを公にすれば良いだけかも、粉飾決算などの嘘をつかないで良いだけかも、と意地悪な事も言いたくなる。が、現在のウォン高は「そういうもの」なんて納得ずくの相場だから、為替介入によるウォン安誘導は誰かの利益源になっていると考えていいと思う。
まぁ、何れにしても「為替介入によるウォン安誘導」は国家経済の弾力性向上にはなんら本質的な効果を持たない。本質を踏み外した手法でしかないよね。
韓国は「不透明な為替介入」を米国に指摘されて久しいが、これだけ分かり易い為替相場挙動を見せられると米国の指摘の説得力はいや増すばかり。「もっと上手く、介入がばれにくいやり方だってあるだろう」にと思わずにはいられないが、「その種の狡猾さが韓国には全くない」んじゃないかってのが正直な個人的認識だ。申し訳ないって言うか遺憾ながら。
なんかの利率が2.25%で、それがこのラインの根拠だったら笑っちゃうなぁ。それなら分かり易い、主体も目的も実に分かり易い。
或いは、「韓国を為替介入する悪者」に仕立て上げたい何者かの策謀か?とは言っても今さら得する人間なんて思い浮かばないんだけどね。
ウォン安に向かいたければ隠していることを公にすれば良いだけかも、粉飾決算などの嘘をつかないで良いだけかも、と意地悪な事も言いたくなる。が、現在のウォン高は「そういうもの」なんて納得ずくの相場だから、為替介入によるウォン安誘導は誰かの利益源になっていると考えていいと思う。
まぁ、何れにしても「為替介入によるウォン安誘導」は国家経済の弾力性向上にはなんら本質的な効果を持たない。本質を踏み外した手法でしかないよね。
中国女/Megpoidカバーのスタブ
飽きるまでは突っ走る性分故か、とにかく前進。「マッドピエロ」、「東風」と来た以上は、所謂「ゴダール3部作」の残りである「中国女」までは行かなくちゃいかん、とその一念のみ。曲の好き嫌いとは全く別次元の一種の様式美みたいなもんだ。
実は昨朝に毎年恒例の関節痛を発症、季節の変わり目に腰と膝が痛んでほとんど動けなくなる状況となっており会社も休んでいるのだが、今日午後になってなんとか痛みが引いてきたのでささっと以前に一度組んだものを整えてみた。
ドラムパターンなんて組んでられないから、今回のリズムは全てフリーのループサンプルで組んでみた。どうもループサンプルは上手く使えなくて今まで完成版に使ったことはなかったのだが、今回はドラムパターンへの要求が明確だったので、直ぐに良さげなデータを見つけることができた。今後は飛び道具的にループサンプルも使っていくようになりそうな気配。
フランス語部分はグーグル翻訳の発話結果を録音し、取り敢えず貼り付けてみたところ。音声データの切った張ったはまだこれからだ。
あ、KRAFTWERKっぽい「ぴゅん!」って音はZ3TA+2の自作音ですよ。
あ、動画では"Megpoid Whisper"になってますが、実際はもちろん"Megpoid English"。拙速はいかんですなぁ。
実は昨朝に毎年恒例の関節痛を発症、季節の変わり目に腰と膝が痛んでほとんど動けなくなる状況となっており会社も休んでいるのだが、今日午後になってなんとか痛みが引いてきたのでささっと以前に一度組んだものを整えてみた。
ドラムパターンなんて組んでられないから、今回のリズムは全てフリーのループサンプルで組んでみた。どうもループサンプルは上手く使えなくて今まで完成版に使ったことはなかったのだが、今回はドラムパターンへの要求が明確だったので、直ぐに良さげなデータを見つけることができた。今後は飛び道具的にループサンプルも使っていくようになりそうな気配。
フランス語部分はグーグル翻訳の発話結果を録音し、取り敢えず貼り付けてみたところ。音声データの切った張ったはまだこれからだ。
あ、KRAFTWERKっぽい「ぴゅん!」って音はZ3TA+2の自作音ですよ。
あ、動画では"Megpoid Whisper"になってますが、実際はもちろん"Megpoid English"。拙速はいかんですなぁ。
2014/05/19
「東風」Megpoidカバー、リビジョン0
前にも書いた事があるけど、素人目には「東風」という曲は構成が綿密な癖に強靭だ。宇宙戦艦ヤマトだって2199で獲得できたのは強靭さだけで構成(ストーリー展開)には綿密さが全く無かったことを思うと、両方備えた「東風」はやっぱり名曲なんだなと思う。実のところ、中間部(の音を残した部分)以外は全然好きではないのだが。
ここで強靭さって呼んでいる特性は、具体的には「うっかりするとあっさりカッコ良くまとまってしまう」というところだ。「東風」自体が「東風らしさ」をいたるところに備えている、とも言い換えても良いかもしれない。だから、音楽に対して真摯ではない生半可な覚悟しか持たない人間がこの曲の解体、再構築を試みても、結局「東風」か「東風ではない別の何か」のいずれかしかならない気がしてしょうがない。もちろん、覚悟の無い私はそんなこと試みない。
これはそういうもの。
ここで強靭さって呼んでいる特性は、具体的には「うっかりするとあっさりカッコ良くまとまってしまう」というところだ。「東風」自体が「東風らしさ」をいたるところに備えている、とも言い換えても良いかもしれない。だから、音楽に対して真摯ではない生半可な覚悟しか持たない人間がこの曲の解体、再構築を試みても、結局「東風」か「東風ではない別の何か」のいずれかしかならない気がしてしょうがない。もちろん、覚悟の無い私はそんなこと試みない。
これはそういうもの。
2014/05/18
「集団的自衛権行使容認」について思うこと
こと「集団的自衛権行使容認」に関しては、公明党の山口代表の語る内容は論理的で真っ当だ。だが、それは「従来の解釈を無批判に是とする」限りにおいての話であって、「従来の解釈に問題がなかったのか」というところに踏み込んだとたんに論理は破綻する。とは言え、自民党の某衆院議員の発言には論理性の欠片も無く、語る内容を聴くだけでも苦痛だ。
話が無意味に捻じれる原因のひとつは、議論の前提の論理的事実が必ずしも周知されていないことにある。大部分のマスコミが明確に報じてこなかった罪は大きい。何らかの意図があったのか、単にバカなのかの判断は保留しよう。最近は報道内容もちゃんとしてきたからね。
「集団的自衛権」を日本は保有している。国際法上も、国連憲章上も明らかだ。
議論の焦点は「行使するか否か」にあるのであって、「集団的自衛権の有無」ではない。ゴールデンウィークの朝○○○夕刊の素○○では、「集団的自衛権の行使容認を憲法の精神を捻じ曲げるもの」と表現したが、個人的にはこれまでの「行使しない」という立場の方が捻じれているとしか思えない。「集団的自衛権を持ちつつ、それを行使しない」という立ち位置の方が特殊であって、「持っている権利は行使できる」という当たり前の論理に従えば、「行使しないかどうか」は議論の対象にできるとしても、「行使できるかどうか」は議論の対象にすらならない。
繰り返すけど、「日本の集団的自衛権保有」は国際的に認められた、日本国憲法の外、或いは上位にある概念なのである。自民党の某衆院議員の発言がなぜ論理的ではないかというと、「日本国憲法の枠内でしかない視点」から語りながら、「日本の集団的自衛権保有」まで触れるからである。「日本国憲法の枠内でしかない視点」なら「行使しないかどうか」という従来通りの範囲のことにしか触れてはいけない。
本ブログを定期的にチェックしている人なら、2199批判とほとんど同じ論展開であることが分かるだろう。合理的、論理的整合性が大事な点は、アニメだろうが国際関係だろうが同じということだ。
私は大枠では「集団的自衛権行使容認」の立場だ、というか「集団的自衛権を行使しない」という従来の憲法解釈がおかしいという立場だ。日米安保条約は軍事同盟であり、自衛隊はどう言い作ろうが軍隊だ。ナチス政権下でポーランド、フランスなどに侵攻したドイツ軍の名称が「国防軍」だったことを指摘しておこう。名称なんて意味はなく、名称や名目を利用するのは優れた知恵者か、単にずるいだけの人間のどちらかしかあり得ない。イノセントであろうとする人間は声を挙げる資格すらない。
「集団的自衛権行使容認」に対する個人的な思いに少し踏込んでおくのが礼儀というものだろう。
私が思うところは、「PKO、PKF参加自体をグレーゾーンとせず、議論の余地なき状態とする。基準が明確であれば参加しないという判断もあり」、「グレーゾーンを排し、海外からも日本がどう振る舞うかを分かるようにしておく」、「自衛隊員、国民が血を流すことになっても、その流した血が無駄にならない(新たな戦争を引き起こさない)ようなきっちりとした枠組みを明確にすること(この点はまだ具体案が明確にできていないが)」などだ。1点目は主に国内問題、2及び3点目は安倍首相の唱える「積極的平和主義」と関連が深い事項だ。
要は、「日本の集団的自衛権行使容認」を進める以上、「戦争勃発の抑止力や地域安定」にプラスに働く運用枠組みを与えたい、という考え方だ。日本を国際社会で信頼される、つまりダブルスタンダートを用いず理と義(モラル、公正性)の観点から常に合理的かつ妥当に振る舞うプレーヤーたらしめたいという考えだ。この枠組み内では「力の大小」は機能しないため、「力による解決」のみを希求する主体をけん制できる実効性のある数少ない方法のひとつと言える。ただし、「力が無い」場合は問題外だ。
従来の憲法解釈の維持は「戦争勃発の抑止力や地域安定」には毒にも薬にもならない、が、それは少なくとも地域情勢が変わらない限りにおいてのみである。それを望むナイーブな人達は、気付いていないだけで既に日常生活でも色々と損をしている可能性を指摘しておこう。バブル崩壊以降の国内状況、経済構造、制度構造の変化は実はけっこう大きくて、「考えない人」は切り捨てられる(セーフティネットをすり抜けてしまう)方向に明らかに進んでいるのだ。セーフティネットとしての集団的自衛権、それは至極当たり前のこととしか思えないのだ。
話が無意味に捻じれる原因のひとつは、議論の前提の論理的事実が必ずしも周知されていないことにある。大部分のマスコミが明確に報じてこなかった罪は大きい。何らかの意図があったのか、単にバカなのかの判断は保留しよう。最近は報道内容もちゃんとしてきたからね。
「集団的自衛権」を日本は保有している。国際法上も、国連憲章上も明らかだ。
議論の焦点は「行使するか否か」にあるのであって、「集団的自衛権の有無」ではない。ゴールデンウィークの朝○○○夕刊の素○○では、「集団的自衛権の行使容認を憲法の精神を捻じ曲げるもの」と表現したが、個人的にはこれまでの「行使しない」という立場の方が捻じれているとしか思えない。「集団的自衛権を持ちつつ、それを行使しない」という立ち位置の方が特殊であって、「持っている権利は行使できる」という当たり前の論理に従えば、「行使しないかどうか」は議論の対象にできるとしても、「行使できるかどうか」は議論の対象にすらならない。
繰り返すけど、「日本の集団的自衛権保有」は国際的に認められた、日本国憲法の外、或いは上位にある概念なのである。自民党の某衆院議員の発言がなぜ論理的ではないかというと、「日本国憲法の枠内でしかない視点」から語りながら、「日本の集団的自衛権保有」まで触れるからである。「日本国憲法の枠内でしかない視点」なら「行使しないかどうか」という従来通りの範囲のことにしか触れてはいけない。
本ブログを定期的にチェックしている人なら、2199批判とほとんど同じ論展開であることが分かるだろう。合理的、論理的整合性が大事な点は、アニメだろうが国際関係だろうが同じということだ。
私は大枠では「集団的自衛権行使容認」の立場だ、というか「集団的自衛権を行使しない」という従来の憲法解釈がおかしいという立場だ。日米安保条約は軍事同盟であり、自衛隊はどう言い作ろうが軍隊だ。ナチス政権下でポーランド、フランスなどに侵攻したドイツ軍の名称が「国防軍」だったことを指摘しておこう。名称なんて意味はなく、名称や名目を利用するのは優れた知恵者か、単にずるいだけの人間のどちらかしかあり得ない。イノセントであろうとする人間は声を挙げる資格すらない。
「集団的自衛権行使容認」に対する個人的な思いに少し踏込んでおくのが礼儀というものだろう。
私が思うところは、「PKO、PKF参加自体をグレーゾーンとせず、議論の余地なき状態とする。基準が明確であれば参加しないという判断もあり」、「グレーゾーンを排し、海外からも日本がどう振る舞うかを分かるようにしておく」、「自衛隊員、国民が血を流すことになっても、その流した血が無駄にならない(新たな戦争を引き起こさない)ようなきっちりとした枠組みを明確にすること(この点はまだ具体案が明確にできていないが)」などだ。1点目は主に国内問題、2及び3点目は安倍首相の唱える「積極的平和主義」と関連が深い事項だ。
要は、「日本の集団的自衛権行使容認」を進める以上、「戦争勃発の抑止力や地域安定」にプラスに働く運用枠組みを与えたい、という考え方だ。日本を国際社会で信頼される、つまりダブルスタンダートを用いず理と義(モラル、公正性)の観点から常に合理的かつ妥当に振る舞うプレーヤーたらしめたいという考えだ。この枠組み内では「力の大小」は機能しないため、「力による解決」のみを希求する主体をけん制できる実効性のある数少ない方法のひとつと言える。ただし、「力が無い」場合は問題外だ。
従来の憲法解釈の維持は「戦争勃発の抑止力や地域安定」には毒にも薬にもならない、が、それは少なくとも地域情勢が変わらない限りにおいてのみである。それを望むナイーブな人達は、気付いていないだけで既に日常生活でも色々と損をしている可能性を指摘しておこう。バブル崩壊以降の国内状況、経済構造、制度構造の変化は実はけっこう大きくて、「考えない人」は切り捨てられる(セーフティネットをすり抜けてしまう)方向に明らかに進んでいるのだ。セーフティネットとしての集団的自衛権、それは至極当たり前のこととしか思えないのだ。
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